愚慫空論

「(幸福/不幸)→幸福」を「醸す」で解く

昨日、ツイッター上で毒多さんと少しやり取りをした。タイトルの

 (幸福/不幸)→幸福

は、その中で出てきたもの。この「式」の元ネタは、

生きるための論語

に出てくる (知/不知)→知 (p.37)

『生きるための論語』では、この(A/not A)→A という「式」が他にもたくさん出てきて、この「式」を理解することが論語を理解すること、ひいては学習すること――と理解できるように構造化されているわけだが、その詳細は『生きるための論語』を読んでいただくとして、ここでは(幸福/不幸)→幸福の意味するところを、別のアプローチで迫ってみたいと思う。

普通、人間は完全な幸せの状態ではいないものだ。自分を幸福だと感じている人、不幸だと思っている人、さまざまだろうが、「普通」の状態とは、幸福と不幸とが同居している状態、ということができよう。それを「式」に表せば、

 (幸福/不幸)

となる。ここから幸福になるには、一般にイメージされるところだと、「不幸」を取り除けばよい、ということになるだろう。幸福と不幸とが同居しているのだったら、不幸がなくなれば幸福になる。私たちは日々、少しでも幸福を増やし、少しでも不幸を減らそうとして生きている。そのために日々、競争社会で戦っている。

幸福な社会を目指す考え方のひとつとして功利主義、つまり「最大多数の最大幸福」というのは、こうした幸福/不幸についてのイメージから組み立てられている。

私はこういった考え方自体が不幸な考え方だと思っている。仮に「普通」の(幸福/不幸)の状態から、幸福が増えて不幸が減り、幸福へとより近づいたとしよう。すると、人間にとってはその状態(幸福↑/不幸↓)が「普通」となる。以前の(幸福/不幸)に戻ることは、もはや不幸でしかない。昔の「普通」の状態、現在では不幸に思われる状態に回帰することが絶対にあり得ないのならいい。しかし、そんなことは絶対にあり得ない。可能性は必ずあるし、そのことは幸福を獲得した当人自身がいちばんよく知っている。競争によって勝ち取ったものならなおさらだ。

すると、(幸福↑/不幸↓)の「普通」には以前の(幸福/不幸)に戻ってしまうことの恐怖が付け加わる。この恐怖を快感と感じるツワモノも世の中にはいるけれども、大半の人には恐怖に怯えるのは不幸だろう。すると、幸福になったはずが、「普通」に不幸が付け加わったより不幸な状態になってしまったことになる。この「怯え」がより競争へと向かう動機になって、また、そうした「怯え」を隠蔽しようとすると、自己責任論といっくだらない論理を振りかざすようになる。

そう。自己責任論者は「怯え」に苛まれている者たちでしかない。その「怯え」を受けとめられない者は「弱虫」であり、「弱虫」であるがゆえに他人を攻撃する者は「卑怯者」。自己責任論者は「卑怯者」である。

(幸福/不幸)→幸福は、そんな話ではない。

人を助けるすんごい仕組み

この「すんごい本」のp.36に、「意味の原理」というものが出てくる。

これはどちらがいいかということじゃなく、結局はどう生きるかという問題なんだ

意志が未来を切り拓き、未来が過去を意味づける

この悲惨な出来事を肯定することは決して出来ないけれども、あの出来事があったからこんなふうになれたのだ、と思うことはできる。それが僕らの目指すべき未来なのだ


この「すんごい本」がどういった本なのかは説明の必要はあるまい。「この悲惨な出来事」が何を指すのかも自明だろう。

肯定できないことは不幸としか言いようがない。が、それすらも、どう生きるか、その生き方によっては、事後的にではあるけれども、肯定的に意味づけることはできる。

「すんごい本」で描かれている情況は不幸が圧倒的に支配的な情況だから、これは不幸→幸福への転換のように見えるし、またそう見ると不謹慎だ!とかいう批判も飛んできそうだが、そう言いたい者は言えばいい。「弱虫」と返すだけのことだから。

ここで言いたいのは、それは「普通」の日常の(幸福/不幸)のでも同じだということ。「意味の原理」はいつでも作動しているということ。(幸福/不幸)→幸福とは、「意味の原理」によって、幸福になっていくということを意味している。

ただ。

「すんごい本」の西條さんは「意味の原理」を作動させるものを「意志」としているが、私はちょっと違うと思う。たしかに、圧倒的な不幸に見舞われたあの状況下では、それは「意志」と呼ぶのが相応しい。が、「意味の原理」は日常でも作動しているわけで、それは常に強固な「意志」に下支えされているわけではない。「意志」というと“打ち立てるもの”のイメージだが、私にはそれよりも「醸す」というイメージに近い。

