愚慫空論

平成14年6月5日の記憶

今日は、10年前の今日の記憶をたぐり寄せてみる。あまりいい記憶ではないのだが、必要だと思うので。

今から10年前、私は和歌山県の本宮町(現在は田辺市と合併)というところで暮らしていた。平成13年から和歌山県が全国に先駆けて「緑の雇用」という事業を始め、それに応募するという形で私は林業という職業に携わることになった。

妻とふたりで大阪から本宮町に移住したのが、13年の9月。10月から当地の森林組合という組織に雇われることになった。

そんなわけだから、私の樵としてのキャリアは、やっと10年に達したばかり。ブログではベテランのような顔をしている(?)けれど。もっとも、それ以前に若干のそれらしい経験はあったわけだが。

10年前の今日、私は除伐という作業をしたいた。刈払機という機械を使って、植林後10数年経過した林地に自生してくる、植林木以外の木を除くのである。

このとき、私には除伐は2度目の現場。一度目の現場で二週間程度の経験をしていたと記憶している。また、その二度目の現場は、新年度がはじまってまもなく入ったはずだから(GWの頃には作業にかかっていた)、6月5日には一ヶ月以上は作業をしていた。作業人数は確か8人。緑の雇用で私のように他所からやってきた者が4人。地元の人が4人。

地元の4人は、新年度なってから新たに雇われた人たち。すなわち、初めての除伐作業だった。
作業は捗らなかった。それも当然で、素人ばかりでやっていたのだから。

事務所の方からは人工(←「にんく」、延べ作業人員)がかかりすぎ、という「声」が聞えてきていた。素人ばかりに作業をさせているのは事務所なんだから、事務所にそういうことをいう資格はない。それは事務所もわかってはいるので、愚痴というような形でそういう「声」が聞えてくるのである。理屈でいうなら、気にすることはない。が、そうもいかない「空気」があった。特に、外部からやってきた者にとっては。

  ***

平成一三年度に本宮町に「緑の雇用」で外部からやってきたのは6人だった。うち2人とは、三月末に送別会をやって送り出していた。

送り出したうちのひとりはまだ二〇代前半で、はじめから半年だけの経験と割り切っていた。が、もうひとりはそうではなかった。雇用の継続を希望していた。していたがクビになった。まあ、その人は、同期である私から見ても働きが悪かったから、致し方ないとは思ったが。

そのようなことは「緑の雇用」の面接の時にも言われてはいた。とにかく、現時点(面接の時点)で仕事を保証できるのは半年だけ。その間は住居も提供する。が、その後はわからない。

緑の雇用、掛け声は林業の担い手育成と、過疎地対策。でも、とりあえず半年だけ。続いての事業は、あるだろうけど、まだ断言はできない。ま、行政のやることはそんなものだし、そう正直に言い切った面接官(のちに上司)を私は好感を持った。

人間関係が都会よりずっと濃密な田舎は、入り込まなければどうにもならない。入り込んで頑張らなければならない。そこで人間として認められさえすれば、何とかなる。そうしたことを以前の経験から知ってもいたから、とりあえずは半年であろうとも、そういう機会を行政が設けてくれるのはラッキーだと思った。田舎参入のハードルを下げてくれるのだから。

仮に独力で田舎暮らしを始めようと思うなら、まず住居。空き家はたくさんある。が、借家はない。ある程度の人間関係が出来て、それで初めて借家が“出てくる”。はじめから、借家が不動産業界といったような「場」に存在しているわけではないのだ。

緑の雇用はそうした過疎地の事情にも配慮がなされていたので、雇用と住居の提供がセットになっていた。が、逆に、ダメとなれば、雇用も住居もともにダメということでもあるわけだ。だから頑張らなければならなかったし、皆、その覚悟を持っていた。

