愚慫空論

〈世界〉への関わり方

・根源的未規定性

宮台真司氏は、〈世界〉には根源的未規定性がある、といったようなことを言う。

サイファ! 覚醒せよ

「世界の根元的な未規定性」は、球面上に生じたシワに喩えられます。シワは局所的には、他の場所にシワ寄せすることで消去できます。けれども球面からシワの全てを消すことができません。そこで、球面のできるだけ多くの部分からシワを取り除くには、数少ない特別な場所にシワ寄せするのがいい。


「規定」とは、原因と結果との関係を記述すること。つまり線形であるということ。ところが〈世界〉は非線形に出来上がってしまっている。非線形な〈世界〉を線形に規定しようとすれば無理が生じる。その無理を「シワ」と宮台氏は喩える。

非線形な〈世界〉と、人間の線形な理解のズレから生じる「シワ」を伸ばして一点へと集約していく営為。近代の学問、とりわけ科学がこれにあたる。

一点に集約された「シワ」とは端的に言えば創造神になる。もし仮に、この〈世界〉のありとあらゆる現象の因果関係が解明されて〈世界〉が解き明かされたとしても、それでも最後に、いや、それであるからこそ最後に大きな疑問が残ることになる。

ではなぜ、このような〈世界〉が存在するのか? なぜ、この〈世界〉はそうでない〈世界〉はなかったのか?

このような〈世界〉にしたのも因果律で説明しようとするなら、誰かがそのように意図したのだと考えざるを得ない。その誰かとは〈世界〉の外側にいて〈世界〉を創造した超越神以外、ありえない。

ところで。

この「なぜ、このような〈世界〉が存在するのか?」という問いと、「なぜ〈私〉が存在するのか?」という問いとは、裏表、一対のセットになっている。〈世界〉がなければ〈私〉もなく、〈私〉がなければたとえ〈世界〉があったとしても無意味。この〈世界〉と〈私〉との狭間に、「〈世界〉への関わり方」という問いが立ち上がることになる。


・一括方式 / その都度方式

私は、大まかに言って、〈世界〉への関わり方には、2種類あると考える。一括方式とその都度方式。

一括方式とその都度方式という言葉は、前の記事で持ち出したものだ。

 愚樵空論:「空気」感染のレセプター

ユダヤ人も「お祓い」に相当することをしているのである。ただ日本人のように「お祓い」という作法を採らないだけ。日本人の「お祓い」は、言わばその「都度方式」。「負い目」を感じたその場その場で「お祓い」をして“水に流す”。対してユダヤ人は「一括方式」だろう。「負い目」を超越神へと集約させる。

この方式の差異は、「知」の在り方にも関連している。日本人は「知」もまた「その都度方式」。方便論的個人主義。対してユダヤを初めとする西欧の「知」は「一括方式」だ。近代以降の日本人が「空気」に苛まれるようになったのは、「知」を一括方式に切り替えようとして、「負い目」を“水に流す”やり方を忘れてしまったことにあるのではないかと愚考する。


いま、ここで述べているのが、「知」の在り方について。

なぜだかはわからない。わからないが、「生きて在ることの負い目」の構造と「知」の構造とは一致している。逆に言うと、一致しなくなると、「知」は誤作動して暴走する。後で触れるが、現代の日本の状況だ。

上で、近代科学は「シワ」を一点へと集約しようとする営為だと述べた。そのように主張する宮台氏は近代主義者で、私たちが営む社会が未完成なのは、近代が不徹底だからと主張する。要するに、「一点」に向かっての情熱が足りない、ということだろう。

対して、安冨先生は、そもそも「一点」に向かって集約することはなど不可能だという。不可能なことをできると信じるのはオカルトだと断じる。そうではなくて、個別な人間ひとり一人に適合した「知」があるという。すなわち、共通項としての「知」とは方便であるとし、学問の役割はひとり一人の「知」の作動を妨げる原因を探ることにあるとする。

「シワ」という言葉を使っていうならば、ひとり一人が「シワ」であるということだろう。

マル激でのおふたりの対談が、この差異をくっきりと表わしていて面白い。
  ⇒ 愚樵空論:オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

私が思うに、宮台氏の情熱は、その不可能性を理解した上でのものだ。だからきっと、安冨先生にオカルトだと言われたことは心外だったことだろう。不可能性を知的に理解した上で、その不可能性に情熱を傾ける。いうなれば、逆接的。

