愚慫空論

読書メモ ~『蠱物としての言葉』 その1

一昨日と昨日にかけてツイートした

蠱物としての言葉

についての読書メモを、まとめて上げておく。

本書を読み直してみようと思ったのは、こちらがきっかけ。

日本語の主語についてよしこの芽@yoshikonomeと安冨先生@anminteiとの会話


 ***

1: 言葉はこれを使っている人間に対して、事象の間に見られる関係を意識に与えると同時に、別の面においては、ある魔術的な威力を、同じ人間に対して振う。言葉の後者の側面を「蠱物(まじもの)としての言葉」と呼ぶ。

2:言葉とものとの接触の態様が、ヨーロッパ語では「判断的」であるのに対し、日本語では「蠱惑的」。「蠱惑的」とは日本人がものと接触する差異の性格の特徴をそのままあらわしている。(←山本七平のいう「臨在感的把握」か?)

3:日本語の言葉の経験が「蠱惑的」性質を持つのは、ものとの接触が「語」的であることからくる。「語」的な経験は接触が直接的で、それゆえ感覚的・欲望的・嫌悪的。言い換えれば「単語的」。

4:「判断的」性質を持っているヨーロッパ語では、ものとの接触は「文章的」で、間接的。ゆえに、感覚や欲望をこえた広がりに向かう可能性がある。文章⇒広がり⇒ものは相対的に縮小⇒接触の一要素⇒「判断」が成立。言い換えれば「命題的」。

5:人間の自由は、ものとの「命題的」接触に属している。なぜなら命題はその性質上、肯定、否定、疑問、懐疑、推測などの態様の可能性を同時に含んでいて、はじめから精神的な広がりが可能性としてあり、この広がりが明確化の道程をとったとき、そこに「自由」が意識されるから

6:「単語的」接触では、この道程が閉ざされている。ここでは、言葉の経験がもっぱら対象(もの)を補強しながら、主客合一的事態を目指す。そういう閉じた関係のなかで、「蠱惑」が「判断」に代わり、「自由」を排除する。

6-2:主客合一の事態は完全に実現されることはない。どこまで行こうが空想的性質を脱することが出来ないが、それゆえにこそ、あくまで「蠱惑」が続けられなくてはならない。このような言葉の経験が、日本人の社会的な人間関係の伝統的基盤を提供している。

7:推論を進める過程は言葉の積み重ねによる論証の過程になりやすいが、「語」が蠱惑的な働きを求めている過程はそうはならない。日本語による話し方では、論証という手続きがほとんど効果を持ず、説得にならない。聞き手は話し手の「語」に蠱惑されるのを待っている。

8:蠱惑する者とされる者との関係は、現実社会の反映。「蠱惑」の主たる源泉は共同体における階層関係。ある人が話し手に、お互いの社会関係を拠りどころとして蠱惑されるとき、同時にその話し手の言葉に説得されることになる。

9:西欧の社会においては、シニフィアンの解放は二千年以上の長きにわたって阻害され続けてきたが、その原因は一神教の神学が主張する三位一体の位格(科学、人間、理性)にあったと、ロラン・バルトは語った。

10:一神教の位格にしたがってシニフィアンが整然と序列化されているような環境では、記号(シニフィエ/シニフィアン)があるひとつの地点に達すると、その働きは無理にも停止させられてしまう。これは、人間の世界に最終的なシニフィエがあるとの思い込みがあるからだ。

11:「神」は、何か別のシニフィアンによって代理させることを認めない究極のシニフィアン。ゆえに、単なるシニフィエでしかなく、シニフィアンとしては存在できない。にもかかわらずそのようなシニフィアンを追求するのは、記号を袋小路へと追い込むことになる。

12:バルトは、記号がつまるところ空虚であると説く。そのよい例が辞書。50音順やアルファベット順に配列された全体の構造にはどこにも中心がなく、ひとつひとつの記号は、それぞれが他の記号のもとに送られるだけで、それ自体ではなにも語らず、中身は空虚。

13:日本は、バルトの目に、中心のない構造をもつ辞書のような文明のひとつの見本と映ったようだ。シニフィアンは非常に豊かで、洗練されているにもかかわらず、けっして最高の存在に向かって整序されることがない。記号にとって幸福なユートピアである無神論的世界。

14:西欧人に対して、日本等の東洋の文明に目を閉じさせ、その理解を阻んでいるのは、一神教的な伝統とそれが必然的にもたらす文化的帝国主義。究極のシニフィエに向かって個々の記号に意味を詰め込みつつ全体として隙のない構造を作り上げようとする、記号の中央集権的体制。

15:バルトは東洋に対する西欧の無理解の理由を、キリスト教徒帝国主義の伝統の中に見るが、それなら同じように日本人の側にも、西欧に対する無理解があるはず。それは個々人の知的能力・努力の不足ではなく、個人をこえた文化の体制の問題が根底にある。

16:日本人が記号の中央集権化を免れたのは、一神教とは異なった宗教的伝統と社会的な封建主義の存続の所為。封建主義とは社会的上下関係の際限のない個別化であって、これが専制的な全体かに向かうのを防いだ。

