愚慫空論

マイケル・ジャクソンは儒家であった


『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』を観たというのは、先の記事でも記した通り。

視聴直後の私のツイートをまず紹介しておく。

マイケル・ジャクソン『This Is It』をやっと視聴。楽しめた、を通り越して驚愕した。この衝撃はバッハの『マタイ』のそれに匹敵する。いろいろと言葉は浮かぶが、それらはいずれ整理してブログ記事に書こう。今は、「MJは儒家であった」とだけ記しておく。


このツイートは補足されなければならない。私が「マイケルは儒家」だという理解に至ったのは、その直前の読書があったからである。それは


この記事の目的は、『THIS IS IT』と『生きるための論語』とを結びつけて、マイケルは儒家であるということを論証することにある。

マイケルが儒家たる所以その1。マイケルのパフォーマンスが「礼」を追求したものである。

「礼」とは儀礼的なあいさつのことではない。

 人と人とのやりとりが上手くいくためには、実に見えないような微少レベルの近くと、それに基づいた調整が不可欠である。たとえばすれ違いざまに目礼するという礼を実現しようとすれば、視線を相手に会わせてタイミングをはかって、適切な瞬間に適切な角度で頭を下げなければならない。タイミングが早すぎたり遅すぎたり、おじぎが深すぎたり浅すぎたりすると、礼はぎこちなくなってしまう。相手の身体や心の動きを受け止め、絶妙のタイミングで絶妙の角度でおじぎを決められたなら、相手も同じように美しく頭を下げる。このときには、何の命令も、何の強制も必要なく、あなたは誰かの頭を思い通りに作動させることができる。
 (略)
 この場合、礼を形式的に完全に書き下すことはできない。すれちがう何メートル前で、どのような速度でどのような角度で頭を下げたら良いか、という外形的な規定を設けて、それに従ってお辞儀をしても、決してうまく行かない。お辞儀期を正しく執り行うには、他者の動きとこちらの動きの双方を取り込んだ、高次の回路を形成し、その全体のダイナミクスをうまく構成する必要がある。そのとき、双方ともに自発的に、美しく、気持ちよく、あいさつをかわすことができる。


この引用の文章の、「礼」「お辞儀」「あいさつ」を「パフォーマンス」「プレイ」に適当に置き換えてみれば、それこそマイケルが求めているものであることは、マイケルを愛している者にはすでに知っているだろう。またそうでない者も、実現されることのなかったステージのリハーサル映像をもとに構成された『THIS IS IT』を先入観なく観れば理解できるはずである。

マイケルが儒家たる所以その2。マイケルが共演するアーティストに求めるのは「和」である。

『THIS IS IT』は、マイケルと共演するアーティストを採用するオーディションのシーンから始まっている。そこでアーティストたちはそれぞれにマイケルの凄さを語る。純粋はマイケルファンはそれを観て純粋に喜ぶのだろうが、私のようなひねくれ者は、そうした「熱い語り口」には少し退いてしまうところがある。マイケルファンなんだから当然でしょう、と。

しかし、オーディションで採用される基準は「マイケルへの愛」ではない。アーティストとしての伎倆は当然である。それに加えて、「華」がなければならない。

マイケルは華も華、大スターである。なので共演者にも華を求めるのは当然、というのはさにあらず。マイケルが「和」ではなく「同」を求める者、つまりステージの成功はあくまでマイケル・ジャクソン自身の成功に従属すると考える者であったとすれば、共演者の「華」は必ずしも望ましいことではない。

 ここに、AとBという二人の個人がいるとしよう。二人が相互に学習過程を作動させており、「仁」の状態にあるなら、Aの投げかけるメッセージをBは心から受けとめて自己を変革し、そこから生まれるメッセージをAに返し、Aもまた同じことをする。このとき両者のメッセージの交換は「礼」にかなっている。また、このときAとBとがそれぞれに解釈して把握する意味は、常に互いに異なっている。
 より正確に言うなら、違う人格がそれぞれに把握している「意味」が、相互に一致しているかどうかなど、原理的にわからない。そのわからなさを無視し、互いに「同じ何かを共有している」という思い込みを形成するのが「同」である。小人は「同」がなければ不安でたまらない。
 しかし、君子はこのようなことを必要としない。人は人、自分は自分である。人が自分の考えを共有してくれているかどうかなど、問題とならない。それはそもそも不可能なことだからである。それゆえ、君子の交わりは、相互の考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。こうした相互の違いを尊重する動的な調和を「和」という。


