愚慫空論

魂に「蓋」をするもの その2

5/5に葉山で行なわれた

 語る+聴く「しょうぶ学園」 福森伸・皆川明・中村好文と、otto & orabu

での、ライブパフォーマンスの様子がUSTREAMにアップされた。

 http://www.ustream.tv/recorded/22485102

以上、紹介しておいて、その1の続き。

その1では、知的障害者の魂が“剥き出し”なのは、魂を“コーティング”するインターフェイスが未発達であるため、ということだった。インターフェイスが発達する健常者の場合、魂に「蓋」をするのは、ハラスメント連鎖の結果とはいえ、自分自身である。

我々健常者は、“健常”とはいいながら、多くの場合、インターフェイスの発達は甚だ不健全なものでしかない。その結果として生じるのが「魂の植民地化」である。健常者はインターフェイスを発達させてしまうばかりに、魂が植民地化されてしまう危険性も背負うことになる。

(右図は『ハラスメントは連鎖する』よりの引用。
ハラスメント魂/インターフェイス/外界 「切断」の三態様。)

「魂の植民地化」と不健全なインターフェイスによる「切断」とが、大きく関係することは間違いないだろう。問題はインターフェイスの「中身」である。私はこれまでも、インターフェイス(器)の中に存在するものを〈霊〉と表現してきた。


ヒトはインターフェイスを発達させることによって人間になる。インターフェイスとは人間の心・人格の外側である外界に実在する他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、ここが自然に発達すると、インターフェイスのなかで他者の「像」が結ばれることになる。この「像」が〈霊〉である。(『〈霊〉を定義する』


ここでいう「他者」の定義をしておきたいが、これが難しい。“他人”の意に留まらず、ヒトが感覚するさまざまなモノ・コトが「他者」である。さらには言語や過去の記憶、未来への想像なども「他者」に含まれる。安冨先生の言い方を借りれば「地平」ということになろうか。

「魂の植民地化」および「魂の脱植民地化」は、「地平」という言葉で定義されている。

【定義1】 魂の植民地化とは、自らのではなく、他人の地平を生きるようになること、である。
【定義2】 魂の脱植民地化とは、他人のではなく、自らの地平を生きるようになること、である。


私は、〈霊〉という言葉を用いて、この定義を以下のように言い換えてみたい。

【定義1】 魂の植民地化とは、【悪霊】によってインターフェイスが満たされた状態になること、である。
【定義2】 魂の脱植民地化とは、〈霊〉によってインターフェイスが満たされている状態になること、である。

(ちなみにいうと、魂にとってはインターフェイスが「世界」である。よって、当ブログの標語して掲げてある“世界を〈霊〉で満たせ”というのは“魂を脱植民地化せよ”と同じ意味になる。)

【悪霊】が出てきたので説明しなければなるまい。【悪霊】とは学習を停止した「霊」のこと。また、〈霊〉とは学習を継続しその質〈クオリティ〉を高め続けている「霊」を指す。
(【悪霊】を【霊】と表記しても同じ意味になるが、より意味を明確にするために【悪霊】としている。)

健常者のインターフェイスを不健全なものにして魂に「蓋」をし、魂を植民地化させてしまうものは【悪霊】である。人間は【悪霊】に「憑依」されてしまうことで、魂が植民地化してしまうことになる。


人間はインターフェイスに多種多様な霊を棲まわせる。インターフェイスに新たに霊を棲まわせることを「憑依」と表現する。「憑依」するのは〈霊〉【悪霊】とを問わない。


イメージとしての【悪霊】は透明度が低い濁った存在。【悪霊】に憑依されつくした魂は、“濁り”によって【蓋】をされ植民地化される。魂からの純粋なメッセージは外界へ出ることがなく、また外界から純粋なメッセージが届いても、“濁り”によって魂に届くことがない。


いうまでもなく、魂の植民地化/脱植民地化は、スイッチがオン/オフになるように切り替わるものではない。人間は多様であり、植民地化された部分もあれば、そうでない部分もあるということは十分あり得る。外では冷徹なビジネスマンが内では優しい子煩悩は家庭人というのは、容易に想像がつく。人間は容易に【悪霊】に憑依され魂が植民地化されてしまうものだが、さりとてそう簡単に完全に【蓋】をされてしまうものでもないかもしれない。多くの場合、どこかに〈窓〉が開いている。この〈窓〉が〈霊〉である。完全なる【蓋】の下では魂は生きながらえることは、おそらくは出来ないだろう。


このことは私自身の魂の遍歴から言えることでもある。学生時代、あるいは勤め人時代は、私の魂からの風景は確かに濁った【蓋】に覆われていた。しかし、思い返せば陽の光の差す〈窓〉がなかったわけではない。具体例を挙げれば、山がそうであり西洋クラシック音楽がそうであった。

これらは私の逃避先だった。しかし、単に逃避していてうずくまっていたわけではない。そこでは〈学習〉をしていた。魂は〈学習〉をせずにはいられないものらしい。

このことは、私の記憶の態様が証明している(といって、他人に証明してみせることはできないが)。仮にあるワード(「○○山」とか「××の交響曲第△番」とか)が与えられたとしよう。それがキーワードであったなら、そこから記憶が数珠つなぎで出てくることになる。さまざまな記憶がネットワークを形成していて、ひとつの事柄を引っ張り出せば、それに関連していくつもの事柄がくっついてくる。なので、語り出せばきりがなくなってしまう。
(この「事柄」も〈霊〉だと考えるなら、〈霊〉同士は互いに関連し合うということができよう。)