(ちなみに私は、ともにダメという事態だけは避けるべく、住居は緑の雇用を実施する事業体とは「無関係」に確保した。もちろんこの「無関係」は契約上という意味であって、人間関係は上司に骨を折って頂いた。そうやって見つけてもらった家のことは、以前、こちらの記事に書いたことがある。)

  ****

そんなようなわけで、特に外からきた4人には、焦りが出てきていた。

地元に人たちは、私たちほど焦る必要なかったはずだ。が、現場の主導権は私たちの方にあった。たかが半年の林業の経験とはいえ、経験は経験。それに地元に者たちにしても、仕事がなったがゆえに雇われた人たち。本来、本職は別に持っていた人たちなのだが、それでは食えなくなっての山仕事。私たちほどではなくても、焦る事情がないわけではなかった。

  *****

その現場はかなり山の深いところだった。現場へ向かうのには山林用モノレールを使った。10分ほどは乗ったろうか。終点から30分ほどさらに歩いた。

そのモノレールでは、一度に8人は乗れなかった。なので、二回に分けて乗車した。当日、私は二度目だった。それを憶えているのは、ある会話を記憶しているから。地元の人のうちのひとりが新しい時計を見せてくれて、「これを昨日、新宮で買ってきた」などと会話した。この会話を記憶している理由は...、この続きを読んでもらえばわかるだろう。

現場はかなり広いものだった。具体的な数字は覚えていない。現場の中にもモノレールが敷設してあって、始点が最も標高の高いところ、終点は谷底で最も低いところ。これも始点から終点まで10分くらいだったと思う。

当日、私は、同期の者一人とふたりでモノレールに乗って、谷の方へ下って作業をした。他の者たちも二人組で、それぞれの持ち場へと散り一日作業。

夕方、といっても3時頃だが、私はまたモノレールで上がってきた。そして、刈払機の刃を研ぎながら、他の者の帰りを待っていた。刈払機のエンジン音は既にしなくなっているから、すぐに皆がモノレールの始点へ集まるはずだった。そこが集合場所になっていたから。だがひとり、朝、会話を交わした人だけが、なかなか帰ってこなかった。集合場所の一番近くで作業をしていたはずなのだが。

いくらなんでもおかしいということになり、見に行くことになった。大声でその人の名を呼びながら。その途中で、私はその人の物らしきリュックを見つけた。私たちは弁当などをリュックに入れて背負い、現場へ行くのが習慣だ。中を覗いてみると、弁当箱がそこにあった。取り上げてみると、「重み」があった。これはダメだ、と思った瞬間に、名を呼んでいた声が悲鳴に変った。

  ******

当時、すでに携帯電話というものはあった。私は所持していなかったが(当地へ移ってきたから解約した)、持っている者はいた。だが、圏外だった。この事実は、その現場では確認済だった。

帰ってこなかった人は発見された。私は、その人がどのような「状態」なのかを確認するよりも先に、現場を後にした。とにかく「状況」を知らせるために。(確認したくない、という気持ちもあったかもしれない。)

山道を走った。この頃はまだ山道を走ることが出来る体力があったし、興奮もしていた。帰りのモノレールなど、もどかしくて乗っていられなかった。まっすぐ昇るのは無理なくらいの斜面だったが、帰りは下りなので、駆け下りた。モノレールの始点、すなわち、朝、その人と会話を交わしたところのすぐ近くに人家があって、そこへ駆け込んだ。そして電話を借りた。

事務所へ連絡して、出てきたのは、いろいろと骨を折ってくれた上司だった。どんなことを話したか? まず、その人が事故に遭った、と伝えたと思う。上司は、「状態」を尋ねてきた。私は確か、「ダメだと思います」と答えた。それに対する上司の答えが、「なんてかー!」という叫び声だったことは、確実に記憶している。

その後、私は私の知っている「状況」を伝えた。私は「その人」をまだ確認していない。が、「状況」から見て、その人の「状態」はまず間違いないであろうこと。これは第一報なので、関係各所への連絡はそちらでお願いしたいとのこと。そして、とにかくすぐに事務所の誰かに来て欲しいということ。

