愚慫空論

自身の恨みに愉氣をする

先日、少しだけ触れた私が家庭から受けていたハラスメントについて書いてみることにする。

正直なところ、このようなことを公表するのには躊躇いがある。そんな必要があるのかと自問する。これから書くことは純粋に私自身の問題であり、書いて公表してみたところで他人が共有できるわけでもない。他人に同情を求めてみても、そんなものは何の足しにもならないことを経験上知ってもいる。

それでも書いてみようと思うのは、自身に愉氣をするためだ。公表すると意識することで、愉氣すべき患部を見極めること。いや、見極めるのは、もう自身で何度も繰り返しやって来たこと。だからその所在はほぼわかっていて、公表することでさらに特定されるわけでもない。そう、ただ公表してみたい。本腰を入れて愉氣してみようと思った。だから公表してみたい。

「愉氣」にアキラさんのこちらの記事を参照してほしいが、

 光るナス:愉氣(ゆき)のこと

要するに「手当て」である。治療ではなく、手当て。



 
私の実の両親は、私が小学校へ上がる頃に離婚した。それがいつだったかははっきり憶えていない。記憶が混乱している。

私の生母は離婚する頃には精神病院への入退院をくり返し、また生母の実家である福岡へ戻ったりしていて、離婚の頃にはすでに離ればなれになっていた。最後に「もうこれで会えないから」と言われて別れたのは憶えているのだけれども、それはいつだったか。多分、小学校に上がってから。一年生の夏休みのことだと思う。

記憶に残っているのは、一年生の夏休みを境に転校したこと。転校先は、父の実家の所在地の小学校。父の実家へ預けられて、二年生の一学期の途中までそちらへ通った。自宅へ帰ると同時に、また元いた学校へ転校。自宅への帰還の時には、継母も一緒だった。

継母とは、それ以前から引き合わされてはいた。父親が離婚し、新たに女性と引き合わされるというのがどういうことか、子供だった当時の私は理解していなかった。なので、継母は会った時点は単なる他所のオバサンだったし、他所のオバサンとしてなつきもした。それで父の実家から自宅へ帰る段になって、父を筆頭に親類たちから、この人がこれからオマエたちのお母さんになる、と言われたときには――驚かなかった。というより、その時の感情を覚えていない。これからお母さんと呼びなさいと言われて、少し困惑したのは憶えているけれども、感情の記憶がない。

この感情の記憶のなさは、このときに限ったわけではない。生母と別れたときにも、その時の感情は憶えていないし、感情的になった記憶もない。普通にバイバ~イ、と別れたように思う。そういうと私は物静かな大人しい子どもだったように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。しょっちゅう弟とはしょっちゅう感情的になってケンカをしていた記憶があるから、普通に感情的だったはずだ。それがとくに、家庭内の出来事については感情の記憶がないのである。

とにかく、私たち兄弟は継母を「お母さん」と呼ぶようになった。数ヶ月もしないうちにそう呼ぶようになったと思う。しかし、継母から私たち兄弟が名前を呼ばれた記憶は、今に至るまでない。父親や他の者と私たちの話をするときでも、私のことは「上」、弟は「下」。私たちはそういう代名詞を聞かされながら、育ってきた。

  ☆☆

小学校三年の時、新たに弟が生まれた。私には同腹の弟が一人いたので、これで兄弟三人になった。形の上では。

継母が妊娠した頃から、私と弟は再び父の実家へと預けられるようになった。理由は継母の体調不良だったと記憶している。私の父親はつくづく女運に恵まれなかった男だと思う。女性が妊娠で感情が不安定になるのは仕方のないことだが、今から思えば少々常軌を逸していた。もともと連れ子のいる男と一緒になるのが無理だったのだろうが。

しかし、理由がどうであれ、お腹に子どもを抱えた母親を放置しておくわけにはいかないという結論になったのだろう。私たちは再び自分の家から引き離されることになった。このことについても感情の記憶は特にない。

いや、そうではない。実は楽しかったのだ。今度は実家お預かりは、転校を伴うものではなかった。預ける方も継母が落ち着く一時的な措置のつもりだったのだろう。しかし、一年近く続いたろうか。また、その後もたびたび母親が「ご不快」になるたびに(本当に身体の調子が悪くなり、入院してしまうことまであった)、一時退避を私たちは強いられた。

私たちが通った小学校は大阪市東住吉区で、預けられた父の実家は浪速区にあった。そこから小学校へ電車通勤である。地下鉄と私鉄を乗り継いで、学校へ通った。が、私たち兄弟は地下鉄の区間は省いて、歩いて通った。親たちには内緒で。浮いた電車賃は小遣いになった。

通天閣の下をくぐり、猥雑な新世界の街を通り抜け、浮浪者がたむろする天王寺公園の中を突っ切って、阿倍野駅から近鉄に乗った。当時の小学生にしては潤沢な小遣いは、新世界の街のゲームセンターで、当時はやり始めたインベーダーゲームで遊ぶための軍資金になった。親類は学校の先生は私たち兄弟の境遇に同情してくれたりしたが、私たちはヘッチャラだった。我ながらに逞しいものだったと思う。

とはいっても、一時退避は一時退避である。通常の生活は継母と一つ屋根の下で暮らすことになる。継母は、私たち兄弟を「汚いもの」として扱った。遊び盛りの子どもだから、汚いことには間違いはなかったろうが。生まれた弟に接触することは禁じられたし、家の中で自由に動き回ることも禁じられた。食事や用足しのような用事がない限り、基本的に自分たちの部屋から出るのは禁止。食事は私たち二人だけで。自分でお替わりを椀によそうことも、冷蔵庫からお茶を出すことも禁じられていたからいちいち継母へ頼まなければならなったが、その継母は別室で自分の子どもと一緒に居て、なかなか声が掛けづらかった。そのうち茶碗はドンブリに変わった。

