愚慫空論

日本的エリートの発想 鳩山式ベルトコンベア

さて、お約束の(?)鳩山式ベルトコンベアについてである。これをまたもや【穢れ】でもって括って話をしてみたい。

まず、参考として養老孟司著『死の壁』から借用したい。第八章 エリートと安楽死 から。

安楽死は苦しい

 安楽死について考える場合に、私は「安楽死をする方」の患者の立場ではなく、「安楽死させる方」の医者の立場を考えてしまいます。それは医者でない人にはあまり考えることのないことなのでしょう。
そして医者の立場からすると、やはり誰かを安楽死させたという経験は、生涯記憶に残るはずなのです。一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が残るはずです(一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は愚樵流に言うと【穢れ】)。前にも述べたように、医者も患者をモノとして見ているわけではありません。逆の言い方をすれば、そういう傷が残らないような人は、あまり医者としていいとは思えない。むろん、安楽死なんかを手がけない方がよいのではないか。
 いつもこの部分がはっきり理解されていないような気がします。それは物の考え方、議論がどうしても被害者の感情中心になっているということと関係があります(死刑支持派の言動とも関連がありそう)。これは戦後の風潮でしょう。
 加害者の気持ちというものについては考慮されずに済まされがちです。だからここではあえて加害者の立場を中心に安楽死問題を論じてみます。これはいわゆる「人権尊重」の人たちが唱えている「犯罪者の権利」とかそういうものとはまったく別の話です。

エリートは加害者

 ここでいう加害者は、エリートと言いかえてもいいかもしれません。エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。決して昨今いうところの、単にいい大学を出ているとかいい企業に勤めているとかそういう人たちを指しているのではありません。
 たとえば乃木希典陸軍大将を例にとってみましょう。日露戦争の二百三高地での戦いで彼はたくさんの若い兵隊たちを死なせてしまった。さまざまな見方はあるでしょうが、だから最後は自分も腹を切った。
 兵隊を死に追いやった重さ(つまり【穢れ】)を乃木将軍は背負わなくてはいけなかったからです。エリート、人の上に立つ立場の人というのは、本来こういう覚悟がなくてはいけない。常に民衆を犠牲にしうるたちばにいるのだ、という覚悟です。
 そして、エリート教育というのはこういう責任や覚悟を教えなくてはいけなかったはずです。決して自分たちだけが特別に偉い人間だということを教えるものではありません。しかし、戦後はそういう本来の意味でのエリート教育が無くなった。
 先日、自衛隊の司令官の人と話す機会がありました。そのとき彼は、
「こういう時代だから、自分もいつか部下を戦地に送り出して死なせてしまうかもしれません。そういうふうに兵隊を送り出すという行為を自分がする最終根拠はどこにあると思いますか?」
と聞いてきました。こういうことを考えている人は司令官として立派だと思いました。エリート教育というのはまさにそういうことを教えるものだったはずなのです(私はここにちょっとひっかかりを感じる。「まさにそういうこと」とはどういうことか? 「最終根拠を教えること」であればそれはエリート教育ではなかろう。戦前はこういった教育が行われていて、その結果が「天皇万歳」だった。「最終根拠は自分で見つけるしかない」と教えるのがエリート教育のはずだ。養老さんはそんなことはわかっているはずだが)。

引用が長くなった。このあと、「産婆の背負う重荷」として深沢七郎の『みちのくの人形たち』という小説が紹介される。これは時代の所為で心ならずも赤ん坊の「間引き」をせざるを得なかった産婆さんの話だ。自分の行為に責任を感じた産婆さんは両腕を切り落とす。「みちのくの人形」とはコケシであり、両腕を切り落とした産婆さんの姿はコケシと重なる。そしてコケシは「子消し」...。

ここまで語ってきたエリートの話は、おそらくは「武士道」に底通するものがあると思う。
「武士道」とは戦士の倫理であるから、「エリートは加害者」という倫理観はその基本を為すものだと思う。養老さんは“戦後はエリート教育がなくなった”と嘆いているが、つまるところ武士道がなくなったということだろう。

私はそれでいいと思っている。これからの民主主義社会には武士道など不要である。いや、不要は言い過ぎか。参考にはすべきだろう。しかし、そんなものがエリート教育の根幹であってはならないと思う。

「武士道」を日本の伝統と言い立てる人たちがいて、まあ、それは養老さんと同様、戦後の教育の体たらくからすれば無理からぬものと思わなくはないが、伝統というなら、日本には「武士道」などより遥かに古い伝統的エリート体質がある。それが「お公家さん」の伝統だ。