この記述とマイケルの求める「和」とを整合させるには、少し説明が必要だろう。

この記述は、君子がなんらの条件なく交わることが前提になっている。ゆえに“人が自分の考えを共有してくれているかどうかなど、問題とならない”。しかし、マイケルはアーティストである。共演者もそうだ。マイケルの求める「和」はアーティストと観客と違いを超えた「和」であるが、『THIS IS IT』では、その大きな「和」をマイケルと一体となって求めることが共演者・スタッフの条件として課され、共有することが求められる。

しかし、この共有は「同」ではない。アーティストであるマイケルにとって、「華」のある共演者は君子である。もしマイケルが小人であるなら、君子たるアーティストとの共演は邪魔になるはずだが、マイケルは自分と異なる「華」との相違を原動力に観客との「和」に向かって進もうとする。

全体としてマイケルが主導権を握っていることは明らかである。だがその主導権は、共演者やスタッフ側からの要求でもあるのだ。スタップは、マイケルに指示をくれ、意図を明確にせよと要求する。『THIS IS IT』を観ればすぐにわかるが、この要求は高貴なものだ。ステージを成功させること、すなわち観客との「和」を自らの責務だと諒解した君子の要求である。

私は残念ながらマイケルのステージを観たことがない。『THIS IS IT』でも、完成されたステージを観ることが出来たわけではない。それでも予想はつく。高度な「和」は原理的に不可能なはずの「意味」の一致を創造する。人はそのような「創造」に出会うと、それを「奇跡」という。

マイケルは奇跡を求めた――といっても、マイケルを識る者には何らの違和感もないはずだ。

マイケルが儒家たる所以その3。マイケルは君子である。

これはその2で同時に論証できたと考えていいだろう。そして君子であることを追求するが儒家であるなら、マイケル・ジャクソンは儒家である。


ここから先は、マイケルが儒家であると想定しての推論になる。

マイケルは「仁」を求める。

   「仁=不憂」

という図式が、古代の人には同義反復に見えていたに違いない、とフィンがレットは主張する。すると、「憂」の意味がわかれば、その否定として「仁」が得られることになる。
 フィンがレットは、「憂」という言葉が、自分の内面の状態のみをさすのではないことに注意を喚起する。確かに、「憂いがる」というときの「憂い」は、内面の苦悩とともに、その苦悩を引き起こしている外部の問題をも指す。この「憂」がないというのは、それゆえ、自分と周囲が正しく構成されて、内にも外にも憂いがない状態、ということになる。それが「仁」である。


マイケルは儒家であると同時にアーティストである。となると、「仁」を求めることはアーティストとしての表現を通じて、「憂」を告発するということになる。『Thriller』は、そうした告発に他ならない。

『Thriller』に登場してくるソンビは「無礼」の表現である。ぎこちない動きしか出来なくなってしまった人間は、その心も「仁」を失い、死んでしまっている。そして「同」を求めて生きた人間に襲いかかる。そのさまを表現しているのである。

私はずっと、ポップアーティストが「平和」だの「環境」だの歌い上げることに違和感を感じていた。マイケルに対しても同様である。しかし、マイケルを儒家だと認定した今では、違和感はないどころか、当然の帰結として理解できる。
(ということは、他のポップアーティストへの偏見も撤回せねばならない可能性が高い)。

ここから思考が逆回転する。マイケルは「仁」から出てくる「平和」や「環境」や「愛」を求めて、観客との「和」をもとめ、ために共演者たちとの「和」を求め、パフォーマンスに「礼」を追求したのだ、と。パフォーマンスに完璧を追い求めたのは、決して自身のナルシシズムを満足させるためではない。「和」を求めるのに必要だったからである。

マイケルは「孝」を求める。

ここのところがマイケルについての「誤解」の最もたるところであろう。

マイケルは子どもを虐待したとしばしば報じられ、裁判沙汰にもなったと記憶している。しかし、マイケルが儒家であるなら、これはあり得ない(ということになってしまう)。

 「孝」というのは、親子関係が親密であって本当に慈愛に満ちているときに生じる、子どもの自然な親への感情のことである。親の慈愛がなければ、子の孝もない。それは子供から親への一方的感情ではあり得ない。親が子を愛し、慈しむことが、子供の親への孝の前庭である。