また継母は、毎日のように自身の実家へ通っていた。帰ってくるのはかなり遅く、私たちは毎日のように家の前で継母が帰ってくるのを待っていたように記憶している。学校が終わり、友達と遊んで帰ってきても継母は大抵帰ってきていなかった。家の鍵などもちろん持たしてはくれなかったので、締め出しである。

そんな生活だったが、それでも私たち兄弟はけっこう平気だった。家から閉め出されても遊ぶに事欠くことはなかった。もっとも、その遊びがしょっちゅう悪戯にエスカレートして継母を激怒させた。そうなると今度は父親が夜遅くに帰るまで家から閉め出しだ。それが度重なると、父親もウンザリしてくるのだろう。私たちを置いて自分だけ家の中に入ってしまうことあった。そんなときは夫婦でケンカを始めたものだが、それも継母の具合が本当に悪くなってしまうので、父も次第にどうしようもなくなっていったようだ。

家の中にいるときも、何か用事があって継母が居る空間へ行かねばならなかったときは重苦しかったが、自分たちの部屋にいるのは平気だった。本を読むのは好きだったし、暇に飽かせて学研の学習事典を何度も読んだものだ。おかげで中学レベルの知識は自分で自習することができた。

平気でいられたのは、弟とふたりだったことが大きかったのかもしれない。父と生母とが離婚するとき、弟はあちらで引き取るということで基本的に話が進んでいたらしいが、祖父が反対したと後から聞いた。兄弟は力を合わせて生きるのがいいと言ったのだそうだ。

そんなこんなで重苦しい家庭で育ってはいたが、それでも私たちは、表面的には打ちひしがれるようなことはなかった。学校や友達と遊ぶことは楽しかった。私は成績もよかったし、小学校高学年、中学校と生徒会活動などにも積極的に参加するようになったりもした。といって優等生だったわけでもなく、結構な悪ガキでもあった。校則が大嫌いで、生徒会の会長などをしていながら校則破りも平気だった。一部教員と風紀委員には嫌われたけれども。

高校に入ってからは登山も始めた。これは私にはとても快いものだった。すこぶる解放感を味わった。今から思えば、やはり無意識のうちに抑圧感を感じていたのだろう。山は一時的にせよ、抑圧を解放してくれたのだった。

いずれにせよ、高校時代までの私は、自分の将来に希望を持っていた。自信も持っていた。家庭は重苦しいものだったことに変わりはないし、父方の祖父・祖母が死んでしまってからは一時退避もできなくなって、その重苦しさはエスカレートした。継母と、それにつられてか父までもが、私は成績は優秀だが性格に問題があると言い募った。その頃は自分でもそう思っていたが、一方では、学校などでは普通に友人や先生と人間関係を結ぶことはできた。なので、早く家庭から離脱さえすれば、問題は解決すると思っていたし、そのための準備は順調に進んでいると楽観していた。

  ☆☆☆

そうした楽観がひっくり返ったのが高校三年の時だった。その始まりはクラスメートの女の子とを好きになったこと。

結果から言えば、私と彼女の関係はどうにもならなかった。私がもう一歩踏み込むことができたなら、どうにかなっていたかもしれないが、今となってはかもしれなかったというだけの話でしかない。ただ、私には「かもしれない」ということが非常に大きな意味をもった。

今、踏み込まなかったと言ったが、実は最初に踏み込んだのは私の方だった。三年のクラスになって早々、私は卒業アルバム委員というのに選ばれたのだが、そのことを奇貨に彼女の声をかけた。アルバム制作を手伝って欲しいということだが、もちろん下心あってのことだ。他にも数人集まってアルバム制作のチームができた。放課後、教室に居残る習慣が出来た。

アルバム制作は夏休みまでに終了したのだが、その後も放課後教室へ居残る習慣は続いた。名目は受験勉強のためである。いや、名目だけではなく、私たちは受験勉強に打ち込まなければならなかった。当時、すでに放課後は塾へ通ってさらに勉強という者も多かったが、私はそうではなかったし、彼女もそうではなかった。といって、放課後の教室が受験勉強に適していたかどうかはわからない。そういう選択をする者は、他にあまりいなかった。

だが勉強はしっかりしていた。その証拠に、私も彼女もともに現役でそれぞれの志望校へ受かっている。勉強していたといっていいはずだ。だが、勉強しかしなかったわけでも、もちろんない。そちらはそちらで、それなりに濃密な時間になったこともあった。

私はいうまでもなく彼女のことを意識していた。彼女の方はどうだったのだろうか。受験が終わり、卒業式も済んだあとに、どのような理由だったかは忘れたが、学校で彼女と会ったことがあった。ふたりで近くの飲食店で昼食を食べた帰り道、大学へ行ったら山へ連れて行ってくれと頼まれたことを憶えている。どのように返事をしたかははっきり憶えていないが、いずれにせよ私はその頼みを果すことはなかった。

いつからか、私は彼女から逃げようと決めていた。高校卒業はそのよい機会だと思っていた。とにかく自分に自信がなかったから。彼女の思いを尋ねるのが怖い、拒絶されるのが怖い、というのではない。そのことは卒業後、幾度も自身に問いかけてみた。そうではない。もし彼女に受け入れてもらえたとしても、私自身に「中身」がない。志望通りに大学へは入った。だが、それは私の「中身」ではない。

正直なことを言えば、私はきっぱりと彼女のことを諦めることができたわけではなかった。いつまでも逃げ出したことを後悔していた。後悔しながらなぜそんなことを決めたのかと自問し、自問しきれずに山へ逃げた。同時に大学からも逃げた。気がつくと、大学のなかでは普通に人間関係が取り結べなくなっていた。意識しないうちに忌避していた。かわりに求めたのは、自分がつい少し前まで思い描いてた将来とは別世界にいる人々との関係だった。それが気楽で心地良かった。要するに「弱虫」だったわけだ。

