愚慫空論

私の「魂の脱植民地化」

ブログの更新が滞った。前回の更新が4/5だったから、大方一週間。このところベースからすると、少し開いてしまったことになる。

理由はツイッターにかまけていたと、facebookを始めてしまったこと。この一週間はこれまで以上にネットに居たのだけれども、ブログに振り向ける余力がなかった。以後、このようなことが多くなるかもしれない。

この一週間のツイートのそのほとんどは、「魂の脱植民地化」というテーマに関するものだった。「魂の脱植民地化」とは、安冨・深尾両先生が提唱するテーマなのだが、ここではそのテーマについての私の理解を語ってみたいと思う。

安冨先生(以後、このように呼ばせていただく)の「魂の脱植民地化」の定義は、最近著『生きるための論語』に出てくる。


 【定義1】 魂の植民地化とは、自らのではなく、他人の地平を生きるようになること、である。
 【定義2】 魂の脱植民地化とは、他人のではなく、自らの地平を生きるようになること、である。


この定義において曖昧のは「地平」という言葉である。これは以下のように説明されている。

 ここで「地平」という言葉を持ち出したのは、私自身の経験を反映している。私は、幼児期からの記憶の大半を、自らの視線からではなく、自らを斜め四五度から見下ろすような視点で記憶していたのである。
 たとえば三歳くらいにはじめてお祭りに行ったときの映像だと思うが、ひとつは、逆行になっている神輿の上で、誰かが太鼓を叩いている様子を記憶している。これは正常な記憶である。ところがもうひとつの記憶は、半被のようなものを着ている私自身の様子を、上から見下ろした映像だったのである。
 こういう類の映像が私の記憶の主体を構成した。...(略)
 この斜め上から自分自身を見下ろす視点は、まぎれもなく、私の視点ではない。これは明らかに、母親の視点である。私が「他人の地平を生きる」というときの「地平」とは、この視点のことをイメージしている。


自分自身の中に他人の視線からの自分自身が棲んでいる。私はこれを〈霊〉と表現してきた。



しかし、ここでは「地平」に立ち戻ってみよう。人間には様々な「地平」を獲得する能力がある。それをもたらすのが想像力である。

ヒューマン ヒトはなぜ人間になったのか

 そうした人間とチンパンジーの違いを象徴的に示している例があるという。
 そのチンパンジーの名はレオ。やんちゃなチンパンジーで人の好き嫌いの激しいチンパンジーだ。5年前、24歳の時に突如、病に冒される。首から下が麻痺する四肢不全麻痺に陥ったのだ。首の脊髄の炎症が原因だったらしい。思うように食べられず、体の位置を変えられないために床ずれが起こる。筋肉は落ち、57キログラムあった体重は、35キログラムまで減ってしまった。
 当時の様子を松沢さんはこう語る。
「もし自分が同じ状態だったら絶望すると思う。首から下はまったく動かず、しかも突然なったから理由も分からない。とても治りそうにない。日々の身動きもとれない。介護してくれる飼育員はいるけれども、生きるのがとても辛い状態なんです」
 しかし、レオの様子は意外なものだったという。
「非常に悲惨な状態なんですけど、彼の場合には、ほとんどこれといって変わったところがないのです。日に日に状態が悪くなっても、全然めげる様子がない」
 そんなレオの様子を見ながら、松沢さんはこんなことを考えた。
「いま、ここをしっかり生きている、それがチンパンジーだと理解すると、レオがどうしてめげないのか、へこたれないのか、絶望しないのかっていうことと、チンパンジーが優れた瞬間記憶能力を持っていて、今目の前にあるものをしっかり記憶できることは同じことなのだと思うようになりました。レオはいま、ここに生きているわけで、別に明日を憂えてないんですね。1週間先に自分はどうなってしまうんだろう、自分は生涯寝たきりなのだろうか、そういう心配をしていないんじゃないか。100年先の祖先にも、自分の先にある将来にも思いを馳せない。ある意味ではそれはそれで美しい世界だと思うんです。我々人間とは随分違う心の世界を生きているんですよね」
 松沢さんは、チンパンジーを通して人間の進化を見ている。この事例から何を思うのだろうか。
「多分想像するということが人間の特徴のひとつです。いまここではなくて、この先どうなるのか。あるいはかつてずっとはるか昔はどうだったのか、あるいはいまだとしても、地球の裏側で何が起こっているのか。そういうことに人間は思いを馳せることが出来ます。その意味で、時間的にも空間的にも遠いところまで思いを馳せることができる。それは一言でいうと想像するということで、それが人間を人間たらしめている心の働きだと思うようになりました」


時間的にも空間的にも遠いところまで思いを馳せる。これもまた「地平」だろう。人間の想像力は、時間と空間とを超えるだけではなく、人の心の壁も越える。安冨先生は「他人の視点」を記憶していたといわれるが、これは普通に考えれば想像力の産物であるはずだ。

ヒューマン ヒトはなぜ人間になったのか

 未来を考えることは、希望と絶望を生む。
 未来があることは人間の希望に違いない。しかし、未来があるからこそ人間は絶望する。
 未来を考える力を手に入れたときから、私たちの祖先は希望と絶望が交錯する世界を歩み始めたのである。