マイケルが子どもを愛したのは、「孝」を求めたからに違いない。それは、マイケル自身が親からの慈愛に恵まれなかった体験が影響しているのかもしれない。


さてさて、ここまで書いてきて、自分でもずいぶん熱心なマイケル擁護派になったものだと思う。「事実」としてマイケルが子供をどのように扱ったかどうか、私は知る由がない。ただ、マイケルのパフォーマンスの「意味」を『生きるための論語』を参考に理解したと信じたとき、以上のような解釈を自然に採るようになってしまったのである。

私は前の記事で、マイケル・ジャクソンを〈霊〉だとして、それに取り憑かれたといった。そのことはここまでの文章で十分に明らかだろう。


まだ記事は終わらない。ここから先は少しトーンを変えて進めることになる。そうはいうものの、私はマイケルの〈霊〉に乗っ取られたわけではない。マイケルの〈霊〉が私に取り憑いたことで、かえって明らかになったことがある。



そのことを記すのに、もう一度冒頭のツイートへ戻る。

マイケル・ジャクソン『This Is It』をやっと視聴。楽しめた、を通り越して驚愕した。この衝撃はバッハの『マタイ』のそれに匹敵する。いろいろと言葉は浮かぶが、それらはいずれ整理してブログ記事に書こう。今は、「MJは儒家であった」とだけ記しておく。


バッハの『マタイ』とは、ヨハン・セバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』のことである。

私はかつて、この音楽についてこんな記事を書いている。

 『マタイ受難曲』で思い出すこと

マイケル・ジャクソン「King of Pops」であるならば、『マタイ』は「キング・オブ・クラシック」である。この音楽に込められている精神性の高さはちょっとやそっとのものではない。クラオタなら誰でも知っていることだ。しかし、それは西洋の精神、クリスチャンの精神である。であるがゆえに、そのただならぬ精神性の高さに感銘すると同時に、自分が根っこからクリスチャンではないことを自覚させられてしまう。それは私がまだ若かった頃に、(言葉の壁もあって)牧師の卵とうまく対話出来なかったことだ。

同じことが儒家であるマイケル・ジャクソンに対しても起きるのである。

『THIS IS IT』を観ながら、気に掛かっていたことがひとつる。それは「ステージ」ということ。人工の環境だということだ。

「ステージ」であるからこそ、マイケルとダンサーの肉体の躍動も映える。歌もそうである。あれらをもし、陽光の光が降り注ぐ自然の中へ持ち出したらどうなるか。 間抜けなものになってはしまわないか。

儒家といえば対するのは老荘思想ということになるが、かつて道家たちは、儒家たちが追い求めた「礼」と「和」の作為性を批判した。それと同じ批判がマイケルにも当てはめることができると思う。

もっとも私はそんな批判をするつもりはない。『マタイ』の素晴らしさを賞賛こそすれ批判することがないように。ただ、それは自らが培ってきた「本性」というべきものとは完全に一致はしないという話だけのはなしである。『マタイ』にせよマイケルにせよ、それはその精神性が際立っているがゆえに明らかになってくることだ。

しかし、道家からみて人工的な「礼」をマイケルが追求していたとするならば、あの不可解な「整形」の意味も見えてくる。あくまで人工の「礼」と「和」を追求していたマイケルにとって、自身の姿を人工的なものへと変貌させていくことは必要不可欠だっただろう。そしてそう見ると、彼のダンスが自然な「舞」ではないことにも気がつく。あくまで鋭角的な不自然な動きである。しかし、それだからこそ、高度な「和」が生み出されていることもまた理解できる。

『THIS IS IT』のあと、私が聴きたいと欲した歌。



 参考記事:「あめつちの祈り」とクルアーン詠唱

マイケルの「礼」の完成度の高さと比較してしまえば、なんと稚拙な歌であることか。が、この場ではこれがいいのである。自然という、人工ではない「和」が充溢している場では、素朴な祈りこそふさわしい。『あめつちの祈り』はマイケルよりもこの場にはずっとずっと、ふさわしい。