とはいうものの、いくら逃げてはいても、私自身が「弱虫」になった原因に思い至らないではいられなかった。あの頃の私は、他人を見て「中身」があるのが羨ましくて仕方がなかった。「中身」とは、言い換えれば、何の理由もなく自分が自分でいられる理由とでも言えばいいか。有名大学の学生であることは、「理由」にはなっても「中身」ではない。「理由」を拒否した私は、「理由」になる大学を拒否することになり、「中身」を羨み憧れた。そして「中身」のない自分に落胆をし、なぜそんなことになってしまったのかを考えた。思い当たる理由はひとつしかない。

当時の私は次のように理解した。すなわち、「彼ら(父と継母)」にとっては、彼らの都合のよい生活を守るためには、私たち兄弟は邪魔な存在でしかなかった。その結果、私と弟は自分の「中身」を奪われてしまった。

この理解は、今では少し違ったものになっているが、それは後で記すことにしよう。

  ☆☆☆☆

こうした理解に至った私には、やるべきことが2つあった。1.は、私を邪魔なものとして扱う場所から離れること。もう2.は、「中身」を見つけること。

といって、これも当時、そこへ向かってまっすぐ進んでいたわけではない。今だからこそ「やるべきこと」として簡潔に言葉に出来るが、当時はそうはいかなかった。だから、いろいろ迷った。迷って彷徨って、けれど後になって振り返ってみると、この2つを求めて選択をしていた。というより、これ以外のことが出来なかった。それ以外のことをやろうとすると、どうしても気力が湧いてこない。大学で人間関係を結べなくなったのも、このことが起因したのだろうと思う。

1.の達成は容易だった。好きだった山へ逃避すればよかったのだから。だが2.は難しかった。大学を否定しても、そんなことでどうにかなるものでもないからだ。どんなことをやっても、それは「理由」になってしまう。

行きもしない大学を7年も在籍した挙げ句、山は逃避でしかないと、そこまでは考えるようになった。確かに山で生活するのは心地良いが、それでは「無責任」だ。何が「責任」なのか、よく考えた訳ではなかったが、とにかく「責任」を果たすことができなければ「理由のない自信」は生まれないに違いない。

そんな風に考えた私は、当時山へ行くための資金へ稼ぐための、都会でのアルバイト先に就職することにした。自分なりには一生懸命働いたと思う。建設業界だった。当時バブルはすでに崩壊してしまっていたが、建築工事は計画から完成まである程度の期間を要することもあって、まだ「余熱」が残って忙しかった。時間だけで言えば、1ヶ月の時間外勤務が200時間を超えることが当たり前のようにあった。私はなるべく多く仕事をこなし、自分の能力を示すことで、他者から認知されたいと思ってた。だが、そんな考えは甘いものでしかなかった。

当時の上司は、「オマエがいくら頑張っても、今のオマエには責任など果せない。」「オマエは常に、オレや取引先の人間と対対でくる。まだまだ早い。」と言ったようなことを私に言った。しかし、私は理解できなかった。責任を果たして自分の「中身」を作るために身を削って働しているのだし、人間同士が対対なのは、人間として当然の前提ではないか。そう考えて反発した。

だがいくら反発しても、いくら頑張っても、歯車は噛み合わないままだった。いずれ仕事はひとりでどうなるものでもない。周囲との歯車が噛み合わなければ成果は上がらない。成果が上がらないともっと頑張らねばと思うようになる。そういった悪循環にはまってしまっていた。

自分に限界が見え始めたところで、起こったのが阪神淡路大震災だった。私は被災地の復旧・復興のチームに入ったが、逆にそこでは生き返るような思いをした。被災地の復旧現場は戦場のようなものだった。とにかく成果が最優先。通常の「歯車」とは違った別の歯車で回っていた。冗談ではなく“24時間戦えますか”状態だったが、そこは私には具合がよかった。しかし、復旧が一段落して通常の「歯車」が回り出すと、また私は歯車を噛み合わすことが出来なくなってしまった。

心身共に持たなくなってしまった私は、またしても山へ逃げた。そしてまたしても、山は居心地がよかった。

  ☆☆☆☆☆

そこで出会ったのが、今の家内である。家内は当時、前の夫と離婚してきたばかりで、これもまた山へ逃げてきていたのだった。そんなふたりが意気投合するのに時間はかからなかった。

山での仕事は季節が限られる。冬はオフシーズンで仕事がない。山から降りた私たちは、すぐに一緒に暮らし始めた。互いに実家へ戻りたくなかったというのもあった。しかし、この生活も長くは続かなかった。

山で暮らす生活は、都会での生活と比べればずっと楽だった。一年中働けるわけではないが、期間中は籠もりっぱなしなので、基本的におカネを使うことがない。四ヶ月ほどいて、降りてきたときにはある程度まとまった金額が手許に残る。ひとりでやっていくには苦しいが、ふたりなら何とかなる。山を下りている期間は、適当なアルバイトででもすれば、かなり楽に自由に生活ができた。何より好きな山を中心に暮らしていけることの悦びは大きかった。

私はこの生活が長く続くことを望んだが、だめだった。理由は、またしても「中身」である。「中身」のない私は、今度は山を「理由」にし始めた。家内(当時はそうではなかった)を「理由」にし始めた。そしてそうなると、私は家内に与えられなかった「母」を求めるようになっていった。

