愚慫空論

私が大飯原発再稼働に反対するただひとつの理由

私は脱原発派であり、大飯原発3,4号機の再稼働には反対している。

けれど100%反対、何がなんでも反対かと言われれば、そうでもない。
大飯ではなくても、どうしても原発を再稼働しなければならない理由があるのなら、やむを得ない場合もあるだろうと思っている。

それは想定外の緊急事態に陥ったとき。たとえば、首都圏が地震に見舞われて、多くの火力発電所が被害を被ったといったようなとき。中東で戦争が起き、あるいはユーロが崩壊した余波で、石油や石炭が輸入できなくなってしまったとき。

このような場合、国民生活を守るという観点から、原発を再稼働するということはあってもよいと考える。
逆にいうと、このような非常事態でもない限り、原発は再稼働すべきではないと考えているということだ。
もちろん安全性に問題があることは承知している。


原発を再稼働させてならないと考える理由は、経済である。
原発反対派が第一の理由に挙げる安全性の問題ではない。

推進派には、原発を動かさないと経済への悪影響が大きいという声が高い。
私はその意見には同意する。
そして、それだからこそ、原発の再稼働に反対する。

原発は今や、人の心を踏みにじる装置である。

今や、というのは正しくないだろう。原発は人の心を踏みにじらずには運転できない装置だ。
被曝労働なしでは運転できないという一点をとってみても、そのことは明らかだ。

しかし、かつてはそれ以上に「希望の装置」であった。
原子力は未来を切り拓く「夢のエネルギー」だと、多くの人が信じていた。

それはたとえ騙されていたからであるにせよ、希望が希望であったことに変わりはなく、
その希望に導かれて、多くの者が心を躍らせたことに間違いはない。

私はその「事実」は重いと思う。
だからこそ、希望が破れ、心を踏みにじる装置と化してしまった原発を動かしてはならないと考える。
まして経済を理由に稼働させるようなことがあってはならない。
そんなことをしてしまうと、経済が心を踏みにじるものになってしまう。

経済は、人間が生きるための必要なものである。
生きるために必要なことが、人の心を踏みにじるものになってしまう。
これは、この上なく不幸なことだ。

 ***

日本は「原発を止められない社会」になっている。
その理由は端的に、希望を経済の中へ組み入れてしまったからだ。

核燃料サイクルという構想があった。現在でもある。
これが希望の源泉である。

原子炉で燃やされた使用済み核燃料は、再処理され、高速増殖炉で再度、使用することが可能になる。
その燃料も、さらに再処理を施せば、また再び燃料となる。
つまり、燃料を無限に生み出すことが出来る。
まさに夢であり希望だ。

このような夢の構想に基づいて、青森県六ヶ所村に再処理工場が、福井には「もんじゅ」が建設された。
それが、現在は、両方ともダメダメ。技術を確立できる見通しが立たない。

にも関わらず、経済は、この「希望」をその中に組み込んでしまっている。
それは具体的には、使用済み核燃料は、廃棄に費用を要する負債ではなく、これから利益を生む資産として会計上は計上されている、ということだ。
だから、折れたはずの「希望」を捨てることが出来ない。

もし、この「希望」を捨てるとどうなるか。
電力会社はバランスシートが悪化して、倒産。その悪影響は関連の企業にも及び、経済全体のバランスシートが悪化する。

そうなると2009年のリーマンショックと、規模は小さいかもしれないが、同じような事態が起きる。
あの経済事件も、金融工学とやらで嘘の「希望」を経済のなかに繰り入れたことで起きた事件だったが、原因は違えど、同じことが起きる、というわけだ。

できることなら、避けたい事態ではある。

  ****

そうはいっても、現実に「希望」はもはや本当の希望ではない。
その虚構の「希望」を維持するために、破綻した「希望」が組み入れられた経済を維持するために、弱者の希望が奪われるという事態になっている。

3.11に福島で原発事故が起きた。
このために多くの人々が身の安全、財産、そして希望を失った。
大飯を再稼働させることとは、財産を守ることにはなるかもしれない。
少なくとも電力会社の収支はよくなるから、財産を奪われた人たちの補償はやりやすくなるかもしれない。
そのことで、多少の希望の回復は見られるかもしれない。

