愚慫空論

魂に「蓋」をするもの その1

先の5月5日、「不揃いな音」に出会ってきた。

 心地よい「不揃いな音」


リアルに出会った「不揃いな音」は、“心地良い”という領域を越えて“むき出しの魂”というべきものだった。

(葉山で行なわれた当日の様子は、今週中にUSTREAMにアップされる予定と聞いている。尽力してくださっている方々がいるのだ。感謝。)

 語る+聴く「しょうぶ学園」 福森伸・皆川明・中村好文と、otto & orabu

こちらのtogetterは、5/5のイベントを巡る一連のツイートをまとめられたもの。以下、5/6の私のツイートを抜き出してみる。

・確かに、あれは「むき出しの魂」の鳴動だった。「むき出しの魂」は、技術を用いてアンサンブルしなくても、ダイレクトの観る者の魂へと響く。 RT @yoshikonome: 今日、ここに極楽浄土があった。しょうぶ学園から来た、魂の音楽隊。 http://t.co/2nQKDPbi 

・「語る」も「聴く」も素晴らしかった。加えて、ポンナレット葉山の家で展示されていた“作品”を「観る」ことも。 http://t.co/uiD6Ebdm

・「工房しょうぶ」の“作品”を観た後、私はこれは果たして“作品”なのかと、あそこで用いられているのは果たして“技術”なのかと@tanakazuhikoさんと話をした。「語る」で学園長の福森さんは、“作品”というより“行為の結果”と述べられていた。さすがに現場におられる方の言葉は違う。

・「作品」や「技術」といった言葉は、「健常者の言葉」である。彼らの“作品”は「健常者の言葉」で不用意には語れない。彼らに接すると、私たちは言葉ですらすでに「健常者」という枠の中に取り込まれてしまっていることに気がつかされる。

・福森さんが語っておられたことを、勝手にまとめさせてもらうと、こうなるだろうか。障害者たちに健常者という枠から出てくる「作品」を強要することをやめると、「行為」がむき出しになって出てきた。「行為」とは、何らの目的も持たない、行為することが目的とした言いようがないもの。

・健常者は、障害者たちの「行為の結果」を「作品」として見立てて健常者の世界へ持ち込む。それは銭勘定の世界でもある。が、障害者たちにとってはそういった世界は埒外だ。彼らには「行為」こそが全てであって、「作品」にはもはや関心がない。

・彼らは、「行為」中の“作品”を取り上げられると激しく抗議するが、健常者から見て「作品」となったものは、目の前でゴミ箱に捨てられても意に介さないという。自由な魂とは、まさにこのことか。

・また、作り上げた「作品」を解体することで“作品”にすることもある、という。せっかく(というのは健常者の感覚)縫い上げた刺繍の糸を全部抜き取って、「行為」は終了。魂は「行為」の中にあって、なんらの形も持たない。

・そうした自由でむき出しの魂は、「聴く」の方にもよく現われていた。彼らが奏でたのは「自然の音」だったと思う。たとえば、鳥や虫たちの鳴き声のような。

・今、朝に森へ入ると鳥たちの囀りが喧しいくらいだが、鳥たちは彼ら自身の気の趣くままに「行為」をしているだけだ。もとよりリズムやハーモニーを揃えようなどという意識はない。しかし、そうした「行為」を聴く私たちは、その「バラバラの音」になぜか一体感を感じたりする。

・しょうぶ学園が主宰する「otto」というパーカンションバンドのコンセプトは「心地良い不揃いの音」だという。なるほど、確かに不揃いだ。しかし、“不揃い”という言からして、すでに「自然な音」しか奏でられない健常者の言葉の枠内である。「自然の音」が揃うことは、初めからあり得ない。

・健常者にだって「自然の音」は出すことはできる。何も考えずに音を出せばいいのだから、簡単だ。しかし、それを自己表現として、「自然の音」を出し続けることはできるだろうか。 集中力が持続するだろうか。ほとんど不可能のように私には思える。が、彼らはそれを容易にこなす。

・「障害者」という呼称がそもそも“健常者の言葉”なのは言うまでもない。そのような反省はいままでもあった。とはいうものの、その反省にはどこか空虚なものがあったと思う。現実の問題として、彼らは我々健常者と比較して、機能的に劣っていると言わざるを得ないと考えられているからだ。

・健常者の世界は「作品」を必要とする。障害者だってその生を繋いでいくには「作品」が必要であり、彼らは「作品」を再生産する能力においては間違いなく劣る。機械的に“生きる”という問題に限定すれば、彼らを「障害者」と呼ぶことに誤りはなかろう。