この文章の「未来」を「他人の視線」に置き換えてみても、文章の意味は通じる。そればかりか、その意味するところが私たちの実感とピッタリ一致する。ヒトを人間たらしめている能力は多様な「地平」を開拓することができる能力にあると言えそうだ。

 参考記事:〈霊〉を定義する

空間を超え、時間を超え、人の心を超えて想像される「地平」。このなかで人の心を超える地平を私は〈霊〉と呼ぶわけだが、近代以前の人間はその実在を信じていたのではないかと、私は想像する。現在でも、「死後の世界」なるものの実在を信じている人は少なからずいる。これもまた「地平」である。ならば〈霊〉という「地平」の存在を信じていたとしても、不思議ではない。

近代以後の社会は〈霊〉の存在を否定した。それはいいのだが、問題は〈霊〉を生み出す魂の作用まで否定してしまったことだ。〈霊〉は実在しないが心の中に実存する。私たちヒトが〈霊〉を心の中(「人格」「インターフェイス」あるいは「器」)に生み出す能力を持っているからである。それはちょうど、太陽の熱と地球の運動が大気の循環を引き起こし、空気の大きな渦を作ることと相似しているのではないかと想像している。

話が逸れた。

 ではどうしたて人間の魂は植民地化されるのであろうか。分析心理学者のウルズラ・ヴァイスは、植民地化されることが人間にとって必要だからだ、と指摘した。つまり、たとえば我々は言語を習得せねば生きていけないが、言語というものは本来的に外在的なものである。言語を習得するということは、外部のものを取り入れるばかりではなく、外的なものに自分を植民地化されることである。
 たとえば日本語を母語とすれば、日本語の発想が体にしみ込むのであり、それ以外の考え方をするのが難しくなる。これは一種の植民地化である。これは外国語についても同様であり、英語を身につけると、英語の発想が染みこんできてしまう。
 このとき大切なことは、日本語と違う言語を学ぶことにより、自分がとらわれていることに、はじめて気づくことが可能になる、ということである。英語を学ぶという新たな植民地化を受け入れることは、日本語による植民地化を相対化する契機ともなりうる。
 とはいえ、そのとき日本語を蔑視して、英語を崇めれば、深刻な植民地化である。とはいえ、英語を敵視して日本語に固執すれば、これまた植民地化を深化させてしまう。いずれの場合も事態は改善されずに悪化する。それは、双方を共に受け入れて、適宜切り替え使うようにしても同じことである。
 そうではなくて、日本語と英語とを共に相対化して、そのなかで自分に必要なものを残し、いらないものを捨てる、という形で、自らの主体性を確立することができれば、それは「脱植民地化」である。たとえば自分の母語たる日本語そのものは大切にし、またそれに伴う日本語の発想も大切にしながらも、それでは行き着けないところを自覚して、自分なりに組み替え、より自由な発想、より豊かな言語表現を獲得するのが、脱植民地化の道だということになる。ウルズラはこのような過程を aufheben と呼んだ。それは、取り出して捨てるとか、あるいは取り出して大切にとっておく、というような意味のドイツ語である。


この記述は一種の比喩であろうと私は受け取っているが、そうであったとしても、全面的に賛成できない。違和感を覚えるのは下線を引いたところ。私は逆の方法もあると思う。相対化ではなく絶対化である。日本語を徹底的に学習すること、別の表現をすると、日本語を通じて徹底的に自己対話することで日本語の限界に気がつき、その限界と格闘することでより自由で豊かな発想と表現を獲得することができる。日本語を表現手段とする詩人や小説家たちは、そうした自己対話で日々限界に挑戦しているであろうし、その結果、自由な魂を獲得した人も少なくないはずだ。言語ばかりではない。音楽やダンスでも同じことが可能なである。ベートーヴェンやマイケル・ジャクソンは、音楽(とダンス)を通じた自己対話で「魂の脱植民地化」に至ったのだと私は想像する。音楽と例えば絵画や数学を学ぶことで音楽を相対化したわけではないだろう。

バッハ/カザルス 無伴奏チェロ組曲相対化によって自由な魂を獲得するというのなら、この『生きるための論語』はその見本であろう。本書は全8章からなるが、7章までは論語の「再創造」である。私は安冨先生の「再創造」をフルトヴェングラー演奏のベートーヴェンと比較するツイートをしてみたが、西洋古典でいうならもっと適切なのはカザルス演奏のバッハ無伴奏チェロ組曲だろう。もしくはグレン・グールドのゴールドベルク変奏曲。

これらの演奏は、カザルスあるいはグールドの魂とバッハの魂がぶつかり合って生まれた「再創造」である。その結果、それ以前は一部専門家のためものだと思われていた無伴奏やゴールドベルクの価値が再発見されることになった。『生きるための論語』もそれと同じで、昔はいざ知らず、現代では専門家のためのカビ臭い教養としてしか認知されなくなってしまった「論語」を安冨歩の魂が孔子の魂とぶつかり合うことで「再創造」された。音楽に喩えるなら、孔子作曲安冨歩演奏の「作品」になっている。