それがよく現われているが、たとえばこんな歌。


(昨日までDoris Day歌唱の訳詞付動画が見られたのだけど。残念。)

日本語では雰囲気が良く出ないけど、たとえば、“Will I be pretty, will I be rich” の問いかけに “Que sera, sera/Whatever will be, will be”と返すところ。少女は幸福の条件を挙げて幸福になれるかと心配し尋ねるのだが、“なるようになる”、つまりは、醸すのだよ、という答え。

季節外れだが、別の例をもうひとつ。『秋桜』



明日嫁ぐ私に 苦労はしても
笑い話に 時が変えるよ
心配いらないと笑った

これもまた「醸す」だろう。

こうやって考えてみれば、実は、私たちには自然に幸福になる力は備わっているんだ、と気がつく。それを、幸福とは何かとあれこれ考え、条件付けてしまうことで、かえって幸福を遠ざけてしまった。私はそんなふうに思えてならないのだけれど。

コメント

けっこう難しい

おはようございます。
「醸す」のも結構難しいんだよね。やっぱ技術ってか技法が要りそうで。
だいたい素人がやると「酢」になって酸っぱくなる(笑)

や~い、弱虫! (^o^)

・毒多さん、こんばんは。

「醸す」のは難しい? 
だいたい素人がやると「酢」になって酸っぱくなる?

清酒はそうでしょう。清酒はまだ歴史が結構浅いんです。江戸時代になってから開発されたものらしいです。それだけ技術が要る。でも、ワインなんて、歴史は古いですよ? 簡単にできてしまいます。

「醸す」もの、いっぱいあります。漬け物も、味噌も醸すもの。醤油は素人に難しいけど、漬物や味噌は「手前味噌」が一番美味しい。昔はみんな、自分んちで醸していた。専門家でなきゃできないような技術ではありません。

では、なぜ毒多さんは、専門家でなければできないと考えたのか?

向き合いたくなかったから、ではないのでしょうか? 「醸す」ことに。
そして何かを隠蔽したかったのでは?

すみませんね。こういうツッコミ、ツイッターでもやっていて相手の気分を害して回っているわけなんですが。
毒多さんだからやらないというわけにもいきませんし。

隠蔽するだけで他人を攻撃しない「弱虫」は、さほど害もないので特に叩こうとも思わないのですが。毒多さんは特別(^_^; ただ、これから先、「弱虫」では生き残っていけないかも、ですよ。


はーい、弱虫です

挨拶は微妙な時間なので、割愛。
寝る前にレスを読んだのがまずい、変な夢をみて心身ともに冷ましてしまう。

上のコメントは、エントリーの最初に名前がでているプレッシャーと遠い昔にその「ワイン」でさえ酢にしたのを思い出しながら書いたのですが、あまり言い訳すると「卑怯者」といわれそうなので、やめときます。

素人とか技術とかの言葉は軽率かもしれませんが、「けせらせら」「時が解決するよ」と「信じる」のも、なかなか難しいというのはけっこう、本音です・・・・・あれ?
というか、そのもとの「作りはじめる」が難しいと感じているのだね。作り始めなければ「醸」造もされない。作り始めもしないで言い訳しやがってこの弱虫がぁあああ、、、、ってことですね。なるほど、弱虫ですね。

(幸福/不幸)→幸福のエントリーの意は解っても、解っていることにならないのでしょう。解っていることになってないのがワタシということは解っているのですが、そこから先に進めない。
きっと真に解ってないのでしょう。この「解る」については「自己責任」ということは解っているのですが・・・ね

意識はしてませんが「隠蔽」したい心理があるとすれば、自分が「弱虫」であることでしょうね。さてこいつをどうしたもんかね、ふぅ。

二度目のおやすみ、、、、って、さて眠れるのだろうか??

イジメはよくないですね

毒多さん、おはようございます。よく寝られましたか?

「けせらせら」「時が解決するよ」と「信じる」のも、なかなか難しいというのはけっこう、本音です・・・・・

弱虫だと認めた者をさらに叩くのはイジメになってしまいますね。

信じられないものを信じろと言ったって、ラチが明きませんね。どうすればいいか、私にはわかりません。
こういうことって、自分が幸福なら自然に信じられるものだと思うんですが。

「普通」が幸福っていうのは、“しあわせゴッコ”ってことも結構多い...

でも、あくまでテキストのみからの感触ですけど、毒多さんが「どまんなか」にタマを投げ入れているときには“ゴッコ”という感じはまったく受けません。その「どまんなか」は悲しい話だったりするんですが...