私たちの生活に持たなくなったのは家内の方だった。ふたりで暮らすようになってすぐに、私たちは一軒の登山小屋の管理を任されるようになってある程度の「責任」を負うことになったのが、家内は、そうした「責任」を果たすパートナーであり、男である私の「女」であり、加えて「母」の役割を負わされた。持たなくなるのも無理はない。

家内は私から逃げようとした。そこに別の男が加わってきた。同じ山小屋の仲間だった(はずの)男である。家内は私から逃げてその男の元へ行こうとした。私は当然引き留めた。そんなことになってしまっては、「中身」がない私の「理由」のひとつである家内を失うばかりか、もうひとつの「理由」である山にも居られなくなってしまう。「中身」のない私には、どうしても許すわけにはいかなかった。

私は最後には暴力を振うようになっていた。その時、私と家内はまだ任されていた小屋の共同管理人だった。そこで仕事をしていた。家内はその男に、人に頼んで私に隠れてこっそりと手紙を届けてもらおうとした。それを見つけてしまった私は家内を責めて、挙げ句に手を挙げた。家内はかなりの傷を負い、自力で山を下りることが出来なくなり、ヘリコプターを頼んで下山させることになった。

  ☆☆☆☆☆☆

人間というのは、切羽詰まると何も情況がわからなくなるものだ。そのときの私もそうで、事ここに至っても、まだ何とかなると思っていた。私がどれほど家内を必要としているか。どれほど山での暮らしを必要としているか。そのことを理解してもらいさえすれば、道は拓けるとまだ思っていた。だが、そんなはずはなかった。

いよいよダメだと理解せざるを得なかったとき、私は自分の喉へと刃物を突き立てていた。まったくもって冷静ではなかった。その証拠に、刃物を突き立てたのは頸動脈にではなく気管にだった。力一杯突き立てたつもりだったが、気管は結構固いものだった。すぐに周囲に止められて救急車で病院へ運ばれることになった。今のところ、救急車に乗ったのも病院で留まったのも、これが唯一の経験だ。

翌朝、目を覚ましたら、父と継母が病院にいたのには少々驚いた。私が入った病院は山梨だったが、警察から連絡を受け、駆けつけてくれたらしい。このときばかりは、私は父と継母に「もうどうしようもないので、助けてください」と頭を下げた。父は、「わかった」と言ってくれたが、継母は返事をせずに視線を逸らした。

この後、私は父母とともに大阪の実家へ帰ったのだったが、三日もしないうちに実家にはいられなくなる。継母の調子が具合がまたしてもおかしくなったからだ。あわてて別に部屋を借り、しかし家財道具もなにもないので、家内と住んでいた富士宮の部屋へ急遽荷物を取りに行くことにした。どうせその部屋は引き払わなければならなかったし、傷は体を動かせないほどではなかったし、体が動くならじっとしていたくなかった。レンタカーを借りて大阪から富士宮まで行き、部屋の荷物を全て片付けた。その最中につけたTVでは、ニューヨークのWTCが煙を上げていた。

その後、私と家内は最後にもう一度、会うおうということになった。それはある約束を果たすためでもあった。家内の同級生が生んだばかりの子ども――その子は私たちが山へ入っている最中に生まれ、山から降りたらふたりで会いに行くと約束していたのだった。

だが、それは最後にはならなかった。私は家内はそこで別れることなく、大阪へ家内を連れ帰ることになった。なぜそうなったのかは、もう、ここには記すまい。

 ☆☆☆☆☆☆☆

話はもう少し続く。 

大阪での暮らしがある程度落ち着いた頃、私たちはやっと正式に籍を入れようということになって、役所を訪れた。婚姻届を出すためである。書類をもらい書き込もうとすると、そこには私にはすぐに書き込めない項目があった。それは実の父母の名。父の名前はすぐに書くことができた。だが、生母の名前がどうしても思い出せない。

その時までの私には、生母は忘却の彼方へ消え去った存在だった。もう死んだものだと思いこんでいた。そんなわけでどうしても思い出せずにいる私に、係の人はヒントを与えてくれた。向こうはわかっているのである。それでやっと名を思い出し、書類を提出できたわけだが、気になった私は尋ねてみた。その人は、今も生きているのか、と。答えは「生きている」というものだった。驚いた。

生きているなら、そして、私と母とがつながっているとそちらでわかっているなら、母の現住所を教えてくれ。そう頼んでみたが、こちらの答えは「教えられない」。正式な手続きを踏まなければならないのだそうだ。

この手続きが面倒だった。まず自分の本籍地の役所へ行って、私自身の出生証明書の確認。それから当時の父母の戸籍の確認。離婚後の母の戸籍。母は再婚し、また離婚したらしく、いちいちその届けが出ている役所へ確認。転居していればそちらの役所へ。これらは電話での問い合わせは受け付けてくれず、全部その前の戸籍謄本を付けて、書類で問い合わせをしなければならない。そんなこんなでやっと現住所を確認した。もう、探し出さずにはいられなくなっている。場所は生母の生れ故郷の福岡だ。

探しに行った。ところが現地へ行っても書いてある住所が見つけられない。交番で尋ねてみてもわからないという。私が持っていたのは役所が発行した正式な戸籍なので、住所が存在しないことはないはずだが、交番にある地図でもわからないという。

とりあえず仕方がないので、母の実家の方を探してみることにした。最寄りの駅は憶えていた。姓はわかっている。またしても近くの交番で尋ねてみた。もう30年近くも前だが、確か母の実家は養鶏を営んでいたはずだ、と言ったら憶えていた警官が居てくれた。もう養鶏はとうに廃業して当人も知らないが、むかしこの家では養鶏をしていたという話を以前聞いたことがある。そんな話で、その場所と地図に書き込まれていた姓とが一致した。まず間違いない。今もそこで人が暮らしているという。

尋ねてみた。母の名前を告げて、この人を訪ねてきたと要件を告げると、最初は居ませんというそっけない返事。それで訪ねてきた事情を話し始めると、向こうも私が何者なのかに気がついた。言うに、母は精神病院にいるのだという。そをれ聞いて、私もまた生母が別れたときには既に病んでいたことを思い出した。住所は精神病院の敷地内にある管理されたアパートのものだったらしい。それで普通の地図には出てこなかったわけだ。

その後すぐ、私は母との再開を果たした。ところがこれも最初は上手く行かない。私を自分の息子だと信じられなかったのだ。それで記憶をあれこれと話すうちに、やっと認めてもらうことができた。まず疑うのは正常な判断ではあるが...。

この母と話をするのは、正直なところ、かなり疲れる。それは現在でもそうである。対話にならないのである。長年の病で、人と対話をする能力がほとんど喪失してしまっている。言葉は解する。だがコンテキストを解することはない。母との対話は、どうしても断片的なメッセージのやり取りにしかならない。これは自分の母だとは思っていても、苦痛でしかない。

しかし、そういった断片、あるいは、他の親類から聞かされた話で分かったことがある。それは、今は壊れてしまった母ではあるが、私は間違いなくこの母から愛情をもらっていたということ。その愛情の記憶は私のなかには残っていない。しかし、記憶には残っていなくても、私のなかのどこか――おそらくは魂に残っている。確認する術はないが、確信している。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆

この確信は、上に記した「彼ら(父と継母)」についての私の理解に影響を及ぼすことになった。「彼ら」は私の「中身」を奪ったわけではない。「中身」はずっと私の中にあった。彼らがしたのは「蓋」をしたのである。だから私は「中身」が見つけられなかった。見つけられなかったがそこにはあった。

それだからこそ、私は生きていられたのだ今はで考えている。確かに衝動的な行為に及んだこともある。しかし、衝動は衝動でしかなかった。衝動の後、「曇り」が直ちに晴れたわけではなかったし、その「曇り」が長続きしたならば、また何らかの切っ掛けで衝動は起こったかもしれない。それはわからない。私の場合は、幸いにして、その「曇り」は比較的短くて済んだ。

だが思い返してみれば、「曇り」はそれだけだったわけではない。高校三年生のときの彼女との別れの後も、「曇り」は濃いものだった。その頃の山への逃避は、単に逃避というにしては激しすぎるものだったかもしれない。誰にも行き先を告げず、単独行で危険姓の高いルートに挑むようなことをしばしば、した。我ながら、これは半分自殺行為だなと思いながら。

しかし、いざその場に入ってみれば、命は懸命に生きようと努力をした。それが確認したくて「半分自殺」をしていたようなものかもしれない。でも、なぜ「半分」だったのか。これは意味の後付けでしかないのかも知れないが、その理由は実は「中身」があったからと、考えている。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆

さて、やっとまとめに入ることができる。冒頭で記した愉氣すべき「恨み」のことである。「彼ら」は私の「中身」を奪うことは出来なかった。が、「蓋」をしたことに間違いはない。その「蓋」は今や開いた。だが、完全に取れて溶解したわけではない。

想像してみる。もし私に「蓋」をしたことを彼らが詫びたとしたら。助けてくださいとお願いしたときに、受けとめてくれた父はもう赦せるかもしれない。彼が昔、男として生母に与えた仕打ちも、私は聞いて知っている。それはかなり情けないものだと思う。しかし、それを責める資格は、暴力で家内を責めた私にはないとも思う。だから赦せそうである。

だが、継母はまだだめだ。表面上、仲良くはできよう。今は、できればこのまま表面上仲良くしたままで、継母には逝って欲しいと思っている。詫びなど聞きたくない。詫びられると、それほどまでに我が身とその分身が可愛いのかと、責めずにはおられないだろうから。

見方を改めてみれば、それだけ業の深い哀れな者だとも言えなくはない。正直な者だとも言えなくはない。そのような見方は頭では想定できる。また、継母がそういった者であったからこそ、私への「蓋」があからさまであり反抗をする手がかりになったことも、考慮に入れるべきだとも思う。もう少し自身への隠蔽が上手な者だったらば、私はまだ「曇り」の中に沈んでいたかもしれない。

が、そういった想定は想定でしかない。そのように想定できたからといって、赦すことができるということにはならない。これは残骸ではあるが、私のなかに居残り続ける「蓋」である。

その「蓋」が残っている限り、私の「恨み」も消えることはない。この「恨み」は私の心の強張りになり、魂の響きを濁らせるノイズになる。このノイズは「弱虫」「卑怯者」への過剰な不快感になっている。それは父や継母に限らない。残骸になったからこそ、かえって他の者へも拡散してしまう。

私は、それを「愉氣」したいと思う。

「愉氣」とは、強張りを見つけ、そこにピッタリと「氣」を巡らすことである。この「氣」は、おそらくは魂から出てくるものなのだろう。魂の動きが何ものにも濁らされることなく響くとき、それは愉悦をもたらす。「愉」と「悦」である。



最後はいささかスピリッチュアルな色合いを帯びてしまった。

コメント

こんにちは。

愚樵さんの「力み」はシンドいぞ~ と思っていましたが、ここまでシンドいとは。。。
よくぞウェブ上に書き表す気になりましたね。
その勇気に脱帽です。

愉氣の稽古を通しながら、そしてこの記事を読みながら、愚樵さんのこの「タフさ」はどこからきているのだろう・・ということに、とても興味が出てきています。
元々あるものなのか、どこからか受け継いでいるものなのか、これから愚樵さんとのつながりを通して、そのへんのところを識っていきたいです。