古代の中国では、諸子百家といわれたさまざまな思想家たちが活躍していた。それが文明の進展とともに、儒家と道家へと収斂されていく。このニ派の対立が決着をみる以前に時代の流れは近代に入り、西洋文明が支配的になって、キリスト教(発の)文化が広く世界に普及した。日本もその例外ではない。

道家・老荘の思想は、全域化したキリスト教文化への対立軸として、少し前から知られるようにはなってきた。「タオ」といえばスピリッチュアルな雰囲気を漂わせた、反西洋文明の旗印だったイメージがある。また日本に限っていうと、「縄文」への関心の深まりも同様の反西洋文明の流れのなかで生じてきたものと言えるだろう。

しかし、マイケルを儒家と位置づけることは、そうした流れとはいささか趣が異なる。マイケルを儒家と見なせるからといって、マイケルのパフォーマンスが中国の伝統に沿ったものだと主張するのがバカげているのはいうまでもない。そうではなく、人工のなかでの魂の在り方を追求したときに、必然的に(本来の)儒の世界へと近づいていったと見るべきだろう。

「タオ」や「縄文」への関心は、人間の自然形態とでもいうべき、絶えることのない流れに起因している。それが反文明的な色彩を帯びるのはその出自からして当然だが、しかし、現代という時代は、諸子百家が「儒」と「道」に収斂した時代よりはるかに、破壊的なまでに人工的なものになってしまっている。

そう考えれば、「儒」への回帰はまた「道」への回帰の途中経過と捉えることが出来るかもしれない。だとするなら、「儒」と「道」は根源的なところで繋がっているといえる。『THIS IS IT』と『あめつちの祈り』は、そして『マタイ』もクルアーンの詠唱もお経の声明も、それぞれは遠く離れてしまってはいるけれども、どれもが人間が自分のありようを追い求めた末の帰結であるとするならば、みんなどこかで繋がっているはずなのである。

コメント

孔子とMJ

 ずーと前、とんかちの名前でコメントさせていただいたものです。愚すいさん、ありがとうございます。安富歩さんを教えてくださって、希望の光を見た思いがしました。孔子は映画で最近見た限りのことしか知りません。見える世界の達人であることは間違いありません。(コキントウさんも推奨しているぐらいですから。じゃ毛沢東はいったい何者だったか?それは置いておきます。)一方MJは見えない世界を見える世界に紹介した、アーチスト。ジョンレノンみたいな人。一度MJのDVD見てみます。

わたくしの場合、マイケルさんは30年近く前からあまりに見すぎて聞きすぎて、もはや音楽の優劣の判断がつかないほどですw
愚樵さんがおっしゃり、引用されてる「和」は、R&Bやゴスペルの「コール&レスポンス」なのかなと感じます。

愚樵と安冨です。

・きよたろうさん(←でよろしいでしょうか?)、コメント頂いたことをうれしく思います。

いくら安冨先生(←安“富”ではありません)の説にのっかったとはいえ、マイケル・ジャクソンを儒家とするとは、トンチキな話です。

私はいつもトンチキな話ばかり展開していますけれども、それをご自身の価値発見の機縁として捉えて頂けるなら、こんなに嬉しいことはありません。

ありがとうございます。

マイケルさん、ですか?

・なめぴょん師匠、お越し頂き恐悦至極に存じます。笑。

私がこんなところに辿り着いたのは、なめぴょん師匠からの影響なしには考えられません。感謝です。

R&Bやゴスペルの「コール&レスポンス」

おお、いかにもそれっぽいですね。師匠からの示唆、受けとめてさせていただきます。

むいしきのこうどう

こんにちは。

>人と人とのやりとりが上手くいくためには、実に見えないような微少レベルの知覚と、それに基づいた調整が不可欠である。

そうですよね。
以前通っていたワークショップでたまにやっていたのですが、2人を選び5mくらい離れてお互い向かい合って対峙する、このとき世界は2人、ルールは言葉を使わない、触らない。
それを他の人はまわりで見ている、そうゆうことやったことあります。

面白いですよ。
そんなワークショップに来るくらいの人というのもあるかも知れないですが、まず大方の人が相手をコントロールするための立ち位置を(無意識で)演じ始めます。
よわよわしかったり、威嚇的だったり。最初のフックに相手が乗ってくるといきなり態度が変わったり…

