愚慫空論

生命力と形式 ~アウトサイダーアートを超える? 「otto&orabu」

アウトサイダーアートについての『キュレーションの時代』の記述は非常に面白い。

キュレーションの時代


†コンテンツとコンテキストの美しい関係

 コンテンツと、コンテキスト。
 その両方の要素があってこそ、私たちはコンテンツをさらに深く豊かにすることができる。
 そしてコンテンツとコンテキストは相互補完的な関係であって、どちらが欠けてもいけない。コンテキストは決して「コンテンのおまけ」程度の副次的な存在ではないということなのです。


コンテンツとコンテキストの関係の美しさについては、とあるシャガールの展覧会の例があげられているが、その内容は本書を見ていただくことにして。

 もちろんシャガールというコンテンツは、ポンピドー・センターのキュレーターのコンテキストがなくたって、やっぱり天才の作り出した素晴らしい絵として孤高に屹立している。予備知識などなくたって、見た瞬間に心が躍り、胸にナイフが刺さるような素晴らしい感動と衝撃を与えてくれる作品というのは、世の中にはたくさん存在します。その意味では、コンテキストはしょせんコンテンツに寄り添うだけの存在であって、単独に成り立つ要素ではないかもしれない。
 しかしアートの世界には、コンテキストがなければ決してだれにも認知されるはずがなかったコンテンツも存在するのです。
 それが「アウトサイダーアート」。


ここでアウトサイダーアートの代表として、ヘンリー・ダーガーが紹介される。

†キュレーターはアウトサイダーアートを見出す

 アウトサイダーアートを生み出すダーガーのような世捨て人や犯罪者、精神病患者は、作り手本人も周囲も「そこにアートがある」という意識を共有していません。たとえば精神病院に長期入院しているような患者が絵を描いた場合、それはあくまでも治療や教育の見地から絵を描くというようにとらえられているだけで、描かれた絵は本人の居室に飾られるか、そうでなければいずれは看護師によってゴミ箱に捨てられてしまうしまうだけです。


†コンテンツとキュレーションが分離した世界

 アウトサイダーアートは、生々しい表現の欲求衝動のみが存在する世界。そして観る側には、そのような生々しさを、生のまま受けとめたいという欲求がある。それがアウトサイダーアートという分野を成立させているといえます。
 ではその間を取り持つキュレーターは、いったいどのようなことをしているのでしょうか? どうやってその生の衝動を、生のまま伝えるのでしょうか? 
 小出由起子さんは私の取材に、「アウトサイダーアートでは、表現とキュレーションが分離しているのです」と話してくれました。
 アートのメインストリームでは、つくり手は表現者であると同時に自分の作品がどのようにしていまの時代に受け入れられるのか、どこにその場を求めればいいのか、そしてどうプロモーションしていけばいいのかという編集的、ビジネス的センスまでもが求められます。
(中略)
 しかしアウトサイダーアーティストたちは、そのような戦略的発想をいっさい持たない。自分以外には興味がいっさい無く、ただ自分のためだけに作品を作っているような人たちです。だからそこに、キュレーターという存在が必要になってくる。キュレーターが、アウトサイダーアートにコンテキストを付与し、それを現代の芸術界に重ね合わせるという作業を行なっているのです。
 つまりはアートという大きなプラットフォームの上で、表現とキュレーションが分離し、それぞれモジュール化しているという構図になっているということです。



私の過去記事を読んでくださっている方には、以上の引用がどのような意図を持って行なわれたのか察しが付くと思う。


ここへ繋げたいのである。知的障害者たちのパフォーマンス。
 ⇒『心地良い「不揃いな音」』

このパフォーマンス集団「otto&orabu」が所属するしょうぶ学園の福森学園長は、彼ら知的障害者たちには「作品」という意識は皆無であることを指摘していた、とはこちらの記事で紹介したとおり。福森さんは、かれらの“作品”は“行為の結果”であり、それを健常者である施設の方でピックアップして「作品」として提示していると述べていた。まさに表現(行為)とキュレーションの分離であり、その意味で、しょうぶ学園から生み出される作品は「アウトサイダーアート」である。