この“記憶の数珠つなぎ”は、濁った【蓋】に覆われていた時代にも続いていく。それらの記憶を引っ張り出していくとき、そこには愉悦感・自在感が伴う。

逆に、学問や仕事は「張りぼて」と化していた。【悪霊】である。

この時代、もっとも労力を費やしたのがこの方面であった。なので記憶はかなり残ってはいる。が、“数珠つなぎ”とはいかない。記憶はどうしても断片化してしまっているし、それをつなぎ合わすにはかなりの努力が必要だ。愉悦感はもちろんない。自在感もない。出てくるのは喪失感。また、その喪失感を誤魔化すためだろう。記憶を都合良く入れ替えようとする無意識な動きも出てきてしまうようにも感じる。

しかし、くり返すが、こういった「地平」・【悪霊】に私は身を削るほどに労力を傾けていた。これを【憑依】と表現するのは適切だろう。が、一方で、〈窓〉〈霊〉の方にだって〈憑依〉と表現することが似つかわしくないとも思えない。


上は、〈霊〉の概念を取り入れた〈学習〉のイメージ図である。A、Bともにインターフェイスを持つので、想定しているのは人間同士の〈学習〉。

人間のインターフェイスは、対象の中へと侵入してゆき、霊を生成する。侵入されれば「憑依」である。どちらが侵入し、侵入されたかは定かでないこともあるし、そういう場合の方が多いだろう。よって「憑依」も語もあくまで便宜的なものではある。

〈学習〉においては、ともにインターフェイスの中に存在する〈霊〉同士が情報をを交わし合う。そうすることで〈霊〉の〈クオリティ〉が向上する。〈霊〉には魂から生命力が流入する。また〈霊〉の〈クオリティ〉上昇は魂に生命力を与える。

ひとつのインターフェイスの中に存在する〈霊〉同士もまた情報を交換し合うことになると思われる。


こちらはハラスメントのイメージになる。Bの方が【悪霊】を抱えていた場合だ。

【悪霊】は、魂から生命力を奪い取られる。多くの【悪霊】に憑依され植民地化されている魂は、生命力のエネルギー収支は負になるだろう。そうした魂は、他の魂にハラスメントを仕掛けることで生命力を奪い取ろうとする。他人が発するメッセージのコンテキストを解せず、自分の都合のよいように名を歪めて解釈し、権威を背景に歪んだ解釈を押しつける。そうすることで不足する魂の生命力を補おうとする。不幸な魂だ。


インターフェイスの状態が健全な魂は、生命力に満たされ幸福である。

健全なインターフェイスとは、〈学習〉する〈霊〉に満たされた状態である。〈学習〉は対象が人間の場合には常に成功するとは限らないが、魂の生命力に余力がある場合には、〈学習〉が成立するまで待機することができる。この「待機」を別の表現で言い換えれば「贈与」であろう。すなわち「贈与」とは、幸福な魂による幸福の“お裾分け”である。

地球


その“お裾分け”は、私たち人間が母なる大地から受け取っている「恵み」と、同質のものであるように思う。孔子先生が提唱した「仁」も、それなのかもしれない。

健全なインターフェイスは、常に〈学習〉しようと待ち構えている。〈学習〉の対象は、遭遇してみないことにはその正体はわからない。特に人生経験が不足する子どもはそうだし、また子どもほど〈学習〉への構えは強い。つまり、憑依されやすいのである。〈学習〉が成功するか否かは、出会う霊の性質によることになる。これは「機縁」であろう。

強靱な魂を宿したインターフェイス(=人格)は、不成立な〈学習〉にも「待機」をし、「贈与」を行なうことができる。真の「大人(君子)」とはそういうもののはず。

君子とは、なろうと意志を持ちさえすればなれるような性質のものではないのだろう。君子へとインターフェイスを成長させるには、善き〈霊〉との機縁が欠かせない。だとするなら、社会に君子を増やそうとするならば、社会を善き〈霊〉を満たさなければならないことになる。それにはまず自身の魂を幸福にすることだろう。そして幸福になるには〈学習〉が欠かせない。

きみがモテれば、社会は変わる。

宮台真司氏の新著の主張も、そのようなものなのかもしれない。

コメント

こんばんは。はりぼて、使って頂きありがとうございます。
お恥ずかしながら未読なのですが、魂と霊を分ける理由、魂と霊の定義は、原本に書いてありますか?

〈霊〉は私独自の定義です。

よしこさん、おはようございます。

未読というのは『ハラスメントは連鎖する』ですよね? いいえ、原書には出てきません。私の勝手な定義です。

〈霊〉というのはもちろん「魂」に対応させての術語です。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-638.html のノートをご覧下さい。また〈霊〉についてはいろいろ書き散らしています。ブログ左上の掛け軸をクリックしていただきますと関連記事に飛びますので、よろしかったらご覧になってください。

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