しかし、安全性は確保されていない。見切り発車である。このことはさらに多くの希望を損なうことになる。

身を危険に晒されることになる人々にとって、大飯が再稼働される理由は財産のため、つまり、狭い意味での経済の為だとしか理解できないし、事実そうであろう。
これは、少数の者の財産を守るために、多くの者を心を踏みにじるということだ。

もう少し具体的にいえば、電力会社が倒産することで不利益を被る者たちが、その利益を守るために、破綻した「希望」を維持し、多くの者の希望を奪うということ。そういった行為が経済的な理由とメカニズムによって実行されるということ。

そうしたときにこそ、経済とは別のメカニズムで動く政治の出番になるはずだ。
ところが政治は、破綻した「希望」を維持する選択をした。
つまり、多くの者の心を踏みつけることを選択した。

こんな暴挙を許すことなど、出来るはずがない。

私が大飯原発再稼働に反対するただひとつの理由。
それは、多くの人の心をシステマチックに踏みにじる行為だからである。

コメント

サヨっちっくに言うなら

そのとおり、異議なし!!

蛇足。

仰る通りなので敢えて付け加えることもないのですが、個人的には原発(が生成する放射性物質)に対しては「危険に対する構えが取れない」ことも、操業に対して反対する大きな理由です。

(天災に対して)「正しく怖がることが大切」と言ったのは確か寺田寅彦だったと思いますが、およそ生物というものは身に迫る危険を察知し、その度合いを測り、対処(退避)するメカニズムを備えています。
けれども放射性物質は、その大半が地球上に生命が誕生する以前に退場してしまった「旧き者達」ですので、生物はこれらの危険性を把握する能力を持たない。

チェルノブイリの「赤い森」は線量の高さが原因で鳥獣や昆虫が大量死して一時的に淘汰圧が減少し、外部から新たな生物が流入しましたが、燕などは現在も発達異常・畸形が多発しているとの由。
その危険性を感じ取ることが出来ないために、淘汰圧の低さが優先されてしまう。
「構え」が取れない。

「構え」が取れないからこそ、件のフクイチの事故でも被災者がより高線量の地域に避難するという悲劇が起こってしまったわけで……。
自動車事故であるとか、火災による延焼や有毒物質の揮発等々と本質的に異なるのは、危険であることよりも、どれだけ、そしてどのように危険なのかが感覚で捉えられないことだと思うのです。

17日は福井に行ってました。
記事に書かれた立場から、実際に雨の土曜日の午前、官邸前に立たれた愚樵さんに敬意と連帯の意を表します。
連帯ってw
まあ、でもそういうこと。ツイート読んで嬉しかったっす。
意思表示していきましょう。

では、ウヨちっくにいうと?

毒多さん、おはようございます。賛同、ありがとうございます。

で、と。問題は「ウヨちっく」です。こういう場合、どう言うんだろ? 君が代斉唱?

「構え」

・平行連晶さん、おはようございます。

お言葉ですが、私は「構え」は取れると思っているのです。

危険性を感覚できないがゆえに「構え」が取れないというのは、仰るとおりで、異議なし! です。
また、ガイガーカウンターなどの機器を使用して「構え」を取るというのとも違います。

おそらく今後徐々に、放射線被曝、それも低線量の影響が広がってくるでしょう。疾病率の増加といった形で。ただし、これも明確に感覚できるレベルになるかどうかは疑問です。たとえば、現在日本は自殺者が年3万人、あるいはそれ以上に発生していますが、日常生活のなかでそれを感知することはまずありません。

自殺に関していうと、感知できないから「構え」を取れない、つまりなかなか有効な対策が打てないというのがあります。ですが、私に言わせれば、それは「構え」の取り方が間違っている。現在の日本社会では多くの者が、物質的には満たされていながら、精神的には満たされていない。つまり幸せではない。ここのところが自殺を生むベースになっているはずであり、そこを知覚して「構え」を取るなら、事態は変わってくる。

幸せではないという知覚は、多くの者が共有しているところです。

放射能の危険性への「構え」も、私はこれと同じだと思っています。幸せになればいい。いえ、なるしかない。

多少病気を患っても、それで不幸だとは限りません。乗り越えようはいくらもある。それこそ「構え」の問題です。もはや、そういったいわゆる精神論のようなものでしか、これから先は乗り切っていけない。これはある意味不幸なことではありますが、別の角度からみれば、幸せへの道です。

