愚慫空論

「空気」が生み出される「現場」

今回の話のネタは、私の生業である林業から。

現在、私は「除間伐」という作業をしている。

林業という仕事は、木を育てて収穫するのが目的。スケールは違うが基本は農業と変わらない。

除間伐という作業は、農業でいえば「雑草取り」と「間引き」である。

森林・林業学習館より。

◆つる刈り(つる切り)・除伐

苗木が雑草よりも大きく生長し、下草刈りの必要がなくなっても、クズ、フジ、ツタなどのツルが幹に巻きついたり、木の全体におおいかぶさったりするため、これを切らなくてはなりません。この作業を「つる刈り」といいます。

スギの場合、植栽後10年ほどすると背丈が5m前後に生長します。この頃には、植栽木(=苗木が苗木とは呼べない程度まで育った木)の生長を邪魔するような灌木なども生えてきます。そのため植栽木の生長を妨げる他の樹木を伐る作業を行います。この作業が「除伐」です。「除伐」では雪などで曲がってしまったり、途中から折れてしまっている植栽木や、生長が悪く大きく育つ見込みのない植栽木を伐る作業も行います。通常はチェーンソー(エンジンつきノコギリ)を使って行ないます。


◆間伐

植栽、下刈り、枝打ち、除伐と保育作業を行って来た樹木は、競争しながら、まっすぐに育っていきます。順調に生長し、20~30年くらいたつと、林の中は混み合ってきます。 混み合ったまま放置しておくと樹木はひょろひょろともやし状となり、病害虫にも弱い木となってしまいます。そこで、「間伐」と呼ばれる間引き作業を行い、林内環境を良くして、樹木が健康に育つようにします。植えた木の本数を減らす代わりに、残された木が健全に育つように手を入れるわけです。

間伐もチェーンソーを使って行ないます。 間伐をすることにより、地面に日光が差し込み、さまざまな草や木が新たに生え、それを食料とする昆虫や鳥が生息するようになるなど、生物の多様性が向上します。また、地中の根もしっかりと張り巡らされ、台風や大雪、土砂災害などに強い森林となります。


この説明を素直に読むと、「除間伐」の意味はわからない。除伐と間伐は、施行する時期が異なるから。
けれど「除間伐」というのは、除伐と間伐とを同時に行なう施業。

今私の入っている「山」は、樹齢は30年を超えている。もしかしたら40年に達しているかもしれない。そんな「山」では、順調に育っていれば除伐はないはずなのだが、ないはずのものがあるというのは、順調に育っていないということ。


ひどいところは、こんな状態。すなわち、適正に管理がされていないということ。そういう「山」の後始末としての除伐を、間引きの間伐と同時に行なうという意味での、除間伐。

が、“適正に管理されていない”というのは、樵の目から見たとき。除間伐というのは、正規の事業ということになっているから、その前提は“適正に管理されている”である。適正に管理された上での適正な事業ということに「なっている」。

「空気」の研究こういう食い違いが「空気」というものを生む大元だと考えるが、詳しくは後述するとして。

このような作業では、使用する機械の選択が難しい。下刈り機がチェーンソーか。

セオリーもしくはルールからいえば、チェーンソーである。が、実際は、除伐⇒下刈り機、間伐⇒チェーンソーという「図式」が出来上がってしまっている。

そうなる図式は、もちろん私には理解できなくはない。チェーンソーでは、フジやらヤマブドウやらのツルに対応しにくい。樹木の幹に巻き付いているのはまだいいが、下木と一緒になってグチャグチャになっているのを“潰す”のは大変。下刈り機で遠くから、ツルも枝も一緒くたに刈り払うのが手っ取り早い。

が。そういった下刈り機の使い方は、おそらくはルール違反。危険だから。ところが、得てしてルール違反は効率が良いもの。稼ぎのために行なうのだから、効率は重視される。

そもそもでいえば、“潰す”必要などないのだが。“潰す”というのは、ただ伐るだけではなくて、地面へ低く伏せ込むということ。本来の目的でいえば、伐っておきさえすればあとは枯れるのだから必要がないことなのだが、検査では潰せと言われるから、そういう無駄なこともしなければならなくなる。だもので、除伐⇒下刈り機 という「図式」が出来上がる。