そして、その「再創造」がどこから生まれたかは、8章を読んでみれば明らかになる。安冨先生が学んだのは論語だけではない。カザルスがバッハしか演奏しなかったわけではないように、安冨先生も論語だけを「奏する」わけではない。ガンディー、孟子もさわりを奏し、アダム・スミスとマイケル・サンデルを切って捨て、ノーバート・ウィーナー、ピーター・ドラッカーと奏でられていく。それぞれが「安冨歩」のなかで相対化されているのだが、本書を読んでみると、そうした相対化こそが「読む」ということに他ならないのだという気がしてくる。
(もっとも、そうした「読み」が現代のアカデミズムなかでどう評価されるかは知らない。もちろんアカデミズムの評価など我々一般人には関係ない。アカデミズムの評価が気になるとしたら、アカデミズムに植民地化されているだけのことだ。)

と同時に、樵である私が思うのは、これはあくまで学者の方法であるということだ。樵には樵の方法があり、それは(比較するのはおこがましいが)MJやベートーヴェンの方法に通じていくもの。いわば職人的な方法である。その「私の方法」については、

 学ぶことを学ぶ ~【リアリティ】から〈クオリティ〉へ

に記してある。

ここで提示した〈クオリティ〉なる概念は職人的絶対化が念頭にあり、また昔の人々が実在を信じた〈霊〉と関連のあるものだが、それは「地平」という概念を使えばもうひとつ明確に説明することができる。たとえば樵の〈クオリティ〉追究は、木あるいは木を伐り倒す道具に「乗り移る」ことによって為される。この「乗り移り」が「地平」であってその「地平」に住み込むことで学習がおき創発が促される。

生きるための経済学この「地平」は、『生きるための経済学』においては“回路”と表現されているが、同じことを指していると考えてよいだろう。

 参考記事:創発的コミュニケーション

創発がくり返されることによって、この「地平」が生き生きした質感が高い〈クオリティ〉になる。それゆえにこそ、そこに“実在”というラベルが貼り付けられると“意味”を持つようになってしまう。〈霊〉が実在すると考えられるのはそのためであって、実際、樵としての私の実感から言うと、ことに古木や、あるいは特別な意味を込められた道具に〈霊〉が宿るという考えは、けっして不自然ではない。そのような考えに至る機序はよく理解できると同時に発見できるのは、私たち自身は逆に〈霊〉は存在しないという“常識”に囚われてしまっているということである。

(木や道具、あるいはその他様々な「モノ」に〈霊〉が宿るとする考え方はアミニズムだが、それは人間の持つ「地平」想像力と創発によって創造されたものといえるのではないか。また一神教で信仰される超越神は、そうした〈霊〉たちの「散逸構造」ではないかと空想している。文明の発展は物々交換が貨幣へと散逸構造化されることで生まれたが、同時に〈霊〉の散逸構造化も起こったのかもしれない。さらに空想をすると、近代は〈霊〉および神が否定されてしまったことで、散逸構造化された貨幣を基軸とする経済が人間の内面をも支配するようになってしまった。)

その近代的常識を排して、〈霊〉が人格(インターフェイス)の中に実存すると考えれば、次は外部から学習を妨げられるものとして受け付けられ、魂を「植民地化」してしまう【悪霊】もまた実存するという考えへと発展するようになる。上で紹介した安冨先生の「個人的体験」は、まさに【悪霊】に取り憑かれていたときの記憶ということができるだろう。

そう考えていくと、ここで気になるのは『生きるための論語』から引用したウルズラ・ヴァイスの指摘だ。すなわち「植民地化されることが人間にとって必要だからだ」ということだが、植民地化は【悪霊】がもたらすものだとすると、「人間にとって【悪霊】に取り憑かれるのは必要なことだ」いうことになってしまう。これではいかにもおかしい。

ヒトはチンパンジーと違って「地平」を創造する想像力を得た。それと引き替えに希望と絶望とを手に入れたわけだが、そうであるなら、人間にとって〈霊〉に取り憑かれることは必要なこと、というより避けえないことだといえる。しかし、それが必ずしも【悪霊】でなければならない理由はない。善き〈霊〉(以下、〈霊〉の表記を善き〈霊〉とする)であってもいいし、むしろそれが望ましい。

『生きるための論語』の第6章(孝弟而好犯上――孝とは)は、孝についての考察がなされているセクションだが、ここでは儒教の“しきたり”として有名な「三年之喪」の機序が説明されている。簡単に言うと「「三年之喪」は規範ではなく、理想状態だ。親の懐に三年間抱かれて愛情を注がれた子供は、自ずから三年間の喪に服することになる、というのである。この善き親を〈霊〉だと把握すれば、それは「〈霊〉に取り憑かれた状態から脱するのには3年かかる」ということになる。

