愚慫空論

「市民エリート」を考えるにあたって、『聖杯問答』

久々に、アニメネタで行ってみたいと思う。

Fate/Zero

これは始まり(ゼロ)に至る物語――、なんだそうだ。


もともとは虚淵玄の伝奇小説(ライトノベル)なんだそうだが、そちらは読んでいない。観ているのは、アニメのみ。
虚淵玄といえば『魔法少女 まどか☆マギカ』だが、それに劣らず、魅力的なアニメだと思う。なによりキャラクターの個性が際立っている。

今回は、このアニメに登場してくるキャラクターの人物像から「エリート」について語ってみたいと思うわけだが、少しだけ『Fate/Zero』の舞台設定を説明しておこう。

まず、どんな願いでも叶えるという「聖杯」なるものがある。その「聖杯」を巡って7人の魔術師たちが争う「聖杯戦争」が、物語の主舞台となる。また、それぞれの魔術師はマスターとなって、歴史上の英雄(英霊)をひとりサーヴァントとして召喚できる。

で、ここで取り上げるのは、そのサーヴァントのうちの二人。「セイバー」と呼称されるアーサー・ペンドラゴン。「円卓の騎士」をたちを束ね、宝剣「エクスかリバー」を携えた伝説の王。それが、このアニメではなぜか女性の設定になっている。
もうひとりは、「ライダー」と称される征服王イスカンダル。要するにアレクサンダー大王。

第11話『聖杯問答』において、このふたりに英雄王ギルガメッシュを加えた三人が、「王とは何か」について問答をする。この問答がなかなか興味深いのである。(なお、ここではギルガメッシュの主張は省略する。

そのセリフを抜き出してみよう。

セイバー: そうまでして、聖杯に何を求める?
ライダー: 受肉だ。
       いくら魔力で現界しているとはいえ、所詮我らはサーバント。
       余は転生したこの世界に、一個の命として根を下ろしたい。
       体ひとつの我を張って、天と地に向かい合う。
       それが、征服という行いのすべて。
       そのように開始し、推し進め、成し遂げてこその、我が覇道なのだ。
セイバー: そんなものは、王の在り方ではない。
       私は、我が故郷の救済を願う。
       万能の願望器をもってして、ブリテンの滅びの運命を変える。
ライダー: なあ、騎士王? 貴様、いま、運命を変えると言ったか?
       それは、過去の歴史を覆すということか?
セイバー: そうだ。たとえ奇跡をもって叶わぬ願いだろうと、
       聖杯が真に万能であるならば、必ずや...
ライダー: 貴様、よりにもよって、自らが歴史に刻んだ行いを否定するというのか?
セイバー: そうとも。なぜ訝る? なぜ笑う? 
       剣を預かり、身命を捧げた故国が滅んだのだ。
       それを悼むのがどうしておかしい?
セイバー: 王たる者ならば、身を挺して治める国の繁栄を願うはず。
ライダー: いいや、違う。王が捧げるのではない。
       国が、民草が、その身命を王に捧げるのだ。
       断じて、その逆ではない。
セイバー: なにを? それは暴君の治世ではないか。
ライダー: 然り。我らは暴君であるがゆえに、英雄だ。
       だがな、セイバー。
       自らの治世を、その結末を悔やむ王がいるとしたら、それはただの暗君だ。
       暴君より始末が悪い。
セイバー: イスカンダル。貴様とて、世継ぎを葬られ、
       築き上げた帝国は3つに引き裂かれて終わったはずだ。
       その結末に、貴様は何の悔いもないというのか。
ライダー: ない。
       余の決断、余に付き従った臣下たちの生き様の果てに辿り着いた結末ならば、
       その滅びは必定だ。
       悼みもしよう。涙も流そう。だが、決して悔やみはしない。
       まして、それを覆すなど!
       そんな愚行は、余とともに時代を築いたすべての人間に対する侮辱である。
セイバー: 滅びの花を誉れとするのは、武人だけだ。
       力無き者を守らずして、どうする?
       正しき統制。正しき治世。それこそが王の本懐だろう。
ライダー: で? 王たる貴様は、「正しさ」の奴隷か?
セイバー: それでいい。理想に殉してこそ王だ。
ライダー: そんな生き方は人ではない。
セイバー: 王として国を治めるのなら、人の生き方など望めない。
       征服王。たかだか我が身の可愛さの余り、
       聖杯を求めるという貴様にはわかるまい。
       飽くなき欲望を満たすために、覇王となった貴様には。
ライダー: 無力な王など飾り物にも劣るわい!
       セイバーよ。理想に殉じると貴様は言ったな。
       なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な賢者だったことだろう。
       さぞや高貴で侵しがたい姿であったことだろう。
       だがな。殉教などという茨に道に、いったい誰が憧れる? 
       焦がれるほどの夢を見る?
       王とはな。誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する。
       清濁を含めて、人の臨界を極めたる者。
       そうあるからこそ、臣下は王に羨望し、魅せられる。
       ひとり一人の民草の心に、我もまた王たらんと、憧憬の火が点る。
ライダー: 騎士道の誉れたる王よ。
       確かに貴様が掲げた正義と理想は、
       ひとたび臣民を救い、国を救済したやもしれぬ。
       だがな。
       ただ救われただけの連中がどういう末路を辿ったか。
       それを知らぬ貴様ではあるまい。
ライダー: 貴様は臣下を救うばかりで、導くことをしなかった。
       王の欲の形を示すこともなく、道を見失った臣下を棄ておき、
       ただひとりで澄まし顔のまま、小綺麗な理想とやらを思い焦がれていただけよ。
       ゆえに貴様は生粋の王ではない。
       己のためではなく、他人のための、
       王という偶像に縛れていただけの小娘に過ぎぬ。 

