愚慫空論

負債感/窮乏感

台風4号は予想していたより速く通過した。今朝は台風一過。富士山はまだ笠を被っているが、青空。空気がいつもにまして心地良い。

清々しい朝の空気のなかを犬とともに歩きながら、考えたこと。

私のなかには負債感と窮乏感の、両方がある。

  ***

負債感は、私が「生きて在る負い目」と呼んでいるもの。

私たちはひとりで生きているのではない。多くのものに支えられて生きている。
その中には知らずのうちに犠牲を強いているものも絶対にあり、「生きること」を当然だと考えてしまうとそれを見逃してしまう。
それでは真に「生きること」にはならない。

光るナス 『全生』

「生きること」に気がつけば、それは自らが「生きて在ることの負い目」になる。
私はそのことを、殺生をすることによって学んだ。

 愚樵空論 『情と殺生、理念と殺戮』

樵とは殺生をする者のこと。殺生の対象が木であるのが樵。殺生の対価として、自身の身を危険に晒す。
敢えて晒したいわけではない。私だってまだ死にたくはないし、痛い目にも逢いたくはない。
しかし、そうした危険と「生きて在る負い目」とはセットである。切り離すことは出来ない。

生きて在る負い目、さらに言い換えれば「生命への負債感」は、私を突き動かす動機となってもいる。
私が脱原発を主張するのも、根っこを辿ればここへ行き着く。
脱原発だけではない。近代政治。近代教育。貨幣経済。
人の心をシステマチックに踏みにじるものへの敵意はここから来ている。

 愚樵空論 『私が大飯原発再稼働に反対するただひとつの理由』

思索の源泉も同じ所から出てきている。
だから、どのように「価値」を置けば、人の心を踏みにじらずに済むか、魂を植民地化せずに済むか。そんなことを考える。

 愚樵空論 『魂の経済学』

これらは、つづめていえば、負債感からくる贈与への内発的要請だ。

  ****

一方の窮乏感。これもまた、林業に携わっていることから出てくる。
端的にいえば、安い報酬で働かざるを得ないポジションに甘んじている、という被搾取感である。

日本の林業などというものは、大勢としては破綻した産業でしかない。
もちろん少数ではあるが、キチンと産業を営んでいる業者もいる。
私もかつてはそういったところに所属し、そこで様々な「生き方」を教えてもらった。

が、今は残念ながらそうではない。

今の日本の林業の大勢は、自然をダシにした公務員扶養システムでしかない。
日本の経済は「公共工事複合体」に支配されているが、林業もその一分野。
「自然環境」という美名の元、日々自然破壊を行なっているのが林業の実体だ。
私はそのようなところで、暮らしを支えるために自分の労働を売っている。
危険に見合わぬ安い報酬で。

 国民の生命と財産を守る「植えない森」 : 森林・林業再生キャラバン 

こういった【システム】は、根っこから労働者を搾取し人の心を踏みにじるように出来ている。
というのも、【システム】を稼働させているエンジンが窮乏感だからである。
窮乏感を満たすための方法が貨幣という所へと煮詰まっている。
【システム】におけるポジションは窮乏感を隠蔽するための道具でしかなく、
その具体的な形のひとつが、報酬として現われる。
人々は窮乏感をより効果的に隠蔽するためにポジションを争って競争する。
もしくは既得権益を死守しようとする。

そうした【システム】の構造は原発ムラであれ林業ムラであれ、まったく変わらない。

窮乏感に駆り立てられる人間は哀れだ。彼らには誇りも何もない。
技術は、金を稼ぐための作業をこなすためだけのものでしかない。

【システム】の中では、技術は金を稼ぐための方法論であることを強いられる。
今の私の労働環境がまさにそうだ。
そうはしたくないが、貨幣経済の中では金がなくては生きていけない。
だから。金さえあればこんなバカな労働で身を売ることもないのに、と思ってしまう。
この思いが窮乏感になる。

正直なところ、私が樵を名乗っていられるのは実はネット上においてだけだ。

  *****

アメリカの心理学者マズローの、有名な自己実現理論というのがある。


最近私は、これは根本的に誤っていると思うようになった。これは窮乏感を軸にした理論でしかない。魂というものの作動原理はそうではない。これはむしろ魂を植民地化していく理論であるように思える。