頭数

・なめぴょん師匠、おはようございます。

そうですか。師匠は福井へ。私もできれば福井へ行きたかったのですが。

先週土曜日は、もともと上京の予定ではあったのです。
国会図書館へ行くつもりだったんですけど、そちらはキャンセルで官邸前。
そのくらい、当然です。

実は、その一週間前の8日にも官邸前へは行っていたんですよ。

今週はさすがに行けるかどうかはわかりませんが、また行きたいと思っています。

ところで、ツイートといえば、師匠の「頭数でいい」。リツイートさせてもらいましたが、これは響きました。(^o^)v そう、なにより頭数が大事。

あとは、地元議員への働きかけですね。これもやってみます。

「構え」の対象を捉え直すということ。

>そこを知覚して「構え」を取るなら、事態は変わってくる

仰ることは私なりに理解できていると思います(でもないか?)。さしずめ…原発の操業を受容させているものにフォーカスして、それに対する「構え」を取るということでしょうか。
「不幸に対する恐れ」。不幸を恐れることで、異質でより悪質な不幸に嵌り込んで行くという現象。

いま読んでいる坂手洋二の『普天間』という戯曲に「人間て、自分の痛いところや、都合の悪いところは、そう感じずにすむように、だんだん鈍感になっていくものなの」という台詞が出てきます。
『カムイ外伝』に、カムイが天人を殺した理由を「無い希望を与え、奪った」ためだと述懐する下りがありましたが、こういう類の不幸に対して人は次第に麻痺し、鈍感になってしまうんですよね。
「部屋の中の象」です。
本質的な問題を棚上げして、気休めの言葉で覆い隠して昨日と同じ今日を、そして明日を生きなさいと強いられることはこの上なく不幸なんだけれども、それに馴れて不幸と感じられなくなる。
更に悪いことに、他者を己と同じ不幸の中に取り込み縛りつけようとさえする。己が強いられているものを他者に強いる。いつの間にか、不幸に対する「構え」を喪失してしまう。

愚樵さんの思想の根本には、その「構え」を取り戻そうという意志が感じられます。
私と愚樵さんでは、根源的な人間観が異なっているのでその方法論みたいなところに違いがあると思いますが、その「意志」の部分では繋がっているように感じられます。私の単なる勘違いかも知れませんが。

話変わります。
私が鉱物を好むことは以前書きました。紫水晶という鉱物があります。
紫水晶特有の「色彩」を生み出すのは、母岩に含まれる微量の放射性物質の働きだそうです。
それが判明するには、20世紀末まで待たねばならなかった。

自然は放射性物質の力を借りて、こういう霊妙で美しいものを創り出せる。
人間はなかなか、自然のように巧みに洗練された技を行えないものですね。
あと、特に返信は要りません。愚樵さんは私に対して時間を使うべきではない。私はその時の気分で書きたいことを書いているだけの居候ですので。

ノンポリちっくにいうと…

「政策決定の前提が知りたい」と思います…その決定はどのような思考により、どのような経緯を経たのかがしりたいです…んなこたぁ私だけが知りたいのかも…再稼働の政策が何を目的とし、それをどのように実現するのかを示す政策理念が知りたい…そこには、国家が追求すべき「国民の安全と生存の保持」がどのように関わってるのか…ってことをいうから、嫌われるんだ私は…と自嘲気味に…功利主義なのか…なわけないか…帰結主義なのか…つうか、アローの不可能性定理の典型とも思える政策課題を…すべての状況に適用可能な望ましい社会的意思決定ルールは存在しない…どのように克服したのか…したように見える?…それともポーズ…そこんところが謎…

・sv400s_dracinさん。

政策決定の前提なんて、ないと思います。

政策というのは、「価値的な方向付け」を実行に移すということですよね。sv400s_dracinさんが知りたいと仰る「前提」とは、政策を決定に至らしめた「価値」のことでしょう。

では、その「価値」についての議論がなされたか。まったく為されていませんね。

例えば小沢一郎は「国民生活が第一」という。ここには価値判断がなされている。

野田は、先の大飯原発再稼働へ向けての国民の説明のなかで「国民生活」という言葉をつかった。が、ここには内田樹が指摘したように二つの側面があって、それは1.国民の安全 2.国民経済の安定。政策としては2.を優先したという「形」だけれども、それを明言したわけではない。つまりは野田に取ってみれば「国民生活」は単なるエクスキューズに過ぎず、そこに「価値」はない、ということです。

では、どこのその「価値」があるのか。おそらく彼らはそれを議論していない。その価値は「空気」によって決定されている。ですから、そもそもsv400s_dracinさんのような議論は、彼らにとっては無効なんです。彼らの言葉には意味がない。彼らの言葉は、本来の「価値」を隠蔽するためだけのものです。

それで電力供給は?

