愚慫空論

自己表現の悦びと技術について

今朝ネットにアクセスすると、まず目に飛び込んできたのがヤフーのヘットラインにあったこの記事。

脳科学で解明、人が自分について語りたがるわけ─氾濫するSNS
ウォール・ストリート・ジャーナル 5月9日(水)10時9分配信

 自分について話すことが、食べ物やお金で感じるのと同じ「喜びの感覚」を脳のなかに呼び起こすことが、7日発表された研究で明らかになった。個人的な会話であっても、フェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアでの発信であっても、それは変わらない。

 日常会話の約40%は、自分が何を感じ、どう考えたかを他人に話すことで占められている。米ハーバード大学の神経科学者らが脳画像診断と行動に関する5つの実験を行い、その理由を解明した。脳細胞とシナプスがかなり満足感を得るため、自分の考えを話すことを止められないのだ。

 「セルフディスクロージャー(自己開示)は特に満足度が高い」と同大学の神経科学者、ダイアナ・タミール氏は話す。タミール氏は同僚のジェイソン・ミッチェル氏と実験を行った。両氏の研究は米国科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載された。タミール氏は「人は自分のことを話すためには、お金さえあきらめる」と指摘する。


この研究報告は、私たち自身の実感としても納得がいく。私たちは、自分のことを語りたい。自己表現をしたい。そうした欲求は間違いなくあって、その欲求が満たされたときに悦びを感じる。

これに関連して思い出したのが、先の記事で紹介したしょうぶ学園の学園長福森さんが、先日の葉山のイベントで語っていたこと。知的障害者たちはとにかく「足し算」なんだ、と。

「足し算」というのは、自己表現であろう。もっとも知的障害者には“自己表現”という意識もなく、とにかく「行為」することに悦びを見出していて、それがそのまま“魂の発露”になるわけだが。つまり、自己表現は人間という存在のかなり深いところから出てくる欲求なんだということであり、その欲求に自己規制がかかってしまうことが「魂の植民地化」ということなのだろう、ということ。

では、魂が植民地化されてしまった不健全な健常者も、自己表現の悦びを感じるのだろうか? 間違いなく感じているだろう。ネット上に溢れる批判ないしは誹謗中傷もまた自己表現に他ならないわけで、そしてそうした自己表現を為すのは「悦び」を欲求しているからに違いなくて、つまり他者の否定が悦びになっているという「現実」がある。否定された他者は嬉しいはずがないから、そうした荒れた場では「悦び」の争奪戦になってしまう。植民地化された魂は、他の魂を植民地化することに悦びを見出す、と言っても良かろう。あるいは「ハラスメントの連鎖」だ。

そうなると、健常者の場合には、単純に「足し算」すればよいといったことではなくなってしまう。「引き算」という「技術」が必要になってくる。

 ボソボソとつぶやく(光るナス)

技術は ある意味、徹頭徹尾「自分」を消していく作業だけれど、技術を使って相手の中に入った後は、もろにその「自分」が出る。
勝負どころはその「自分」が出るとき。
結局「自分」が問われてしまう。

技術の稽古や研鑽が必要なのは、その「自分」というか「我」に気がつくことが必要だから。
「我」を否定していく技術の稽古がないと、これはなかなか難しいように感じる。
だから、「思い込み」を排したいなら、やっぱり技術の稽古はどうしても必要。


 スッと入って「ね♪」って笑う(光るナス)

「型の動き」が伝えるもので、相手の無意識の抵抗をもスッとかいくぐって、いきなり相手の懐のど真ん中に入ってしまう。
「型の動き」が出来るようになると、それが可能になってきます。
カギがかかっていても、スッと入れちゃう。

だけど、そのあとが問題なんだな・・・、この話を聞いていて それが得心できました。
いくらスッと入れたって、「うらめしや~」じゃダメなんですよね。 (^_^;)
そのあとにどうするのか、どうなのか、そこが最大の問題なんだ。
イエスの「シャローム」に、そんなことを想いました。