この逆接性こそが宮台氏の〈世界〉との関わり方だろう。氏のエリート臭は、この逆接性から出てくるものだと私は思う。氏が順接であれば、つまり氏が超越神を信仰しているのなら、エリート臭は出ないはず。自身の知性の在り方すれば信仰へ至るのが順当であるはずだが、信仰といっ類のものは論理的に順当だからといって、そのようにいくものではない。だからこそ、「〈世界〉への関わり方」。自身が自身で制御できないエモーショナルな部分もすべて含めての関わり方なのである。


・東大話法は宮台話法の劣化版

前掲のマル激が放映されたときに、宮台氏の話法は安冨先生が指摘した東大話法だといったような指摘がなされた。私はこの指摘は、半分は正しく半分は誤っていると思う。

正しいのは、東大話法も宮台話法も、どちらも「一括方式」を志向していること。決定的に異なるのは、それでも宮台氏は逆接的であっても〈世界〉と関わっているのに対し、東大話法話者は〈世界〉と接続することが出来ていない。接続できているのは、せいぜい「ムラ」。〈世界〉のなかで人間が関わることができる一部である〈社会〉の、そのまた一部である「ムラ」。すなわち、宮台話法と東大話法とは、志向性は同じくしながらも、その完成度においては月とスッポンの違いがある。

原発に象徴される現代日本の「知」の劣化ならびに暴走の原因はここにある。「知」が〈世界〉と接続しなくなった。接続しようという情熱を失い、自分自身を自分自身と他者に対して隠蔽するためのツールになってしまった。

これは、日本の伝統的な〈世界〉への関わり方である「その都度方式」と、修得した「知」の志向性の違いによる。日本が明治維新以降、懸命になって取り入れようとした西欧発の学問は、「一括方式」の〈世界〉との関わり方を前提としたものだった。いうなれば「洋魂」である。それを和魂洋才だなどと欺瞞的なことを行なおうとするから、無魂洋才に堕ちてしまった。いや、魂は無くなりはしない。植民地化されたのである。


我々日本人の選択肢

唯一の神を信仰する人たちは、その信仰ゆえに、唯一の神に対してだけ「負い目」を感じる。

ego-eco.jpg

私たち人間は、生態系のなかの食物連載ピラミッドの頂点に立っていると言われる。それは、そうした側面から切り取って見るならば事実だろう。

だが、その事実は我々の感性に沿っているか。〈世界〉への関わり方を問うとき、ここが問題になる。我々が心地良いと感じるのは、上図左のEGOか、それとも右のECOの方か。

EGOであるなら、事実を認識する「知」の在り方と〈世界〉との関わり方は適合している。人間は〈世界〉を創造した神に似せて作られた存在であり、それ以外の存在に対して優位に立つ。ゆえに、下位の存在を“処分”することに「負い目」を感じなくてもよい。それらを“糧”として与えてくれる存在に対してのみ、「負い目」を感じ感謝の祈りを捧げれば良い。(仏教でいうところの)有情のものを殺すことに、なんら抵抗を感じなくてもよい。

ところが、山川草木悉皆成仏の日本人はそうはいかない。殺生にはいちいち「負い目」を感じてしまう。いちいちの「負い目」を一点に集約させてしまうことが出来ない。

ところがこの「負い目」の構造と、「知」の在り方とが今の日本では逆接になってしまっている。その結果、自身が生きるために必要な殺生の「負い目」を知覚することがなくなっている。我々は、食事の前に神に祈りを捧げる習慣はない。が、「いただきます」と手を合わせる習慣はあった。そうした習慣を支える精神性があった。その精神性は、現代ではどこに行ってしまったのか。

そうした精神性が完全になくなったわけではないと私は思う。「知」を「負い目」を隠蔽するためのツールとして使ってしまっているために、抑圧されてしまっている。これは精神性と「知」の志向性とが異なっているために起こっている現象だ。

そう認識するならば、我々日本人の選択肢が浮かび上がってくる。我々は修得した「知」の志向性にあわせて精神性を改造すべきか。それとも、自身の精神性に適合する「知」を創造すべきか。