健全に発育した魂は負債感を負うようになる。魂は自己とは異なる「地平」を想像することができる。満たされた魂は満たされざる魂を想像し、負債感を背負い、行為することになる。その行動理論は、マズローの理論とは相容れない。

では、どのような理論が組み立てられるのか。
それを考えてみたいと思っている。


コメント

雑感。

>負債感

負債は返すことが出来るでしょうが、奪った命は返しようがありません。
他者の命を相手の同意なしに奪うことが悪であるとするなら、生きることは悪そのものでしょう。
いかに生きるかには興味は全くありませんが、生きる上で悪を重ねることにどう対峙するか、これについては常に考えます。
何年か前から、肉を食うことは極力控えています。食自体の回数を減らし、今は夕食は食べない。
菓子もほとんど食べない。食を愉しむことは即ち命を奪うことを愉しむことであるから。命を奪うことを愉しむことには罪悪感が伴う。
部屋の中にゴキブリやチョウバエが出ると、捕まえて外に出す。殺さない。捕まえ損なって殺してしまうと、陰惨な気分になる。
殺めるは易し。生け捕るは難し。神経の構造上、ゴキブリの反射速度は人間に勝る。

こんなことをいくらしても悪からは逃れられない。
土壌を1㎡舗装すると、1㎥(地下1m)辺りで微生物を含めおよそ1億匹の生物が死滅する。
天文学的な数の生物を殺して、その上を毎日歩いている。
どんな方便をひねり出しても悪からは逃れられない。影のように死ぬまで自分についてくる。

食の制限にせよ、殺生を忌避するよう努めるにせよ、そこに合理的な判断は介在のしようがない。
もとより正答はない。誰かが存在を保証する何物かが、赦しを与えてくれるわけでもない。
野孤禅だろうが何だろうが、自分で定めて自分でやるしかない。その先に何があるかは分からない。

「何故 奴がこれを体得するに到ったかを 考察することに意味はない
到底 合理的な道筋では たどり着けない場所だからだ
おそらくは 狂気にすら近い感情に 身を委ねたのだ」(『H×H』より)

合理的精神を突き詰めた先に、今日のシステムがあるのであれば、それ(システム)を覆すのに「理論」で以てすることは可能でしょうか?
私が技法(技法とは理論の上に成立するものですよね)というものに極めて懐疑的なのは、そういう理由があります。自分だけのための、自分にしか使えない技法というものならあり得ると考えますが。

何かまた下らない自分語りに終始してしまいましたが、傍観者の立場で語っても意味がないので、当事者として書いてみました。こんな風にしか語れない問題だとも思います。

>健全に発育した魂は負債感を負うようになる

愚樵さんのは、負債感なんでしょう。その負債感に対峙するためには、愚樵さんだけの何かを体得するしかないんじゃないんですかね? 少なくとも私のでは駄目なんじゃないですか。
私のは罪悪感です。それも魂が不健全に発育した上での罪悪感です。自分が健全だとは片時も思ったことはない。

リンク、ありがとうございました。

今回の記事は、すごく分かりやすかったです。
特に「窮乏感」。
面白いです、まだ自分で分かる・分からないの違いが分からない。 (^o^)

「生きて在る負い目」に関しては、例の「超越系」の「断絶感」とちょっとニュアンスが似ているのかもしれません。
面白いというか、不思議というか、ほかの動物も「殺生」はしますよね。
生きる必要から獲って食べるのとは別に、ネコは小動物をなぶり殺しにしたりしますし、犬(野犬)も食べないのにたくさん殺したりする(鶏とかです)。
けれど、おそらく彼らは「負い目」は感じてないんじゃないかと思います。
そのへんの差がなんなのか。

・平行連晶さん

合理的精神を突き詰めた先に、今日のシステムがあるのであれば、それ(システム)を覆すのに「理論」で以てすることは可能でしょうか?