想像して欲しい。もし全ての親が本当に子供に「三年之愛」を与える社会であったとしたら。もし全ての者が、親に本当に慈しまれて育ち、自分は無条件に受け入れられている、と感じて育つことができたとした。我々の社会はどのような姿になるだろうか。
 このような社会では、親が子どもを虐待するなどということは、想像もつかない事となろう。子どもが孤独と絶望とに苛まれることも、あり得ない。誰かが自信を失って、自己嫌悪に苦しむこともない。苦しい時には、親が支えてくれる、と確信している。そのような子どもが集まる学校で、いじめが生じたりするだろうか。
 全ての人が「孝」であり、それゆえ「仁の本」を持っている。誰もが「礼」を大切にしつつ、好く上を犯し、誰もが好く乱を作り、そうやって各人の「義」をぶつけ合って、進むべき「道」が自ずから生じる。そのような、いじめを見たことも聞いたこともない子どもが成長して構成する組織が、奇妙な言語を弄して名を歪め、欺瞞の言葉を弄して他人を騙したり、搾取したりするだろうか。
 そこには数多くの君子がおり、数多くの仁者がいる。このような状態の社会があるとすれば、それはまさに天下に「仁」が満ちていると言うに相応しいのではないだろうか。



(また話が逸れるが、親から「三年之愛」をもらえなかったと告白している安冨先生が、どのような気持ちでこの文章を書かれたのか、想像してしまう。)

「魂の脱植民地化」が目指すところが、このような「仁に満ちた社会であることは容易に想像が付くだろう。そして、この記述からわかるのは、親こそが人間にとって最良の〈霊〉にもなれば最悪の【悪霊】になるということである。

子は親を選べない。不幸にも【悪霊】のもとに生まれてきた子どもはどうすればよいのか? これは「魂の立つ植民地化」を目指す者でなくても、健全な魂(心)を持つ者にはどうにもいたたまれない問いである。特効薬はどうにも思い浮かばない。もしこの社会の病理に効く特効薬があったしたら――そう願う者は少なくはないはずだ。

しかし、まことに残念ながら特効薬はない。この現実は受け入れるしかない。が、絶望するしかないのかというと、そんなことはない。希望はある。それは親以外にも〈霊〉は存在しうるという希望である。

私は昨日、マイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』を視聴した。


その感想はまた別の記事にして記すことにするが、〈霊〉ということでいうならば、印象に残っているのは冒頭に出てくるマイケルと同じステージに立つことができたアーティストたちの述懐である。彼らはどうみてもMJという〈霊〉に取り憑かれていて、そして幸せそうである。彼らの全てが親から「三年之愛」を注がれた者たちか――その問いは間違いなく否であろう。むしろそれは少数だろうと想像する。私はマイケルのことを未だよく知らないので何とも言えないが、マイケル自身が「三年之愛」の持ち主かどうかも、あやしい。にもかかわらず、ステージに立っているマイケルは高級な〈霊〉である。その事実がマイケルをして〈霊〉たらしめているのだと思う。

そういった〈霊〉は何もマイケル・ジャクソンだけではない。私自身のことで言わせてもらえば、私にとって親は【悪霊】であった(ただし私は「三年之愛」は持っているような気がしている。そのことについても、また別の機会に触れよう)。しかし、ベートーヴェンという〈霊〉に出会った。山で生き生きと生を営むごく普通の〈霊〉たちに出会った。そのおかげで自分自身に心の中に〈霊〉を育む能力があることを理解できた。安冨先生も私にとっては〈霊〉である。『複雑さを生きる』の著作にであってから、私の〈霊〉になった。最近では野口晴哉先生も私の〈霊〉になった。昨日はマイケルである。

他にあげるなら、内田樹、内山節、松岡正剛、宮台真司、これらの人々も私の〈霊〉である。また、遠くの存在だけではない。我が妻は私にとって最良の〈霊〉である。自身の両親・兄弟とは疎遠になってしまっているが、妻の家族も私には〈霊〉である。飼っている犬たちもそうだ。もし子どもがいればそれもまた善き〈霊〉になっていただろう。
(とはいえ、昔の私は自分が自分の子どもにとって〈霊〉になる自信がなかった。【悪霊】にしかならないと怖れていた。だから子は為さなかった。)

私の実感として言えるのは、自身が取り憑かれる〈霊〉が多いほど幸せであるということである。〈霊〉の数が増すと【悪霊】は自然と駆逐されていく。日々の暮らしのなかで、気持ちが悪くなるときもある。【悪霊】に取り憑かれると気持ちが悪くなるのである。しかし、それはもはや長続きはしない。貧乏であることも気にならない。

(とはいえ、貧乏は不自由である。実は一昨日、負傷を負ってしまったおかげで今日もお天気なのに休業を余儀なくされている。今週は無理で、来週にはなんとかと思っているが、どうなるか。日雇い労働者でしかない私は、これで来月の貧窮生活は決定だが、実は喜んでもいる。というのも、仕事に行かないなら行かないで、こうやって駄文を綴ったりして〈霊〉と戯れる時間ができるからだ。妻はそんな私に半分呆れながら、しかし、機嫌良く受け入れてくれている。)