・しかし、私たちは機械的に生きているわけではない。「生きる」というのは魂の作動である。その観点から見てみれば、彼らは健常者には困難な芸当を容易にこなす「異能者」である。ただし、異能とはいっても、彼らと我々の魂は共通だ。だからダイレクトに魂に響く。

・健常者であれば“自然に”という形でコーティングせねばならぬところを、異能者はそのまま“自然”という生のままで表出することができる。それを受けとめたとき、我々は自身の「魂の在処」を教えてもらうことになる。

「健常者であれば“自然に”という形でコーティングせねばならぬところ」。これこそが“魂に「蓋」をするもの”であろう。

福森学園長の話が興味深い。(葉山とは別のイベントでの講演録画)


核心部分の要旨をまとめてみる。

・ある知的障害者には木工で器を作るように、別の者には布で布巾を縫うように、“指導”していたが、上手く行かなかった。どうしても決められたとおりに制作することができない。

・しかし、指導者のほうでさまざまに工夫をしては決められたようにできるように、“努力”をひたすら重ねていた。“障害を乗り越えていこう”の世界へ陥っていた。

・あるとき、どのように“指導”しても上手く出来ない者(器を掘らせると底に穴を開けてしまう)に、好きなように作業をさせてみた。するとその者は、出来ましたと言って「木の屑」を持ってきた。全て掘り潰してしまったのだったが、非常に自慢げだったという。

・指導する側は「いい器」を作るつもりでいた。その者もそのつもりでいるのだろうと思っていて、けれど出来ないのだと思っていた。しかしそれは違っていて、そもそもやろうとしていたことが違うということに気がついた。

・布の工房の方でも好きにやらせてみると、刺繍された布が「塊」になって転がるような事態になった。しかし、その「塊」に大変な魅力があることを発見するようになっていた。

「塊」の魅力。これが“むき出しの魂”の魅力。「作品」の、はなく、魂が「行為」した結果の魅力。魂の痕跡が放つ魅力とでも言えばいいだろうか。



そのような作品群はしょうぶ学園のHPで見ることが出来る。ただ、正直なところをいうと、それらの画像は作品の魅力を上手く伝えているようには思えない。実物にあった迫力に欠けるように思う。おそらく写真には上手く写らないのだ。)

志野茶碗健常者ではこうはいかない。“むき出しの魂”すなわち“生の自然”ではなくて、ほとんどの場合“自然な”ものにしかならない。たとえば、こういった作品。

東京国立博物館所蔵の『志野茶碗』。桃山時代の作。日本の伝統工芸に親しみを感じる人なら、こういった作品の良さは感じられよう。“自然な”風合いではあるが、決して“むき出し”の魂ではない。

この茶碗は“魂のこもった作品”と評されるべきだろう。しかし、彼ら知的障害者たちの“行為の結果”と比較したとき、そこには距離感が感じられる。魂に直に触れるというより、透明なケースに入った魂を眺めるような感覚。先のツイートで「コーティング」と評したのは、そういうことだ。

福森さんが話の続きで言及しているように、健常者であっても「作品」が“行為の結果”であることには変わりはない。「行為」に没入すればするほどに、「作品」よりも「行為」そのものの比重が高まってゆく。しかし、彼らのように、「作品」という意識が消えて無くなり「行為」そのものしかないという境地には、そうそうなれるものではなかろう。

もっとも、彼らのこの「境地」は、彼らの障害からもたらされるものである。

彼ら知的障害者には「コーティング」が欠けることにについては、福森さんは次のように言及している

・右脳と左脳の働きの違い。
右脳は直観的に創造したり表現したり感じたりという、感性的な脳。
左脳は、判断したり計算したり組み立てたりバランスを取ったりコーディネイトしたりといった、理性的な脳。

・知的に障害を持っている人の多くは左脳に障害があって、右脳にはあまり障害はないと思われる。なので、直観的な表現を出しやすい人たち。健常者は、右脳で感じたことを覆い隠してしまう。

私は右脳/左脳という区分けは適切ではないと思う。むしろ大脳古皮質/新皮質という区分けだろうと思うが、いずれにせよ福森さんは、彼らには我々健常者にあるなんらかの「制御」が外れていると見ていることに間違いはなかろう。「制御」はイコール「コーティング」である。

彼らは「制御」が外れているからこそ表現者として優れている。逆に我々は「制御」が外せないという“障害”にかかっているとも言える。これは魂に素直に生きることができないという意味で、偽善的ということでもある。