可能かどうかはわかりません。ですが、可能性は閉ざされているわけではありません。

技法とは理論の上に成立するものですよね

その「定説」に私は懐疑的です。技法とは体得するものであり、そこから理論が生まれる。という流れだと思うのです。ですから、もし私が理論を組み立てるとするなら、それは私が体得した技法から組み立てることになる。

とはいえ、それが私個別のものにしかならないとは考えません。私は、ここには確固たる信仰に近いようなものがある。すなわち「人はみな同じ」です。個別であるということと、同じであるということは同根なんです。

思うに、技法というのは、そもそもが「生きるため」のもの。〈世界〉と関わるためのもの。そして〈世界〉と関わるというのは、「自己(≠自我)」を確立することでもある。どのような方法で確立されたにせよ、「自己」はみな、変わらない。「自己」がまとう衣装がかわるだけ。

愚樵さんのは、負債感なんでしょう。

確信をもっては言えませんが、この負債感は人類のプリミティブな感情だと思います。罪悪感は、負債感が改造されたもの。負債感を「自我」で受けとめると罪悪感になるのだと考えています。

・アキラさん、おはようございます。

「生きて在る負い目」に関しては、例の「超越系」の「断絶感」とちょっとニュアンスが似ているのかもしれません。

さすがにいい勘をしておられる。平行連晶さんへのコメントにも書きましたが、これは〈世界〉との関わり方、技法から出てくる問題でもある。そのあたりは、別の文章を構想していますので、そちらで。

ほかの動物も「殺生」はしますよね

本能的な衝動に駆られるのでしょうね。そういうときの彼らは、ある種の「機械」です。

ご存知の通り私は犬を飼っていますけど、彼らを見ていると「機械」というのがよくわかります。「スイッチ」が入るとどうしようもない。盲導犬のように徹底的に訓練されるとそうした「機械的」な部分は制圧されるのでしょうが、私が見る限りでは、それは彼らにはもの凄いストレスになっていますね。盲導犬の寿命が短いのも、腑に落ちます。

彼らは「負い目」は感じてない

たぶんチンパンジーでも感じないと思います。

「負い目」を感じることが出来るのは、私の言葉でいえば、〈霊〉を生成する能力を人間は持っているからです。〈霊〉とは他者の「像」ですが、その〈クオリティ〉が高く“生き生きとしている”から、「負い目」を感じてしまう。

ちょっと想像してみればわかりますが、たとえば、知り合いの訃報と、地球の裏側で多くの人が飢餓で死んだというニュースに同時に接したとします。どちらにより心を動かされるか、ということなんです。我々は知り合いについては、「器」の中に〈霊〉を保持しています。〈霊〉とは「器」の一部、つまり心の一部ですから、訃報に接すると〈霊〉が変化する。つまり心が変化する。けれども、〈霊〉を保持していなければ、その定数的な数量がいかに多かろうとも、心は変化しません。

「負い目」というのは、そうした心の変化のアーカイブから生成されるものなのだと考えます。

はじめまして、あなたのブログは
全然読んでも意味がわかりません
もっとわかりやすく書いてください

アッカンベ~

雑感です。

ただの雑感なので、暇な時に斜め読みで結構です。

>負債感を「自我」で受けとめると罪悪感になる

子供の頃、蝶や蜻蛉を殺したことがあります。虫を殺すのが好きだったわけではなく、友人たちと一緒に遊んでいて、その場の勢いで。羽をむしったりして、玩具にした。
この歳になっても、その記憶が罪悪感となって残っている。誰かに受け止めて貰うことが出来ないものとして、未だにずっと抱えている。

つい2~3日前でした。
昼食を摂るために小さな通りを歩いていたら、スジグロシロチョウ(かな?)が飛んでいました。
手を伸ばしたらふわっと逃げてしまい、路傍に植栽されている花に停まって蜜を吸いだした。
もう一度手を伸ばしたら、今度は逃げない。そのまま羽の縁に触れて、しばらく撫で続けてみたけれど、逃げずにじっとしていました。
今まではいつも、逃げられていました。「野生」の蝶が逃げずに触らせてくれたのは、生まれて初めての経験です。

その時、心の中で何かに赦されたような気持ちになりました。
そのように判断したのではなく、そのように感じた。

罪悪感は自我より生ずるもの、というのは、その通りかもしれませんね。依然として罪悪感を「認識」してはいる。
でも、自分が救われたという感覚が、心の別の部分にある。一匹の蝶が私を救ってくれたという感覚。
そんなことがあり得るのか、まだよく理解できないけれど。
愚樵さんとのやり取りを含め、一つの機縁というのかな、こんなことが起こるのが不思議な気がします。

・平行連晶さん

読みました。(^o^)

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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