愚慫空論

「裡なる感覚」を取り戻せ

自画自賛で恐縮だが。

 不定時法の世界(1)
 不定時法の世界(2)
 不定時法の世界(3)
 不定時法の世界(4)
 共同体のイメージ

この5つのノートは、いま私自身が読み返してみても面白い。

(1)で提起したのは、時計という機械が普及した現代人の時間感覚への疑問だった。現代は一日を24等分して24時間とするのが常識。現代人にとっては時間とは、自身の感覚とは無関係に、普遍的に、客観的に、均一に進行するものである。しかし、過去においては必ずしもそうではなかったのではないか、という疑問である。

日本の江戸時代は、日毎に変わる昼と夜とをそれぞれ6する不定時法が採用されていた。時間を等分することが常識の現代人は、この6をすぐに6等分だと考えてしまう。だかそれは現代人の思い込みでしかないのかもしれない。不定時法の世界の住人たちにとっては、時間は予め定まったものではなかったかもしれない。

(2)は、定時法の世界に生きる現代人の時間秩序感覚と、世界時間は必ずしも“等分”されない不定時法の世界での時間秩序感覚とを比較してみたもの。(3)は、定時法不定時法それぞれにおける個人の時間感覚の確立について。定時法においては、時間感覚は“時計からの刷り込み”すなわち「憑依」によって確立される。一方で不定時法では、時間とは“自らが主体的に区切るもの”であった。

(4)では、「自己」と「自我」の違いについて記述してみた。定時法の世界では、時間は“定まっている”。なので、この世界において主体的な「私」とは、定まっている時間を理解する「私」。つまり、時間を感覚する「私」の出来上がる理解する「私」が主体的な「私」。この「私」自我

一方で不定時法においては、時間は「私」が自ら“定める”のか、あるいは自ずから“定まる”のか、はっきりと判別できない。が、いずれにせよ、「私」のなかで“定める”あるいは“定まる”といった現象が起こることには間違いない。この“器”としての「私」が自己

そして共同体のイメージ。この〈共同体〉のイメージは、複数の自己によって成立するというもので宗教共同体やら地域共同体、職場共同体といった共同体のイメージとは異なる。

これらの「○○共同体」は、「○○」にアイデンティティを置く、つまり「○○」に所属していると理解している自我によって成立しているもの。言い換えれば「○○」への憑依によって成立している【共同体】。

自己によって成立する〈共同体〉の構成要素は、人間だけではない。そこには自然も入る。1.自然環境と、2.他の人間と、3.「私」の中に蓄積された知識とによって確立された自己。3.は「私」固有のものだが、1.と2.とは共通のもの。この3つの要素のうち2つが共通するということで〈共同体〉。また、これら3要素の間には序列は存在しない。開かれた〈共同体〉。

ただし、ここでいう「共通」は不完全なものでしかない。というのも、自然環境も、他の人間も、個々人によって微妙に異なるからだ。つまり、「共通」とはいいながら、「共有」は不可能な“開いた”〈共通〉である。

一方【共同体】は閉じた【共同体】。構成要素は人間のみであり、〈共同体〉を構成する3要素は上位から3.→ 2.→ 1.の順で序列が存在する。ユダヤ・キリスト教を基盤にする一神教共同体はまさに【共同体】(イスラームの共同体である「ウンマ」については判断が付かない)。そして、近代における共同体とは、【共同体】に他ならない。テンニースのゲゼルシャフト/ゲマインシャフト、マッキーヴァーのコミュニティ/アソシエーション、いずれの区分も【共同体】の区分でしかない。
(ただし、マッキーヴァーが観察した共同体は〈共同体〉的であったかもしれない。)

おっと。議論は既に共同体のイメージのノートからはみ出してしまっている。


経済学の船出

第六章 コムニス(commūnis)からの離脱

 本章では、第四章で予告したように、コミュニケーションという概念の問題点を、その語源であるcommūnisという言葉に遡って議論する。ここで私が明らかにすることは、「共通」の何かを「共有」することで「合意」なり「共通認識」なりを形成すれば、問題が解決するというような考え方が幻想にすぎない、ということである。必要なことは「調和(harmonia)」を作り出すことであり、それには差異を当然のこととして受け入れ、双方の学習過程を開くことが不可欠である。「共通の」というような考え方は、近代に特有のものであり、「調和」はより普遍的である。このことを思い出すことが、現代の諸問題に対処するための第一歩だと私は考える。


安冨先生が指摘している「共通」は、私の表現によるならば【共通】になる。それは〈共同体〉の3つの構成要素のうちの3。自我を確立する知識の【共通】。本書で紹介されるヴィトゲンシュタインの議論によっても明らかな通り、幻想である。

とはいえ、近代以降、科学という営為が知識の【共通】性を相当なところまで確実なものにしてきたことは確かだし、さらに科学と結びついた技術がその確実性を普遍化した。定時法による時間感覚を普遍化した時計という製品は、そうした科学技術の産物である。しかし、そうした普遍は近代以降のことにすぎない。

 近代化以前の中国が共同体(community)を欠いた社会であるという事実は、中国近世史研究家にとって周知のことである。深尾・安冨は、この事実がcommunity が前近代社会に普遍的なものであるという広く行き渡った思い込みを打破するものであることを指摘した。それを受けて安冨は、community という概念が、創世記の失楽園神話と深く関連することを指摘した。この神話の要点は、「必然に支配され氏も不安もないエデンの園にいたアダムといイヴは、神の命令に反して知恵の樹の実を食べたために、地上に追い出される。そこは選択の自由のある世界ではあるが、同時に、死と不安とにさいなまれる」というものである。ここでは、

