愚慫空論

魂の経済学

魂にも経済があるはずだ、と考えてみた。


  定義1:魂とは生命の本来的運動である。

という話は、以前に何度も取り上げた。ここから経済学を構想してみる。

経済学の基礎は価値説だ。マル経なら労働価値説。近経なら(そうはいわないけど)貨幣価値説。

  定義2:魂がその運動を維持するために消費するリソースを〈価値〉と定義する。

魂は運動である。だとするなら入力と出力とがあるはずで、その入出力を〈価値〉と定義してみれば経済学になるんじゃないの? という安直な発想。

で。魂の運動には、物的な側面と精神的な側面とがある。魂は、物的あるいは精神的な価値を消費することで、維持される。

魂の運動の維持ということを身体においてみてみる。魂の物的側面は、端的に身体だから。身体は、日々食物を摂取し、新陳代謝を行なって身体を維持している。なので、身体にとって食物は〈価値〉ということになる。

また、長期的に見れば、身体は発育する。子どもは魂の運動にそって大人へと身体の量が増大する。客観的な数値で測定すれば身長・体重の増加。また老齢期に縮小ということも起きる。これらの現象は、客観的にみれば「変化」であるが、それが魂の運動であるなら、「維持」だと考えることができる。自然な「変化」を阻害することは同時に「維持」を阻害することになる。

精神的側面についても同様のはずだ。人間の魂の精神的側面が維持されるには経験や知識が必要であり、これらが魂にとっての〈価値〉になる。物的価値も精神的価値も、魂にとっては同等に〈価値〉だとする。

  定義3:〈価値〉を生み出すことを〈労働〉と定義する。

運動である魂に必要な入力を〈価値〉と定義したので、次は出力の定義。魂からの出力は、それが魂が需要する〈価値〉と繋がったとき経済運動になる。〈価値〉につながる出力を〈労働〉と定義するのは合理的だろう。

魂の一側面である身体を維持するために必要なリソースである食料を生み出す行為を〈労働〉と呼ぶ。これは一般の常識からしても違和感はなかろう。

魂の一側面である精神(心)を維持するために必要なリソースである知識や経験を生み出す行為もまた、〈労働〉。こちらだってそう違和感はないはずだ。

けれども、〈価値〉の主体を魂においてみると、一般的には〈価値〉とみなされないこと――道徳や倫理の範疇とされていること――も経済の領域で考えることができるようになる。例えば、赤ん坊の〈労働〉。

従来の一般的な経済的常識からすれば、赤ん坊は消費するだけで、なんら価値を生み出すことをしない。価値生産能力はないとみなされる。しかし、いずれ成長すると生産能力を備えることとなり、経済活動に参画する。つまり、未来の労働者だということ。経済における「現在」と「未来」のギャップを、通常は道徳、倫理と呼ばれるものでカバーしている。

しかし、魂の観点から見れば、赤ん坊はその存在そのものが〈価値〉である。赤ん坊が要求する物的なリソースを供給することが、親の魂の精神的な側面での〈価値〉になる。子どもを育むという経験が、親の魂を運動を維持するリソースになっている。

親の魂は、は赤ん坊から育児てという〈価値〉を供給され消費することで、育児という〈労働〉を出力する。赤ん坊という剥き出しの魂は、親から食料という〈価値〉を供給され消費することで、赤ん坊という〈労働〉を出力する。つまり剥き出しの魂は、存在そのものが〈労働〉である。

  定義4:「価値」と「労働」との媒体が、「愛情」である。

労働価値説における価値の源泉は自然だ。労働とは自然から価値を生み出す行為である。つまり自然という価値と人間が必要とする価値との媒体が労働であるから、その労働に価値を主体をおく、という考え方(だと思う)。

一方、貨幣価値説の価値の源泉は、人間自身の欲望である。欲望が貨幣を媒介にして価値を生み出すと考える。なので、価値主体は媒介である貨幣になる。

魂の経済学においては、〈価値〉の源泉は魂にある。魂が〈価値〉を需要し、それが〈労働〉となって供給される。この媒体になるのが愛情だ。媒体である愛情が上手く作動しないと、〈価値〉と〈労働〉の経済が上手く機能しない。それは貨幣経済において、通貨がうまく機能しないと経済が機能しなくなるのと同様のこと。

つまり魂の経済学は、愛情価値説の経済学だと言える。

  疑問:果てして魂の経済学は成立するのか?