大飯原発再稼働に反対するのはいいけど、単にそれだけを主張するのはよくない。

「原発を稼働しなくても、電力は大丈夫」ということを、データを示して提示するとか、「電力不足を耐え忍ぼう」と住民に対して覚悟を要求するとか、そうした類のコメントをつけて述べなければ、「電力が不足してもいいの?」という疑問に対する責任ある態度にはならない。

>推進派には、原発を動かさないと経済への悪影響が大きいという声が高い。~生きるために必要なことが、人の心を踏みにじるものになってしまう。これは、この上なく不幸なことだ。

この発言はいただけない。
「生きるために必要なことが、人の心を踏みにじるものになってしまう」ということで、「経済を理由に再稼働させてはならない」というならば、人々の経済活動を何によって担保すべきだと思考しているのか、はっきりいってわからない。
何も、原発でなければならないということはないが、こんな、大多数の人を納得できないような理由をもって、原発再稼働に反対というのは、「愚樵氏は、自分のマスターベーションのために、生きるために必要な活動を否定したいのか?」と思われても仕方がない。

そのことに注意を願いたいものだ。

・わくわくさん、お久しぶりです。

拙文をよく読み込んで頂けたようで、ありがとうございます。

人々の経済活動を何によって担保すべきだと思考しているのか、はっきりいってわからない。

まったく仰るとおりです。なぜならば、そのことを考えてみたい、と思っているからです。

いや、考えてみたいのではない。私はずっと考え続けてきたのです。でも、このような問題は、すぐにこれだ、といって明確な回答を提示できるような問題ではない。この社会を現に動かしている原理原則に異議を唱え、それとは異なる原理原則を提示しようというのですから、当たり前です。

その程度のことは、ご理解頂けますよね?

「愚樵氏は、自分のマスターベーションのために、生きるために必要な活動を否定したいのか?」と思われても仕方がない。

いやいや、これも仰るとおり。なんといっても「異なる原理原則」ですから。「現に動いている原理原則」からみれば、空想であり、マスタベーションと見えるのは致し方がない。

が、だからといって、それが「現に動いている原理原則」が“合歓”になっているいうことは意味しない。

わくわくさん、いつものことですが、あなたの論理は「都合の良いもの」

まず先に「現に動いている原理原則」が“合歓”でないという「現実」がある。それを感じるからこそ、“合歓”を求めて、“マスタベーション”と見えかねないことを追究する。

私だって“合歓”を好みます。“合歓”を求め、それが得られないから“マスタべーション”を行なうのです。“合歓”を求めて。

それを“マスタベーション”しているという所だけを切り取って見て、“オマエは変態だ”というのが、わくわくさんの論です。わくわくさんにとって「都合の良い」ものです。

そういう論の組み立て方は、組み立てた人間の人間性が疑われますから、止めた方がいいですよ。

話をずらすな

>まず先に「現に動いている原理原則」が“合歓”でないという「現実」がある。それを感じるからこそ、“合歓”を求めて、“マスタベーション”と見えかねないことを追究する。
>私だって“合歓”を好みます。“合歓”を求め、それが得られないから“マスタべーション”を行なうのです。“合歓”を求めて。

このあたりが、君の悪いところ。
私は「生活」「豊かさ」という大多数の人々の「現実」を論じているのだ。
これを「合歓」という言葉ですり替え、正当化し、そして、発言に対する責任をとらない思考と感情にこそ、君のマスターベーションが批判される原因がある。

