愚慫空論

共感と反感の境目 光市母子殺害事件

鳩山法務大臣が死刑を巡ってつまらん発言をしたせいで、またまた死刑を巡っていろいろと議論が戦わされている。この発言を、ここのところマイブームになっている【穢れ】という概念でもって語ってみようと思ったのだが、いろいろ考えているうち、先にこちらの方をまとめようとする内圧が高まってきた。んだもんで、先にこちらをかく。

共感と反感の対象は、もちろん、光市母子殺害事件の被害者遺族として出発し、いまや死刑推進論の旗手となった本村洋氏である。ザックリ言うと、被害者遺族としては共感できるが死刑推進論者としては反感を覚えるということ。ここらを
【穢れ】という概念を使って話を組み立ててみる。

私は以前にも本村氏についての意見を書いたことがある。そのとき私は、本村氏には共感できないと書いた。共感できないとしたのは本村氏の次の発言だった。

死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ

この発言に共感・賛成できないという意見は今でも変わりはない。ただ、当時とは多少のぶれはある。死刑という公的殺人によって「人の命の尊厳を社会が知る」などという倒錯した論理には賛成できないけれど、それが本村氏本人の手による私的殺人であれば、「純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会に残酷に奪い取る」という意見には、尋常ならざるものを感じながらも、今では共感を覚えてしまう。
私はこの意見以前にも、本村氏の私的な復讐についての発言には共感と支持を表明しているけれど、それがより際立ったということだろうか。


ここで
【穢れ】である。キリスト教では人は日々「罪を犯す」存在と考えるが、穢れも同様に人は日々「穢れにまみれていく」と考える(仏教、神道の観念では【罪】を人為的なもの【穢れ】を自然発生的なものと考え区別するが、その区別にここではこだわらない)。人は日々の糧を得るため、しばしば不条理を越えていかなければならないけれども、そうしたときに【罪】【穢れ】を積み重ねていくことになる。また、生物である人は不可避に不潔・不浄な部分を持つが、生活とはそうした不潔・不浄を対処していくことでもある。

人は生活をしていく。父と母との間に生まれ、成長して自立し、やがて家庭を営み、子を為し、育てる。人の生活には様々な側面があるが、基本はこうである。つまり、ひとりでは生活しないというのが基本である。これが家族だ。家族こそ、生活の基本である。で、生活とは一面、不潔・不浄を対処していくということだから、家族としてともに生活をしていくということは、ともに暮らすものの
穢れを引き受けるということでもある。

子を産んだばかりの母にとって、それから父にとって、子の汚物は
【穢れ】などではない。他人には【穢れ】でも父母にはそうではない。此処には【穢れ】を清める何かがある。その何かがたぶん【愛】である。
共に生活を営む男女は(もちろん男男でも女女でもいいが)、たとえ相手が罪人であっても受け入れることが出来る。男女が為した子でもそうだ。子の犯した罪をわが罪として受け入れることができる。これもたぶん
【愛】である。
今となってはいささか古い考えかもしれないが、夫が家族を養っていく。その過程のなかでさまざまな社会の不条理と出会い、それを越えていく。越えていく下支えになるのが
【愛】である。
長年連れ添った夫婦の片方が、老いなり病なりに倒れ、介護を必要とする身になる。身の回りの世話には、場合によっては、赤ん坊と同じく下の世話まで含まれることもある。そうした
【穢れ】を受け入れていくのもまた【愛】であろう。


本村洋氏は、不幸な事件に遭遇する以前は、きっと
【愛】のある生活を営んでいたのであろう。事件後の会見で発した「わたしが殺す」発言の中からもそれは充分伺える。彼が【穢れ】を引き受け、彼自身の【穢れ】を引き受けてもらう場(こうした【穢れ】の相互引き受けが【浄化】だ思う)とであった家族を無残にも奪われたばかりか、これ以上は考えられないというくらい穢されてしまったやり場のない怒りが、加害者に向けられるのは当然のことである。