親からの「三年之愛」に恵まれなかった子どもに、私たちは直接は何もしてやれない。しかし、その子どもが〈霊〉と出会うことがあれば、それは「魂の脱植民地化」への機縁となりうる。私たちに出来るのは、その機縁を増やすことだけである。

そんなふうに考えているので、こんな標語を掲げることになる。 世界を〈霊〉で満たせ、と。

コメント

僕は、「三年之愛」をもらえていても、それなりの孤独感や絶望感、自己嫌悪、いじめなどは依然あるとは思ってるんですけど、でも、明らかに「三年之愛」をもらえないところから起こってきているようなもろもろのことは、なくなりますよね。
というか、起こらずに済むから、あとでそれに悩む必要もなくなるので、そこは安冨先生の仰るとおりだと感じます。
このへんは野口先生の観方とおんなじですね。

それから、
>自身が取り憑かれる〈霊〉が多いほど幸せであるということである。
<
これにも同感です。
音楽で言えば、僕はボブ・マーリーですね。 (^o^)

こんにちは。

>(木や道具、あるいはその他様々な「モノ」に〈霊〉が宿るとする考え方はアミニズムだが、それは人間の持つ「地平」想像力と創発によって創造されたものといえるのではないか。また一神教で信仰される超越神は、そうした〈霊〉たちの「散逸構造」ではないかと空想している。文明の発展は物々交換が貨幣へと散逸構造化されることで生まれたが、同時に〈霊〉の散逸構造化も起こったのかもしれない。さらに空想をすると、近代は〈霊〉および神が否定されてしまったことで、散逸構造化された貨幣を基軸とする経済が人間の内面をも支配するようになってしまった。)

と、さらりと括弧書きの中で仰ってますが、これは愚樵さんの貨幣シリーズ(?)の核心部分ではないでしょうか?
一神教の神様が数え切れないほどある霊を一括りにしたものであるという考えは、私もそう思います。もともと視覚化できないはずの存在なのでいろいろな方法で想像し接することができるのですが。

お怪我をされたそうで、どうかお大事に。

「三年之愛」と「天心」

・アキラさん、おはようございます。

>というか、起こらずに済むから、あとでそれに悩む必要もなくなる

「起こらずに済む」ですか。では、「三年之愛」がないと何かかが起こるのですね? 何となくわかるけど、うまく言葉にできないな。

野口先生の言う「天心」、論語では「童心」になるようですが、これは「三年之愛」と深く関わるはずですよね。

>自身が取り憑かれる〈霊〉が多いほど幸せであるということである。
>これにも同感です

では、ご一緒に。世界を〈霊〉で満たせ (^o^)

で。ボブ・マーリーですか?
youtubeで少し聴いてみました。これはゆめやえいこさんと同じく老荘の方かな。
『スピリチュアル・ジャーニー』がレンタルできるようなので、聴いてみようかな。

それとも、最初はこれがいいよというオススメ、ありますか?

サラリです (^o^)

あやみさん、おはようございます。

貨幣シリーズ(?)の核心部分ではないでしょうか?

伏線をバラされてしまうと、ドラマが面白くなくなるじゃないですか )`ε´(

正直なところ、貨幣シリーズでそこまで辿り着けるかどうかわからないのですが、辿り着くことができれば、この伏線で「魂の脱植民地化」とつながる――なんて、そんな設計をしたわけではないんですけどね。でも、関連づけたいと思っているので、こんなところに出てきてしまうんでしょうね。

>一神教の神様が数え切れないほどある霊を一括りにしたものであるという考え

「一括り」と言ってしまうとちょっとニュアンスが違ってきますが、そんなようなことですね。イスラームではどのように扱っているのかわからないのですが、その鍵といいますか中間形態の名残がキリスト教の三位一体教説のなかにでてくる「聖霊」なのかな、と思っています。中沢新一の本を読んでいると、「聖霊」は増殖するもので、それが資本主義に...というようなことになっていますが、成立過程は増殖の逆の減縮だったのではないかと。

ま、これはあくまで何の根拠もない予想でして、そんなところにまで潜り込むことは、おそらく私の手には余るでしょう。

>お怪我をされたそうで、どうかお大事に。

ありがとうございます。怪我は日常茶飯事なんですけどね。今回は古傷に命中したみたいで、隠れていた後遺症が一気に吹き出てきたような感じなんです。思わぬ余暇を楽しんでおります。(^_^)v

ボブ・マーリー

クラシック好きの愚樵さんのお耳に合うのかなぁ・・・とは思うんですが。

この1枚!ということで言うと、やっぱり『 LIVE!』でしょうか。
録音状態などはけっこうヒドいんですけど、ボブの「魂」が一番伝わるアルバムのように思います。
『 LIVE!』の「No Woman, No Cry」、死ぬほど聴きました。 (^o^)

招霊。

昔TVでこのような光景を見ました。
ひな壇のゲストたちに皿に乗せられた切り身の料理が出され、司会は試食して食材を当てよという。
ゲスト達は神妙な面持ちで切り身を口に入れ、コリコリした歯ざわりで美味しい、結構イケるなどと、それなりに妙味であることを窺わせる感想を口々に述べる。