笑うなかれ。私は大まじめだ。(というと、嗤われそうだが。)

経済学が計測できる価値に基づかないと構築できないとするならば、愛情を媒体/価値とする魂の経済学は成立しない。愛情は計測不可能だからだ。

現代社会において、経済学は重要な学問だとみなされている。が、一方で、経済学はまるで役に立たないという世評もある。こうしたギャップが生まれる理由は簡単。経済は人間の活動だが、人間は常に計測できる合理的な媒体に依拠して活動しているわけではないからだ。現代の経済学は、人間の不合理性をも取り込もうとしているようではある。

が、そもそも「不合理性」というのが欺瞞言語だ。人間の本性は計測不能。「不合理性」というと、計測可能なことが人間の本性のように聞えるが、それは逆さまである。なので、合理性を中心に据えなければ成立ない経済学は、非人間的なものにしかならない。

だから、人間的な経済学を構想するならば、不合理性を中心に据えなければならない。愛情がはたしてその「中心」に適しているか? 私はそう直観するが、あくまで直観でしかない。

コメント

魂の経済学

すばらしいです!

いまとっても必要な「経済学」ですよね。

「生きるための論語」を読んでいます。とてもとても気づかされます。

「自己反省」というすりきれたような言葉に新しい意味がふきこまれる瞬間がありました。

これからも勉強させてください。ご指導ください。

合理性・不合理性

おはようございます!目の怪我を心配していましたが、絶好調?ですね~~
魂の経済学、すばらしい。
私の場合、合理性そのものを、本当は呪縛されない「魂の合理性」と解釈したいと考えています。

狭義の「合理性」(経済学がしばしば扱うところの)最適解といったものはすべて何らかのフレーミング
「箱」を必要とし、その「前提」(「箱」)のなかでの最適化が計算で求められる。その結果、「枠」ないし「箱」
の外の可能性や、箱の外の要素、あるいは箱の外に追いやられる不合理性を「見えないこと」にする。

そのあたり、来週火曜日急きょ阪大にきて話をしていただくことになった九州大学の古賀徹先生の「志向性」の外に押しやられるものを「見えないこと」にする、という欺瞞という概念が示唆的です。ツイートでも流しましたが。
http://kogatoru.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2011/01/hakibutu.pdf
「廃棄物の論理学のために」

これが、原発問題を支える欺瞞と東大話法の最大の根拠。
あらかじめフレーミングしておいて、あたかもそれが普遍的真理、科学であるかのように言いくるめる、ないしは
認識する。(そもそも「科学的手法」というのは必ず何らかのフレーミングを手続きとして踏んでいる)

真の合理性というのは「天の理」のようなもので、フレーミングと相いれない。
魂の合理性と「切り取られた箱の中でのかりそめの合理性」をきっちり区別することにより、
問題点が浮かび上がるのではないかと、、。

その意味で、私の場合、魂は「不条理ではありえない」という、前提を置くことになります。
朝から愚樵さんの論考に触発されて、いっぱい書いてしまいました、、、。

ひできさん

・ひできさん、コメントをありがとうございます。

私の方こそ、ひできさんからは勉強させてもらっています。ひできさんのブログでキャッチアップされた書物などを、後追いしていることが多いです。最近では、ジェイン・ジェイコブズなど。