彼は「わたしが殺す」といった。こう発言した彼は、また当然のことながら殺人のもつ意味合いを充分承知しているはずだ。つまり殺人とは
穢れを為す行為であるということである。【愛】する家族のために殺人という【穢れ】を引き受ける。【愛】穢れを引き受ける営為であるならば、【愛】する家族のために殺人を犯すのは、まさに【愛】そのものの行為である。ここに多くの人は共感したのだと思う。私だって、そのひとりだ。

さらに彼は言う。「純粋で真面目に生まれ変わった人間を、非情に残酷に命を奪い取る」 こうした不条理な発言は、以前の私は不快に思ったが、今は違う。これもまた彼の
【愛】の証なのだと、今では思う。生まれた変わった人間を殺すという不条理からくる【穢れ】を引き受ける。引き受ける穢れが大きければ大きいほど、彼の【愛】もまた大きいことが証明される。証明しようとする。なんとも切ない、と思う。


けれど、私が共感できるのはここまでだ。彼が彼の
【愛】する家族のために、彼自身が【穢れ】を引き受けようとするのならば、私は共感できた。けれどしかし、彼は自ら穢れを引き受けることをやめ、死刑という制度を利用して穢れを国家に引き受けさせるよう、なぜか主張を方向転換した穢れを自ら引き受けるか、他に転嫁するか。これが共感と反感の境目である。


反論はあろう。代表的なところは、そうは言っても国家により私的殺人は禁じられている以上、国家による殺人、つまり死刑で罪を償わせる以外ないではないか、というものだろうか。

私は現在は死刑廃止(死刑反対ではなく)の立場だが、現在、死刑が法的に認められている以上、本村氏にそれを主張する権利がないとは言わない。政治的にそれを主張する権利も認めたいと思う。
だが、本村氏個人の立場としては認められる
【穢れ】の最大化(「純粋で真面目に生まれ変わった人間を、非情に残酷に命を奪い取る」)は、それを国家に転嫁しようとするのならば認めることはできない。個の論理と公の論理には、どうしても相容れない部分がある。

繰り返すが、本村氏自身が彼の
【愛】の証明として【穢れ】の最大化を意図するのには、共感を覚えなくはない。だが、そうした彼の「個」の論理をそのまま「公」に適応しようとされたのでは、たまったものではない。「公」としての社会および国家の論理では、穢れは最小限のものにしていかなければならないはずだ。社会の構成員たる個人の犯す犯罪を抑制し、公衆衛生を向上させ、人々の最低限の暮らしができるよう福祉を充実させる。社会および国家はこうした施策を充実させることで、社会のなかの【穢れ】を少しでも抑える方向に導いていかなければならない。

(福祉のようなことまで
【穢れ】で括ってしまうことに違和感を感じる人もいようが、私が言いたいのは、例えば貧困などからどうしても発生してしまう人々の【心の闇】のような、人間の内面の問題である。貧困が必ずしも【心の闇】【穢れ】を産むわけではないが、そうした傾向にあることは間違いない。その社会の中で暮らす人々の内面に【心の闇】】が蔓延るような社会ではどうしても治安は悪くなるし、治安が悪くなれば死刑という厳罰を科そうとする心理傾向も強くなる。こうした【心の闇】【穢れ】の悪循環がエスカレートしていくと、行き着く先は北朝鮮やミャンマーのような、独裁的強権が支配する社会だろう)

上で書き忘れたが、
【穢れ】の性質としての大きなもののひとつに【穢れ】は伝染するということがある。あたかも悪性の伝染病のように、次から次への人に伝播し、社会に【穢れ】をばら撒いていく。
母子殺害事件の経緯とその後の顛末が、その
【穢れ】の伝染性の証明になっている。母子を殺害した未成年は、父親から酷い扱いを受けていたことが明らかになっている。私に言わせれば、加害者も穢されていたのである。穢されていたが故に犯罪を犯し、その【穢れ】が本村洋氏にも伝染した。彼は彼の「愛」を栄養分にその【穢れ】を成長させ、社会にばら撒いた。その手助けをしたのがメディアである。
ばら撒かれた
【穢れ】は、抵抗力の少ない人間、またはすでに【穢れ】に感染している者に取り付く。そうした人は【穢れ】に抵抗しようとする者(例えば死刑廃止論者)に、てめぇら人間じゃねぇ”といった、汚物を投げつけてくるが如き攻撃を仕掛ける。