回答が一巡してから、司会はアシスタントに生きている「食材」を運ばせる。
一同、食材を見て青い顔、渋い顔、ドン引きといった様子。

正解は、「るっつ」です!(るっつ=環形動物に似たユムシ動物門ユムシ綱ユムシ目ユムシ科「ユムシ」の別名)

人間は、特定の事物を諸感覚器官によって受容するのに先立ち、まず対象を同定することを欲する生き物だと考えます。
味覚一つとっても、「自分が今食べている対象が何であるか」を予め同定(予測と言い換えても可)、先験的な認識の下で感覚を受容する。
私自身の経験でも、冷蔵庫に入っているパックの飲み物をよく見ずに「グレープフルーツジュース」と思い込んで飲んだら、それが牛乳で一瞬混乱したことがあります。

聴覚も同じです。
音楽をかけていて、友人知人がそれを気に入る・関心を持つと例外なく、「これ誰?」と尋ねてきます。
或いは、「これは何という(ジャンルの)音楽?」と。後者はまだアシッドハウスが一般的でなかった80年代後期によく訊かれました。
IDMを聴いていた時は、仕事場で「これは音楽なのか?」と訊かれたこともあります。

霊。人間は対象を何らかの形で捉えまず「霊」を形成しないと、対象を捕捉する心の準備ができない。

先日amazonから届いたマイケル・ジャクソンの『Invincible』を聴きました。
これは私にとって故人であるマイケル・ジャクソンの音楽であり、また射殺されたノトーリアスB.I.G.の音楽です。
また、生者であるロドニー・ジャーキンス、テディ・ライリー、ベイビーフェイス、ブランディの音楽でもあります。
特にロドニー・ジャーキンスの個性を強く感じる作品でもあります。
いや、ロドニー・ジャーキンスがプロデュースしていると予め知っていたからこそ、そのように捉えているのでしょう。そして、彼がInvincibleの翌年にプロデュースしていたブランディのアルバム『Full Moon』を予め持っていたからと言えます。

そんなわけで、『Invincible』は私にとって生者と死者が交錯する作品となっています。
これは自分では如何ともしがたいことです。個々人の生であれ死であれ、そのように同定する他ない単純な事実ですから。

愚樵さんは『THIS IS IT』をご覧になられたようですが、すでに故人であるマイケルがステージ上で縦横無尽に躍動し、ホストとして王が忠臣を率いるがごとくにダンサー達を華麗に指揮する姿をどう捉えたのか、興味があります。
イアン・カーティスやニック・ドレイクの音楽を初めて聴いた時、まず私が感じたのは、彼等が生きている時にその音楽に触れたかったということです。
そう感じることは自分ではコントロールできません。如何ともしがたいことです。

訂正など。

パスワードを誤入力してしまいました。文章が直せない。とりあえず致命的に酷いところだけ直しますね。
すみません。

>人間は対象を何らかの形で捉えまず「霊」を形成しないと、対象を捕捉する心の準備ができない。

これは酷すぎますね。以下のように修正しておきます。どっちみち悪文ですが、少しはマシでしょう。
→人間は対象を予め分類・同定しておかなければ、対象を受容する心の準備ができない。

訂正ついでに余談ですが、グールド、カザルスはクラシックに手を伸ばしていた時期に聴きました。
グールドは20bitだったか24bitだったかのリマスターCDを買いましたね。ゴルトベルク変奏曲。
すでに手放してしまいましたが。
個人的にバッハの演奏者でしっくり来たのはキース・ジャレットとレオンハルトです。とは言えクラシックの演奏の善し悪しや曲想の解釈といったものが全然分からない(識らない)ので、私の好みなどまるで意味がありません。
ロック・ポップスについても演奏の善し悪しなんてまったく分からないんですけどね。
ミスタッチとかリズム隊のよたり、音程の精確さぐらいは分かりますよ。裏を返せばそのくらいしか分からない。
演奏がてんでばらばらでしっちゃかめっちゃかでも面白い曲とかありますからね。でも何故それが面白いのかも分からない。

生前、Ian Lovedayが自分の作る曲について、継ぎ目のないループを作るのが難しい、巧くいかなかった曲もあると語っていました。彼が何を言っているのか、曲を聴いていてある時「知覚できる」ようになった。それでミニマルな音楽全般を自分なりに受容できるようになりました。この段階を通過しなかったら、異ジャンルのhiphopは今でも聴けていなかったと思います。
hiphopも基本はミニマリズムなので。
まあバッハやフローベルガー、フレスコバルディなんかも私はミニマルミュージックの一種として捉えているんですけどね。

またヘンな話になってしまいました。
レゲエは、というかダブですけど、オーガスタス・パブロは好きですよ。横からですけどこっそりお奨めします。

メモ φ(^∇^ )

・アキラさん、おはようございます。

この1枚!ということで言うと、やっぱり『 LIVE!』でしょうか。

(^o^)v

まあ、とにかく、「食わず嫌い」はやめておきます。アキラさんとのネット上でのお付合いは長いですがボブ・マーリーははじめて聞く名前だし、あいや、聞いていたのかもしれませんが、記憶に残っていないのは間違いなく、ということは、機縁がなかったということでしょう。

で、今回は機縁ができたと。ならば「食わず嫌い」はもったいない。

西洋クラシックは、これは前にも言ったかな、臭いの強いノン・ウォッシュタイプのチーズのようなもの。特に声楽はそう。臭いになれさえすれば病みつきになりますが、それは「他の臭いの強いもの」にも言えるわけで。

他にも喩えるなら、日本の演歌や童謡は「味噌汁」でしょう。最近、由紀さおりのおかげでアメリカあたりでも認知されるようになってきているらしいですね。

レゲエは、食べものに喩えるとしたら?