そうした彼ら知的障害者の魂に「蓋」をするのは、彼ら自身ではない。福森さんが発見してきたのは、彼らには「蓋」(=「制御」=「コーティング」)がもともと欠けていて、「蓋」は外部から、すなわち“健常者の常識”からもたらされているということだ。よって、彼らへの接し方を健常者の方で改めれば、彼らの魂をそのまま引き出すことができる。そうやって引き出されたのが心地良い「不揃いな音」であり、奇っ怪な刺繍の施された服である。

知的障害者は、その障害の程度にもよるが、生まれたままの赤ん坊と同じく、魂がむき出しのままの人格だということができよう。彼らの障害は「インターフェイス」が未発達になってしまっているところにある。では、我々健常者は健全にインターフェイスを発達させているのかというと、答えは否定的にならざるを得ない。我々は健全に「インターフェイス」を発達させることができる可能性を持っているにもかかわらず、実際には不健全な「インターフェイス」を持つことしか出来ないでいる。その不健全な姿を描き出してみると、きっとこのような姿をしていることだろう。

ハウルの動く城


その2へ続く。

コメント

次回の愉氣の会では、自働運動(活元運動)をやりましょうね。 (^-^)/

おねがいします

たのしみにしてます。(^o^)

私は左脳がうまく機能していない気がしてきました。
他者に関してはまだわかるのですが、自分自身に関して、どうしても
「“自然に”という形でコーティング」と「インターフェイス」がわからないのです。
コーティングされた音楽も、コーティングされた学問も、私には気分が悪いのです。
東大に多い高機能自閉症なのかな、という気がしてきます。
もしかしたら東大生達は、健常者の側からのコーティングを受けやすい魂なのかもしれませんね。

よしこさん。こちらへもコメント、感謝です。

私は左脳がうまく機能していない気がしてきました。

失礼ながら、先日、実際にお会いしたとき、そのような印象を私も受けました。具体的に左脳かどうかは別として、どこかに「蓋」がされてあるような印象ですね。

そう、「蓋」の上に人格が形成されている印象なのです。

当記事やその2で使っている「蓋」という概念は深尾先生が提示されたものだというのはご存知だと思いますが、もともとの論文(『魂の脱植民地化とは何か--呪縛・憑依・蓋』)は私もまだ未読なのですが、それらから派生したいくつかの論文を呼んだ印象では、「蓋」の上にさらに魂が形成されるという現象が起こる、ということらしいのです。

で、よしこさんの場合なんですが、この「蓋」に破れが生じているのではないか。この破れを通じてのもともとのよしこさんの魂へのアクセスが、よしこさんの《憑依》になっているのではないのか。そんな気がしています。

以上は私の勝手な推測ですので、間違っていたらごめんなさいです。

ですが、もうひとつ、申し添えさせていただきますと、よしこさんの印象は、ある知人の印象とそっくりなのですね。

その彼は私が熊野で暮らしていたときにお世話になった方の息子さんなのですが、子どもの頃の父親から厳格な教育を受けたらしく、それが原因で鬱病を発病し引きこもりになっていました。それがあるきっかけで引きこもりから脱し徐々に社会復帰していったのですが、その途上の彼の印象とよしこさんの印象とが本当にそっくりで、ちょっとビックリしてしまったくらい、です。

鋭いご指摘です。
自分のメンタルが不安定な状態でふつうの大人達と話す時、特に蓋で隠れようとする傾向が強いと思います。目の前のむき出しの魂と大人達の間で、ぐらぐらになっていました。

確かに、蓋の内部へアクセスする行為が、私にとって、うたをつくる行為です。
その時は、実際のシャーマン的憑依かどうかは不明ですが、降りてくる、に近い感覚です。
本当に外部の霊的存在に憑かれる時とは、違う感覚ですが、似ている部分はあります。
それは、魂が裸の状態ということです。
前者は、自身の裸の魂の状態に入れる恍惚感のようなもの。
後者は、外部の霊的存在が傷ついた裸の魂に触れる。

厳格な教育、うつ病からの回復期にあること、これも仰る通りです。
ご指摘を通じて、私自身をよく顧みる機会を得ました。ありがとうございます!

よかった

よしこさん、おはようございます。

ネットを通じて〈対話〉を行なっているとはいえ、たった一度、それもわずかな時間あっただけのよしこさんに、上のコメントは立ち入りすぎて失礼かとも懸念していたのですが...

よかったです。(^o^)

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