スッと入れてしまう技術があっても、自分が「お岩さん」じゃどうしようもないわけです。
やっぱり「自分」が問われてしまう。
技術ができるに越したことはないんですが、それは結局 便利なツールでしかない。
動けたからといって「素晴らしい人」「懐かしい人」になるわけではない。
「型の動き」が出来るようになっても、「動けますね」というだけの話なんですよね。


人間という生き物が他の者たちよりも優れている点のひとつは、「技術」を編み出し修得することができるというところ。複雑怪奇なレベルにまで技術を高めてしまうことができ、いろいろな用途に使える。自身を隠蔽するためにも使えてしまったりして、そのことが「魂の植民地化」を生み出すもとになる。

アキラさんがここでいう“スッと入れてしまう技術”とは他人の中へと入ることを言っているのだけれども、それは必ずしも他人にだけ働く性質のものではないと思う。むしろ、自身にスッとかどうかはわかならいけど、入り込んでしまう技術。特に現代人はそういう【技術】を発達させてしまっているように思える。

(その典型が「東大話法」か?)

そう捉えてみると、“徹頭徹尾「自分」を消していく”という技術は、自身に掛けた【技術】を解除していく〈技術〉だとも言えるだろう。でも、それができたからといって「魂の脱植民地化」できるのかといえば、まだそうはいかない。その「自分」が「うらめしや~」と言っているのか「シャローム」と言っているのかで違ってしまう。

(ちなみに私は「うらめしや~」って言っています。)

「うらめしや~」と言っているなら、そこへ愉氣をしようよ、と。“スッと入って「ね♪」って笑う”というのは、そういうことなんだろう、と。もっとも、「うらめしや~」と言っている「自分」に出会うことができれば、多くのモノが「ね♪」って笑っていることにも気がついてしまいますけど。自然は美しいし、子どもたちは笑っているしね。植民地化されなければ、魂というのは笑っているもの。そして、植民地化されてしまうのは人間だけ。いや、健常者だけ。

知的障害者の魂は、笑っていた。健常者が抑圧しなければ彼らは笑い出すんだよね。赤ん坊と同じように。そうすると、それが自ずから自己表現になる。この場合の自己表現は、植物が春になると芽吹いて花を咲かせ、秋になると実を結ぶように、自然の「成り行き」でしかない。

自然の「成り行き」には、悦びに満ちあふれているように感じられる。たとえその「成り行き」の末に、「自分」が消滅していくのだとしても。

コメント

自らを語るとき

愚樵さん こんにちは。

自分を語ると脳が悦ぶ、なるほど、興味深い記事ですね。
自分にあてはめて考えてみたのですが、私がそうしたい、そうせねばと思うときは、自身のことはさておいて、自分の考えなり作品なりを提示するときに、聞く人見る人にまず自分がどういう人間なのかを知ってもらいたいという願いが先にたつことでやっとそうします。本のカバーの「筆者略歴」の内容如何で読み心地が変わるという経験からきているような気もします。
しかし結局は考え・作品という自己表現に繋がっていくのですがら同じことなのでしょうね。作品とは自身の写し絵みたいなものですから。

魂の愉悦

・あやみさん、おはようございます。

科学的な表現としては“脳が悦ぶ”でしょうが、私としては“魂の愉悦”と言いたいところ、です。
もっとも、これも私の表現ですが、愉悦になるのは〈霊〉の場合。【悪霊】だと苦痛になるので隠蔽しようとする。真実を憎悪する者も少なくありませんから、自分を語ることが全て脳の悦びになるとは言えないように思います。

本のカバーの「筆者略歴」の内容如何で読み心地が変わる

コンテンツの意味はコンテキストによって変化する、ということでしょうね。筆者の経歴は、書物(コンテンツ)に対するコンテキストに相当する。

作品とは自身の写し絵みたいなもの

ですね。もっとも、最初のコンテキストに影響されたままの読み手もかなり多いが実際でしょうが。

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