宮台氏が主張するのは前者の方。が、果たして我々にそれが可能か。そう唱える宮台氏ですら逆接的にしか〈世界〉に接続することができないものを、そして宮台氏ほどの学才を持ち合わせていない者が、そんなことは可能だろうか。私は不可能だと思う。

ゆえに、実は選択肢などないのである。我々は我々に適合した「知」を創造していくほかない。しかしそれは、日本人の得意技ではなかったか。オリジナルなき日本人としばしば諸外国から揶揄された。欧米にコンプレックスを抱く日本人の知識人はそれを恥じ、庶民に喧伝した。しかし、オリジナルがなくとも「知」を発動できてしまうのが日本人の「知」の在り方ではないのか。

それは〈世界〉への関わり方と大いに関連している。日本人は「その都度」。一点へと集約しようとする、オリジナルを求める心性は日本人にはもともとあまりない。自分がたまたま関わった偶然のその一点で、日本人は「知」を発動させることができる。正統性や真理よりも有用性である。

近代支持者の宮台氏は日本の有用性優先を欠点だと見なす。また確かに現代、有用性というとEGOなものに一般には感じられてしまう。だが、本来はそうではない。有用性こそ〈世界〉と接続するための方法論。自分に役に立つことが、社会にも生態系にとっても役に立つ。そういった循環が形になったものの典型が「里山」である。人間の営みが自然の営みの一部となって循環しているような生態系が「里山」であり、その中で暮らすことがそのまま「〈世界〉との関わり」になる。

すなわち。我々に日本人は新たに修得した技術をもって、新たな形の「里山」を創造していく。そのことが我々の精神性に沿った「知」の在り方を創造していくことに繋がる。


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コメント

しわがないことにした閉じた世界では立場に依拠することで有用性が前提され、個々人の知が働かず、結果として有用でない行為をなし、己れがますます空虚になっていく。

僕は、「その都度方式」と「一括方式」とを、「日本人」と「西欧人」とに割り振るのにはムリがあると感じます。

「日本人」にしても「西欧人」にしても、どちらにしても「その都度方式」的な「一括方式」的なタイプがいる、と。
そういうもんだと思います。
「日本人」に「その都度方式」的な人が多いことは僕もそうだと思いますが、でも当然そうじゃない人もかなりいますよね。
逆もまた然り。
「この先」の考察を期待してます。

それはそうと、「負い目」のこと。
僕は脱原発デモにそれを感じています。
僕はデモに参加しません。
参加しちゃうと、調子こいちゃうと思うんですよね、自分自身が。
オレは(ちゃんと)参加してるし、その上でもの言ってるけどね・・みたいに。

ですので、参加しないんです。
参加しないと、でもそれが自分にとっては「負い目」として感じられます。
その「負い目」が、僕自身のブレーキになってるんです。
その意味で、愚樵さんの仰る「負い目」感は、よく分かる気がします。

鍵野さん

ようこそ。まさに仰るとおりです。

文化のタイプ

・アキラさん、コメントありがとうございます。

私は個人個人のタイプというか体癖というか、笑、そういった視点で言っているわけでありません。日本と西欧の文化のタイプですね。そのように正確に書くべきだったかな。

山本七平が指摘していますが、人間はプリミティブには「その都度」のようです。つまり対象をいちいち臨在感的に把握する、アニミズム。それを文化的なトレーニングによって「一括」に変換してしまう。

さらに。ラカンなどが精神分析の対象としている“病理”は、このような“変換”から生じる。これはどこでだかは失念しましたが、どこかで指摘があった記憶がある。ラカン自身だったかもしれません。

参加しちゃうと、調子こいちゃうと思うんですよね、自分自身が。

それがご自身でわかっておられるのなら、逆に、参加してみてはいかがでしょう?
“調子こく”のが“頭に乗る”にさえならなければ、悪いことではないと思います。

自身の感応するところへと素直に従っていく。ただそれを頭で追認して「正義」にようなものに仕立てあげてしまうと、拙いですけど。

参加しないと、でもそれが自分にとっては「負い目」として感じられます。

身体が感応していて、それを頭がセーブしようとしている。その時に出てくるのが「負い目」。デモに感応している身体を“調子こく”ことを怖れてセーブする。あるいは、髑髏に感応している身体をこれはモノだと自分に言い聞かせようとしてセーブする。同じ構造なのかもしれませんね。

だとすれば、アキラさんにはお祓いが必要だ。笑。

ちなみに私が感じているのは窮乏感です。デモに身体が感応し、頭の方もそれを追認している。が、諸々の事情において出来ない。となると窮乏です。これはお祓いをしてもダメだし、してしまうとかえって悪影響が出るでしょう。心の錬金術のようになってしまう。ここは「魂の経済学」の領域です。

あ~、僕はデモに行きたいとは感じてないんですよ。 (^_^;)

・アキラさん

アキラさんがデモに行きたいかどうかはともかく、デモやデモに参加している人たちに対して、何らかの情動・身体的な反応はあるわけですよね?