>そういう論の組み立て方は、組み立てた人間の人間性が疑われますから、止めた方がいいですよ。

君が私に対して、そのようなことを思考する権利も資格も自由もない。そっくりそのまま自分自身を戒めよ。

私はこれでもいろいろと忙しいんだよ。マスタベーションに。

あんたと遊んでいるヒマはない。引っ込め。

クレーマー並のコメントですみません。

>原発は人の心を踏みにじらずには運転できない装置だ。
被曝労働なしでは運転できないという一点をとってみても、そのことは明らかだ。

原発の従業員は常に被曝労働を強いられているということでしょうか?
それは健康被害が懸念されるほどの被曝量なのでしょうか?
普通の生活よりも被爆量が多いということであれば、
パイロットや宇宙船の乗組員は被曝労働をしているといえるし、
海外出張の多い人は相当被曝していると考えられます。
海外出張を頻繁に行っている会社は原発と同じく非難されるべき存在であると思いますが。

・nobuさん

心を踏みにじるという観点から考えていただきたいです。

パイロットや宇宙船の乗組員は被曝労働をしているといえるし

彼らは社会からその心を踏みにじられているでしょうか? 
彼らのは名誉が与えられていないでしょうか?

原発の被曝労働者に与えられているものはなんでしょう?
確かに現在は、福島第一で作業中の方々には一定のリスペクトがあります。
が、それが彼らの将来の生活の安定に結びついているでしょうか。

もしそうであるなら、福島には勤務希望者が殺到するはずです。

クレームの続きです

>心を踏みにじるという観点から考えていただきたいです。

心を踏みにじっているのは偏見を持った社会です。
原発の「被曝」労働者という言い方が社会の(愚樵さんの)偏見を物語っているのではないですか?愚樵さんは航空会社の被曝パイロットと言いますか?

それはすり替え

・nobuさん。おはようございます。

ではお聞きしますが、航空機パイロットには被曝線量の管理が義務づけられているんですか?

踏みにじられるのは誰の心か?

愚樵さん、おはようございます、

大分日数が立ってしまってからのコメントをお詫びいたします。旅立つ前にお約束してから、私なりにあがいてきました。

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20120625/1340653856

安冨先生の「優先順位」にもコメントいただきありがございます。ここにお互いに合意できるということは、立ち位置はそれほど違わないのだと思います。

一点だけ。原子力に依存しないとすると、石油石炭に大きく依存することになります。石油は採掘と輸送において大きなリスクをはらんでいることは、昨年だったかのメキシコ湾に事故を見てもご理解いただけると思います。また、石炭の採掘は非常に過酷なものです。多くの犠牲者を出しています。いずれも、日本の国外なので私たちの目には直接触れ難く、福島第一原発の方がクローズアップされてしまうのは仕方がないのかもしれません。以外ですが、小説の「団塊の世代」に21世紀になっても石油依存社会であった場合の日本の悲惨さが如実に描かれていました。一読にあたいします。

たぶん、現在の生活水準を大幅に落とす事以外に、「踏みにじられる心」を減らす方法はないでしょう。それでいいのかという問題が残ります。

私は経済人として、経済が回らなくなれば即死する立場の人間です。人の心を踏みにじられないために経済を回らなくさせることは、自分のふるさとの発展繁栄を目的とする自分の存在を否定することになります。

そう遠くない将来に、新しい技術などにより原発への依存度をさげることは可能だと私は思っています。愚樵さんからすれば、それこそが「パンドラのむなしい希望」なのかもしれませんが。

すみません、まだ書きたいのですが仕事がおっかけてきています。後ほど。

撤退戦が始まるか否か

ひできさん、精力的な反論をありがとうございます。もちろん、そちらのブログ記事も拝見させてもらいました。

たぶん、現在の生活水準を大幅に落とす事以外に、

少し言い方を変えさせてもらいますが、現在のエネルギー消費水準を大幅に落とす以外に解決策はないでしょう。それはおそらくGDPのような数値で換算したときには、現在の生活水準を大幅に落とすことになるでしょう。原発を廃止するのは「繁栄からの撤退戦」の第一歩。大飯の再稼働にこだわるのが、それが始まるか否かだからです。

(その点で安冨先生の「関ヶ原」という表現には同調しません)

私たちが依存すべきは、私たち自身です。夢のエネルギーでも海外のエネルギー資源でもありません。それは、今この段階では絵空事かもしれません。しかし、それは承知の上で、敢えてそう言いたい。私たちは私たち自身に依存するところへ撤退しなければならない。