本当に人間はたくさんの「業」を持って、自覚のあるものよりも無自覚な「業」の方がむしろたくさん持っているんだな、と思います。

人もモノも同じ

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

同じようなことを人は人に対してだけではなく、モノに対してもやってますよ――というのが、樵としての私からの返答になります。

もっとも、モノの場合は相手から何かメッセージが発せられるということはありませんから、そこは大きく違う。モノの方は受け身なだけ。学習もしない。でも、不思議なことに、こちらからメッセージを送ると、ちゃんと帰ってくる。

職人の世界で「手が枯れる」なんてことを言いますけど、それは、モノからのメッセージにピッタリと寄り添えるようになったことを意味するんだと思うんです。これは「技」と「業」の両方、「技術」ですね。

本当に人間はたくさんの「業」を持って、

そうなんですよね。だから、それを制御する「技」が要るんだということになっていくんだと思うんです。「礼」はそのための「技」なんでしょう。だからとっても人工的。とはいえ、人間の持つ魂の作用に沿ったものでもある。

マイケルが示しているのはこちらの方向性。だから儒家。

「技」を磨くには、まず「業」を受けとめなければいけません。現代の社会は「業」を無視することが理性だと思っているんですね。そして実際、機械を使えば「業」をなぎ倒していくことが出来る。

でもその結果、私たちは無視したはずの「業」に抑圧されてしまうようになっている。

れきし

おはようございます。

>人に対してだけではなく、モノに対してもやってますよ

そうですよね。特にツールに対しては強く感じますよね。
包丁とかハサミとか、手と直結するものは更に。
自分の意思と目的物との間にあって、自分には備わっていない能力をもって実現するツールに対し、まったく執着しないことの方が難しいと私は感じます。

今ではPCもそんなツールの内に入るのでしょうが、今のWin7はあまり弄れるところがないのでちょとつまらんですね。XPの方がまだツールっぽかった。(^^ゞ

>そして実際、機械を使えば「業」をなぎ倒していくことが出来る。
>でもその結果、私たちは無視したはずの「業」に抑圧されてしまうようになっている。

なんか「まどマギ」のサヤカを思い出しました。

「魔法」は本当にあると思いますよ。
人の歴史はその一瞬で物事の方向性を変える「魔法」を使って段階を踏み、その後の何世代にも渡って、その「業」を消化していく、そんなものかもしれませんね。

歴史を解体せよ!

おや、すぺーすのいどさん、朝からコメントとは珍しい。
もしかして、すぺーすのいどさんも近頃、活性化してます?

包丁とかハサミとか、手と直結するものは更に。

それらは身体の拡張ですからね。

今ではPCもそんなツールの内に入るのでしょうが、

ん~、こちらは拡張といっても身体よりむしろ「頭脳」の方でしょう。現代はそちらの方ばかり拡張してしまって、危ういことになっている。

これまで私はアニメやそこに嵌まる若者たちに基本的に賛同の方向でしたが、頭脳拡張の危うさを批判する方向へ転換しようと思ってます。もっとも、アニメを楽しむのは継続しますけどね (o~-')b

XPの方がまだツールっぽかった。

私は未だにXPですがなにか? Pen4ですが、何か?
そろそろPCも更新しなきゃと思っているんですがね。先立つモノが。中古で十分ではあるんですけど、それすら出ない。今回の負傷でさらに厳しく。(T0T)
ま、十分に使えるからノープロブレムですが。

なんか「まどマギ」のサヤカを思い出しました。

いま、再放送やってますね。

おっしゃる魔法の尤もたる者はやはり貨幣でしょう。貨幣の出現で人間は「個人」になった。個人が個人として希望を叶えようと願うから、〈希望〉は【希望】になってしまうんですね。環境は有限だから、希望実現競争になってしまう。

〈希望〉はみんなと共有されているうちは〈希望〉であり続ける。独占すると【希望】になる。貨幣とは、個人が希望を実現するための魔法のツールなんですよ。そしてそれは情報についてもいえること。

リツイートいただいていましたが、今朝の連続ツイートは、情報の観点から魔法解呪の可能性を展望してみたものでした。

碇をおろせ!