霊の形成でいいんじゃないですか?

・平行連晶さん、おはようございます。

わたし的には「霊の形成」でオッケーですが。敢えて“そちら側”へ踏み込みます。が、それは平行連晶さんにはNGなんでしょうね。

人間は、特定の事物を諸感覚器官によって受容するのに先立ち、まず対象を同定することを欲する生き物だと考えます。

似たような話を思い出しました。

ドアノブというのは普通金属で出来ています。それを光沢のあるゴムで作ってみて、そのノブを握ったときに人間がどういう反応を示すかという実験がなされたことがあったらしい。

例外なく、ノブを握った瞬間に、感電したようにノブから手を離すそうです。

人間は予めドアノブの感触を想定しているんですね。で、その想定と異なった感触が感知されたものだから、飛び上がった。危険を察知したのでしょうね。

人間のようなアタマデッカチの生き物にとっては、霊の生成は生存本能にも関わってくることなのではないでしょうか。だとするならば、霊は、生物としての本来的であるところの魂の産物である、とするのは合理的だと見なせるはずです。

これは私にとって故人であるマイケル・ジャクソンの音楽であり、また射殺されたノトーリアスB.I.G.の音楽です。

以下は私にはチンプンカンプン。でも、気になさらずに。このコメントは私だけが見ているわけではないし、「平行連晶」を綴っていたく場だし。

『THIS IS IT』の感想というか分析はこれから書きます。お楽しみに。(^o^)

とは言えクラシックの演奏の善し悪しや曲想の解釈といったものが全然分からない

あいや。そんなものは識る必要はありません。クラシックに親しみたいと欲するのなら、その特有の「臭い」に慣れろ、ただそれだけです。あとは自分の好きなように聴けばよいし、演奏できるならすればよい。それがジャンルを問わず、音楽のそもそもの楽しみ方でしょう。

とはいえ、スノビズムというのはあります。クラシック、ジャズというのは特に強いですね。聴き込むほどにスノッブに走る者、スノビズムから解放されていく者、両方いるわけですが、前者は「アタマデッカチ」なんでしょうね。初めから頭で想定している感触を求めている。

他ジャンルから越境してくるときに、そんなスノビズムと付き合う必要はまったくありません。

演奏がてんでばらばらでしっちゃかめっちゃかでも面白い曲とかありますからね。

逆に整然と整っているからといって面白いとも限りません。「文脈」を理解できなければ面白くも何ともない。

コンラート・ローレンツのどの著作だったかは忘れましたが、こんなエピソードが紹介されていました。あるアラブの王様だか皇太子をオーケストラのコンサートへ招待した。で、感想を尋ねたそうです。どこが一番面白かったのか、と。返ってきた答えは一番最初。ああ、最初の「曲」が面白かったのかと思うと、さにあらず。よくよく聞いてみると、指揮者が登場してくる前、オーケストラのチューニングの場面が一番面白かったと言っているのがわかった。

どんな曲が演奏されたかはわかりませんが、アラブ人の耳にだって、それが「整ったもの」だということくらいは理解できたでしょう。しかし、整っている「理由」を共有できない。チューニングは誰がどう見てもチューニングですから、その「理由」はわかった。だから面白いと答えた。

それからすれば、しっちゃかめっちゃかでも、その「理由」が理解できれば面白いと感じるものです。ああ、プレーヤーは熱中しすぎて突っ張りしすぎたな、とか。油断して外したな、とか、ね。

レゲエは・・・漬け物でしょうか。(^o^)

オーガスタス・パブロもいいですね♪

漬け物は好物です。

・アキラさん 

コメント本文、省略。笑。

異見。

>指揮者が登場してくる前、オーケストラのチューニングの場面が一番面白かったと言っているのがわかった

これは、分かります。私が6年間ブラスをやっていたとき、まさにそうでしたので。
演奏が始まる前の音合わせの時、さらにそれより前にめいめいが無秩序に音を鳴らしているときが、一番面白かったです。これについては後述します。

>チューニングは誰がどう見てもチューニングですから、その「理由」はわかった

これには異論があります。私は違うと思う。
アラブの音楽というと、アザーン等ですよね。
私はアザーンそのものを聴くことはしませんが、中近東の音階や中世ヨーロッパの世俗音楽を採り入れている西欧のバンドが好きで聴きます。
で、思うことは、中近東の音階に親しんでいる人たちはいわゆる「微分音」を解する分だけ、西洋古典音楽的に「合っていない」音を音楽的に愉しめるのではないかと。