自分の弱虫に気がついてしまったときというのは、危機的状況なんですけど、チャンスでもある。一気に「アクロバット」とまではいかなくても。スピリッチュアルな(?)言い方かもしれませんが、こうしたときに“何かに出会”ったりするものです。

時間を取って、何でもいいから勉強してみましょうよ。勉強することで“出会う”のではなくて、勉強するという「構え」を取っていれば、それが機縁になって、「普通」なら見過ごすようなものがアンテナに引っかかってくる。それが「出会い」です。それは、自分の過去の忘れていた記憶だったりすることもある。

なんでもいいからビビビときたものを、ビビビと来ないなら最初に目に付いたものを、とりあえずひっ捕まえてみてはいかがですか?

けせらせら?

おはようございます。
あんまし、どくたさんをイジメちゃダメですよ。(^^♪

>こうやって考えてみれば、実は、私たちには自然に幸福になる力は備わっているんだ、と気がつく。
>それを、幸福とは何かとあれこれ考え、条件付けてしまうことで、かえって幸福を遠ざけてしまった。
>私はそんなふうに思えてならないのだけれど。

そんな風に自然に醸されている事に気付くには、今の日本の社会や生活とかの状況を前提にすると、人工的に作為的に作られた嵐の中から抜け出す「意志」が必要なのかな?とも思います。
ただ、理想形で言えば強い「意志」を持たなくても、自然にふるまえる状況が良いとは思いますが…

>意志が未来を切り拓き、未来が過去を意味づける

いい言葉ですね。
とても気に入りました。
この「意志」とは「魂の声」「魂の醸し出すなにか」とかかな?感じました。

とてもけせらせらじゃないな

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

毒多んイジメは、あれで終わり。その後、どんな反発が出てくるのか、今、楽しみに待っているところです。
また ムカツク×100 がでてくるかぁ?(^_^;  今度はもっとヒネリを加えてくると思いますが。

人工的に作為的に作られた嵐の中から抜け出す「意志」が必要なのかな?

「渾身」では足らない、「命懸け」が必要、と前記事では書きましたよね。

そう、けせらせらを作るには、今となっては命懸けになってしまったということでしょう。

無自覚

愚樵さん、こんにちは。

>「渾身」では足らない、「命懸け」が必要、と前記事では書きましたよね。
>そう、けせらせらを作るには、今となっては命懸けになってしまったということでしょう。

ここ最近はいろんな事を感じてて、まだ心が安定していなくて、それが自分の言葉なのか、まだ自分の血の通わない受け売りの言葉なのか、自分でも理解しないで使っていることがあると思います。
そんな受け売りの言葉は他人にはなんとなく解ってしまって、そしてそれはあまりイイ感じはしないのでしょうね。当然だけど。

最近の愚樵さんの記事は私にはとても面白くて、茶茶をいれたくなっちゃうので、その時は付き合ってやってください。

ごめんなさい、文脈がよくわかりません

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

そんな受け売りの言葉は他人にはなんとなく解ってしまって、

ええっと、これはどこか具体的に「受け売り」があったとの理解でいいと思うのですが、じゃあ、その具体的なのはどこなのかというと、よくわかりません。

人工的に作為的に作られた嵐の中から抜け出す「意志」が必要なのかな?

ここでしょうか? だとするなら、

「渾身」では足らない、「命懸け」が必要、と前記事では書きましたよね。

が「受け売り」を指摘したというところになるのですが、私はそういうつもりではないですよ。むしろすぺーすのいどさんの言葉に同意したんです。「意志」の強さでいうならば、命懸け>渾身 ですから。言葉に同意したということは、受け売りとは思っていないということなんですが...

まあ、いいや。

茶茶をいれたくなっちゃうので、

はい、どうぞ。そういうのって、刺激になって助かります。
ただ、茶々にマジレスすることは(これまででもおわかりの通り)多々あると思いますので、そこはご容赦を。アンド、覚悟の程を。(^0^)

中二病

おはようございます。

きっと「中二病」です。
まだいろいろいまいち自信が足らないんですよ。
自分で振っといてなんですが、気にしないでください。

>アンド、覚悟の程を。(^0^)

それは重々承知してます、ってか、お互い様でよろしくお願いします。(^^♪

>『生きるための論語』では、この(A/not A)→A という「式」
よくわからんが、弁証法的なことだろうか?

秋桜

愚樵さん、おはようございます、

自分が泣いた理由がわかりました。ありがとうございます。

http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20120411/1334117867

実は「論語」まだ未読でした。読んでみます。

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