 エデンの園/地上
 必然/選択
 束縛/自由
 安心/不安

という対比が物語の主軸をなす。
 これと同じ構造の神話が近代化について語られる。それは、

 共同体(community)/市場(market)

という対立軸を中心に語られる。前者が「必然、束縛、安心」と結びつけられ、後者が「選択、自由、不安」に結びつけられている。つまり、community という概念は「エデンの園」の隠喩であり、market という概念は「地上」の隠喩である。共同体からの離脱と市場への参加は、失楽園の過程の隠喩であり、共同体の外に生きる近代人の自由と不安の原因がこの離脱に求められる。


近代人は「共同体の外」で生きているのは事実だろう。が、ここでいう共同体は〈共同体〉か【共同体】か。「エデンの園」は(少なくとも近代人にとっては)幻想である。ということは、【共同体】もまた幻想ということ。言い換えれば「憑依」である。幻想でなく過去人類の歴史上に存在した、いや、現在でも人類社会の片隅に追いやられてしまってはいるが、実在するのは〈共同体〉の方であろう。
逝きし世の面影
(右掲書に記されているのは、日本における〈共同体〉の「面影」であろうと。また、山里で私自身が出会ったのはその残映であったとも思っている。吉本明が言ったのとは違った意味での「大衆の原像」である。)

market については、安冨先生は『経済学の船出』の前著『生きるための経済学』の序章で次のように記述しておられる。

生きるための経済学

 二つの「市場」

 日本語では「市場」と書いて、これを「イチバ」と読む場合と、「シジョウ」と読む場合がある。両者は同じ漢字でも意味が違っている。経済学者の間宮陽介は『市場社会の思想史』の冒頭で「イチバ」と「シジョウ」との違いに論究し、「イチバ」が具体的な場所を指すのに対して、「シジョウ」は抽象的で場所性も希薄になっているとしつつ、次のように主張した。

経済学という学問が生まれるのは、目に見えるイチバ=シジョウの背後に目に見えないシジョウ=市場の仕組みや成り立ちを体系的に考察し始めるときである。


そしてこのような形でシジョウを考察した最初の人間が、経済学の始祖たるアダム・スミスであるとする。
 現代では現実世界においてさえも、シジョウが場所性を失いつつあるように見える。私が子どものころには近所に、魚屋、洋品屋、花屋、豆腐屋、揚げ物屋、果物屋、八百屋などが狭い路地の両脇にぎっしりとならんでいて、賑やかに売り買いが行なわれている一角があった。そこで、必要なものをおしゃべりをしながら買いものをするのが当たり前であった。おれは大正から昭和初期(1920年代)に全国で政策的に作られた「公設市場」であるが、そういった市場は急激に減少した。かわりに交流を極めつつあるのは、どこにあるのかわからない、インターネット上の市場である。


「シジョウ」は抽象的で場所性も希薄であるが、現代社会においては圧倒的な【リアリティ】がある。その点、定時法による時間とまったく同じだ。逆に「市場」は不定時法的である。不定時法の時間と同じく、「イチバ」での価格は必ずしも“定まっている”わけではなかった。「定価」というのは存在したが、それは逆に定価でない取引も行なわれたということであって、「イチバ」に出入りした経験のある者ならそれは誰でも知っていることだ。

(ちなみに言えば、『経済学の船出』の「経済学」は、〈経済学〉。アダム・スミスを始祖とするのは【経済学】。開いた〈経済学〉と閉じた【経済学】。“経済学の船出”には、開いた〈経済学〉を創出しようという意が込められている。そのことを理解できず従来の【経済学】の知識体系で本書を読めば、これは奇書にしか見えないだろう。)

「イチバ」における価格は、不定時法における時間と同じく〈共同体〉の3要素によって“定まった”。つまり「イチバ」とは〈共同体〉の一部だったのである。そこで働いていた価格調整機能は、所謂「シジョウゲンリ」も大きく影響しただろうけれども、〈共同体〉を形成する自己たちの感覚が大きくものをいった。

やっと記事のタイトルへと辿り着いた。裡なる感覚を取り戻せ。ここでいう「感覚」とは、時間や価格を自己の中に自ずからあるいは自ら定め、そうすることで秩序を作り出す感覚のことである。この感覚は、まずは裡なるである。それが近代的【リアリティ】によって奪われることを「魂の植民地化」という。感覚を取り戻そうとすることを「魂の脱植民地化」という。



コメント

やっと読めた。

こんにちわ。

なんだか、このエントリーずっと読みきれなかったんですよ。
何度か読み始めて進めて見るのですが、なんだか途中で止まってしまっていました。

やっと最後まで読んで、最後の1文がストンと入りました。
そうですね。
なんか最近体調悪くて、あ、風邪とかじゃなくて、肩凝りが酷かったり、腰痛が出てきたりしてて、身体の感覚がガタガタだったんですよね。

だから読めなかったんじゃないかな?とか思っています。
身体を通じてしか魂に何かを届けることは出来ないですから、身体感覚は大切にしないといけないですね。

整体やらなきゃ

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

身体の感覚がガタガタだったんですよね。

それはよくないですね。すぺーすのいどさんも整体をやらなければ。笑。

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まとめteみた.【「裡なる感覚」を取り戻せ】

自画自賛で恐縮だが。不定時法の世界(1)不定時法の世界(2)不定時法の世界(3)不定時法の世界(4)共同体のイメージこの5つのノートは、いま私自身が読み返してみても面白い。(1)で提起したのは、時計という機械が普及した現代人の時間感覚への疑問だっ分して24時間...

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