ただし、これは、実は、「otto&orrabu」のパフォーマンスには当てはまらない(と、福森さんは言及してはいなかったが)。

しょうぶ学園には、他にも「nui project」といった企画がある。こちらは福森さんの言葉通り、彼らアウトサイダーたちの表現/行為を施設の側でキュレーションしたもの。ところが「otto&orrabu」では、「インサイダー」が混ざっている。表現/行為とキュレーションとが分離していないのである。

アウトサイダーアートは、アートというプラットフォームの上で表現とキュレーションとがモジュール化して成立しているもの。しかし「otto&orrabu」の場合、そのプラットフォームはあくまで一個の完成した「作品」である。つまり「otto&orrabu」においては、分離したことで見出されたアウトサイダーたちの表現/行為が、インサイダーと融合している。なので、この作品には「アウトサイダーアート」という表現は相応しくないだろうと思う。

 日本ではアウトサイダーアートはどちらかといえば「知的障害者の作る作品」というように捉えられていて、だから「アウトサイダー」(部外者)ということばが嫌われて「エイブルアート」(可能性のアート)などということばが使われていたりします。「弱者の描く無垢の絵」というような意味合いが強い。
 でもアウトサイダーアートの本来の立ち位置に戻って考えれば、それは決して無垢ではないのです。

†子どもの絵は私たちの存在を揺り動かさない

「芸術は爆発だ!」というセリフで知られる画家の岡本太郎さんは、『新版 今日の芸術』(光文社)という本の中で、子供の絵を引き合いにだして、無垢なアートという考え方を否定しています。

「子どもの絵は、たしかにのびのびしているし、いきいきとした自由感があります。それは大きな魅力だし、無邪気さにすごみさえ感じることがあります。しかし、よく考えてみてください。その魅力は、われわれの全生活、全存在をゆさぶり動かさない。――なぜだろうか。
 子どもの自由は、このように戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由ではないからです。当然無自覚であり、さらにそれは許された自由、許されているあいだだけの自由です。だから、力はない。ほほえましく、楽しくても、無内容です」

 岡本さんは、心に迫ってきて観る者をぐいぐい圧倒するような芸術は「いやったらしい」ものだとも書いています。不快感、いやらしさも一緒にやってくるのです。


正直なところをいって、しょうぶ学園が生み出す「作品」を観た後も、岡本太郎がこのような意見を保持するかどうかは疑問だ。これらの作品は、のびのび生き生きとした自由感があって、すごみがあって、われわれの全生活、全存在を揺さぶり動かす。しかも、許されたあいだだけの自由でしかない。なのに力がある。また、アウトサイダーたちは不自由を感じることないから、戦いもしない。ゆえに無内容ではあるかもしれないが、その力は観る者を圧倒的せずにはいられない。

これこそ“剥き出しの魂”の根源的な生命の力、なのだと思う。その意味で「ソウルアート」と呼ぶか、あるいは「オリジンアート」と呼ぶか。

だが「otto&orabu」は同時に“剥き出しの魂”だけでは伝わらないのだということも教えてくれる。行為が表現として他者に伝わるには「形式」がどうしても必要だ。「otto&orabu」の場合、それはインサイダーが担っている。インサイダーが形作る「形式」の中にアウトサイダーの“剥き出し”が埋め込まれている。だから観る者にも伝わる。

「otto&orabu」から伝わってくるものはふたつ。ひとつは、奇異な印象をまったく感じさせない剥き出しの魂の生命力。それは、「作品」というプラットフォーム上において、アウトサイダーとインサイダーとが分業をし、しかも融合していうことから生まれる。もうひとつは「境界のゆらぎ」である。