そういう意味ではありますね。

そうなると、
「身体が感応していて、それを頭がセーブしようとしている。」の
「それを頭がセーブしようとしている」って、どういう意味になりますか?

引用と雑感。

“~ローマを創った神々を見捨てることは、ローマそのものを見捨てることにほかならず、「祖国もなければ伝統もなく、宗教及び法のあらゆる制度に対して徒党を組み、司直の手に追われ、あまねく世論の制裁を受けながら、世人の憎悪をおのが名誉と心得ている、生まれたばかりの新種の人間ども」と手を結ぶことであった。ケルススの右の攻撃文書は、178年に書かれている。ほとんど二世紀の間を置いて、ユリアヌスとしては次のように書かねばならなかった。「ティベリウス帝、あるいはクラウディウス帝治下に、卓越せる人物がひとりでもキリスト教の諸観念に転向するのを御覧になったら、余をペテン師の最たるものとお考えいただきたい。」”

“その著『オクタヴィウス』で、著者ミヌキウス・フェリクスは、キリスト教の立場を擁護するに先立って、異教を代表するセシリウスに次のように語らせている。「国々のさまざまの神々が崇拝されているのを私たちは知っている。エレウシスではケレースが、フリギアではキュベレーが、エピダウロスではアスクレーピオスが、カルデアではベーロスが、シリアではアスタルテが、タウリスではディアーナが、ゴール人のあいだではメルキュールが、そしてローマでは、これらの寄せ集められたすべての神々が。」そして彼は、受け容れてはならぬ唯一の、キリスト教の神について次のようにつけ加えている。「この特異な、孤独な、見捨てられた神はどこからやって来たのか。いかなる自由な国家にも、いかなる王国にも知られていないこの神は?……」”
(ともにシオラン『悪しき造物主』より抜粋)

>唯一の神を信仰する人たちは、その信仰ゆえに、唯一の神に対してだけ「負い目」を感じる

おそらく、古代ローマでは4世紀くらいまではまだ、こういった心性(あるいは宇宙観・人間観)は自明なものではなかったのでしょうね。古代ギリシャ~ローマでは多神教(機能神)崇拝に則った文化のなかで自然科学・人文科学(哲学・修辞学等)が既に高度な洗練に達していたのであり、所謂「西欧流の近代的自我」の形成にキリスト教がどの程度寄与していた(いる)のかは測りかねます。
けれども、今日あるようにいずれかの時点で唯一神崇拝とそれを基盤とする宇宙観・人間観が西欧に定着した。

>人間は〈世界〉を創造した神に似せて作られた存在であり、それ以外の存在に対して優位に立つ。ゆえに、下位の存在を“処分”することに「負い目」を感じなくてもよい。それらを“糧”として与えてくれる存在に対してのみ、「負い目」を感じ感謝の祈りを捧げれば良い

ここに到達するまでに何世紀を経たのか。と同時に、何故彼らは古代の神々を棄てたのか。

「~人間は保護と保証への欲求からみずからに神々を与えたように見えるが、実際は苦悩への渇望からであった。」
「~キリスト教はローマ人の法的厳密さを、ギリシア人の哲学的軽業を利用したが、しかしそれは精神を開放するためではなく束縛するためであった。精神に深まることを、おのが内部に下降することを強いたのである」(同上)

一神教はその構造上多神教に先んじて顕れるものではありえず、必ず多神教に追随するものであることは確かだと考えます。では、一神教から多神教へと移行することは可能なのか。それとも不可逆的なのか。
「豊葦原の瑞穂の国」という表現は、土着の人間の視点ではない。外部の人間から見た印象であると書いていたのは、養老だったかな。(いずこからかやって来た)日本人の先祖は、「豊葦原」「瑞穂」を発見し、彼らはいずれかの時点で愚樵さんが考えるような「日本人」になった。ローマ人が幾多の機能神を棄てて唯一神を選んだように。