それが絵空事だとされる理由は、

私は経済人として、経済が回らなくなれば即死する立場の人間です。

でしょう。それは何もひできさんだけではない。福井で原発の危険に怯えながら反対できない理由、あるいは放射線被曝の不安に怯えながらも福島を去ることが出来ない理由。おそらく大半はこれでしょう。それゆえに、このような経済の在り方を変えていかなければならない。これもまた「撤退戦」です。

実は私は、大飯原発再稼働に100%反対ではありません。0.5%、つまり条件が整えば、私自身は賛成はしないまでも容認はできると考えている。条件が整えば賛成が1%だとすると、消極的容認ですからその半分。それは、宮台氏がいうような「原発を止められる社会」になるならば、です。原発を止められる社会であって、なおかつ緊急避難的に原発を動かすのは仕方がないかもしれない。ですが、今回の再稼働はそうではない。「原発を止められない社会」を止めないための再稼働。

宮台氏と言えば、6/9のマル激に出演した山名京大名誉教授が面白いことを言っていました。それは原発は「半国産エネルギー」。擬似的に自国産エネルギーと見なすことができ、対外的には高い安全保障効果があるということ。非常に高い備蓄効果。地政学リスクの低さ。シーレーン依存の低さ。化石燃料の場合は、その費用の95%が海外への支払いになるが、ウランの場合はわずかで、そのほとんどが国内での処理の費用であるという事。

しかし私はこれを聞いて、ますます原子力は止めなければならないと思いました。というのはです。「心を踏みにじる」という観点から見れば、国内でコストを掛けて処理している分だけ、自国民が自国民の踏みにじっているということになるからです。こんな事態が続けば国が内部崩壊してしまう。

ここ数十年で日本が弱体化してきたのにはいろいろと理由があります。外的な要因もあるでしょうが、その多くは内的な原因。この認識はひできさんも同意して頂けると思います。外的な圧力が強くても国がまとまっていれば、たとえ貧しさを強いられることになっても国は保ちます。しかし、内部から崩壊したのではどうしようもありません。原発が「心を踏みにじる」ということは、すなわち国を、国民の内心の部分から崩壊させていっているということです。そんなものは断じて認めるわけにはいかない。

私は日本人です。だから日本人を信じたい。ゆえに、日本人同士の信頼をかき乱すものを容認できません。絵空事を現実にしていくのは、信頼です。

遅くなりました

>ではお聞きしますが、航空機パイロットには被曝線量の管理が義務づけられているんですか?

なぜこのような質問をされるのかわかりません。
管理義務はないかもしれませんが、管理目標はあるので通常の仕事よりも被曝量が多い(しかもそれが防げない)職種であることに変わりはないでしょう。宇宙船の乗務員も更に多くの放射線を受けていると思いますが、「被曝」船員とは言わないでしょう。なぜ電力を供給する仕事に就いている人のみ「被曝」労働者と呼ぶのでしょう。

Re:遅くなりました

・nobuさん、こちらこそ遅くなりました。

意味がわからないとおっしゃるので、説明します。簡単な話です。

社会によってそのように認められているからです。認められているから被曝量を管理しなければならないと法によって定められている。

付け加えますと。確かに私は“被曝労働者”を“被曝(を強いられる)労働者”のニュアンスで読んでいます。nobuさんもそう読まれているのでしょう。そして、そう読む私を批判している。

が、それは問題のすり替えです。問題は私がそう捉えることではなく、労働者当人がそう捉えるかどうか。それが心を踏みにじられているかどうか、です。

被曝を避けられない原発作業従事者にも2つに大別できると考えます。それは、管理する側と管理される側。被曝を管理できる者と管理される者。もっと言えば、被曝することと引き替えに報酬を得る者。

飛行機にパイロットや宇宙飛行士は、被曝と引き替えにその報酬を得ているわけではないでしょう。その仕事場がそういう環境である。つまり二次的です。対して私が“被曝労働者”と呼ぶ人たちは、そのような環境に入ることがまず第一。だから被曝を管理される。

nobuさんに子どもがおられるかどうかは知りませんが、我が子が就業する職業として考えてみればよいろしいでしょう。被曝と引き替えに報酬を得るような労働に我が子を就かせたいかどうか。

やっぱりよくわかりません。

原発作業員は「被曝」の対価として報酬を得ているのですか?電力供給の仕事の対価として報酬を得ているのだと思っていますが。その仕事場が被曝量を管理しなければならない場所であるという意味で航空機の乗務員と同じだと考えられるのですが。また仕事の内容が「被曝」に十分注意しなければならないという意味で放射線技師なども「被曝」のリスクを伴った仕事であると思います。

>被曝と引き替えに報酬を得るような労働に我が子を就かせたいかどうか。
これは被曝に限りませんね。自衛隊もそうでしょうし、戦場カメラマンもそうでしょう。それこそ樵も危険を伴う仕事ではないですか?もしかすると原発よりも死者が出る職場では?