ライダー: 王とは、誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉。
       すべての勇者の羨望を束ね、その道標として立つ者が、王。  
       ゆえに、王とは孤高にあらず。
       その意志は、全ての臣民の志の総算たるが故に。

      
このライダーのいう王。これこそまさに「エリート」であろう。

きみがモテれば、社会は変わる。

実はこの宮台氏の新著、私はまだ未読である。なのに、ライダーの主張にこの本を思い浮かべた。いや、逆か。この本の主張から、ライダーのセリフを思い起こしたのだ。この本の主張の「エリート」に関する部分は、こちらにまとめられてある。私が読んだのはこれである。

数学屋のメガネ:
  『きみがモテれば、社会は変わる』 1<宮台真司さんの現状分析の的確さ>
  『きみがモテれば、社会は変わる』 2
    <「モテるやつ」というエリートは日本の「空気」を変えられるか>

  『きみがモテれば、社会は変わる』 3<「エリート」と重なる諸概念>

(よって、私は宮台氏の主張に直に触れたわけではないことになるが、マル激などで宮台氏の主張にはこれまでも接してはいる。それからすると違和感はない。ただし、後日、本書は読んでみるつもりでいる。違った感想を持ったなら、またその時は当ブログで取り上げようと思う。)

宮台さんが語るエリートは、象徴的な言葉で「モテるやつ」と語られる。これは象徴なので、具体的に理解しなければ間違って受け止める。もう少し具体的に表現すると「他人を幸せにすることが出来るやつ」ということになる。これでもまだ抽象的だ。もっと具体的に受け止めるためには、現在の社会との関連で考えた方がいい。そこに「空気」に支配された「悪い心の習慣を持った」「悪い共同体」というものが顔を出してくる。この現状を変える可能性を秘めたものとして「モテるやつ」という概念が出てくる。


私は、象徴的な「モテるやつ」という言葉の具体像として、アニメ『Fate/Zero』に描かれた征服王イスカンダル(マケドニア王アレクサンドロス3世)を想起したというわけだ。

宮台さんは、単なる「いい人」では共同体の存続を支えるだけで改革は出来ないと指摘する。「いい人」は、共同体にとって都合の「いい人」になる。決して他者を幸せにするような「モテるやつ」にはならない。他者一般ではなく、共同体の存続を望む特定の利害に絡んでいる人を「楽にする」存在となる。これは決して本当の幸せではないので「楽」という表現を使った。この「いい人」を脱却して、どうすれば他者を幸せに出来るかと言うことを考えなければ「モテるやつ」にはなれない。


ここで言われる「いい人」は、“セイバー”こと、女性の姿に改められたアーサー・ペンドラゴンである。そして「幸せ」とは、“ライダー”ことアレクサンダーが語る「憧憬」ということになる。

