愚慫空論

「当事者」の時代 その2

アキラさんのところから拝借した動画から、この記事を始めてみよう。


この五分半ほどの、ドラマ『北の国から』のワンシーン。「当事者」とはどういうものか、そして「当事者」でない者がいかにして卑怯な振る舞いをするのか。見事に切り取られている。

このシーンだけでも文脈は読み取れると思うが、少し説明しておこう。

動画の冒頭は清吉オジサン。すぐに純と正吉の会話。「じいちゃん」と出てくるのは笠松の爺さん。続く場面は、その爺さんのお通夜だろう。「あの土地の問題はオヤジが悪いんだ」と言われている「オヤジ」が笠松の爺さん。

笠松の爺さんは『北の国から』の舞台になっている富良野・麓郷では、“へなまずるい”(→コチラを参照)というレッテルを貼られてしまっていた。「土地の問題」は、その“へなまずるい”話である。

笠松の爺さんは馬を飼っていた。その馬に純(と雪子)は命を救われ、しかし諸々の事情で手放さざるを得なくなり馬を手放した直後に、爺さんは死んだ

(できれば、それぞれのリンク先の動画もご覧あれ。)

そして、冒頭の動画、お通夜のシーンとなり、“へなまずるい”話が出てきた、というわけだ。

(0:55) その気持ち、オマエ等にはわかるめえな。


清吉オジサンに反論するのは、笠松の爺さんの息子たちだろうか。「正論」である。

(1:29) それでもオメエらには、オヤジはわかっとらんさ


笑って誤魔化し、酒で誤魔化そうとする。

一尺がわずかか? ええ? 境界、一尺出すことが。


一尺四方掘り起こすのに、畳一畳の石があったらどうする? でっけえ木の根がはってたらどうする?


「当事者」が語られる。

一町歩掘り起こすのに二年もかかった。そういう時代に生きてきた人間の土地に対する執着心がオマエらにはわかるか?


うろたえて。

そらぁ、清さん、もちろんわかるよ。オラだって昔は一緒にやってきた。


ならなぜ、土地を捨てた?


居たって、食えんべさ。そんだけ、みんなが食っていけるか?


またしても「正論」。

確かに「みんな」は食えなかったかもしれない。だからといって「みんな」出て行くことはあるまい。なぜオヤジの土地を継がなかったのか。オヤジの苦労を継がなかったのか。「当事者」にならなかったのか。