ここで鳩山式ベルトコンベアである。鳩山式ベルトコンベアに載るのは、ヒトかモノか? 鳩山法相を批判する人の多くは、ここで誤解をしていると私は思う。ヒトをモノ扱いして、だからベルトコンベアなのだという。つまり鳩山式ベルトコンベヤはモノを載せて運ぶ。ヒトをモノとして扱う神経の持ち主だという主張である。
そうではない。鳩山式に載るのは、あくまでヒトである。鳩山法相は、ちゃんとベルトコンベアに載っているのはヒトであると認識している。そうであるからこそ、ベルトコンベアに載せたいのだ。
モノであるならば、壊しても【穢れ】にまみれることはない。ヒトであるからこそ、殺せば【穢れ】にまみれることになる。鳩山式ベルトコンベヤの心は、オレは【穢れ】にまみれたくないという「お公家さん」スピリットなのである。

現在の日本は近代国民国家である。私は近代国民国家と言うあり方にそのものに批判的だが、そうはいっても現状が近代国民国家であるという事実を認めないわけではない。事実を認めるというところからすると、近代国民国家のエリートたる大臣には近代国民国家に相応しい人物が座るべきだ。「お公家さん」は相応しくない。まだしも「武士」の方が相応しい。

(この「武士」は明治維新以後に作られた「武士」であることに注意を払う必要がある。「武士道」は明治時代に作られた)。


私は前エントリーで【穢れ】を浄化するのは【愛】だと書いた。ただ、これは個の論理であるとも書いた。では、公の論理で【穢れ】を浄化するのは何かということになる。たぶん、これは【道徳】なのではないか、と思う。

エリートは加害者となる。加害者は【穢れ】をまみれる。エリートには【穢れ】に対して高い感性を持ちながら、多少【穢れ】にまみれても【穢れ】に犯されない強い心が要求される。しかし、そうはいってもエリートとて人間であるから、限度がある。そうしたエリートが【穢れ】を浄化させようと求めるのが翼賛体制的な【道徳】ではあるまいか。

日本は例外だが、たいていの世界では、昔は殺人を為す戦士は聖なる者とされた。聖なる者と位置づけることで殺人を為す者たちの【穢れ】を公的に浄化していたのではあるまいか。そして、それを体系付けるのが【道徳】の役割であったのではあるまいか。


ヨーロッパ諸国に代表される民主主義体制の国々ではすでに死刑を廃止し、または死刑を廃止しようとする動きが盛んになっている。これは民主主義国家においては、翼賛体制的な【道徳】を確立することが不可能になってしまっているというところからの、不可避的な死刑廃止であるような気がする。民主主義国家の理念の根幹をなす「良心の自由」が翼賛体制的な【道徳】の成立を阻む。「良心の自由」の下での【道徳】は他の価値観も容認するという形にならざるを得ない。他の価値観を容認するのであれば、必然的に翼賛体制的になることができない。するとエリートは【穢れ】の浄化を得られない。ゆえに死刑を廃止しようとするインセンティブがエリートに働くようになる...。
これは穿ち過ぎた見方かもしれないが。


ついでに、もうひとつ。裁判員制度について。
「お公家さん」と化したエリートという言う意味では、裁判員制度を導入しようとする裁判所もそうかもしれない。この人たちも【穢れ】を嫌い、「お公家さん」になろうとしているのかもしれない。

裁判員制度は、一応表向きには
有権者から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的
とされている。私が疑り深い所為かもしれないが、これは額面どおり受け止められない。

裁判員制度は司法が積極的に導入を進めているものである。が、裁判所にとっての裁判員制度のメリットは何か? そういう視点で考えると、よくわからない。ただ裁判官および裁判所の手間ばかり増えるようにしか思えない。
ならば「お公家さん」を志向しているということも考えられなくもない。裁判員制度が適用されるのが、死刑になる可能性のある重大刑事事件という点もクサイ。

裁判員制度を導入するなら、政治家や行政を裁く訴訟に適用すべきだ。こうした訴訟にこそ、「市民が持つ日常感覚や常識といったもの」を反映させる必要があると思う。

コメント

聖なる戦士の伝説

幅広く示唆に富む記事で、論旨には概ね賛成なのですが,考えるところか色々有りすぎて困ります。
>これからの民主主義社会には武士道など不要
>「武士道」は明治時代に作られた。
靖国文化人達が天まで持ち上げる『武士道』は靖国神社創設以降に作られたもので、中身(武士道)は其れまでの『武士の道徳』『江戸時代の道徳』を否定した明治の、文化人の創作(でっち上げ)。
今日すべての靖国文化人(極右国粋主義者)が『武士道』を口にするのは、単なる偶然ではない。
「靖国」と「武士道」との間には、時間的にも思想的にも動機の面でも密接な関連性が歴史的に存在している。

愚樵さん、日本の『穢れ』と欧米の『タブー』とは一見似ているが違うものです。
>公の論理で【穢れ】を浄化するのは何かということになる。たぶん、これは【道徳】
欧米的倫理観では正論ですが、日本の『穢れ』の一番正しい解決方法は『隠蔽』です。
隠蔽と忘却で『穢れ』を無かったことにする。
聖なる皇軍の『穢れ』(従軍慰安婦、南京大虐殺、集団自決の強制)は事実で有ろうが無かろうが絶対に認められない、そもそも有り得ないことなのです。