それでもこの「図式」はあくまで暫定的なものであり、状況によって適切な――安全で効率が良い――機械は変わってくる。なのに、そういった適切な選択を阻むものがある。それは「空気」である。

私の身の回りで起こっているケースで言おう。今、実際に使用しているのは下刈り機だ。

チェーンソーか下刈り機か、その判断を下すのは、なぜか、直接作業をしない上司が決める。なぜそんなことになるのは、部外者には不思議だろうが、これこそ「空気」である。

私は幾度か上司と、作業を一緒にしている同僚に、ここではチェーンソーの方が良さそうだから、そちらにしようと意見をしたみた。現場をつぶさに見ていない上司がそのような意見を取り入れないのはありがちだが、さらに不思議なのは、同様に作業をしている者も、一定の同意はしつつも、私に同調して上へ意見しないこと。上司には意見しがたいという下らない「空気」が出来てしまっている。自らの意見よりも、上司の意見を「忖度」しようとする態度である。

が、「忖度」というなら上司も、その上に対しては同じ。発注者である行政から検査があって、その検査を「忖度」している。事業としては検査にパスをしないと事業費が下りてこない構造だから、どうしてもそのようになる。上司はそういった「忖度」を強いられているがゆえに、自らもその下に対して「忖度」を強いるような態度に出る。

【ハラスメント】の連鎖だ。

では、上司の上、事業を発注し検査をする役人はどうなのか。

私はそういった役人を直接には知らないが、「樵の目」でみるならば、大方の予想は付く。おそらくは“見当外れ”のことに誠実なのだろう。

“見当外れ”というのは、上で述べた“適正な管理”だ。

林業の目的は、人間にとって都合の良い樹種を生産すること。そのためには、適正に林を管理しなければならない。適正に管理された林では、そもそも「除間伐」などといった事業が必要になるようではいけない。ツルが生い茂ったり、不要な樹種が繁茂する林になっているということ自体が、もうすでに「適切な管理」ではない。

「樵の目」で見るならば、適切な管理とは林を不適切な状態にしないこと。ところが、役人には違う。彼らにとっては、不適切な状態になった林を適切な状態に戻すこと、なのである。

この違いは、樵と役人の「生態」の違いから生まれる。端的にいえば、「計画」の有る無しだ。

樵には「計画」はない。あるのは「イメージ」だけである。適正な林の、漠然とした「イメージ」。その「イメージ」に従って山を観て、その都度、「手入れ」をする。そうすることで適正な状態を維持し続ける。そして、そうした「手入れ」をする為には、山に棲んでいなければならない。

対して、役人の棲む場所は役所だ。彼らにも「イメージ」はあるだろう。それはもしかしたら、樵の持つ「イメージ」と同じであるのかもしれない。が、彼らは「計画」を立てる必要がある。漠然とした「イメージ」だけでは彼らは役所には棲んでいられない。そして、「計画」を立てる為には、不適切な状態が現われ可視化されなければならない。樵の適切な管理が為されてしまうと、役人には出る幕がなくなってしまう。

役人には役人の「生態」に従った「適正」がある。現在の日本の人工林の多くは、役人によって“適正に”管理されていはいるのだ。

そもそもでいうと、林業に役人の出る幕などはなかったのである。ところが、林業が構造的な不況に陥って、その経営を行政の補助金に頼らざるを得なくなった。そこから役人たちの「計画」が出しゃばるようになってきた。

今、現場にある「空気」は、役人の「計画」が侵入してきたことで生まれたものだ。「手入れ」というのは、現場で身体感覚を働かせる者によってなされる。その〈感覚〉は、チェーンソーか下刈り機かという選択にも当然及ぶ。が、「計画」は、そうした感覚をスポイルするのである。役人の事業者に対する【ハラスメント】が連鎖して、〈感覚〉を働かせるべき者にまで及び、「空気」となって支配する。そうした感覚支配が「空気」として感知される。

「空気」を生む大元の「計画」は、これはこれで「誠実」から生み出されている。そして、これが今回気がついたことなのだが、現場で「空気」が生み出す鍵もまた「誠実」なのである。

  ***

「現場」というのは、技術が要請される場だ。そして、技術が適切に発揮されるためには、技術者によるフィードバックが欠かせない。それはいかなる現場においても、不変の原則だろう。

また「現場」とは、人間が環境に働きかけ環境を改変していく「場」でもある。それは林業で“適正な”林を育成するののでも、超高層ビルディングを建設するのでも同じだ。技術者は環境とフィードバックを行ないながらそれぞれに適切な技術を発揮させて、それぞれに環境を改変していく。この改変には、技術者の「誇り」といった類の感情が付け加わる。

「誇り」と「誠実」の間には、深い関係があることはいうまでもない。この関係は、しばしば自身への感覚を裏切り隠蔽してしまうほどに、深い。

話を下刈り機かチェーンソーかというところへ戻そう。

自身の感覚に正直であるならば、適切なのはチェーンソーの方である。ところが、不適切ではあっても、下刈り機でも作業は出来てしまう。そうした不適切さをクリアするのもまた技術。技術というものがそもそも環境改変の「術」であるわけだから、つまり「不適正」を「適正」へと改変するのが技術であるわけだから、自身の感覚を裏切る「不適正」を技術上の「不適切」と取り違えてしまって、「誠実」をもって、自身の「不適正」をさらに不適正なものへと改変してしまう事態が起こりうる。

「誠実」をもって「不適正」へ改変するのは、【ハラスメント】だ。
「誠実」に付随する「誇り」がその「不適正」を覆い隠してしまうが、こうした場合の「誇り」は、良くない意味での「精神主義」になる。

問題は出来てしまう、ということだ。これがもし、下刈り機では作業が不可能ということであれば、技術上の「不適正」ということになる。技術上の「不適切」と「不適正」は異なる。「不適正」は不具合が生じ、それは誰の目にも明らかだから、「空気」が生じることもない。が、「不適切」はなんとかなってしまう。そして日本人の特長として、なんかしてしまうのは得意であり、また「誠実」の発露でもある。このことが感覚的「不適正」の技術的「不適切」への取り違えを助長してしまい、「空気」を生み出すことになる。。

さらにまた「不適切」の度合いが強いほどに、精神主義的な雰囲気が強くなってより「誠意」が発露され、「空気」による支配が強力なものになってしまう。そうした「誠意」を誘導するものとして「誇り」が用いられたりする。そうなると、これを打ち破るのは「誠実」な者ほど容易ではない、という事態に陥ってしまう。

  ***

以上のようなことを考えると、どうしても思い起こされるのが「フクシマ」だ。放射能汚染へ抗う、あるいは無視するという「空気」。

低線量であれ、放射線被曝は「不適正」である。

放射線被曝についての科学的な不適正基準には議論の余地はあるし、それは現在も喧しく続けられている。が、ここでいう「不適正」は法的基準だ。3.11以前の基準であり、現在も未だ法的基準は3.11とは変わらないはずだ。

ところが、この「不適正」が「不適切」へと入れ替えられてしまった。この「入れ替え」に「誠実」はまったく認められないが、多くの科学者がそれに力を貸した。「不適切」どころか「適切」だという者すら、なかにはいる。

「不適切」だと、日本人は「誠実」を発揮する。その結果、「現場」である「フクシマ」に「空気」が生まれてしまう。
放射線被曝は、どこぞのバカがいみじくも言ったとおり“直ちに健康に影響はない”。ゆえに、しばらくの間は、何とかなってしまうのである。

何とかすることを強いられる構造も林業とよく似ている。ともに、頼りは補助金であり「計画」が「現場」へと浸透してしまっている。役所の「生態」に従った「適正」が福島という「現場」へ【ハラスメント】が連鎖して侵入し、「現場」に棲む者の〈感覚〉を麻痺、支配してしまっている。

そうした「空気」に“水が差される”のは、「不適切」ではなく「不適正」だったのが明らかになってから、つまり、放射線被曝の悪影響があからさまになってから、というのでは悲しすぎる。

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