愚慫空論

【いいね!】という媒介形式

「媒介形式」については、以前にも書いた。

 基軸媒介形式からの自立

「基軸媒介形式」とは貨幣のことだが、このノートは肝腎の「媒介形式」というものについての整理が不十分。要するに、私もまだ「媒介形式」というものについて、うまく整理が出来ていなかったということ。

そこで今回は、【いいね!】を取り上げて、改めて「媒介形式」について考えて見たいと思う。

ネットに親しんでいる人なら、もはや誰もが知っているだろう。

【いいね!】は、もともとは【Like!】だった。それは、facebookが英語圏から出てきたものだから。日本語の“いいね”と英語の“like”は、必ずしもピッタリ同じものではないが、facebookの「装置」となった【いいね!】と「Like!」はぴったり同じものだと考えることが出来る。そのは【いいね!】が【ええやん!】になっても変らない。

ぴったり同じ。これが「形式」ということの意味である。

もう少し考えてみる。【いいね!】は、本当にそのすべてが“いいね!”なのか?

子猫や子犬の写真を見て、かわいいと感じたことが【いいね!】だったり。
誰かの「リア充」に羨望を憶えて、【いいね!】だったり。
社会への鋭い洞察に感心して【いいね!】だったり。

“かわいい”や“羨望”や“感心”などといった情動あるいは感情から出力される「いいね!」は、これは「媒介」である。それを発信することで他者にに伝わり、他者の情動/感情を引き起こすもの。

「媒介」は言い換えればコンテンツである。しかし「媒介」が「媒介」である間は、コンテキストも引き連れている。「いいね!」を受信した者は、無意識のうちに「いいね!」が発信されたコンテキストも(その人なりに)読み解いて、それが受信者の情動/感情になる。さらに、それらは「出力」となってなんらかの「媒介」を発生させ、別の他者に伝播し――という具合に広がってゆく。

ところが、これが【いいね!】という「媒介形式」になると、どうなるか。


私たちが情動ないしは感情を引き起こされるのは、上の場合だと「205」という“コンテンツ”になってしまい、コンテキストは切り捨てられる。しかし、この数字の多寡によって情動/感情が揺り動かされることには変わりはないから、なかなか切り捨てられたということは認識できない。

そればかりではない。コンテンツはコンテキストよりもはるかに人間にとって理解しやすい。理解の容易さは伝播力の強さに繋がる。そうして「媒介形式」が成立してしまうと、コンテキストは駆逐され、コンテンツが蔓延するようになる。

  ***

こちらはTVに親しんでいる人ならば、だれもが一度は見たことがあるだろう「コンテンツ」。


はっきり言って、この番組は面白い。インテリを自認している向きにはくだらないと感じる人も多かろうが、そういう人の大抵は“アタマデッカチ”だろう、たぶん。

確かに、何にでも「鑑定」と称して値札を付けて回る行為は下衆なものとは言えよう。だが、それだからこそ面白いのである。この面白さをくだらないと切り捨ててしまうと、「大切なもの」を見落とすことになる(と私は思っている)。

この番組のハイライトは、なんと言っても「鑑定」の瞬間だ。番組に登場する「お宝」とやらの価値には、素人である一般視聴者には理解できない。「お宝」にまつわるコンテキストを読み取れないのである。それを「専門家」とされた連中が、「鑑定」と称して、コンテキスト⇒コンテンツ変換を行なう。すなわち「価格」が算定されるのである。そこで初めて一般視聴者にも「お宝」の価値が理解されるのである。

(もっとも、私はもうこの番組は観ないけれども。飽きたから。手口が割れると面白くなくなる。)

(どうでもいい余談だが、この番組は司会が島田紳助の方が面白かったのではないか? 紳助は、このようなえげつなく下衆な「コンテキスト⇒コンテンツ変換」を「負い目」なく提出する「才能」に恵まれていたから。現在、紳助の後任は今田耕司らしいが、この人では紳助のような「才能」は発揮できなかろう。できるとすれば、橋下徹だろうと思う。市長など辞めて、この番組の司会者として喰っていってもらうのが日本国民としてはありがたいと思うが?)

この番組が面白く感じられる理由は、なんと言っても貨幣が「媒介形式」だからである。「媒介形式」だからこそ、理解が容易で、しかも大きな情動/感情を引き起こすことになる。この番組ほど「媒介形式」の特徴を上手く利用しているものもあるまいと思う。

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貨幣とはなんだろうか

「現実」を正確に認識することが学問であるといわれる。その場合、物的現実ばかりを現実と思い込むなら現実把握は一面的になる。現実のなかには、物的なものだけでなく、非物的なもの、観念的なものもある。貨幣自体がまさにそういう現実なのだ。貨幣の物的または素材的側面だけでは貨幣の「現実」にならない。貨幣の素材的な側面と形式的観念的側面の両面が、貨幣の「現実」なのである。


著者の今村仁司氏は、人間の観念の根源を「死」に求めて、さらに次のように言う。

だから貨幣形式そのもの、つまりは貨幣のなかの形而上学的観念性自身が死の観念を内に抱えているのだ。死の観念が抽象的であるように、それは貨幣の形式という抽象的表現をもつが、それは必ず自身の身体(素材)を求める。この抽象的なものはいわば「受肉」する。死の観念が受肉するすることで、貨幣素材は貨幣形式になり、社会関係の媒介者になる。物体は観念に侵入されてはじめて社会現象になる。


【いいね!】もまた貨幣と同様の「媒介形式」として成立しつつあると見るならば、この順序は逆ではないかと思う。【いいね!】の場合、「受肉」とは、【いいね!】というfacebookへとリンクするボタンがネット上に実装されことである。それ以前に【いいね!】という形而上学的な観念が成立していたとは考え難い。順序としては、「受肉」⇒【いいね!】の観念成立であろう。

このことは、【いいね!】が【ええやん!】であろうが【Like!】であろうが、“ぴったり同じ”ということにも裏付けられると思う。

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