17:社会的な個別集団が内部の情動的な団結によってどれほど固く結ばれていようと、この団体を支える精神的な中心存在の力を他のすべての個別集団にまで及ぼそうとして、究極のシニフィエを練り上げることはなかった。天皇制という難しい問題はあるが、意味論的には極めて曖昧。

番外1:「東大話法」を「蠱惑的話法」として捉えても、スジが通るような。 「蠱惑」の主たる源泉は共同体における階層関係。ある人が話し手に、お互いの社会関係を拠りどころとして蠱惑されるとき、同時にその話し手の言葉に説得される。

番外2:「判断的」言語はつまるところ「究極のシニフィエ」に向かっていくものなので、「欺瞞的で傍観者的」にはなり得ない。それは「蠱惑的」言語だからこそ可能。日本人はその言語特性から容易に蠱惑されてしまい、意味の整合性に注意を払わない。とはいえ、日本人から日本語を引き剥がずことはできない。

番外3:では、どうすればいいか。意味の源泉を突き詰めていくしかないだろう。意味の源泉を「立場」から「個」へ。「個」の自立。空虚な言語に意味を持たせるのは、あくまで「個」。

番外4:「蠱惑」という文脈でいえば、「助けてください」と言えるようになるということは、「私に蠱惑されてください」「私の意味をあなたが見出してください」ということ。相手を蠱惑し、意味を見出してもらうことが「自立」という、一見倒錯した関係。正と負とが、ちょうど打ち消し合うような関係。

番外5:そのようにして調和した関係性は、「コムニス」から離脱したものになっていることだろう。

18:なるほどわれわれは、バルトが憧憬にも似た賛嘆の念を表明した記号のユートピアに住んでいるのかもしれない。しかし、同時に、記号がはじめから究極の拘束力を欠いたこのユートピアは、知的な営為という面においては、まったく不毛のような環境である。

番外6:上の意見には同意できない。このユートピアには「方便論的個人主義」という知的営為のための方法論がある。 「方便論的個人主義」は「判断的」言語では原理的に不可能。「蠱惑」的言語でこそ、その威力を発揮するはずだ。

番外7:「蠱惑的」言語解析の一例
   ⇒ 「ヲシテ」による「は+か」の構造解析 by @ShiwaWoshite @julian_beace 

番外8:山本七平『「空気」の研究』p.69より。「一体これはどういうことなのか。一言でいえばこれが一神教の世界である。「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪になるのである。」⇒「命題的」ということ。

番外9: 「この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。(略) これでは“空気”は発生しえない。発生してもその空気は相対化されてしまう。そして相対化のこの徹底が残すものは、最終的には契約だけということになる。」 

番外10:「契約」を為すには、「意志(行為)する主体」つまり「自我」が確立されなければならず、その結果、言語構造は「主語」が軸となる「主語+術語」と形式になる。そしてそれは、「文化の帝国主義」を必然的にもたらす。

19:「天皇と記号」と題されたチャプターは、山本七平のいう「言葉の天皇制」にかなり近い感触を受ける。

20:天皇は、いちども究極のシニフィエであることを要求しなかった。むしろ天皇の表象は、機能としては、記号が空虚であり続けることを根底から支えいるかに見える。バルト流にいれば、「天皇は記号の本質を現実化させるのに、このうえなく力を発揮してきた。

21:戦後「天皇」が担ったのは、意味の空虚な個々の記号が拡散的に増殖するのを助ける機能。「民主主義」や「言論の自由」が、このような極端な肥大現象と手を携えている。日本人にとって「言論の自由」なる表現に含まれている自由とは、誰からも罰せられないような状態こと。

番外11:日本という国には天皇制が存続しているということもあって「クレオール」という意識はまず皆無だろうが、言語的にはクレオールなのかもしれない(「クレオール言語」の意味ではなく)。そう考えてみると、「東大話法」とは宗主国に使える植民地支配層の言語、とならないか。

22:戦後の「天皇」の機能は、もっぱら、記号から意味を抜き取ることに集中している。したがって「天皇」を信奉する「民主主義」者がいかに高く「民主主義」の旗を掲げようと、ただひとつ確実なことは、その「民主主義」には、まったく“意味がない”ということ (自民党?)

23:そういう人たちは「民主主義」を脅かす動きを探すことにもっぱら力を注ぐ。外部の悪意の存在が、ただひとつ、自分たちの存在を正当化してくれるからである。 (典型例が「北朝鮮」か)

24:日本ではシニフィアンが究極のシニフィエに向かって組織されないにも関わらず、記号を全体として包んでいるコードは非常に堅固。シニフィアンはコードのなかで、身軽に運動し交代し増殖する。際限なく増補版を発行し続け、決して時代遅れにならない超歴史的辞書のように。

25:三島由紀夫は日本の「天皇」について透徹した考察を残したが、「民主主義」者は理解しなかった。三島はバルトが賛嘆した、言葉が蠱物としてしか働かないユートピアを地獄と感じ、自分の生命と引き替えに「天皇」に意味を込めようとしたが、「気狂い」として片付けられた。