人間は容易に
【穢れ】に犯される存在ではある。オマエが本村氏のような境遇に遭っても、まだそんな奇麗事がいえるのか!”といった問いかけに、容易には答えられない。まして【愛】のある場から切り離され、ひとりになったときには弱い。どこまで【穢れ】に抵抗できるか、なかなか自信はない。

だが、さればこそ、【愛】のある場が大切なのである。それがいかに大切なものか、本村氏が証明している。彼がそこへ立ち戻ることは容易ではないが、だからといってそこから切り離されて立っている彼に(確かに立派に健気に立っている!)賞賛を送ることに、私はどうしても躊躇いを覚える。健気に立っているからとって、彼がばら撒いてくる
【穢れ】をそのまま受け取り、さらに増幅してばら撒くことなど出来ない。


本村氏の同情し共感するなら、彼がばら撒く
【穢れ】を受け入れ飲み込まなければならない。ただし、これは苦しい。彼との間に【愛】と言えるほどの関係は成立していないから。私とて、そんなことが出来ると断言できる自信はない。

本村氏の
【穢れ】を飲み込むことも出来ず、さりとて、そのまま受け取ることも出来ない。なんとも中途半端な立場ではある。


追記:津久井弁護士を通じて知った今枝弁護士(母子殺害事件の刑事弁護団のひとり)によれば、本村氏は刑事弁護の意義をみとめるなど、これまでのあり方に少し変化が見られるようになってきているらしい。どのように変わって行ったか、今のところまだフォローしていないのでわからないが、ひょっとしたら、今、私が書いたことを書き改めなければならないかもしれない。

ひょっとすることを、切に願う。

コメント

永山事件と名誉殺人

本村氏の一連の主張は、個人的感情の表明と言うよりも、社会(裁判所)に対して永山則夫事件の判例変更を迫る目的の計算された政治的な発言です。
永山事件では19歳で4件の別々の殺人事件で、一審での無期判決が差し戻し審では死刑が確定しました。
彼はこの判例を覆し18歳と一ヶ月の被告の初回の犯行に対してなんとしても死刑判決を勝ち取りたいのでしょう。

本村氏が自分自身の『私的な穢れ』を、社会全体の『穢れ』に格上げしたいのではないか、と言う愚樵さんの主張には大いに肯けるが、
しかし本来「穢れ」とは私的(個人的)なものではなく社会的な存在のはずです
『穢れ』とは共同体社会内部で共有され温存され、時には増幅される『共通言語』『共通意思』では無いでしょうか。?
『穢れ』は共同体外部の者にとっては、うかがい知れない秘密の存在ですが、共同体構成員にとっては憲法や法律よりの上位にある至高の存在として全員の上に君臨する。


本村氏は自身の考え、主張を武士道で説明しようとしていますが、私には中東諸国で現在も密かに行なわれている『名誉殺人』という身の毛もよだつおぞましい行為に、其の思考方法が限りなく近いのではないかと思われる。

すごく面白かったです。

「穢れ」ということを意識してはいませんでしたが、安全地帯から「吊るせ、吊るせ」と憎悪を漲らせている人たちの発言を目にするたびに、自分が汚れていくような気がして、「シッシッ!」と服をパシパシと払いたいような気持ちになっていました。どうにも救いのない暗さ、それが「穢れ」かもしれないと思うと、なるほどなぁ、と思います。

本村さんに対しては、それを感じる時と感じない時があります。それが、兄さんの言う「個の論理と公の論理には、どうしても相容れない部分がある」ということなのだろうなと思い当たりました。