>おや、すぺーすのいどさん、朝からコメントとは珍しい。

おや、先日も朝から問答したじゃないですかぁ。
最近は早寝早起きすることが多いんですよ。

>私は未だにXPですがなにか? Pen4ですが、何か?

ありゃま、失礼しました。別にXPを馬鹿にしてるわけじゃないですよぉ。
私は仕事柄1日中PCの前に居ますし、今でもXPのPCも使ってますよ。
なので、私にとってはPCは筆記用具でもありので、レジストリとか弄って調整が多少必要なところがXPは好きでしたね。

そして確かに「頭脳」拡張のツールでありますね。

>頭脳拡張の危うさを批判する方向へ転換しようと思ってます。

私もこの「危うさ」は感じますよ。
だけどこれってツールの責任じゃないですよね(って愚樵さんなら言わなくても解ってると思うけど)。
世の中にある「嵌まるもの」には必ずといっていいほど、この「危うさ」が付いて回るんじゃないですかね?
これは避けられないとおもう。だからといって世の中にある「嵌まるもの」が無くなれば良いという話でもない。

じゃあ、どうするか?
いつ迷子になりかけでも良いように、リアルな世界側にしっかりとアンカーを置いておくことですよ。
自分で「ヤバイ」と思ったら手繰ってリアルに戻れるように、リアル側にいる人が「ヤバイ」と思ったら引っ張って気づくきっかけを与えられるように。

あぁ、そうね。
このアンカーは<霊>なんでしょうね。

健忘症?

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

おや、先日も朝から問答したじゃないですかぁ。

あら、そうでしたか。(-o-;

いつ迷子になりかけでも良いように、リアルな世界側にしっかりとアンカーを置いておくことですよ。
このアンカーは<霊>なんでしょうね。

すみません。仰りたいことは理解できるつもりですし、そこを批判するつもりは全然ないのですけど、ただ、「リアルな世界」としてしまうと、それはそれで迷子になる。〈クオリティ〉と【リアリティ】を区分けし〈霊〉を〈クオリティ〉の側へ分類するのは、「迷子」を防ぐためのつもり、ですので、少しその見地から指摘をさせてもらいます。

「アンカー」というのは、いい表現だと思うんですね。でも、そのアンカーで繋がるのを「リアル」としてしまうと、たとえばマイケル・ジャクソンはもう存命の人物ではありませんから、「リアル」にはそぐわない。しかし、ではMJがアンカーたり得ないかというと、決してそんなことはないわけです。

MJをアンカーとして〈クオリティ〉を追い求めることはできる。

「嵌まる」というのは、「憑依する」あるいは「憑依される」ことです。その「憑依」が〈クオリティ〉追求に繋がるなら憑依の対象は〈霊〉だし、逆に【リアリティ】へと沈着していくなら【悪霊】です。

PCというツールにもそういう側面が、もちろんある。PCは複雑怪奇な機械ですが、それを自在に操ることが出来るというのは【リアリティ】です。この【リアリティ】の追求はもちろん出来る。PCそのものの操作のみならず、何か創造物を造り上げることだって【リアリティ】ですから。でも、仰るように「アンカー」がないと迷子になってしまう。

では、PCにまつわる〈クオリティ〉と【リアリティ】の違いはどこにあるのか。

ここについては、私はよく分からないと言うしかないです。その違いを厳密に言語化して識別できるほど、私はこの分野に習熟していない。なんたって樵だし。

でも、出来るはずだとは思っているんです。

なまのたましい

おはようございます。

しつこいかな?と思いつつ…再度コメントします。

私も愚樵さんの言わんとするところはなんとか理解できているつもりです。
ただ、規定がいい加減な「すぺーすのいど語」と、辞書でも作れそうな「愚樵語」とのコミュニケーションはナカナカ大変だなぁと思っています。

繰り返しますが、愚樵さんの指摘については何の異存もありません。
ただ、私の書いた「リアル」は愚樵さんの多分認識している「リアル」より深い「リアル」です。
変わりの表現として思いついたのは「生(なま)」です。
お互いが触れあって、抱きしめ合えるくらいの「生(なま)」です。

アンカーを打ちこんでも、そこの基礎がしっかりしていなければ、深刻な状況になればなるほど役に立ちません。
そんな強く堅牢な<霊>は「生(なま)」から生成した<霊>しかないと私は思います。
その<霊>は「親」である時もあるでしょうし、そうでないときもあるでしょう。
でも少なくともかつて「抱きしめられる」ほど近くに居た存在でなくてはいけないのではないかと思います。