26:戦前の「天皇機関説」を巡るについて。今日、この論争を振り返って興味をひくのは、終始そこにおいては「言葉遣い」の問題が大きなウエイトを占めていたこと。その論争は、はじめから「意味」の検討を巡る戦いではなく、「字面」の戦いであった。

27:当時の検事総長平沼騏一郎の言。「この議論は明白だ。天皇を「機関」などと唱えるのは乱臣賊子だ。日本の天皇は統治の「主体」であらせられる。それを機関などといえば主体ではない。そんな議論は日本では言うべきではない。」

28:要するに、「天皇」の憲法上の地位に関する解釈の問題も、当時の検事総長にとっては、煎じ詰めると「言葉の使い方」の問題、表現の問題になる。(ますます早川先生の「問題」とそっくりだ。その主張が正しい否かより、その主張の仕方が福島県民にどう響くかが問題。)

29:ここに言葉についての興味深い問題が露呈する。それは言葉(文字)によって相手を威圧しようとすること。相手を説得するのに、推論に拠らないで、字面の直接的効果に頼る。こういう方法は、字面によって威圧される相手がいなくては成立しない。

番外12:「福島県民の気持ち」という字面に威圧される人間がいなければ、威圧は成立しない。そして、そういう文字に威圧されない者に対しては、「人でなし」(昔なら「非国民」)といった類の、直接的な言葉による威圧がなされる。現代日本において、最も威圧に用いられる言葉は「気持ち」かもしれない。あるいは「弱者」。「マイノリティ憑依」というのは、そのマイノリティという「弱者」を「天皇」の位置に据えたものだといえる。

30:「威圧」を言い換えれば「想像的に取り込まれること」。つまり「蠱惑されること」。文章中の表現の如何によって、総体的な意味が「よろしい」にもなれば「怪しからん」にもなる。言葉に対するこのような情動的反応のなかに、本質的な問題のひとつが隠されている。

31:ある記号に情動的に反応することと、その記号の意味が空虚なままに維持されることの間には密接な関係がある。そうした記号を用いる者の心は空虚であり、記号はその空虚を埋めにやってきたものに過ぎず、しかも依然として記号は空虚。当人は空虚が埋められたと錯覚するのみ。

32:我々はいつも「空虚な記号」を探し求めている。際限なく、想像的に交わり合うべき一語の言葉を探している。その努力の過程には、本質的な推論もなければ、論証も理性もない。あるのは心の空虚を埋めようとする脅迫的衝動。ゆえに、言葉には終始感覚的な快感を求める。

33:美濃部達吉が法理的定義した「機関」という言葉は、当時の指導者たちを説得できなかった。一方、「主体」という定義できない言葉は、人々を蠱惑し続けた。「機関」も「主体」も、すぐに限定された領域からはみ出して、文字として独り歩きを始めた。

34、35、36:このような文字を「包み」に喩えてみる。バルトが日本の「包み」について見事な感想を残している。

「たいていは幾重にも包み込まれたこの包みの完璧さそのもののために(人はなかなか包みを解きおおせない)包みが包み込んでいる内容の発見を包みは先へ押しやる――そして包み込んでいる内容は概ね無意味なしろものである。つまり、内容の不毛が包みの豊穣と均衡が取れていないという、そのことこそが、まさに日本の包みの特殊性なのである。(略) つまりは相手に贈る肝腎なものは、包み箱そのものであって、包み箱の内容ではない。包み箱は記号の役目を果たす。包みとして遮光蔽い、仮面としての包み箱は、それが隠し保護しているものと等価である」

36,37:蠱惑的とは、「包み」としての外見によって、人をうっとりさせるような性質をもつことである。人々は、この「包み」に対して、感覚的、欲望的、ときには嫌悪的に反応する。むしろ内容は空虚のままに維持される必要がある。すなわち、西欧人がものの中心にある実質と考えている「包みの中にある内容」「記号の中にあるシニフィエ」といったような“何か”を見定めることは、日本人にとっては、それを捨てること。

38:空虚な記号から空虚な記号へと、包み箱としての記号を絶えず運搬することが、日本人の最も情熱的な営み。言い換えると、蠱物の包みを、休みなく相互に贈答し続けている。

番外13:以降、本書は「精神分析」の方向へ舵を切っていくことになる。著者はラカンの著作を数多く翻訳したその方面の専門家であるようだ。

(ここまでで49ページ。読書メモツイートは、まだ続けるつもり。)
 
  ***

『蠱物(まじもの)としての言葉』にであったのは、アキラさんのブログがきっかけ。あわせてどうぞ。

光るナス:「蠱惑的」「判断的」シリーズ


コメント

>「私に蠱惑されてください」「私の意味をあなたが見出してください」ということ。
<
このあたりのことが、ラカンの観ようとしていた視点の基本になってる気がするんですよね。
個人的な感想としては。

と言っても、ラカンのことなんて これっぽっちも学んでないんですけど。 (^_^;)

う~ん

よくわかりません。(^_^;

ラカンはまじめに読むほどわからない、という意味ではマルクスに匹敵、いや、それ以上か。

といって、マジメに読んでないんですけど、どちらも σ(^o^;

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