わかりたくないのでしょう

・nobuさん。

電力供給の仕事の対価として報酬を得ているのだと思っていますが。

お気づきになりませんか。そういう論理は、国が国民を兵士として戦場へやるときの論理と同型だということに。被曝労働(兵士として従軍)は、電力供給(国益)のために、生身の身体を危険に晒すということ。だからこそ被曝の対価として報酬を得ているというのです。

いわゆる被曝労働者が実際に行なう作業そのものは、もし放射能がなければ、大したものでないことも多い。放射能があるがゆえに、たいそうな防護服を着て、線量計をつけ、被曝を気にしながら作業をしなければならず、それでも累積が規定を超えたらもう作業ができなくなる。放射能のない場所で、技術者がその技能を振うというのなら、それは純粋に電力供給のためといえるでしょう。が、その十全な発揮を放射能という環境によって阻まれる。この状態は、大義名分はどうであれ、被曝をしに作業をしているのと同じです。

この「同じ」ということを理解できなければ、nobuさんと私の議論とが噛み合うことはないでしょう。

もしかすると原発よりも死者が出る職場では?

その通りかもしれませんね。で、そういうnobuさんはいったい、どういう仕事をされおられる? あなたの言い草からすれば、安全なところに身を置いているように思えてしまいますが?

いずれにせよnobuさんは、危険なところへ身を置くというのがどのようなことかを理解していないし、理解しようというつもりもないようです。あなたの論理は、主観的に感じられる危険を客観的なものへと置き換えるもの。そんなものに、実際に危険に身をさらしている人間が納得出来るはずがない。

そんなことすら理解できないのであれば、もはや私はあなたと対話する意味を見いだせません。

追記

nobuさんが冷静な議論を望んでいるのだということは理解します。

しかし、その「冷静」が主観を排除するということで成り立つのなら、私はその「冷静」そのものを攻撃します。そんな「冷静」は実際にはなんの役にも立ちませんので。

最後に

私が知りたいのは、職場のリスクは沢山あるのになぜ放射線のみ取り上げるのかということです。単純労働であっても長時間続けば過労死のおそれもある。問題は放射線の有無ではなく労働者の安全が確保されているかどうかでしょう。(安全が確保されている兵士というのは想像できないので兵士と原発作業員を同型と語ることには同意できません)

簡単な話がわからない

・nobuさん

簡単な話。放射能が最大のリスクであり障害だから。どんな職場にもリスクはある。それは普通のこと。が、放射能があると、何でもないリスクがとんでもないリスクになったりする。

そんなことも理解できないあなたに、兵士と原発作業員との「同型」が理解できるはずもあるまい。

すみません追伸ということで

>放射能が最大のリスクであり障害だから。
と主張されるのであれば緊急時でも再稼動はだめでしょう。緊急時のみ稼動させることを許容するということはそれこそ原発作業員に兵士のごとくお国のために働けと言っているようなものでしょう?愚樵さんが被曝労働者と呼ぶ人たちをそんなに都合よくあなたは利用するつもりなんですか?

>何でもないリスクがとんでもないリスクになったりする。
だから私は原発は廃止すべきだと考えています。(除々に別の電源にシフトするべきだと考えているので急な原発停止には反対なのですが)だからといって原発で働いている人を「被曝」労働者というつもりはないし、あのフランスでも稼動している原発の従事者の安全が確保されていないとは思いません。(もちろんその前提が間違っているのであれば私のこれまでコメントはすべて撤回します)