†セマンティックボーダーという意味の壁

 先ほど、キュレーションというのはアウトサイダーアートを美術史のどこかの場所へ接続させる行為であるということを書きました。
 これまでアートでなかったはずの作品をインサイダーのアートとしてキュレートするわけですから、これは言い換えればアウトサイダーとインサイダーのボーダーラインを新たに設定し、「これもインサイダーですよ」と定義し直す行為といえる。
 セマンティックボーダー(意味の壁)という言葉があります。
 この言葉を私は、バイオホロニクス(生命関係学)で知られる東大名誉教授、清水博さん『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』(中公新書)という名著で知りました。
 世界の複雑さは無限で、その無限である複雑をすべて自分の世界に取り込むことは出来ません。ノイズの海と私たちが直接向き合うことは、とうてい不可能なのです。だから動物や人間は、さまざまな情報の障壁をもうけて、その障壁の内側に自分だけのルールを保っている。
(中略)
 これを清水さんは「自己の世界の意味的な境界」としてセマンティックボーダーと呼んでいます。


人間のもつセマンティックボーダーの質は、動物一般とは異なる。本能に生きる動物はそのセマンティックボーダーもまた本能によって規定されたものだが、本能が壊れて人間となったヒトの場合、セマンティックボーダーは個人が棲む環境(風土や社会)に依存する。

アートというものは、セマンティックボーダーを揺るがすものである。従来、その力はアート本来のコンテンツにあると考えられてきた。コンテンツに力があるのは現在でも変わらないが、インターネットが発達して膨大な情報の海のなかで暮らすようになった我々にとっては、コンテンツを整理して適切なコンテキストを与えるキュレーションが重要になってくる。また、コンテキストそのものにもセマンティックボーダーを揺るがす力がある――このあたりが『キュレーションの時代』の主張の主旨だろう。

そこはさておき、もう一度岡本太郎の言葉に戻る。「いやったらしいもの」というところ。

アートはセマンティックボーダーを揺るがす。だからこそ全生活、全存在を揺さぶることになる。だが、そこには「いやったらしさ」が伴う。なぜか。それはセマンティックボーダーの揺らぎが、人為的な環境によって規定された範囲に留まるからであろう。“戦いをへて、苦しみ、傷つき、その結果、獲得した自由”とはつまるところ社会的なボーダーの揺らぎにすぎない。

その揺らぎが人為的・社会的なところを超えるとどうなるか。「otto&orabu」のパフォーマンスは、そこを示しているように感じる。無意味なのに力強く全存在を揺り動かす。それは“剥き出しの魂”という、パフォーマンスに接したときに得られる印象とも一致する。

先日、葉山で行なわれた「otto&orabu」のパフォーマンスの模様がUstremにアップされているので、再び紹介しておこう。

  http://www.ustream.tv/recorded/22485102

コメント

アウトサイド/インサイド

アウトサイド/インサイドの境界をどこに見出すか、という話にも絡みますね。
ゾンネンシュターンなどは軍隊からの逃亡や心霊治療等の怪しげな生業による投獄や精神科への措置入院の経験がある典型的なアウトサイダーで、中年期にたまたま絵を描き始めたところ斯界からの絶賛を受け、画業で成功を収めました。
本人は自分の作品が画壇に認められたことを口汚く罵っていますけれど。「権威」や「ラベリング」を憎んでいるのでしょう。
アウトサイダーの中にも自らの行為を「定義」し得る能力を持つ人はわりといると思いますよ。恐らくダーガーもそういうタイプだったと私は見ています。論理を他者に説明する理由・意思を持たなかっただけで。