私に向けられる憎悪は「穢れを共有しない」ことへの怒りなのかもしれないと思ったりもしますが。

報復殺人反対

私は、人殺しは嫌いです。もちろん報復殺人(死刑)も。
だから死刑制度には反対です。
あなたの愛する親族が殺されても死刑制度反対が言えるのか、死刑肯定派の人がよくする質問ですが、よく考えてみましょう。犯人が死刑になっても愛する親族が帰ってくるわけではありません。殺人には、あきらかに故意による殺人、誤って殺してしまった場合等ありますが、犯人に死刑を望む、あるいは死刑でなければ私が殺すというのは、故意による報復殺人であり、そんなことをしても殺された愛する親族は喜ぶのでしょうか?私が殺された親族なら愛する人が報復殺人を犯してしまったのですから嘆き悲しむでしょう。
こういった報復殺人願望というのは、結局のところ「自分が一番可愛い」といった人間の醜い心から生じるものではないでしょうか。自分が自分が、自分の~、といった哀れな自己欲。
死刑では、報復殺人では誰も救われません。自他共を不幸にするだけではないでしょうか。
死刑制度を廃止し、これに変わる何かをと思います。

「今枝弁護士」では?

こんにちは。

光市の事件で検索していてこちらの記事にたどり着きました。
ところで追記にある弁護士の名前は「今村」ではなく「今枝」ではありませんか?
気になりました。確認願います。

Re:「今枝弁護士」では?

りゅうちゃんミストラルさん、こんにちは。はじめまして。

ご指摘ありがとうございます。早速訂正しておきました。

私的ブログとはいえ、人様のお名前を間違えるとは...。いやはや、汗顔の至りです。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/70-e1d62c11

「個人→国家社会→世界」ではなく「家族を形成する個人→国家社会→世界」という関係構造理解の意義

まず、「家族」の問題についてその意図するところを説明させていただきます。>だとしたら、やはり、「家族」を実体として捉える視点もやはり危ういものというこにりますよね。「近代経済システム」「支配-被支配関係構造」を知った上でないと「家族」もただの再生産装置で

テロリズムそして国際テロリズムとは何か

前からアップしようかなと思っていた文章のなかから抜粋したものです。全体の文書も参考として添付しますが、世界情勢はそんなレベルを超えて動いているので、どれほどの意味があるものかと思っています。-----------------------------------------------■ テロリズムそ

地球温暖化と生物多様性

 1992年にリオデジャネイロ市で開催された環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)では、「生物多様性」は次のように定義された:「陸上、海洋およびその他の水中生態系を含め、あらゆる起源をもつ生物、およびそれらからなる生態的複合体の多様性。これには生物種

「ビルマ、沖縄の叫びの本質」…日本が『JAPAN』になるとき

ビルマではミャンマー軍事政権の暴政に怒り、連日僧侶・市民10万のデモ行進がされ、沖縄では日本の歴史修正の圧力に11万の怒りを結集した集会が開かれた。……似ているな。露骨に虐げられ棄てられた民の怒り、怒りを共有し連帯し声を上げる……。なんやかやと言いながらも、

ホームページ

無期懲役刑に関する誤解の蔓延を防止するためのホームページこちらもご覧ください。また、ホームページまたはブログをお持ちの方は、もしよろしければ、ご自身のHPまたはブログの「リンク」や「お気に入り」などに当ホームページへのリンクを加えてください。宜しく....

誤解の解き方

「無期懲役といっても刑期が決まっていないだけで、7年もすれば出てくる。日本は終身刑もなく犯罪者に著しく甘い」といった発言に対し、「たしかに、無期懲役は終身刑ではないが、無期懲役の平均は21年6ヶ月だ」などと言って反論している人をときどき見かけますが、こういう

わが国の無期懲役

わが国のライフ・センテンス無期懲役刑とは はじめに、無期懲役刑の性質について説明したい。無期懲役の「無期」とは、「刑の満期が無い」ことを意味しているのであり、「期間を決めていない」などという意味ではない。「期間を決めていない刑」は、不定期刑(2種類ある)

データ・リンク等

◇無期懲役刑データ集◇無期懲役・仮釈放者のデータ◇矯正統計年報 画像(上記データのソース)◇第一〇七矯正統計年報?(平成十七年) 画像◇第一〇八矯正統計年報?(平成十八年) 画像◇豆知識◇本来の定義◇本来の定義 画像?◇各国の無期刑の仮釈放の有無◇闘うリベラ

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード