愚慫空論

制約/自在/幸福

まず、ここで用いる「制約」という言葉の意味を明らかにしておこう。それは「自由」の反対の意味、しかし、「制約」≠「不自由」である。「制約」はむしろ「不自由」の正反対。なお、ここでは「不自由」は「束縛」と表記する。

次に「自在」。「自在」は“自由自在”と言われるように、これも「自由」と関連づけて説明出来る。“自由自在”のイメージからは 「自由」≒「自在」になるが、私はむしろ「自在」は「自由」の正反対だと思っている。

図示すると、右のようなイメージになる。

「自由」から考えると、「制約」はx軸に線対称。
「束縛」はy軸に線対称。
「自在」は原点に点対称。

といっても、これでは抽象的に過ぎるだろう。なにより「自由」の意味が確定していない。

ここでいう「自由」には二重の意味がある。1.は英語でいうところの「freedom」である。1.の意味だと反対語は「不自由」になる。2.の意味は一言では説明出来ないので、とある著作からの引用でイメージを惹起したい。その著作とは以前にも引いたことがある、内山節著『怯えの時代』

怯えの時代

プロローグ

   一、

 二〇〇六年六月二十二日。妻が死んだ。ほんの五分前まで心地よさそうな寝息をたてて眠っていたというのに、突然息をとめた。受け入れるしかない現実が私の前で展開していた。

   二、

 それから数日が過ぎ、私は自由になった自分を感じた。すべての時間が自分のためだけにある。すべてのことは自分だけで決めればよい。何もかもが「私」からはじまって「私」で終わるのだ。私だけがここにいる。自由になった私だけが。

   三、

 それは現代人の自由と共通する。

   四、

 喪失の先に成立する自由。受け入れるしかない現実が生み出した自由。

   五、

 妻の死によって私は怯えることはなかった。私は「また会おうね」と言った。妻は「うん」と言った、と思った。

   六、

 現代人は確かに自由なのだと思う。もちろん世界のさまざまなところに、自由を圧殺された人々がいることを私は知っているし、それが国内問題であることも知っている。しかし、あえて私は現代人は自由だという。なぜなら現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先にあらわれてくる自由でしかないからだ。私たちは携帯でメールを打ちつづける自由がある。テレビのチャンネルを思うがままに変える自由がある。今日の夕食を好きなように決める自由がある。ただしそれは携帯電話がつくりだしたシステムを受け入れることによって、だ。サイフの中身をという現実を受け入れることによって、だ。
 現実を受け入れない限り自由を手にすることもできないという包囲された世界のなかの自由が、私たちにはある。そして現実を受け入れたときに手にしなければならないもうひとつものは、喪失。その代償のもとに獲得されたのが現代人の自由。

   七、

 (中略)

   八、

 そんな時代が長くつづき、私たちはうんざりするような自由を手に入れてきた。なぜうんざりするのか。それは自由であっても自在ではないからだ。(後略)


ここで語られている「自由」は、「freedom」のことではない。この「自由」を英語に訳するとすれば、どのような単語が適切なのか。英語に疎い私は知らない。英語に詳しい人に教えていただきたいと思う。

この文章は自由のもうひとつの意味を明らかにすると同時に、「制約」と「自在」の意味をも明らかにしている。内山氏にとってなくなった奥さんが「制約」であったことは言うまでもないだろう。そして、「制約」が喪失してしまうと自由になり自在ではなくなった、という。

この喪失感には不幸な響きが伴う。すなわち「自由」は不幸というイメージ。対して「自在」には幸福というイメージ。「自在」は「自由」の正反対と述べた意味が理解されるだろう。

しかし、この2.の方の「自由」の捉え方は、現代社会では少数派だろう。2.のように受け取ることが出来るということは日本人ならば理解はする。が、多数は、「自由」と言われたときにイメージするのは1.の「freedom」に違いない。そして、「freedom」には、2.と違って幸福感が伴う。

「freedom」を求めるといえば、真っ先に思い浮かぶのはアメリカ人だ。彼らは旧大陸からの「束縛」を求めて新大陸へと渡り、先住民を「束縛」へと追い込みつつ、「freedom」の拡大を目指した者たち、あるいはその者たちの子孫である。今なお、アメリカの建国の精神はといえば、「freedom」だろう。そして、その精神がアメリカから溢れ出したのが、グローバリゼーション。

しかし。そのグローバリゼーションは、誰も幸福にしないことが明らかになったのではないのか。
いや「明らかになった」と結論づけるのはまだ早いかもしれない。
世界を不幸にしたグローバリズムの正体

例えばこの本で主張されているように、不幸が拡大したのは特殊なグローバリゼーションが原因であって、誰もを幸福にするグローバリゼーションもあるのだ、主張はいまだ根強く存在する。

繁栄この著作などもそういった方向での主張を展開している。

確かに。人類が築き上げてきた文明は、他の動物たちとの生存競争に打ち勝つ原動力となってきたのと同時に、人間の「freedom」、「選択の自由」を拡大してきた。そして、各々の「選択の自由」が「市場」というメカニズムを通じて調整される。高度に発達した文明は、そうした未来観も振りまいてきた。

この未来観は、私はまったくのデタラメではないと断言できるだけのものは私にはない。ただ、予感はあったし、その予感が現実のものになりつつあるという現実もまたある。それは「市場」が調整に失敗したというより、「市場」の調整が、「制約」ではなく「束縛」としてしか機能しえないところに原因があるように思う。


おっと、話が逸れてしまった。こんなことを語りたいわけではない。今、ここでは、「制約」が「自在」を生み、それが「幸福」を醸し出していくイメージを語りたいのだ。


この動画も再度の引用になる。

ここで不揃いなパフォーマンスを繰り広げている、身体にハンディキャップを負った者たちは、そのハンディキャップを「束縛」としてではなく「制約」としている。もう少しいうと、「制約」を我が身に引き受けている。この「引き受け」は、上の内山節氏が喪失してしまった奥さんも同じ。子どもを持つ親にとっての子どもも同じだろう。

他にこんな例もある。

口からうんちが出るように手術してください

この本の紹介が安冨歩著『生きる技法』に出てきているので、そちらを引用してみる。

生きる技法

小島さんは、先天性脳性小児マヒのために手足がほとんど機能しないのですが、多くの人に依存することにより、自立を果し、一人暮らしを続けておられる方です。小島さんの自伝のタイトルは、

 『口からウンチが出るように手術してください』(コモンズ、2000年)

という衝撃的なものです。このタイトルについて小島さんはインタビューに答えて次のように語っておられます。

友達に、ある時「もし、ひとつだけ夢がかなうとしたら、どんな夢をかなえてもらう?」って聞かれたんです。彼女は「障害をなくしてほしい」と私が答えるだろうと思っていたみたい。だけど私は「口からうんちが出るようにしてほしいな」って答えたんです。そしたら彼女はすごく驚いた。・・・・・・でも私にはもう「障害がなくなる」という仮定はまったく考えられないんです。というか、何が「障害」なのかすらよくわからなかったんです。今もそうですけど・・・・・・(笑)


見事な「引き受け」ではないか。

まだ他に例をあげよう。このような「引き受け」は、何も弱点を引き受けるというだけのものではない。

生きるための論語

 人と人とのやりとりが上手くいくためには、実に見えないような微少レベルの近くと、それに基づいた調整が不可欠である。たとえばすれ違いざまに目礼するという礼を実現しようとすれば、視線を相手に会わせてタイミングをはかって、適切な瞬間に適切な角度で頭を下げなければならない。タイミングが早すぎたり遅すぎたり、おじぎが深すぎたり浅すぎたりすると、礼はぎこちなくなってしまう。相手の身体や心の動きを受け止め、絶妙のタイミングで絶妙の角度でおじぎを決められたなら、相手も同じように美しく頭を下げる。このときには、何の命令も、何の強制も必要なく、あなたは誰かの頭を思い通りに作動させることができる。
 (略)
 この場合、礼を形式的に完全に書き下すことはできない。すれちがう何メートル前で、どのような速度でどのような角度で頭を下げたら良いか、という外形的な規定を設けて、それに従ってお辞儀をしても、決してうまく行かない。お辞儀を正しく執り行うには、他者の動きとこちらの動きの双方を取り込んだ、高次の回路を形成し、その全体のダイナミクスをうまく構成する必要がある。そのとき、双方ともに自発的に、美しく、気持ちよく、あいさつをかわすことができる。


これは「礼」についての安冨先生の記述だが、これを「制約」という観点で読み直してみれば、「礼」とは「制約」を追求することだと言える。お辞儀は外形的な規定に従っても、上手く行かない。お辞儀というある意味では不自然な「制約」を「引き受け」ることができてはじめて、「礼」となり、自然に相手のお辞儀を引きだしていく。

身体にハンディキャップを持つ者、あるいは妻や子どもといった弱点を持つ者が、それらを「引き受け」たときに、生まれてくるのは自在感である。この自在感は幸福感へと繋がっていく。儒家が正しく「礼」を為したとき、これもまた「制約」の「引き受け」だが、感じられるのもやはり幸福感へと繋がる自在感であろう。儒家マイケル・ジャクソンのパフォーマンスは、そのことを教えてくれる。


思うに日本人という民族は、おそらくはその宗教的伝統からであろう、「自由→制約→自在→幸福」という回路が、欧米人よりもつよく働く民族だ。

欧米人たちの文化の基底にあるのはユダヤ=キリスト教だが、これは、人間を超越神が己の姿に似せて作った被創造物だと考える。この神は全能であると同時に選択を為す存在でもある。人間は神に似たおかげで不完全ながらも理性に基づいた「選択の自由」を為す能力を与えられた。もともとそのように考える人たちが、より神に近づこうとして「選択の自由」を追い求めるようになっても不思議ではない。

社会学という学問分野では、資本主義の精神の成立はプロテスタンティズムの勤勉の精神から生まれたと説明されるようだが、この精神は「選択の自由」への精神と言えるのではあるまいか。資本主義の成立には勤勉な資本主義的労働者の存在が欠かせないが、この勤勉は、「選択の自由」への勤勉であるように思う。

明治維新後日本がいち早く資本主義へと移行できた背景にも勤勉があったとされる。戦乱が収った江戸時代以降、日本の農村の生産性は上がったというが、それをもたらしたのが「勤勉革命」だったという説がある。これは産業革命とは逆の労働集約型への産業構造の変化だというが、その変化を裏打ちしたのは「制約」への勤勉の精神ではなかったか。

勤勉の方向性は明治維新を境に大きく転換することになる。しかし、そう簡単に「回路」が切り替わるはずもない。日本人は、現代に至ってもまだ「制約」を求めているのではないのか。ただし、現代の「制約」はほとんど「束縛」に変質してしまっているが。

昭和の終わりのバブルの頃、こんなCMが巷を賑わしていたことを思い出す。


24時間 戦えますか――

これは「束縛」か「制約」か。平成の現代から見れば「束縛」に移るだろうが、あの時代、確かにこのメッセージは「制約」へのものだと受けとめられていた。その先に自在感があり、幸福があると信じられていた。時代の「空気」と言い換えてもいい。

「空気」の研究そう、「空気」である。「制約→自在」への回路は、一歩間違うと「空気」を生み出しかねない。

山本七平氏は、「空気」を霧散させるには「水を差す」ことが必要だと指摘するが、それは言い換えれば「制約」を露わにする、ということである。

 私の青年時代には、出版社の編集員は、寄るとさわると、独立して自分が出版したい本の話をしていた。みな本職だから話はどんどん具体化していき、出来た本が目の前に見えてくる。そしてみなでその未見の本を徹底的に批判しても、やはり、相当に売れそうだという気持ちになることは否定できない。
 するとその場の「空気」はしだいに、「いつまでもサラリーマンじゃつまらない、独立して共同ではじめるか」ということになり、それもぐんぐんエスカレートし、かつ、“具体化”していく。私は何度か、否、何十回かそれを体験した。すべてはバラ色に見えてくる。そしてついに、「やろう」となったところでだれかがいう。「先立つものがネエなあ」――一瞬でその場の「空気」は崩壊する。これが一種の「水」であり、そして「水」は、原則的にいえば、すべてこれなのである。


(なお、私はこの後の山本氏の「水」の研究の記述には納得できていない。)

日本人は未だに「空気」というわけのわからない呪縛に捉えられやすいというのは定説だと言っていいだろう。それは、もともとその傾向が強いにしても、「水を差す」ということができなくなってしまったためではないだろうか。「水」とは「制約」であるとするならば、「制約」の「引き受け」を為している者は、常に「空気」に「水を差す」者だということができるはずだ。それが出来なくなったのは、「制約→自在』の回路――「制約」を求める勤勉精神と、「選択の自由」を求める勤勉精神とが混線してしまったためではないだろうか。

「水」=「制約」=「現実」を「選択の自由」拡大のために突破すべきだとして「引き受け」ることがなくなったとき、制約は突破すべき「束縛」となり、日本人は「空気」の呪縛に囚われてしまう。かつて、農村を舞台に勤勉革命が進行していた頃にも「空気」は生じたに違いない。しかし、それが第二次大戦と敗戦へ突き進むほどに破壊的なものだったかどうかは疑問だ。多くの者が自身の身分や「役」を引き受け、その中から自在感を引き出し、幸福を味わっていただろうから。

それがなぜ「水」が差せない「空気」が支配する国になってしまったのか。その大きな原因は、学校教育にあるのだろう。学校は知識を学ぶ場だが、学ぶ知識の大半は生活に必要がないものであり、「水」を阻害するものだからだ。自身が生きるために真に必要な知識は「水」を呼び込むが、そうでないものは「空気」の発生源になってしまう。

...話の展開がなにやらまとまりが付かなくなってきたので切り上げるが、最後にひとつだけ。放射線被曝について。

放射線被曝の問題はこれまた濃い「空気」を生み出している。その大きな原因は、まず知識が確定していないこと、体感できないので自身に必要な知識かどうかを身体的に判別できないことにある。「引き受け」には、身体的判断が大きな役割を果す。

放射線のそもそもの性質からすれば、身体的判断が働きにくい、つまり「引き受け」をし難いという点で、「引き受け」はできないものだと判断する方が安全だと私は考える。

だが、これは難しい。この判断は、「選択の自由」に基づくものでしかないわけだから、日本ではどうしても「空気」を生む。そして原発再稼働に代表される経済的な「選択の自由」への勤勉が、そうした判断から生まれた「空気」と対立する「空気」を生み出す。「空気」同士の争いは、混沌とするばかりでなかなか収ることがない。こういった場合に頼りになるはずの専門家ですら、「空気」を生み出す役割を担ってしまっている。

もうこれは、「空気」に抗うしかないとしか、言いようがない。放射線被曝についての現実が露わなり、その現実が「水」となって「空気」を霧散させるまでは、個別的に、あるいは連帯して「空気」を生みつつも、抗うしかないのではないかと考える。残念なことだが...

コメント

思うところ。

>身体にハンディキャップを持つ者、あるいは妻や子どもといった弱点を持つ者が、それらを「引き受け」たときに、生まれてくるのは自在感である。この自在感は幸福感へと繋がっていく。

制約は自在を発動させる培地にはなり得ます。
しかし、制約を受け入れることに「よって」自在に到達できるわけではないでしょう。

以前毒多さんのところにコメントいたしましたが、幼年期~少年期にかけて最も親しかった友人は、少し年上の従兄でした。
彼は物心付いた頃から次第に歩けなくなり、外出もままならず、居間の一隅で日々を送りながら十代半ばで物故しました。筋ジストロフィだったと思われます。死後に生まれた彼の甥も、恐らく同じ病で十代半ばで死去しています。
従兄は、今まで私が会った中で最も高度な精神性を備えていた人物でした。
時の流れから取り残されること、孤独、時とともに衰えていく肉体と向き合うこと。

そして、ひたひたと歩み寄る、死の予感。

そういったものに対して、ほとんど超然といった体で向き合い、恐らく肉親以外では最も親しかった私にさえ、一度たりとも「陰」を見せたことがなかった。隠蔽していたのではなく、超越していた。
知的に未発達だったのでなく、常に聡明で清明でした。彼は確かに自在でした。身体の不随を意に介していなかったし、死を恐れていなかった。全てを当たり前のように受け入れていました。いつだって風のようにさわやかに迎えてくれた。

彼がその精神性に至ったのは、身体的な制約を受け、箸と器を持つのがやっとという状態になったからではありません。
友人達が、教師達がみんな彼を見捨て、忘れ去ったからです。彼には、もう喪うものがなかった。
そういう途方もない代償と引き換えに、彼は自在を手に入れました。

「自在」などというものが、何の代償も払わずに手に入るものでしょうか。

空論

・平行連晶さん、おはようございます。

ふ~む。要するに。

身体にハンディキャップを持つ者、あるいは妻や子どもといった弱点を持つ者が、それらを「引き受け」たときに、生まれてくるのは自在感である。この自在感は幸福感へと繋がっていく。

こんなものは空論でしかない、と。あいや、それはその通りです。
ですが。

友人達が、教師達がみんな彼を見捨て、忘れ去ったからです。彼には、もう喪うものがなかった。
そういう途方もない代償と引き換えに、彼は自在を手に入れました。

これもまた空論。
とどのつまり、我々は「当事者」にはなれない。また、なりたくもない。
しかしそんな空論も「当事者」への不可能性から出発するなら、単なる空論ではない。

それらを「引き受け」たときに、生まれてくるのは自在感

には、原理的には不可能な「当事者」へのギャップを埋めようとする、私の意志が入っています。

「自在」などというものが、何の代償も払わずに手に入るものでしょうか。

ここには、「当事者」への不可能性を埋めようとする平行連晶さんの意志が込められている。

そもそもです。「自在」であれ「自由」であれ、何らの代償なしに手に入れることは出来ません。

獲得した「自由」や「自在」は、代償を支払ったがゆえに尊いのか。それとも、
「自由」「自在」そのものが尊いのか。

亡くなってしまった人の言葉を聞くことはもはやできません。出来るのは、今も心の中に存在する亡い者の〈霊〉に問いかけることだけ。

その〈霊〉が何と答えるのか。答えたしてもそれは空論でしかないことに間違いはないが、しかし、その〈霊〉を心に宿す者には意味があるはずです。

空論ではない。

>こんなものは空論でしかない

こうは考えていません。
書くべきかどうか(このエントリにそぐわない気がしたので)迷ったのですが、いるんですよ。
身体の制約を自ら引き受けることによって、自在を手に入れようとする人たちが。

アンピュテーション。
身体の部分切除です。
自らの意志で、自身の手や足・指・目などを切除して自己の「像」を調える類の人間が。
レアケースですけど、こういった人たちが集まるコンベンションもある(あった)ようです。

以下のサイト(PDF)でそれらの事例を確認することも出来ます。
http://www.zentastic.com/pdf/ModConBook.pdf
P88(足指切除)、P90(手指切除)、P99(右手切除)、P104(手の各指切除)など。
上記のPDFには、その他にも性器切除(去勢含む)などの事例も多数掲載されています。

アンピュテーションを自らに施す人たちは、身体の不随(制約)からダイレクトに自在を発動させられる、制約と自在が因果関係の下に直結している人たちです。自在のために制約を自らに課すのだから、むしろ機序が逆転しているとも言える。

大多数の人たちは、そのようにあることは出来ません。マジョリティは自分の手や足を自発的に切断しないということでなく、制約自体はあくまで制約でしかないから。
愚樵さんがいみじくも「当事者」と表現している人たちは、単に制約を受けている人たちを指すのでなく、それを「受け入れて」いる人たちを指しているのでしょう?
この場合「受け入れる」ということは「制約を受け入れる」のでなく、「制約によって生じる“局面”を受け入れる」ことであると私は考えます。だから前のコメントで異論を唱えました。
私たちの共同体では、制約に伴いそのような局面が必ず立ち現れてくるから。その局面の渦中に在る者が、当事者。私はそう捉える。

前述した私の従兄が幸運だったのは、友人達に見捨てられた時まだ歳が行っていなかったから、成長して世間知を身に着けた友人たちと己の境涯との落差に直面せずにすんだことです。彼らから持ち込まれる、世間という物差しを持たずに済んだし、また歩けなくなった時、従兄自身が世間知を持つほどに社会化されていなかった。喪うものがないことは、時として人を救う。歩けなくなった時期がもう何年か後ろにずれていたら、彼の内面は絶望で塗り潰されていたかも知れません。
自身の身体的制約(不随)によってではなく、ね。

私は自由が、或いは自在が尊いかどうかは分かりません。
今書いたように、持たざるものの強さ(柔軟さと言った方が私のイメージに適うかしら?)というものはあり得ると思いますし、持たざるものでありたいとは思いますけれど、生きていれば種々雑多なものが溜まってきます。世間という物差しとかね。
でもそれは自分が持っている以上、もはや自分の一部なんでしょう。
故に私はアンピュテーションを自らに処置する人たちに対し、一種の憧憬というか尊崇の念を持ちます。
自在が尊いか否かでなく、自在のために自分の手を切り落とすことが出来る「精神の在りよう」に尊さを感じる。
同時に、畏怖も感じます。私の世間知が、彼らに狂気を感じさせるからです。

自分の細胞・身体に畏敬の念を感じる私が、畏敬すべきその身体を自ら毀損する人たちに尊崇の念を感じるというのも、はなはだ奇妙なものですよ。人間とは、なんと矛盾に満ちた生き物なのかと思います。

この文章を、愚樵さんが楽しんでくれることを望みます。私は人を退屈させるのが何より嫌いなのです。

楽しんでいる、といえるかどうかはわかりませんが

・平行連晶さん、おはようございます。

私はこのような問いかけ? 挑発? には応じる質です。(^_^;

なるほど、このコメントで、先のコメントの

しかし、制約を受け入れることに「よって」自在に到達できるわけではないでしょう。
の「よって」の意味がわかりました。いえ、私も「空論」と応えた先のコメントも、外していたわけではないと思います。

「よって」ではないと仰る平行連晶さんは、「よって」では意志がないと感じられたのでしょう。私のいう「空論」も、意志のないもの、という意味です。「空論」を意味あるものにするのは各々の「意志」です。

ただし私は、“意味あるもの”を生み出すのを「意志」という言葉で表すには、「意志」のイメージは強すぎる。それで「醸す」という言葉を使ってみた。それがこれのひとつ前の記事になります。

平行連晶さんが提示してくださった例は、まさに「意志」ですね。しかし、それはやはり例外的。

自在が尊いか否かでなく、自在のために自分の手を切り落とすことが出来る「精神の在りよう」に尊さを感じる。

切り落とすというとどうしても奇矯な感はありますが、傷つけるという観点で見ると、他にも視野に入ってくるものはありますよね。代表的なものは、入れ墨などがそうでしょう。現代は、「精神の在りよう」は抜けて単なるファッションに堕ちた感はありますが、本格的な倶利迦羅紋紋は、ある種の「精神の在りよう」がなければ、為しえないものだと推察します。

例を拡張していけばハンストもそうですし、ガンディーの「非暴力・不服従」もそうですし、極端には「自殺」にも「精神の在りよう」は見て取れます。抗議の焼身自殺。自爆テロ。戦中の特攻隊もそうです。これらにはみな「意志」が漲っていて、そこに憧憬というか尊崇の念を持つ。

ついでに言いますと、こういった行為への畏怖を隠蔽するイデオロギーを私は嫌悪します。

ただ、しかし、どうしてもこれら「意志」には悲痛なところも感じざるをえない。アンピュテーションを自らに施す人に、どういった内発的な事情があるのは、これは「当事者」ではない他人が共有できるものではない。なのでそれは受け入れるしかないものですが、受ける「感じ」のなかにどうしても“悲”が混じるのは禁じ得ませんね。

“悲”を感じさせるからダメだとは言えません。言えませんが、それでもできることならば、“悲”の無きように。そう願わずにはいられないというのも、事実です。

醸す。

「醸す」のエントリについては、頷ける部分が多かったですよ。
醸すには瞬発力というか苛烈な意志は不要でしょうが、その一方で自らを時間に預け、結果を期待せずに待つ度量が必要になります。
他力ってのもなかなか高度な精神性が要りようになるものです。
犬は目の前に餌を置かれたら、たった5分待つのに大変な忍耐を要するらしいですよ。
人間はどうでしょうか。人間の脳のスペックで、どこまで待てるか。

それで、思い出した歌があります。
http://www.youtube.com/watch?v=oIKf7nsmDIY

この歌の「もしも二人が 愛せるならば 窓の景色も変わって行くだろう」というくだりは、「醸す」ことについて歌っているのでしょうね。
幼い頃、この歌が何故か大好きだったのを思い出しました。

愛があれば、待てるのかもしれない。
では愛がなかったら、さてどうしたものか。

・平行連晶さん、おはようございます。

醸すには瞬発力というか苛烈な意志は不要でしょうが、その一方で自らを時間に預け、結果を期待せずに待つ度量が必要になります。

その通りですね。大切な指摘だと思います。

そしてご指摘の「度量」ですが、私はこれは思索についても不可欠な要素だと思います。思索の場合、結果は期待しますが、その結果を時間へと預け待ち続ける「忍耐」が必要になる。忍耐できずにすぐに答えを求める者には思索は出来ません。

確かにこうした「度量」や「忍耐」には高度な精神性が要ります。しかし以前は、そういった精神力は共同体の暮らしのなかで自然に育まれていったのではなかったのでしょうか。特に日本の共同体は、共同体の構成要素の中に自然が入っている。自然は必ず「度量」と「忍耐」を要求します。今日蒔いた種が明日実ることはない。春に蒔いた種は秋にならなければ収穫できない。その間にはさまざまなトラブルが起きますが、そこを乗り越えていかなければ結果は手にできない。

近代の教育は、そうした精神力を育むことをせず、むしろシステマティックにスポイルしていますね。結果を待つことができる者は評価されないのですから。すぐに答えを出すことが出来る者が評価される。「答えのストック」をたくさん持っていることが評価の基準になってしまっている。

「醸す」を阻害しているのは、近代教育だということですね。


ところで。『時の過ぎゆくままに』ですか? こんな歌が幼いころ大好きだった、と。なんとおませな (^_^;
が、何を隠そう、私もこの歌は好きでした。小学生の頃から。沢田研二と言えば『勝手にしやがれ』とか『TOKIO』とかが小学校の頃は流行でしたが、そんなのより『時の過ぎゆくままに』の方に惹かれましたね。公言は出来ませんでしたが。

しかし、この歌にも“悲”がありますね。「醸す」には間違いないが過剰な感じがします。毒多さんではないが、醸しすぎると酸っぱくなる。そんな感じを受けます。

では愛がなかったら、さてどうしたものか。

さて、どうしたものでしょう?

時間。

近代教育がなぜ「醸す」をスポイルする方向を選んだのか。
結局そこを考えざるを得なくなりますね。

江戸時代には和算が隆盛し、しかもこの現象は江戸に留まらず地方でも見られたようですね。
和算は高度な論理思考を要求するもので、しかも単なるリソースの蓄積では答が得られない。
明治政府は和算を学校教育に採り入れることを一度は検討し教材の制作を和算の講師に依頼したものの、結局はこれを放棄して西洋式の数学教育のプログラムを採用しました。

理由の一つは、児童・生徒に学年毎の均質な知力を求めたこと。もう一つは恐らく、「時間の短縮」です。
愚樵さんの以前のエントリを通じて、私は定時法と不定時法について知りました(あれはかなりの収穫で、私は愚樵さんに感謝しています)。

和算は、同じ教室の中でも子供たちがそれぞれ別の問題を解き、しかも同じ問題であってもそれぞれの子供が別の論理に則って解を得るという情景が常だったようです。
個々人の数的論理構築の能力・方向性の伸長に当然ばらつきが出る。段階を追って加・減・乗・除を順次子供の脳にインプットしていく型の教育ではなかった。明治政府はこれを好まなかった。
明治政府は、定時法の世界に適応した人間を「量産する」ことを望んだ。
近代化というのは、早い話が時間を短縮することだから。西洋文明は時間を短縮する能力に勝ることで、他の文明との戦いに勝ってきた。機動力にせよ、火力にせよ、すべて時間の短縮です。
時間の短縮という概念は、定時法の「定着」によって初めて機能する。意味を持つ。
そのためには、定時法という概念を子供たちに植え付けなければならなかった。教育の場において、決まった時間に決まったプログラムを消化させ、偏差を物差しに発達の段階を切り分ける。こういった空間に身を置くことで、子供たちは定時法の世界を自ら発見する。人間は内面から新しく作られる。

時間を短縮するという価値観が定着すれば、今度は播種から収穫に至るまでの時間を短縮しようがない「農」を人が忌避するようになるのは当たり前です。二毛作のような時短で収量を増やせば、今度は土壌が痩せる。自然は時間を要求する。

自然と密であった時代の日本人は、おそらく愚樵さんの仰るように度量というものを「識って」いたのでしょう。
しかし、概念として自覚はしていなかった。たぶん今でもしていない。だから、自分たちの手放したものがなんであったか、今でも気づいていない。

話を変えます。おまけです。
http://www.youtube.com/watch?v=LNGPAMbpp10
このPVには、かつて自在を得ていた者が自由と引き換えに自在を喪う姿が描かれています。
おもしろいのは、このグループがかかる世界観を描きながら米国でメガヒットを得ていることです。
今の日本では、考えられないことです。

補足しておきますよ。

愚樵さんがツイートに乗せられたようなので、補足しておいた方がいいでしょうね。
YouTubeにアップされた件のTOOL『Jambi』の動画ですが、これは実は正式なPVではなくて、Robert Morganという映像作家の作品とTOOLの曲をバンドと無関係の第三者(? 詳細不明)が一つにしたもののようです。
http://www.robertmorganfilms.com/

通常、TOOLのPVはギター担当のAdamが制作しており、その作風がRobert Morganのものと近しいので、確認せずにまるで(Adamが手がけた)TOOLのPVであるかのように記してしまいました。
完全な私のミスです。すみません。

映像と曲の展開が妙にシンクロしているので、私は完全に担がれてしまいましたよ。歌詞とも妙に馴染んでいるから、困ります。愚樵さんにも、ご迷惑をお掛けいたしました。謝ります。

迷惑なんて、全然してませんけど。

・平行連晶さん、おはようございます。

へえぇ、そうだっだんですか。
それにしてもよく出来てる。

あの動画は要するに二次創作ということのようですが、それで誰が迷惑するんでしょうね?
TOOLは迷惑に感じているのかな?

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