電話を切ると、そこには私の後を追いかけてきた同僚が一人、いた。「状態」を尋ねてみたが、返事はどうだったろうか? 憶えてない。 同僚には、今、事務所に連絡したことを伝え、申し訳ないが、すぐ現場にとって返して、とにかく事務所に連絡したことを現場の皆に伝えて欲しい、と頼んだ。そして、警察が来るであろうこと。皆にはそれまで待機していて欲しいということ。私は、ここに事務所の人間が来るまでここで待つ、ということ。終点に上がったままになったモノレールを下へ下ろして欲しい、ということ。彼も乗らずに下ってきたのだった(モノレールは無人でも走らせることが出来る)。彼は了解して、すぐに現場へとって返した。

それからひとつ、思い出して、私は再度電話を借りた。事務所へ再度連絡しようかと思ったが、混乱しているだろうことを予想して、自宅へ掛けた。まだ明るくはあったが、もうすでに夕刻だ。私もまだこれから現場へ戻らなければならない。明るいうちに帰ってこられるとは思えない。ライトの類は持っていない。

幸いなことに、家内はすぐに電話に出た。「状況」を伝え、懐中電灯を持ってくるように言った。家にある分、そしてお隣で借りてきて、すぐに持ってこい、と。

事務所の人間が来るより、家内の方が来るのは早かった。事務所では関係各所の連絡に手間取ったのだろうか。私は家内から懐中電灯を受け取り、家内が帰ったと思ったら入れ替わりに上司が到着。警察と消防が来るという。それらは上司に待っていてもらうことにして、私も現場へとって返した。

モノレールのレールの脇を、レールを手がかりによじ登るようにして昇っていくと、上からモノレールが下りてきた。彼が下ろしてくれたのだなと思いきや、そこにはひとり、乗っていた。地元の人。少し唖然としたが、まあ、人間にはいろいろいるものだ。その人にとっては今回の出来事は「他人事」なのだろう。そうしたい気持ちもわからないではない。私は言葉も交わすことなくモノレールを見送って、再びレールの脇をよじ登った。

現場に戻ってきたとき、周囲はまだ明るかった。現場では、残った人たちが呆然と待っていた。「状態」は確認したらしかったが、私は改めて確認はしなかった。したくなかった。が、なぜそんな「状態」になったのか、なぜすぐに発見できなかったかについては、確かめないではいられなかった。確固たる結論が出るわけはないのだが...。(その「結論」をここに記すことはしない。)

警察が到着するまでの待ち時間はずいぶん長かったと思う。来たときには既に暗くなっていた。懐中電灯で照らしながら、簡単な現場の確認と検死が行なわれたようだった。しばらくすると、大きな「包み」が運び上げられようとしているのがわかった。私たちはそれを手伝い、さらに警察・消防と一緒になって、その包みを現場から運び出した。道中、真っ暗だった。車のあるところまでどのくらいかかったろうか? 案の定、私たち作業員の分の懐中電灯は、家内に持ってこさせた分だけだった。

「包み」を車の所まで運び終えると、そこにはなぜか家内がいた。区長さんに行ってこいと言われたらしい。来てもどうなるものでもなかったが、当人も気になっていたので、とにかくまた来たという。かなりの間、待ったと言っていた。その時点で、時刻は8時を回っていたろうか。

事務所の人に話をして、そのまま家内の運転する車でまっすぐ帰宅。用意してあった夕食を食べていると、事務所から電話があって、今晩、その人の夜伽をして欲しいという。その人は、独り者だったのだ。

  *******

その人の自宅へ行ったのは何時頃だったろうか。すでに、同僚たちは集まっていた。その人は、もうすでに布団にくるまって眠っていた。顔には白い布がかけられてあった。私は、その布をめくり上げて、朝、別れて以来の対面をした。その人が目を覚ますことはなかった。

  ********

これが、10年前の6月5日の記憶。

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