無題

こんばんは。

>それでも書いてみようと思うのは、自身に愉氣をするためだ。

この気持ちは解かる気がします。
なんかそうしなきゃいけない気がするんですよね。

無題。

おかしなものですよね。

エントリを読んで、話したことも会ったこともなく、
顔すらも分からない愚樵さんの心の傷を思い、私の心が悲しんでいる。
憐憫や同情ではない。
自分でもこの悲しみが何なのか分かりません。

何度も飛んできて何度も読んで、
コメントをしたいのに何を書いても違う気がしまして。
でも、する。

愚樵さんは綺麗だな。私ももっともっと裸になる!
今、一緒に愉氣の稽古ができることが尊いです。

役をひとつ

・アキラさん。
・すぺーすのいどさん。
・平行連晶さん。
・ゆめやえいこさん。

おはようございます。まとめてのレスになりますが、ご容赦を。

みなさんからいただいたコメントを拝見して、これで私に課せられた役をひとつ、果たすことができたかなと思いました。

ここに記したことは、いずれなんらかの形で吐き出さなければならないとずっと思ってきたことなんです。ただ、どのように吐き出したらよいのかがわからず、保留にしていたんですね。

これも機縁だと思っています。今年になって、アキラさんから直に「整体」に触れさせてもらうようになった。もうひとつ、安冨・深尾両先生がはじめておられる「魂の脱植民地化」というムーブメント(?)に私なりにコミットし始めた。「整体」と「魂の脱植民地化」は、私のなかで繋がっています。いえ、繋がることができると感じたんですね。では、その感じたことをどう表現するか。

『野口整体はナンパ術だった。笑。』(http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-658.html)で取り上げた、元海兵隊のアレン・ネルソンさんに少女が施した「抱擁」。これは愉氣ではないのかという私の問いに、アキラさんはそうだと答えた。まずこれで「魂の脱植民地化」と「整体」とが繋がるのだという確証は得た。

それで、次は...というふうに考えていたわけではない。これもまた機縁が巡ってきたという感じ。

前記事『当事者の時代 その2』で、私は『北の国から』のワンシーンに「説明」を施した。それをアキラさんが「力み」と観た。それでピンと来たわけです。私には思い当たるフシがある。この記事ばかりではなくて、私はここのところツイッターを主戦場に、「弱虫」はまだいいとして「卑怯者」への攻撃をしていたわけですが、それがどうしても過剰な感じになる。そういうのを、たとえば高橋健太郎さんあたりの“あしらい”を見ていて意識していたわけなんだけども、そしてそれがどこから来るのかも識っていたのだけれども、まあ、私は私だからと思っていた。が、アキラさんにはそこを突かれたように思った。

で、これはfacebookでですが、“自身の恨みに愉氣をする”という言葉が自分の中から出てきたんですね。もう、こうなると、後は流れに沿っていけば良いという感じです。

この話はいずれ何らかの形で吐き出すべく保留にしていた。「生」のままでは絶対に出せないと思っていた。それをしてしまうと自己正当化になるから。だから「生」を包む「フレーム」が要ると思っていた。その「フレーム」が長らく見つからなかった。

けれども、「整体」と「魂の脱植民地化」にコミットしていったことで、“自身の恨みに愉氣をする”という「フレーム」が生まれた。ならば後はそこへ私の「生」を流し込めば、一丁あがり! です。(^0^)v

そしてそれは同時に、繋がると直感していた「整体」と「魂の脱植民地化」を、まさに私自身が繋げたということになる。だとしたら、役をひとつ果たしたな、と。「フレーム」は、中身がなければただの「フレーム」でしかないわけだから。

なので今は、ちょっとホッとした感じがしています。

拝読しました

私は愚樵さんよりずっと傷は浅いですが、似ているといいましょうか、
幼少時に受けた愛情の記憶が魂を完全に奪われないよう守ってくれたこと、高校までは将来に希望を持ち、成績はよく、家庭を出れば大丈夫になると思っていた点、大学でわからなくなって私の場合は音楽へ向かったこと、
基本的な流れがあるのを感じながら拝読させていただきました。
安冨先生を介して出会うことが出来たのも、偶然的な必然のようですね。
若輩者ですが、どうぞ宜しくお願い致します。

ばらばらで一緒

 みなさんいろいろあるんですね。私も私なりの出来事があります。58になりましたが、死ぬまでに明らかにしたいことはだいぶ減りましたが、見えない世界のことは酔いに任せて親戚に罵詈雑言を浴びせ反応で本当のことを知り納得しました。喧嘩をふっかけ本音を知るというやり方です。(見える世界は本で解決。)私小説はこのような各人の見えない世界の物語を書きつづったものだと思います。今回も濃厚な私小説を拝読した思いでした。私の信条に心のそろばんはいつもゼロにしなくてはならないがあります。ゼロにすることでその人は救われる。愚樵さんもそれをネットを使って行ったのでは?大変な勇気が必要だったと思います。各人の生い立ちも生き方もばらばら、でも生命は一つ。これを信じて生きようではありませんか。大変難しいですが。信じるものは救われる。これです。

FBも拝見しました…樵さんだったんですねぇ…と今頃言うな といわれそうです…いろんなものから逃走に逃走を続けてる私とは、全く違います…おまけにマウスより重いものは持たないを自称してますし…ちょっとだけ、共通点があるとすれば、私が東住吉区に住んでることでしょう…

5月5日にお目にかかれますよね?