オラただ、土地を出て行った者は、土地に居る者をとやかく言う資格は無え。そのことだけ言いたかった。


当事者の「真実」は、当事者にしかわからない。

これは佐々木俊尚著『「当事者」の時代』でも、描写されているところだ。

「当事者」の時代

 なぜ河北新報の記事は人の心を打ったのか
 震災後、マスメディアが報じた被災者の記事の多くが人々の心に刺さらなかった一方で、被災者本人や支援に入った看護師、自衛隊員といつた当事者たちが書いたプログやツイッターは、被災地の人たちの心に強く響いた。
 しかしそういう震災後の状況のなかで、つねに心に響く記事を書きつづけているプロのメディアが実は存在していた。
 それは被災地の地元紙だ。仙台の大手地方紙・河北新報、さらにもっと小さな市町村のコミュニティのなかに根ざした大船渡の東海新報、輪転機が破損して手書きの新聞を避難所に貼りつづけた石巻の石巻日日新聞。
 私がその思いを最も強くしたのは、河北新報編集委員の寺島英弥が震災後ずっと自身のプログで書きつづけている「余震のなかで新聞をつくる」というシリーズだ。津波被害にあった人々のさまざまな体験談が、ていねいで静かな筆致によって描かれている。
 私は寺島がどのようにしてそれらの記事を書いているのかを知りたいと思った。そして被災地取材の最終日、雨がそぼ降る午後に仙台市内で彼に会った。
 寺島は私の質問に、こう答えた。
「河北新報の記者はほとんどが地元の出身。今回津波で押し流された宮古や釜石出身の者もたくさんいる。彼らは震災取材で家にも帰れず会社に泊まり込むような状況が続きながらも、つねに『実家はどうなっているんだろう』ということが頭の中から離れない」
 たとえば――。宮古出身の女性記者。何度も電話をかけるが、実家に連絡がとれない。そのうち編集局には、宮古の街を襲う巨大な壁のような津波の写真が配信されてくる。その時の彼女の思いはどうだったか。
 石巻出身の整理部長は、仕事がら朝刊の降版時間まで残らないといけない。午前一時前後だ。実家は一階が泥だらけになり、親戚も何人か行方不明になった。避難所を回つて親戚の安否を確認したいが、その時闇がとれない。それでも仕事は続く。
 寺島自身も同じだった。福島第一原発に比較的近い相馬市の出身。しかし震災後、実家の両親には連絡がしばらくとれなかった。被災した仙台空港を取材しながら、実家のことが心配でたまらない。ようやく連絡をとることができて、しかし両親の「仕事頑張れよ」「私らは年寄りだから放射能なんか怖くないから」という言葉に心が痛んだ。実家に戻ることができたのは、震災から三週間が経ってからだった。
「記者は多かれ少なかれ、取材に行ったり地域を担当したりして街のことを知っている。いきなり瓦礫の山を目にしたのとは違って、街への愛着があり、その愛着のつながりで被災地を見ている」
 そう寺島は語った。




『北の国から』のワンシーンに戻ろう。

清吉オジサンに反論する笠松のジイサンの息子たち。彼らは逃げ出した。「当事者」になりたくなかったのである。

(清吉オジサンが言う)「土地」で生きている者は逃げたしたことを責めはしよう。しかし「当事者」であるがゆえに、その「心」も理解はできる。清吉オジサンにしてみたところで「当事者」であることがいかに辛いことなのか知っている。だからこその愚痴でもある。

逃げたことはまだ赦すことができる。しかし、逃げたことへ「正当化」は赦せない。“食えなかったから仕方がない”は、今も現にその土地で暮らしている者に赦せるわけがない。

逃げるのは「弱虫」である。「弱虫」はまだ赦すことが出来る。しかし、「弱虫」が自分の弱さを隠蔽するために他者への攻撃に転じた「卑怯者」は赦せない。清吉オジサンが口を開いたのは、「卑怯者」が赦せなかったからだろう。

もし「弱虫」たちが自らの弱さを認め、詫びたらどうだったろうか。それでも清吉オジサンは、まだ怒りを収めなかっただろうか。

それは、笠松の爺さんが五郎を受け入れた経緯に現われていている。

当初、笠松の爺さんにとって、麓郷に戻ってきた五郎は土地を捨てた「弱虫」でしかなかった。しかし五郎は詫びた。なにも言葉で詫びたわけではない。行動で詫びた。東京へ逃げ出し、東京で失敗した自身の人生を生れ故郷で立て直すことを通じて、詫びたのである。だから笠松の爺さんは赦した。そしてまた、だからこそ爺さんにとって最後の盟友であった馬を、五郎に託そうとした。

しかし、このシーンでは残念なことに(視聴者にとっては好都合なことに)、清吉オジサンの怒りに火にはさらに油が注がれることになる。

(3:23) オメエらはわかっとらん。やっぱりな~にもわかっとらん。


清吉オジサンの怒りの矛先は、「みんな」にも向かってゆく。

オメエらだけじゃ無え、みんながわすれとる。
一町起こすのに二年もかかった。その苦労した功績者を忘れとる。
功績者の気持ちを誰もが忘れとる。


とっつぁんは、確かに評判が悪かった。
けど、みんな、昔はあの人を“仏の杵次”、そう呼んどったよ!
そういう時代も昔はあったんだ。
それがどうして今みたいになったか。
みんな、とっつぁんの苦労を忘れてしまったからだ。
忘れなかったのはあの馬だけだ。
・・・・・・


清吉オジサンが暴露したこと。それは、「みんな」がよってたかって笠松の爺さんにハラスメントを仕掛けていたということである。その攻撃を受け、笠松の爺さんは“へなまずるい”になった、ということだ。その攻撃が笠松の爺さんを送る最後の最後までも繰り広げられ、そこに反撃したのが清吉オジサン――というのが、このシーンの構図である。

笠松の爺さんへの“へなまずるい”というレッテルは、一町歩掘り起こすのに二年もかかるという「苦労」を忘れたい「弱虫」が、自身のその「心」と対峙するのを回避するために、その「心」を未だ持つ笠松の爺さんに向けての攻撃へ転じてしまった「卑怯者」たちによるものだ。

くり返すが、「弱虫」はまだいい。というより、本当のところ、誰もがみな「弱虫」なのである。馬を頼りに土地を起こすという苦労の「当事者」であることから逃げたいという「心」を誰が責められようか。まして時代は高度成長期であった。原子力が夢のエネルギーともてはやされた時代だった。「苦労」を捨て「夢」を追いかけて悪いなどと、誰も言えない。だが、そのことは「苦労」を捨てたことの正当化にはならない。そんなところに「選択の自由」があったわけではない。そうではなく「夢」を追いかけたいという「心」があっただけのこと。その「心」はひとそれぞれ誰にでもある。その意味で誰もが当事者であるし、当事者でしかない。

「心」は当事者である、「私」ひとりのものである。誰とも共有不可能なものだ。これは当事者の不可能性である。

にもかかわらず人間には、他者の「心」が必要なのである。この“にもかかわらず”を見つめ直すことが、「当事者の時代」の意味ではないのだろうか。

コメント

あふれている

こんにちは。
良いエントリーですね。

世の中には「弱虫」と「卑怯者」で溢れています。
もちろん、私も含めて誰しもがそういう面を持っているのは当たり前の事だとは思います。
だけど今はそういった「弱さ」の暴走に「水」を注すことが、難しいのでしょう。だから、暴走してしまう。

感じることを信じられない

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

『北の国から』には「弱虫」はいっぱい出てきます。筆頭はやはり五郎でしょうね。でも五郎は「卑怯者」であることはやめた。かといって「強者」になろうとも望まない。ずっと「弱虫」のままでいようとしている。それが五郎の〈強さ〉ですよね。

時代は人々に「卑怯者」であることを強いていきます。『北の国から』の主題は、そうした時代に「弱虫」が「弱虫」のままで抗うことであるように思えますが、それはそのまま「生きること」になっている。

そうした「生きる」が出来なくなったのは、感じることを信じなくてもよくなったからでしょう。灯ひとつとっても、今の文明社会はスイッチひとつです。オン/オフがはっきりしていて便利だけれども、その間に「感じる」余地がない。

白樺の木の皮を火付けに使って、薪に火をおこす。純はいつまでも上手くできなくて五郎に詰られている。そこへ笠松の爺さんが来てアドバイスをしてくれる――というシーンがありましたよね。

純は、オン/オフに縋り付いていた。蛍はとうにオン/オフを捨てたから、すぐに「感じる」(=学習)をはじめて火がつけられるようになったけれども、純にはまだ心の準備が出来ていなかった。東京にいればする必要がないことだから。

そうやって文明は人々から感じる力、〈学習〉能力を奪っていく。しかし、文明は一面で輝かしい成果でもある。ここが悩ましいことです。せっかく育んだ果実を食べない手はない。

しかし、この果実は全部食べると毒になる。「フクシマ」が突きつけたのはその「事実」でしょう。私たちが育てた果実のもっとも美味しい部分は実はもっとも毒の強い部分である。ただちに健康に被害が出るわけではないが、徐々に、しかし確実に冒されていく、放射能による内部被曝のようなものでしょう。しかも放射能と同じく、特定の色や味や臭いがあるわけではない。

選り分ける方法はない。できるのは、食べてみて、食べた自分の身体を「感じる」。感じつつ、文明の毒への抵抗力を増していく。そんなことくらいでしょう。

それにはまずなにより、子どもたちには逞しい生命力を養ってもらわなければ。

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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