>たいていの世界では、昔は殺人を為す戦士は聖なる者とされた
前半の>日本は例外だが<以外は全面的に正しい。
戦争を考える上で最も重要な指摘です。
日本でも貴族が実権を持っていた時代、武士(殺人を為す戦士)は「卑しい身分」とされたが、それ以降は支配階級として『貴い身分』に出世した。
明治憲法下で起こった、兵士(殺人を為す戦士)の信号無視を注意した警官を兵士が殴り乱闘となった『ゴーストップ事件』は有名な話。
>日本は例外<は平和憲法(9条)がある敗戦後の話で、明治憲法下の戦前は日本も世界基準だった。
現在のように自衛隊将官でも国内では特別扱いは無いが、国外では将軍(ゼネラル)は超エリートの貴人扱いで人々の尊敬を集めている。
日本では軍事機密の陰に隠れて何をしているか判らない憲法違反の疑いの有るいかがわしい税金泥棒扱い。
憲法9条の存在の結果、軍人((殺人を為す戦士)は「卑しい身分」とされている。



鳩山式ベルトコンベヤの心

鳩山法相の死刑執行の大臣署名問題でベルトコンベアーで順番どうり粛々とが批判されていますが、鳩山氏は大きな間違い、勘違いをしているようです。
裁判は司法の権限ですべてが決定し、刑罰(法の執行)は政治家が介入出来ない分野ですが、唯一の例外として死刑執行がある。
大臣署名が無いと行なえない。
鳩山氏は殺す為に署名するのは嫌だと言うが、本当の意味は法務大臣が署名しない限り死刑執行が出来ないことでは無いでしょか。?
この制度の意味は、自動的に署名し自動的に処刑(ベルトコンベアー)の対極に有る考え方で、法相が署名しない可能性にこそ其の意味がある。

死刑は司法で既に決っている。
しかし其の「決定事」を司法の最高責任者(法務大臣)がもう一度考え直し署名する、あるいは署名しない両方を考える事の重要性。それほど『死刑』の持つ意味は重い。
既に決った、判りきった結論でも、もう一度考えるのが法務大臣署名では無いでしょうか。?
「誰でも署名したくない」と言った鳩山法務大臣には法相の資格が無いことは明らか。
自分は死刑に関係したくないが死刑には賛成する論理的、倫理的矛盾に気が付いていない。

署名した大臣は死刑執行に立ち会うべきであると言う亀井静香氏の主張の方が余程説得力がある。
国家が、国家の名においた人の命を奪う刑罰が死刑で、決して誰かの復讐を代理で行なうものではない。

江戸城内 松の廊下

布引さん>

>日本でも貴族が実権を持っていた時代、武士(殺人を為す戦士)は「卑しい身分」とされたが、それ以降は支配階級として『貴い身分』に出世した。

それは一面ではそうでしょうけれども、では、本当に武士たちが自分たちも『貴い身分』と意識していたかどうかは、私には疑問です。

その疑問を端的に示すのが、『忠臣蔵』のストーリーにでてくる江戸城・松の廊下のシーン。あれは浅野内匠が吉良上野介を傷つけたから罰せられたというのではなく(そういう側面もなかったわけではないが)、刃傷沙汰を起こした(つまり【穢れ】を発生させた)という点にもっとも重い罪があるのです。
しかし【穢れ】を発生させる刀は「武士の魂」であったはず。その刀を抜くまでもなく、鯉口を切る(刀を抜け易くする為に緩める)だけで罪とされていたという事実は、武士たちが貴族を真似て『貴い身分』になろうと希求しながら、そうなりきれないコンプレックスを表しているように思います。

士農工商ですから武士が一番上

>吉良上野介を傷つけたから罰せられたというのではなく(そういう側面もなかったわけではないが)、刃傷沙汰を起こした(つまり【穢れ】を発生させた)という点にもっとも重い罪があるのです。<

( )部分を取り払うと>吉良上野介を傷つけたから罰せられたというのではなく、刃傷沙汰を起こしたという点にもっとも重い罪があるのです。<
此れでは『馬に落ちたのが罰せられたのではなく、落馬した点にもっとも重い罪が有る』と同じ言葉の混乱。

本当は『傷つけたから』(刃傷沙汰を起こした)でも、『穢れを発生させた』からでもなく、規則に反して禁止区域で抜刀したから切腹になっています。
現在なら「銃刀法違反違反」の現行犯ですね。

ヨーロッパ社会では王侯貴族(殺人を為す戦士)は『貴い身分』ですが一番高い身分ではなく、其の上にもっと尊い『貴い身分』(法王)が存在した。
一神教世界では、常に宗教勢力(司教)は世俗勢力(王権)よりも上位に位置していました。


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