・よしこさん、ようこそおいでくださいました。

傷ついた情況、選んだ道は個々に違っても、同じような経過を辿る人間はこの社会の中にはそこそこいるのだろうと思います。私たちは幸運にも再帰することができましたけれども、そうでない者も多数いるでしょう。もっと深い傷を負った者も...。日本で毎年の自殺者数が数万人というのは、その「事実」を示しているのだと思います。

安冨先生を介して出会うことが出来たのも、偶然的な必然のようですね。

まったく同感です。よろしくお願いします。

心のそろばんはいつもゼロ

・きよたろうさん、おはようございます。

「心のそろばんはいつもゼロ」。いい言葉ですね。

勇気? 勇気ですか。こういう踏ん切りを勇気というのでしょうか。私にはよくわかりません。けれども、読んでくださった方がそう思ってくださるのなら、そうなんでしょうね。

命、というより魂でしょう。その在り様はひとつです。ひとつのはずです。そうでなければ、「同じ人間」と確信を持って言えません。その確信もまた「心のそろばんはゼロ」ということなのではないでしょうか。

「弱虫」なんですね?

・sv400s_dracinさん、おはようございます。

そうなんですか。東住吉にお住まいですか。

逃走に逃走を続けてる...、それはやはり、良いこととはいえませんねぇ...、けれども、それを責める資格は私にはない...、少なくともネットで繋がっているだけでは。

でも、sv400s_dracinさんが、ご自分で逃げていることを自覚なさっていて、そのことをご自分で後ろめたく感じている...、そのことはネットを通じてもなんとなく伝わってきます。それのままでいいとは言いませんが、今はそれでもいい、とは言うことができそうです。

人は人それぞれです。自分の生き方を他人に強要することはできません。ですが、やはり、きよたろうさんも仰るように、生命は一つ、魂の在り様はひとつだと思います。

無題

昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。

フリードリヒ・ニーチェ
1844.10.15 - 1900.08.25

>その「蓋」が残っている限り、私の「恨み」も消えることはない。この「恨み」は私の心の強張りになり、魂の響きを濁らせるノイズになる。
 愚樵さんのこの記事を読んで、私にはまだ「蓋」が残っているのだろうなと思いました。
私の両親はずっと不仲で、そんな家庭環境が嫌でそこから逃れるために、就職してひたすらお金を貯め、1年で仕事を辞め、海外へ行きました。そこで私はキリスト教信仰を持ち、母と父に対する赦せない思いに向き合い、赦すということを選びとったつもりでした。

>その「蓋」は今や開いた。だが、完全に取れて溶解したわけではない。
と書かれていますが、私の場合も、完全に溶解したわけではない。

>私は、それを「愉氣」したいと思う。
意志なんでしょうね。本当にそう思っているのか。

4月から父が来ていて、正直な所、よそよそしくなってしまうのです。私はまだまだ父に対してかなりわだかまりを持っているなと痛感していて、このままではいけない、もっと受け入れないといけない、そんな風に思っていたので、この愚樵さんの記事には本当に考えさせられました。

ニーチェさんは

・tanakazuhikoさん、おはようございます。

ニーチェさんって、「三年之愛」を十分に頂いていなかったような気がするんですよね。

迷える子羊

・愛希穂さん、おはようございます。

神の前では、人は身は平等に、迷える哀れな子羊。

真の信仰を持っているのであれば、愛希穂さんご自身もご両親も同様に迷える子羊でないのだから、赦すことができるはず――という理屈になるのでしょうか。しかし理屈はどうあれ、真の信仰への道は険しい。

愉氣というのはそもそもは身体への「手当て」の意味ですが、当ノートでの意味はむしろ「赦し」です。

愛希穂さんの神は、未だにご両親を赦せないでいる愛希穂さんを赦してくださらないのでしょうか。

このままではいけない、もっと受け入れないといけない、そんな風に思っていた

“受け入れないといけない”という「意志」は、逆に愛希穂さんの身体と心とを強ばらせ、受け入れられないという「事実」を浮き彫りにするでしょう。しかし、その「事実」が赦されるとすればどうでしょうか。

愛希穂さんは信仰の道へ進み、ご両親を赦すとお決めになった。にもかかわらず未だに赦すことができていない。ならば、今は罪は、ご両親にではなく、愛希穂さんご自身にあるのではないか。しかし神はそのような愛希穂さんを赦してくださる――と私は想像します。あくまで私の想像です。私はその道の者ではないので、確信を持っては語れません。想像するしかありません。

これは、私も同じことです。私も私を赦さなければならない。私はもうすでに親からは自立しているのですから、赦すべきは継母ではなく私自身です。

愛希穂さんへの言葉は自分自身への言葉にもなりました。コメントを下さったことに感謝します。

魂の遍歴

さきほど、安冨さんにメールで知らせてもらって、さっそく一気に読みました。
WTCの事故のとき、私は自宅で、中国人歌手Fei Wongが出演する日本のテレビドラマの最終回かなにかを
見ている最中でした。
その同じ時に、愚樵さんが人生の決定的な岐路を経ておられたのだ、、と何か不思議な気持ちがしました。
山に、入られた理由、そして山にはいりつつも自分が何から逃げていたのかを見つめることなく、
七転八倒しておられた頃。

愚樵さんの深い思索はこういうところからもたらされたのか、、と。
と同時に、ぜひとも、我々の魂の脱植民地化論文集に寄稿してくださったスタンフォード大学の別府春海さんの
文章を読んでいただけたら、、と思いました。
すでに発送の準備をしてもらっています(もっとはやくにお送りするつもりでした)。

この一連の魂の遍歴を、ぜひ魂の脱植民地化叢書の一冊としておまとめいただけないでしょうか?
何か映画を見ているような文章です、、。

Re:魂の遍歴

・深尾先生、こちらにまでコメントをありがとうございます。

私に何か果たすことができる役割があるのなら、喜んで引き受けさせていただきます。
なにより、そうすることが私自身の「愉氣」になると思うからです。

三年之愛

なんとコメントすればいいのかと何度も考えてしまいました。
でも、何かコメントしたいと思いました。
辛い体験を書かれるまでの心の葛藤も想像いたしました。。
逃げ続けたとおっしゃっていますが、それは魂を守るために無意識にされていた行動であり、むしろ勇敢だったのではないかと感じましたし、あの「三年之愛」がやはり守ってくれていたのではないかと思いました。
また、ご自分の内面を常に見つめて生きておられたということも勇敢なんだと思います。。それも愚樵さんの魂が「愛」を受け取っていたからだと思います。