>マイケル・ジャクソンはもう存命の人物ではありませんから、「リアル」にはそぐわない。しかし、ではMJがアンカーたり得ないかというと、決してそんなことはないわけです。

私はMJの近親者で無い限りは「MJは実際にはアンカー足り得ない」と思っています。
それは私のMJに対する評価ではありません。
本人からはMJこそが支えと見えているかもしれませんが、その向こうにはよく知っているけど空気のように自然に存在する「生(なま)」な<霊>が存在すると思うのです。

だからこそMJやガンジーをアンカーと感じながらも「【リアリティ】へと沈着」していくパターンがあるのではないでしょうか?

これは愚樵さんの次エントリの「「当事者」の時代」とも関係が深いとおもいます。
自分自身はいったい何処に足を着けて立っているのか?
いつでも「ここは何処?私は誰?」を自問自答し続ける必要があるのでしょうか?

三年之愛

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

なにが仰りたいのかわかりました。私なりに整理させてもらいたいと思います。

「生(なま)」から生まれるアンカー。

これは「三年之愛」がその典型でしょう。こちらは〈霊〉というよりむしろ魂そのものの力だと私は解釈します。

〈霊〉を持つのは人間だけ。しかも生まれたばかりの赤ん坊には「器」がありません。むき出しの魂です。「三年之愛」はそこを“抱きしめる”わけですから、魂に直接力を与えることになります。

魂の力は生命力です。生にしがみつく力です。

【悪霊】に取り憑かれて抑圧された人生を送っていても、それでも生きていられるのは生命力があるからです。その意味で「アンカー」。こちらは《アンカー》と表記するのがいいかもしれません。ヒトが人間である以前の、生命としての《アンカー》ですね。

一方、〈霊〉もまた別の意味でアンカーではあるんです。〈霊〉というのは、人間の社会性を生み出すものだというのが私の解釈なんですが、それからすれば、〈霊〉は「人間へのアンカー」ということになる。良き〈霊〉はヒトを「人間」へとつなぎ止めてくれる。こちらは〈アンカー〉と表記しましょうか。ヒトが「人間」として幸福を追求するしていく足がかりです。

だからこそMJやガンジーをアンカーと感じながらも「【リアリティ】へと沈着」していくパターンがあるのではないでしょうか?

MJやガンジーを“自分だけのもの”にしてしまうと、そうなっていくでしょうね。たとえばガンジーの理想を実現しようと運動する。それはいいことですが、その理想をイデオロギーと化してしまうと、ガンジーは【リアリティ】への【アンカー】になってしまいます。

『「当事者」の時代』の〈マイノリティ憑依〉というのは【アンカー】でしょう。ありもしない幻想から、現実を規定してしまっていたわけですから。

佐々木俊尚氏のいう「当事者」というのは、ほぼ「弱者」の意味です。しかし、私は違うと思う。「当事者」というのは“学習する者”のはず。当事者であるからこそ〈学習〉していくことになる。それは強者・弱者に関係のないことです。

いつでも「ここは何処?私は誰?」を自問自答し続ける必要があるのでしょうか?

この自問が〈学習〉に他なりませんが、意識したとしても〈学習〉しているとは限らないし、また意識していないからといって〈学習〉していないというわけでもない。このあたり〈学習〉とは何なのかが腑に落ちれば難しい話ではありませんが、知識を貯め込むことを学習だと思っていたら、わけがわからないと思います。

ありがとう

愚樵さん、おはようございます。

丁寧なレスありがとうございます。しっくり解りました。
「三年之愛」がその典型…まさしくそうだと思います。

>佐々木俊尚氏のいう「当事者」というのは、ほぼ「弱者」の意味です。しかし、私は違うと思う。「当事者」というのは“学習する者”のはず。当事者であるからこそ〈学習〉していくことになる。それは強者・弱者に関係のないことです。

納得です。
実はいづれ「罪と罰」について思う所を何か書きたいなぁと思っているところです。
「罪」必然であるから「罰」は<学習>でなくては意味がない、のだなぁと、漠然と考えているところです。

ありがとうございました。m(__)m

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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