問題は、愚樵さん仰るところの「和魂洋才」という「欺瞞」が、「豊葦原~」からの必然的な移行の一局面であるのか、それとも愚樵さんが考えるような錯誤なのかが、現時点では断定し得ないことです(これは愚樵さんの論考に対する否定ではないです)。
西洋人は「機能神」→「唯一神」への移行をそれなりにやってのけました。長い時間をかけて。彼らにも暗黒時代があったのは、ご存知の通りです。
日本人は、どうなのか。

意味づけ、あるいはラベリング

・アキラさん

感知された情報に対して身体が反応します。情動ですね。情動を意識がモニターすると感情になる。ここまでは個人個人でそう大差はないはずです。ところが感情となると個人によって大きな差異が生じる。官邸前デモに好感するものと嫌悪するものとに別れる。それは感情になるときに同時に意味づけ、ラベリングも行なわれるからです。貼り付けられるラベルの種類によって感情は異なってくるのですね。

先に言った「追認」というのは、好感情です。これは基本的に“良いこと”ですが、すぐに「正義」となって絶対化し、同じ感情を共有しない者に悪感情を抱いてしまうという副作用を生じる。

アキラさんが懸念したのはこの副作用ではないかと思いました。で、懸念は「セーブ」になりますよね。

悪感情による「セーブ」ももちろんあります。原発推進という前段がある者は、官邸前デモに悪いラベリングを貼り付け、デモに参加する者に悪感情を向けるようになる。これは同時に自身の情動に悪のラベルを貼ることですから、自分の身体にとっては“悪いこと”になります。

このような“悪いこと”をくり返していると、人間はおかしくなりますよね、きっと。

わかりやすかったから

・平行連晶さん

何故彼らは古代の神々を棄てたのか。

単純に、わかりやすかったから、だと私は思っています。

何故彼らは古代の神々を棄てたのか。このことは私もずっと疑問だったのです。ユダヤの民が一神教を奉じるようになったのは、旧約聖書にも記述があるように、モーセという人物が登場したからでしょう。それがユダヤ民族という枠の中で信仰を得るようになったというのは想像できる範囲です。ユダヤ民族が生き残るために信仰を強化していったというのは、戦前の日本の「天皇教」と比較しても、わかりやすい。

そして、そこからイエスやパウロという人物が登場し「新約」というものが生まれた。これも納得がいきます。しかし、そうした生まれたキリスト教が、特に民族が生き残るといったような切実な理由がなかったローマで国家の弾圧をはね除けてまで広がった理由は、私は想像がつかなかった。長い間。

それが今、一定の答えを得ました。

つまり。人間にはプリミティブな負債感がある。キリストの受難という“物語”は、その負債感にド直球、というわけです。

古代の神々も、おそらくはプリミティブな負債感から生み出されたものなのでしょうが、負債感が直接的に表わされているわけではないですよね。「穢れ思想」は負債感に近いですが、それをキャンセルする存在として神々が想定されている。そしてキャンセルすることは、表面的には隠されているわけです。その点、キリスト教は隠しません。秘部を露わにしたようなところがある。

けれども、今日あるようにいずれかの時点で唯一神崇拝とそれを基盤とする宇宙観・人間観が西欧に定着した。

欧州において定着したのは、プロテスタンティズムからでしょう。カトリックはマリア信仰なども取り入れているところからもわかるとおり、完全に一神教にはなっていない。完全な一神教は7世紀に成立したイスラームですね。これもスンニ派とシーア派に分裂していますが、「イジュティハードの門」を閉じたスンニ派の方が完成度は高いでしょうか。

父権的な一神教に対して、最後まで抵抗したのは母権的なマリア信仰だというのは興味深いと思っています。というのも、子どもを産むという行為ほど負債感を雪ぐのに効果のあるものもない。ところがそれは女性にしか出来ない。男権的な世界帝国の登場と軌を一にして一神教的な世界宗教が登場してきた背景には、この「事実」があったと考えています。

一旦、切ります。

つづき。

「豊葦原の瑞穂の国」という表現は、土着の人間の視点ではない。

一種のプロパガンダだったでしょう。瑞穂というのは稲ですが、これは長い間寒冷地では耕作不可能だったわけですし。そうした地域に居住した者たちが「蝦夷」だったのでしょう。つまり、日本が「瑞穂の国」となったのは、生産様式と関係がある。