「中身」がないということへの認識が、「蓋」がしてあったのだと気がつくことで、それを溶かす作業が始まっていったようにも思いました。
私は自分の「蓋」の存在に安冨さんや深尾さんのお話から気がついたのですが(愚樵さんもでしょうかね。。)、それまでは「蓋」というか何か自分でないものを表面にくっ付けてる感じで認識してました。
どちらかというと「仮面」という感じですね。。つけたりはずしたりできるんです。。でも、それが「蓋」ということなんだと考えるとその存在がわかりやすくなりました。
そして、その「蓋」という存在をはっきり認識することで、自分の問題がよりはっきりしたように感じています。
私の育った環境は、おそらく表面的には普通なんですが、私の内面では、その年齢によってさまざまな葛藤が起こっていたということは、どう考えても問題のあった環境だったのだと思っています。
ですので、この記事を拝読して、非常に思うところがありました。
「蓋」が残っているかぎり、魂の響きを濁らせるノイズとなって他者へ降りかかる。。ということ、なるほどと思いました。
怒りを感じることが、自分の「蓋」に気づくことだと以前安冨さんから聞いていたのですが、その意味がよくわかりました。。やはり完全に溶かしていく作業が、必要なんですね。。そして、愉氣したいですね。。

愚樵さんの優しさが壮絶な体験からもたらされているのだと思い、胸がいっぱいになりました。。
勇気を持って書かれたことに感謝いたします。ありがとうございました。

Re:三年之愛

☆まみ☆さん。優しいコメントをありがとうございます。

ここのところ、私は嬉しいんですよ。

私には長らく友達っていなかったんです。そして、このブログではずっと嘘をついてきたのかもしれません。

人と人との繋がりが大切だ、【システム】はダメだ、そんなことをずっと書いてきて、それは心底そう思っているんだけれども、でも、そのように主張していた自分自身は、本当は人と繋がることにどこか怖れていて。心を許せるのは家内だけだと思っていたし、それで十分だとも思っていた。

でも、その家内も、私がブログで何を書いているかなんてほとんど知らないんですけどね。(^_^;

これまでも繋がろうと思って、ネットで知り合った仲間に会いに行ったりしたこともあった。でも、まだ私には準備が出来ていなかったんでしょうね。壁を作っていた。

それがなぜか、繋がり始めた。繋がっていくなぁ、という感じがしてきた。そのことがおそらく、こんな文章を表に出すことを後押ししたのだと思います。そういうことでは、☆まみ☆さんの作品を巡ってのやりとりも大きかったと思います。

「蓋」というのは、私のイメージずっと「鎧」だったんですよ。学生の頃から私は「鎧」をまとっているんだという自己イメージを持っていた。まとうのではないな、「中身」は空っぽなんだから。

それまでは「蓋」というか何か自分でないものを表面にくっ付けてる感じで認識してました。
どちらかというと「仮面」という感じですね。

似た感じだと思います。けれど私は、付け外しはできなかった。重い「鎧」をずっと操作しながら生きていかなければならないと思っていた。そう思い始めてから、友達が無くなっていったんです。そして友達になることができる人たちを、不思議だなと思って眺めていた。

私の育った環境は、おそらく表面的には普通なんですが

そのような人は多いと思います。そして大半は、今でも普通だと思っているんじゃないかな。「正常」という病、ですね。けれども面白いものですね。マイケルがきっかけで、「正常」という病から抜け出そうとする者同士が繋がった。

こうした繋がりを網の目のように広げていきたいですよね。それは間違いなくそれぞれが自分の中にある「蓋」と向き合う勇気を与えることになる。

たぶんとしか言えませんが、☆まみ☆さんだってマイケルと向き合い続けていけば、自分のなかの「蓋」を外へ向かって吐き出してみたくなるだろうと思います。今は「まだ」と思っておられるようなことを書いておられましたけど、「まだ」というのは「いずれ」ですからね。

そうやって、「蓋」を抱えた人間がひとりひとり自分の「蓋」を露わにして溶かし始めていくことが、マイケルの願いだったんじゃないのかなと想像します。

マイケルの願い

そうですね。。。
「蓋」のない人間が増えること。。
自分の魂に従って生きる人が増えることは、マイケルの願いであったと思いますね。。。

私の場合、「蓋」はつけたりはずしたり出来るイメージだったのですが、かなりその相手は見極めていました。
「蓋」のない状態で付き合える人は、かなり少ないのです。。
なので、このパソコン上で、出会えていることにかなり驚いています。
私との”マイケルへの思い”についてのやりとりで繋がっていってると感じてくだっさっているのは、とてもうれしいです。。

しかし愚樵さんの「鎧」というのは、、、重いですね(T.T)疲れたことと推察いたします。。

私は子育てが、かなり自分を知るきっかけになったのですが、マイケルに出会ったことによって「蓋」についてもかなり溶けてきてるように思っています。
もちろん、そこには想像もしてなかった人との出会いやほんとにありがたい友人や夫の支えがあってのことなんですが。。
マイケルのように「蓋」のない状態、つまり「Open mind]で生きていけたらと今は心から思っています。

いつか私もこのことについて書ける日が来るのかどうかわかりませんが、常に自分と向き合い考え続け、少しでも成長したいと思っています。
そんなもの同士として。。これからも、よろしくお願い致しますね。

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