その批判は当たっています

・nobuさん

>>放射能が最大のリスクであり障害だから。
と主張されるのであれば緊急時でも再稼動はだめでしょう。

この批判は当たっています。ですが撤回しません。

それこそ原発作業員に兵士のごとくお国のために働けと言っている

いいえ。「働けと言う(命令する)」ではないのです。お願いをするのです。

いずれにしても、私たちはこれから誰かに被曝労働をお願いしていかなければなりません。nobuさんも(私は誤解していましたが)原発は廃止すべきだと考えておられる。廃炉の方がより被曝の危険が高いといわれる。それを誰かに「押しつける」のではなく、「お願い」しなければならない。

nobuさんは、私がなぜ「心を踏みにじる」という個々人のの内心の問題を唯一の反対の理由に取り上げたのか、その理由をまったく理解していません。ご存知の通り、私は一般と比較して危険な職業に従事しています。にも関わらず、収入でいえば一般平均の半分にも満たない。それでも続けるのは、私の内心に理由があるからです。そういう私だから、内心を問題にしているのです。

ついでに申し上げておきますと、私自身は将来、「被曝労働者」になっても構わないと考えています。もし仮に「福島神社」のようなものが創建されるとしたなら、その事業に従事してもいい。ですが、何もなかったかの如く隠蔽するためであれば、どれほどの収入を約束されようとも「被曝労働者」になることはありません。

私が緊急時の原発稼働を容認するのは(あくまで「私が」です)、それが緊急時だという認識があるからです。緊急時ということは選択肢がないということ。政府や電力会社が脅迫する停電とは次元が異なります。今の社会で電気が止れば生命が危機に晒される人たちは間違いなくいる。脅しではなく、本当にそういった危険があるのなら(社会の)優先順位を考えればやむを得ないでしょう。

ですが、今、行なわれているのは、そうした人たちの生命を盾にとって、自己の私益を確保するための欺瞞です。そうした欺瞞を知りながら、つまり心を踏みにじられながら、日々の糧を得るために被曝の報酬として収入を得るしかない、社会の構造。原発を止められない社会

こんなものを容認できるはずがない。だから、直ちに原発はすべて停止せよと主張する。

nobuさん。外形的な基準を都合良く振り回しているのは、あなたの方です。

いい加減きつくなってきたので本当に最後にします。

「内心」について引っかかることがあったのでちょっと噛み付いてみました。
「内心」とおっしゃっていますが、肝心の原発労働者の「内心」の声を聞いたことがないということ、誇りを持って働いている方がいれば、その方を侮辱することになるのではないかという懸念です。実際に原発で働いている人がいるわけで「あなた心が踏みにじられていますよ」って言えないなあということです。

でいろいろ話をこねくり回したわけですが、
構造的に「そうした人たちの生命を盾にとって、自己の私益を確保するための欺瞞です。そうした欺瞞を知りながら、つまり心を踏みにじられながら、日々の糧を得るために被曝の報酬として収入を得るしかない、社会の構造。原発を止められない社会」という現実がある以上原発は廃止していくしかない施設であるということに同意できます。

しかしそれでは緊急の場合稼動せざるおえない(ここは愚樵さんと緊急の受け止め方が違いますいますが-私は今年の夏も気温の状況によっては危機的かもしれないと考えている-なので夏以降も稼動させるつもりの政府も信用していない)となると個人的に後ろめたさというものが付きまとってきますけど。

あとちょっと付け足すと、
ヒステリックに原発停止を叫んでいる人がどれだけ廃炉時の危険性や燃料の処分など問題山積みなのをちゃんと理解しているのかなということ、電力不足に陥ったときの対処(急に原発を稼動したところですぐさま電力供給ができるようになるわけではないでしょう)を考えているのかということ、どうもこちらも信用できないんですね。

最初のコメントにも書きましたが、クレーマーのようなコメントに付き合っていただいてありがとうございます。
すみませんでした。

クレーマーよりひどい

だんだんとコメント内容が酷くなっていく。呆れたもんだ。

「内心」について引っかかることがあったので

何が引っかかったのか、自身の内心を語りなさい。

肝心の原発労働者の「内心」の声を聞いたことがないということ

それはそうだ。だから、私は私の心情を重ね合わせて語っている。それを自分は傍観者の立場で、何が「内心」について引っかかった? 欺瞞の言葉を吐くのはやめなさい。

まあ、それであなたは良心的なつもりなんでしょうが。私からは卑怯者にしか見えません。

もうおいで下さらなくて、結構です。

こんにちわ^^
素敵なブログですね。
私は日々の興味ある情報をつづってます。
よかったら覗きに来てください^0^

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