美術も音楽も共に、表現を行う上で技能という敷居があります。例えば演奏において技能がなければ、誰であっても容易に不揃いな音楽を作り出せます。この場合、演奏を合わせようとしながらも合わないことが、聴者側にとって不快に聴こえる可能性はあります。最初からズレを包摂しているものよりも、ズレを補正しようという意志の見えるところに対して、より不調和を感じるということはありえますから。
いや、話したいのはズレのことではなく、一般的に聴者にとって重要なのは、奏者がアウトサイドとインサイドのどちらに居るかという問題よりも、むしろ技能に関わる事柄なんじゃないのかな、と。特に芸術を受容する際、鑑賞者(視聴者)はすでに予めそのように感覚を調整されている、と私は思います。

「otto&orabu」の演奏はUSTREAM、YouTubeを通して聴いた程度で、感想は前回書いたので省きますが、インサイダーがアウトサイダーの出す音を借景に見立てて演奏を重ねている印象がありました。
ことさらに合わせようと腐心してもいないし、無視してもいない感じですね。
インサイダーが技能の部分を担保している。

さて、アウトサイダーとインサイダーの協働で成功した音楽グループとして想起するのは、私の場合「SPK」です。
ニール・ヒル(精神病患者・後に自殺)とグレアム・レヴェル(看護師・音楽の素養あり・後にハリウッドのサントラ職人として成功)を核として誕生しました。初期のノイズ・インダストリアル(個人的には、彼等の音楽は特に初期はパンクに近いと感じますが)の代名詞的なグループで、ポップミュージック史に残る存在です。
SPKはメンバーのバックボーンとサウンドの形式ゆえに異端視されがちなものの、彼らは決して特別な立ち位置に居たわけではなく、パンク・ニューウェーブ期のバンドには、楽器をろくに触ったこともなかった既存の音楽の素養を持たないアウトサイダー達が少なからずいました。

彼らを補佐したのは安価になったデジタル楽器や録音機材(テープコラージュやサンプリングに用いる)でした。
インサイダーの役目を果たしたのは、テクノロジーです。
この手の「テクノロジーによって技能という敷居を破った」グループの中には聴者に受け入れられ、商業的にそれなりの成功を収めたものも少なくありません。彼等の音楽に愚樵さんが「生命力」を感じるかどうかは分かりませんが、かつてそういう時代があったこと、そして今もあることは確かです。
HIPHOPも元は安価なリズムボックスにプリセットされたリズムに合わせて、ラッパーがライミングと称する口上をのべて楽しんでいたのが始まりです。アウトサイダーアートみたいなもんです。
キュレーターなんかいませんよ。

IDMの王者として君臨するオウテカも、「カシオトーンと壊れかけたウォークマンを使って」音楽を始め、今でもコード進行なんて一つも知らないと言ってますから。

誰を「アウトサイダー」と定義するかにもよりますが、私の目から見るとアウトサイダーの作っている音楽は決して稀なものでないと思います。

すみません

・平行連晶さん、おはようございます。

お返事差し上げようと思っているんですが、なぜかうまく文章にまとまらず。
これ以上遅らせると、コメント返しをする意図がないように思われても困るので、とりあえずの返答ですが...。

『SPK』は見てみました。平行連晶さんの仰ることはなるほど思うのですが、いまいちピンとこない。

ここのところ、ピンとこないことを隠蔽して何かを書くということがますますできなくなって来てまして。そんなわけで、申し訳ありません。でも、なにかが引っかかってますから、そのうち、どこかへ着地して、文章が出てくるかもしれません。その時は、書きます。

>ピンとこないことを隠蔽して何かを書くということがますますできなくなって来て

寧ろ私は愚樵さんから返信がないと思っていたので、コメントが返ってきたのを逆に意外に思っています。
愚樵さんの姿勢は、とても誠実だと思いますよ。これは私の本心です。
先日のコメントがアンピュテーションで、次がSPKではサンプルが少々悪趣味で、「ハラスメント」と受け取られかねないので、そういう意図は全くないと申し添えておきます。

「otto&orabu」はね、生演奏を見ていない私がこう書くのも僭越なんですけれども、インサイダーもアウトサイダーも演奏を愉しんでいると思うんですよ。純粋な遊戯性が感じられる。
そこのところはSPKも同じだと思うんです。