そのように考えていけば、なぜ瑞穂の国での勢力が天津神一色にならなかった理由も理解できます。すなわち日本の急峻な地形です。地図上では瑞穂の国に塗りつぶされたとしても、米作りは平地でしか出来ない。山の民や海の民は必ずしも瑞穂の国の民ではない。だからこそ、国津神を神話の中に繰り入れて、土着の神々を容認する必要があった。

生産様式と神々への信仰が結びつくのはアニミズムです。つまり、日本は「瑞穂の国」という形で信仰体系が確立したからこそ、逆に瑞穂でないところを排除できなかった。実際、人間が生きていくには米だけというわけにはいきませんから。

それが、明治維新以降、西欧列強の一神教と対決する必要性から、天津神のもとに神々を統一せねばならなくなった。それしか方法がなかったかどうかはわかりませんが、とにかく統一しようとした。つまり、生産様式と信仰との分離を行なおうとした。天皇へ信仰を集約しようとした。

けれど、この集約には負債感は忘れられている。生産するということは、負債感を負うということです。農作業もやってみれば実感できますが、人間にとって都合のよい生命を選別することなんですね。そうした実感からくる負債感と天皇信仰とは必ずしも混じり合わない。そのことが、日本が暴走することに繋がったのではないのか。そして天皇信仰が弱くなった現在、なおこの暴走が続いているのではないのか。

問題は、愚樵さん仰るところの「和魂洋才」という「欺瞞」が、

「和魂洋才」といった言葉にこだわるとナショナリズムになってしまいます。もっと息の長い歴史観が必要なところです。

「和魂」という形で残ったのは、プリミティブな形に近い負債感だと私は考えます。欧州やアラブ世界そして中華も、それぞれ形は違ってもプリミティブで母権的な信仰体系から、ある意味合理的・機能的な父権的信仰体系へと移行していった。これは商業的だともいえる。

イスラームが商人の倫理を基盤としているのはご存知の通り。キリスト教のプロテスタンティズムも商業(資本主義)との深い関わりは、定番です。中華でも、もともと王や皇帝は城壁で囲まれた市場の神(社稷)を背景にしている。城壁都市という「点」が交易することで都市間の「線」になり、強大な中央集権国家が建設されたことで「面」になった。

ところが日本はそのような商業的な信仰体系にはならなかった。強大な中央集権国家が出現しなかったという理由。13世紀に成立した「世界システム」に繰り入れられなかった(具体的にはモンゴルに征服されなかった)というのもある。中央集権国家の成立は明治まで待たなければならなかった。ということで、母権的な信仰体系から父権的なものへ移行する時間がなかった。

「豊葦原~」からの必然的な移行の一局面であるのか

これは大局的に見れば、グローバリズムかローカリズムかということです。世界は、13世紀に始まった中華を中心にした世界システムへの流れが、一旦、ペストなどの災厄で中断した後、16世紀から欧州を中心に全域化した。その流れは極点に達したようにも見えるし、そうでないようにも見える。

これはつまり、欧米を中心にという視点では、極点です。中華を中心とするという視点では、まだまだこれから。で、かつての中心だった欧州では、男権的一神教的な信仰体系は衰退して、母権的な流れが興隆しつつある。

そんななかでの、いまだ母権的な信仰体系を根強く残し、男権的信仰体系への以降に失敗し続けている日本です。そうした流れと脱原発というのとが結びつく。

原発というものは、男権的なEGOの在り方の極点ともいえるものです。自然環境を人間の都合の良いものに改変しても構わない。その負債は集約的に神に対して負う、というもの。で、実際に負いきれるのかというと、とうてい負うことが出来ないものだということが明らかになった。

欧州はそれを、よく宮台氏が持ち出しウルリッヒ・ベックあたりが男権的に理論化した。想定不能、収拾不能、だから手を出してはならない。「神の領域」というわけです。しかし、男権化できていない日本では、いくら宮台氏が喧伝しようとも、そういった結論を出すのは不可能。原発は手に負えないという事実認識は同じでも、その結論へと至るのは別ルートを採る必要がある。

そういった認識から「福島神社を創建せよ」といった発想が出てきたりするのです。

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