この「いい人」は、自分の正直な感覚を抑えて、他者が期待する像に合わせて自分の心を抑えつける人間のイメージが浮かんでくる。安冨さんが指摘するような、学習に閉ざされた人間だ。だから「いい人」を脱却するには、安冨さんが提唱するように、自分の感覚に正直になり学習に開かれることが必要に感じる。宮台さんが語る「モテるやつ」と安冨さんの学習に開かれた人間とはイメージが重なる。重ならないのは、宮台さんの論理ではそれが「エリート」になり、安冨さんの論理では、必ずしもエリートでなくてもよく、結果的に君子になると言うことだろうか。


この記述は『きみがモテれば、社会は変わる』の枠を超えた、数学屋・秀さんのもの。

私はこの記述に基本的に同意するが、「君子」というのもやはりエリート的なイメージが強いので、宮台氏のいう「ミメーシス」と安冨先生の「学習」の差異が明確なっていないように感じる。なので私は、次のように言ってみたい。
ライダー
宮台氏の「ミメーシス」は、アレクサンダーの造形に象徴されるように、極めて父権的。対して、安冨先生の「学習」は男女を問わない。男性的にも、女性的に「学習」は行なうことができる。

(ちなみにいうと、私は宮台的「エリート」「ミメーシス」に、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』を想起するが、ここいらは直接『きみがモテれば、』に当たって検証してみることにしよう。)

セイバー『fate/Zero』において、セイバーが女性として設定されている意味は、ここにあるのではないかと私は想像している。セイバーは、女性でありながら男性的騎士王である。これを「学習」という観点から見てみると、女性が男性の姿をなぞっているがゆえに、母権的学習を阻まれている、ということになる。その結果、誰も憧れもしない、「理想に殉じる」という悲劇に陥る。

母権的学習となれば、思い起こされるのは、同じく虚淵玄による『魔法少女 まどか☆マギカ』だ。主人公の鹿目まどかは、母権的学習をくり返した後に、「希望の純粋形」とでも言うべきところへ立ち至る。『fate/Zero』はかなり複雑な展開を見せているので、どのような形で結末するのかはわからないけれども、主人公がセイバーであるのなら、再び母権的学習の形が提示されることになるのかもしれない。

思うに、父権的学習の鍵が「憧憬」であるなら、母権的学習の鍵は「負い目」だろう。そしてさらに言えば、「憧憬」は魂の属性。「負い目」は霊の属性であろう。

魂とは、生命の〈本来的運動〉である。よって、生物なら、あらゆるものが魂を持つ。対して、霊を持つのはヒトのみ、あるいはごく限られた生物種のみ。ヒトは、インターフェイスに霊を持つことで人間になる。

生命の〈本来的運動〉である魂は、生きることそのものである。「憧憬」は、霊的生物でなければ持つことのない感情ではあろうけれども、規定された本能を持たないヒトの魂の〈本来的運動〉への希求と考えられるから、魂の属性としてよいだろう。不思議なのは「負い目」である。

こちらで示したように、人間はなぜか根源的な「負い目」を持つ。西洋的には「形而上の罪」という形で。日本的には「人情」という形で。生きてあることそのものになぜか疚しさを感じてしまう。

人間が美を求め、自身の能力の枠を超えた秩序を求めるのは、霊の属性になる「負い目」に因るところが大きいと私は思っている。「生きる」ことは美でもなければ真でもなく、また善でもない。霊的動物でない者たちは、各々懸命に生きようとするが、己が生きているという事実と生かしてくれる自然とに「美」を感じることはなかろうと想像する。「正」である「生」に「負」が組み合わせるからこそ「美」は生じ、「美」が生じるからこそ、「真」も「善」もある。

私が、ずっと以前から宮台氏の主張にどこか違和感を感じていた。確かに論理は明快だし、その上に情熱もある。非の打ち所がないように思えるが、何か欠けているものがあるようなずっと気がしていた。今、思うのは、それが「負い目」だということだ。といって、宮台氏の論理に「真善美」がないというわけではない。そうではなくて、宮台氏に「負い目」が感じられないということ。それはつまり、その論理の「美」は借り物でしかないということになってしまうが、そう言葉にしてみると、私の抱いている違和感とピッタリ一致してしまうのである。

といって、私は「市民エリート」という概念そのものを批判しようというのではない。“生きてあること”の負い目を、イエス・キリストの一身に背負わせてしまったといった類の「負い目」を感じるなら、「市民エリート」はバランスの取れたものとして機能することはありえると思う。が、日本人には、まず無理だろうと思う。

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