ジェイコブズの読書がなければ、おそらくこの発想もなかったろうと思います。

魂の合理性

・深尾先生、おはようございます。

怪我の方は全然大丈夫です。怪我そのものの方は。どうも他の部分に影響が出てきているようなんですが...、まあ、それはさておき。

「魂の合理性」ですか。それは考えを詰めてみたいですね。

魂の合理性と「切り取られた箱の中でのかりそめの合理性」をきっちり区別すること

前エントリーでも取り上げた「媒介形式」。この問題についての私の切り口です。切り口になっていると思います。

「廃棄物の論理学のために」も読ませて頂きます。ご紹介、多謝です。

面白かったです!
前エントリーの「媒介形式」は、またしても僕にはスッと入ってこず、今ひとつ???でした。 (^_^;)
facebookのコメント欄でのやりとりでは、あんなにスルッと分かったのに。
僕の中でのそのへんのギャップが面白いなぁと思ってます。

経済学も、こういう説明だと基本的なところがとてもよく分かります。
人間というのは、どうしても「合理性」というものを考えてしまう生き物なのかな?と思います。
で、「魂の合理性」なるものを想定してしまうと、なんかきっと「唯一絶対神的真実」みたいなとこに引き寄せられていってしまいそうな気もします。

思考をしているのは人間なのですから、合理性というのはあくまでも人間の側の「合理性」でいいんじゃないかなぁと思うんですよね。
ですから、僕としては、人間が思考することを前提とし、「魂は不合理である」を前提としておく方が健全な気がします。

媒介形式/〈霊〉/魂の合理性

・アキラさん、おはようございます。

深尾先生のいう「魂の合理性」と私が考えるそれとは異なるかもしれないのですが。

私が考える魂の合理性とは、端的に言ってしまえば、〈霊〉生成の能力。さらにいえば、〈クオリティ〉追究の能力。“言葉にならないもの”を確かな手応えにしていこうする営為。

ですから、私の定義に従えば、野口整体はまさに魂の合理性に沿ったメソッドということになります。

一般にいう「合理性」、本文で批判したものですが、これは魂の合理性が行き過ぎて閉じてしまったものだいうことができる。つまり、魂の合理性は〈合理性〉であり、一般にいう合理性は【合理性】ですね。【合理性】の追求は【リアリティ】の追究です。

で。「媒介形式」というのは【媒介】なんです。「形式」が【 】に相当する。「形式」を持ってしまうことで、“言葉にならないもの”が切り捨てられて閉じる。「形式」は「フレーム」あるいは「前提」ともいう。

〈霊〉というのは「媒介」でもあるんです。「いいね!」も、単純な構造ですけど、〈霊〉です。単純とはいえ、その〈クオリティ〉を追究し始めるとどんどんと“言葉にならないもの”が湧き上がってきて、深いものになっていく。それが、フェイスブックで【いいね!】という装置として実装されると途端に「形式」をもってしまって、“言葉にならないもの”が切り捨てられて“測るもの”になって、【リアリティ】を帯びる。

けど、人間は、この【リアリティ】に感動したりもする。

「魂の経済学」というのが成立するとすれば、言葉にならない〈合理性〉の領域でということになりますが、それではどうしようもないではない――というわけでもない、と近頃考えるようになっています。そのあたりは、また新たに記事にしてみます。

おもしろいですね。
坂口恭平という人が「態度経済」だとか「0円経済」だとか「愛情経済」という言葉を使ってます。
彼は経済っていうとき常にoikosとnomosという語源から説明します。
彼は安冨さんと人間のタイプは違いますが視点がかなり似ているというのに最近気が付きました。
「名を正す」という点でも、語源に立ち戻るという点でも。
彼がよく言うズーミングだとか解像度を挙げるってのは「名を正す」ということでもあると勝手に思っています。
あと社会に対する怒りと、病みをどう回復していったかという点でも似てる。
二人ともトンデモと思われがちだが、よく見ると人間存在の芯を捉えている思考がある。
一番やばさが伝わるという意味で宮台真司との対談があったので貼っておきます。
ttp://www.ustream.tv/recorded/23218869

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