私が彼等の音楽に出会ったのは80年代末、ニール・ヒルが脱退・死亡してサウンド面での路線を変更して以降でしたので、初期の活動をリアルタイムに追っていたわけではない。それでも、彼等の初期の活動が「商業的な」「需要」を念頭においてなされていた「作品」制作からかけ離れていたことは容易に想像が付きます。
純粋な「行為」あるいは「遊戯」だったろうと。
岡本太郎が言う「マイナスに賭ける」とか、敢えて座り難い椅子を作るようなものであったかも知れない。彼等の攻撃的な面にのみ焦点を当てれば。

アウトプットの「形」は問題じゃないと思うんです。大事なのは純粋な遊戯性を感じられるかどうか。
だから同じだと思う。

「otto&orabu」に魅了される愚樵さんが、SPKにはピンと来ないのは、それは当たり前だと思います。
「個には必ず特有の呼吸がある。無意識の内に好む型・嫌う型があり 自ずとその者独自の流れを形作る」(『ハンター×ハンター』第28巻より引用)ものですから。
それが愚樵さんの個性なんでしょう。

愚樵さんの捉える「アウトサイダー」と私のそれとがズレているところが、愚樵さんにとって「ピンと来ない」ところに繋がっている面もあるでしょうね。でも、私のほうで愚樵さんのエントリに向けて調整したコメントを書けば、今度は私がいくばくかの隠蔽を行うことになりかねない。
ですから、書きにくいときは返信なしでいいんです。
私は私の中から出てきたものを率直に投稿するだけですから。そういうのが楽しい。これも一種の遊戯です。

ピンとこなかったのは

平行連晶さん、おはようございます。

「otto&orabu」の遊戯性はネット上の動画でも十分に読み取れると思うんですが、「SPK」は、少なくとも私が観た範囲においては、遊戯性がよくわからなかったんです。

テクノロジーがインサイダーの役割を果たす。その可能性は頭では理解できます。が、テクノロジーそのものには遊戯性はない。テクノロジーをどう使うかで遊戯性が出てくるわけですが、その当たりがよくわからなかった。私の感触では、「遊戯」なのか「主張」なのか、その当たりが判然としないんです。

遊戯性の宿る場所。

テクノロジー(=マシーン)の遊戯性をもうちょっと直截に感じられるとしたら、こんな演奏がいいかも知れませんね。
http://www.youtube.com/watch?v=57h9pzNaQDU

Pierre Bastienは通常の演奏技術がある人ですから、アウトサイダーとは呼び辛いかも。
ともあれ、自動演奏機械のギクシャクしたユーモラスな演奏に、耳を傾けて頂ければ。

私は自立して自律的に回っている独楽や、からくり人形(三番叟とかですね)に無為と遊戯性を感じます。テクノロジー(=マシーン)にアニミズム的な生命観を抱き易いのかも知れません。オウテカ辺りを聴いていても、時に音そのものが独立した生命であるかのように感じますよ。
http://www.youtube.com/watch?v=eKw4pN5rWDo

オウテカのメンバーは曲作りに関して、「自分でも何をやっているかよく分かっていない。出来上がってきたものにイントロとアウトロを付けているだけ」と語っています。

それから「行為」と「主張」の話。
アウトサイダーにも色々なタイプがいまして、もともと一般的な社会生活をしていた人が精神病を発症した後に創作行為を始めた場合、行為にはある意味や主張が含まれていることがわりと多い印象を受けます。
行為の動機や主張といった文脈がインサイダーの感覚からは捉え難いだけで。

私が純粋な遊戯(或いは純粋な行為)に対置するのは、「主張」ではなく寧ろ「サーヴィス」です。そこらは愚樵さんとの感受性の違いかもしれませんね。
でも、その違いが面白い。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/683-bdf922bd

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード