愚慫空論

人間、おたがいさま。立場は違っても。

Facebook に流れてきた写真に心を打たれた。


今日、一番心に残った光景。このときはかなり雨が激しくて、再稼動反対を訴え続ける女性たちが、機動隊の人が雨にぬれないように傘を差し出している。
私たちはこの人たちと戦いたいわけではなくて、この人たちも含め、みんなの未来のために伝えたいことがあってここにいるんだと思った。


7月1日の福井県大飯原発前。再稼働に抗議する者たちと警察とがにらみ合っている。そのなかのワンシーン。

これは果たして、「にらみ合い」なのか?

私はここのところずっと“立場”や“人情”というものについて考えているが、ここで思うのもそれだ。

向き合っているのは立場の異なる者同士。が、立場は違っても、雨に濡れるのは同じ。そう思う心。それは人情ではないのか。

「みんなの未来のため」などというと、少々、大袈裟に響く。いや、事実は全然大袈裟ではないのだけれども、言葉の響きとしてある。意識の高い「市民」が叫ぶ言葉というイメージがある。けれども、この写真と合わせてみればどうだ。それは、立場は異なっても、相手を人間として見る人情と繋がっていることがわかる。

  ***

日本社会の3つの掟 
 1.役を果たすためには何でもしなければならない
 2.立場を守るためであれば何をしてもいい
 3.他人の立場を侵してはならない 

この3つを守れば日本社会を無難に生きていくことができると、安冨先生はいう。的確な表現だと思う。

 ⇒ IWJ 2012/06/23 対談 平智之議員×安冨歩先生

しかし、そのような日本社会が窮屈この上ないものになっていることは、日々実感されるところでもある。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。」と記した漱石だが、今の日本を見たならば、「意地を通せば」を 「立場を守れば」に訂正するに違いない。

そんな立場主義社会になってしまった背景に、人情があると思う。人情の視点から“立場”を見れば、それは「気の毒」である。立場を負った者は、気の毒な人。日本人にはまだどこか、そう感じてしまう心の習慣がある。機動隊の隊員に傘を差し出す女性の心には、その“習慣”が未だ根強く生き残っているように感じられる。

立場主義という「空気」に“水を差す”のは人情だ。が、立場主義を生み出すのもまた人情。人情がバーチャルなものになったとき、国家や共同体といった仮構に向けられてしまったとき、人情は立場主義という「空気」を作り出す方へ作用する。そして、社会のなかでは、個々人にとって立場はリアルだ。仮構とリアルとが人情を介して噛み合うと、立場主義社会が出来上がる。

しかし、だからといって人情を解体すべきだと私は思わない。人情は、私たち日本人の〈世界〉への関わり方だからだ。認識するべきは、それが現代日本では誤作動しているということ。向けるべきでないものにも人情を向けてしまっているということ。

人情を向けるべき相手は、まずは自分の身近な者、目の前の者。遠くの、よくわからない者へ発動は慎重になった方がいい。まして、仮構に向けるべきではない。権力者や愛国者と自認する者の多くが、“国”という仮構に人情を向けさせようと画策するが、それらはすべて欺瞞でしかない。

人間の心も無限ではない。限りがある。限りある心を、向けるべきでないものに向けてはいけない。そんなことをしてしまうと、大切なものを見失ってしまう。立場主義社会の弊害だ。

立場は、相互理解のための足場。人情を発動する際の土台になるものでしかない。土台に人情を発動させても何にもならない。発動させるべきは、土台の上に立つ人間そのもの。改めて言うまでもない。

コメント

わかります。自分も近くの人に人情を向けることがその土台である立場を強化するのではないかという臆病から、西部邁を読んで「日本国」という仮構に人情を向けていた時期があったことに気づきました。でも身近な人情の回路を避け自己愛を温存しながら自分の立場を守ろうとしていただけでした。

・鍵野正則さん

でも身近な人情の回路を避け 

そのようになる気持ちはわからなくもないですよね。身近な人情っていうのは、どうしてもしんどいところがありますから。

でも、もう、楽をしていたのではやっていられません。そういう事態になってしまいました。

きれいなねーチャン

このなねーちゃんの顔を見てみたい。
間違いなくキレイだと思う。
穏やかに違いない、まで言うとウソになるか?
キレイぐらいで止めておこうか。

ワタシが過去にやってきた、「怒りに任せた」とは大きく違うな。
確かに「怒りに任せて」叩き潰す(実際は叩き潰される)より前進しそうだ。
何度も叩き合い、負け続けて、拗ねてしまうまえに、
分かり合えるといいな。

ああ、ねーちゃんは何度でも傘を差し出すかもしれないな
失礼。






・毒多さん、おはようございます。

こういうのも見つけました。

https://twitter.com/lapislazuli_y/status/219366832929390592/photo/1/large

なんだか泣けてきます。

うーむ、花ですか、、、

おはようございます。

「運動」が変わってきているか?
いや、もともと「運動」なんて縛りがないんだろう。
いやいや、仮に「運動」として「心理戦」なんてゲスな見方をしても、これのほうがずっといい。
怒りからは怒りしか、憎しみから憎しみしか生まれない。ブログで散見できる光景のようにね。
傘だけでなく、こっちの花のキレイなネーちゃんも「運動」でも「心理戦」でもなく「素」なのだろうね。「前進」なんてあとでついてくること、で知ったこっちゃないな。
「素」・・・だね。
「素」だ・・・
どんなロジックも斜から見てしまう(見えてしまう)今のワタシには、
この「素」がいい。
この「素」に惹かれる。
100の言葉よりも、、、

一番「泣きたく」なっているのは、キレイなねーちゃんたちと対峙させられている
哀しいにいちゃんたちでしょ、、、と信じたい。







このにいちゃんが泣いたかどうかはわかりませんが、本当に泣いていたにいちゃんたちもいたという話です。

泣きたいのに泣けないなんてのは、ホントにかわいそう。

集約される絵面

泣けないにいちゃんは不幸か?
きっと不幸だろう
何が不幸か?
誇りをもって仕事をできないこと?
そんな仕事やめちまえばいいか?
生活のため仕方ないのか?
ここがみんないっしょ。この絵面に集約される。

誇りをもてる仕事のはずなのに、
自ら放棄をするやつがいる。
ある医者がそうだったり、ある救急隊員がそうだったり、
東電がそうだったり、警察がそうだったり、
政治家がそうだったり、
そういう奴が前線の「誇り」までも放棄させる。
前線のにいちゃんはそれに抗えずに泣けずにただ立ち尽くすしかないのか?

前線のにいちゃんの不自由さを罵れば、にいちゃんは憎しみでもって「立場」を誤魔化すことができるかもしれない。
でも、優しくされると自分に問いかけるしかなくなる。
自分は本当に泣くこともできずに、立ち尽くすしかないのか?と、、、
誇りをすてて金のために誤魔化し続けるしかないのか?と

さて地元の民は、、、

と言った感じでしょうか?

それこそが【システム】

いま、イジメがまたぞろ話題になっていますよね。
イジメを止められない。見て見ぬ振りをする。なかったことにする。

根っこはみんな同じでしょう。【システム】。

各々の「立場」に応じて「役」を果たすこと。それを「誇り」と言うんだと思います。
「誇り」を失うことが「恥」。
にいちゃんたちは恥ずかしくないのか? 

恥ずかしいでしょうね、きっと。そして不幸だ。

なぜこんなことになるのか。それは、報酬が(金銭、評価)が「立場」に応じて支払われるから。特におカネ。「役」に応じて支払われるわけではない。報酬においては「立場」が軸だから、「役」は蔑ろにされて「誇り」を失い、「恥」になる。でも、それを認めると不幸になるから、自己欺瞞する。自分自身を裏切る。

それを強いるのが【システム】。

どうやったら、そんな【システム】から自由になれるのか。
もしくは、どうやったら自分が自分でいられる〈システム〉が構築できるのか。

【システム】では、自分でいない方が生存において有利。
〈システム〉では、自分でいる方が有利。

単純な話だけど、できない。なぜか?

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