ステージに並んだ、各パートないし各演奏者が音合わせのためにCであるとかB♭であるとかの特定の音をめいめいに出す時、最初は「音が合っていない」状態で一種のドローンを演奏している状態になる。
これが私には「音楽」に聴こえたのです。
催眠的というか、トランシーな音楽に聴こえる。非常に気持ちがいい。頭蓋骨がパカっと開くような感覚を得られるときもあります。

ところがチューニングが完了し西洋の音階(調性)に支配された音楽が始まると、このトランシーな音響空間は消えてなくなってしまう。

アラブの王様(皇太子?)は実演が始まる前に「音楽」を聴いていたのだと私は思いますよ。

それから、マイケル・ジャクソンに関する最新エントリ、読みました。
タオイズムと儒家を対置し、人工性というキーワードでマイケルを儒家の側に位置づけたのはとても面白いですね。
マイケルのサイボーグ志向は『Invincible』の音にも露骨に表れていますし、人工性の極みである「ネバーランド」を見ても、まるで「アフロアメリカンは白人よりも動物に近い→自然に近い」という偏見を内面化してしまっていて、これを否定するためにテクノロジーの導入にのめり込んでいったかのように感じます。

この四半世紀、ブラックミュージックはレコーディングにおける音響テクノロジーの追求に関して、白人のロックの先を行っていますからね。マイケルだけでなく、アフロアメリカン系ミュージシャン(R&B、hiphop、house等)のテクノロジーに対する執着心には特別なものを感じますよ。

異見に異論はありません。

・平行連晶さん、おはようございます。

異見に異論はありません。が、それにしても

これが私には「音楽」に聴こえたのです。

へえぇ~、そうなんですか。やっぱり平行連晶さんは(も?)、不思議なひとなのでは?

音楽に聴くことができるんだという理由はわかりました。でも、その可能性があるということと、実際にそう聴こえるというのは別の次元の話ですよね。

音楽も言語の一種だと考えることが出来ます。で、言語、特に母語は、「覚える」というより「刷り込まれる」。音楽もそう。

1オクターブというと、音の周波数では倍になる。それを12分割するのが西洋音楽の基本構造。でも、12分割する理由はまったくなくて、偶然そうなっただけ。しかし、偶然は刷り込まれると必然に変わる。文化とはそういうものです。

現代の日本にはいろいろなジャンルの音楽がありますが、しかし、その大半は、西洋音楽の基本構造を踏襲したものです。だから、ほとんどの日本人には、ドレミファソラシドが音楽の構造として刷り込まれている。逆に言うと、ドレミファソラシドでなければ音楽にきこえない。

それがそうでないのが音楽に聞えたということは、ドレミファソラシドが染まってしまってはいないということをなります。

語学に天才がいたりしますが、そういう人も「染まりきっていない」人なんでしょう。平行連晶さんも同類かな?

タオイズムと儒家を対置し、

最初からそれを意図していたわけではないんですけどね。私の中にあるものを追いかけていったら、そうなってしまいました。

アフロアメリカン系ミュージシャン(R&B、hiphop、house等)のテクノロジーに対する執着心には特別なものを感じますよ

へえぇ、面白い話ですね。そういった方向性で切り取った音楽評論なんて、あります?

あるにはあるんですけど。

>そういった方向性で切り取った音楽評論

未読ですが(音楽について書いた本を買うお金があったらCD代にしてしまうので)、その辺りのことについて多少なりとも書かれているであろう本ならあります。ただし、扱っているジャンルが狭いです。

http://www.rll.jp/hood/tee/respect/20101030204310.php

↑これ、おそらく当該書籍から抜粋した文章だと思います。興味がおありでしたら覗いてみては如何でしょう。
…というか、私自身これらの文章を読むのは今が初めてです。私の書いたことが意外に的外れでもなかったんじゃないかと思いました。

はじめまして

平行連晶さま

ニック・ドレイク、、私にとって魂の最も深い所に在るこの名前に言及されていることに、
コメントせずにいられませんでした、、はじめまして。田中と申します。

私にとって、ロックの100年の歴史の粗暴な要約は以下となります。

http://togetter.com/li/266942

ただこれなど、平行連晶さんのパースペクティブの足元にも及ばないと思います^^

パブロもその精神性含めリスペクトしています。

今後とも、平行連晶さんの慧眼に触れさせていただければ幸いです。<m(__)m>

>愚樵さま

すみません、、私実は音楽クラスタでもあり(^_^;)、
本論と乖離した趣味の話題に走ってしまい申し訳ございません、、<m(__)m>

>そういった方向性で切り取った音楽評論

当然の如く、既読でしたら申し訳ございません、、
パンク、カリビアン、ヒップホップ、ダブ、ハウス、ワールドミュージック、、
私にとっては高橋健太郎さんのこの1991年の著作が頂点です(^_^;)

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88-%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AE%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AB%E8%98%87%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%81%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4903951332/ref=sr_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1334599133&sr=1-5

ぼちぼち平行連晶さんは根城をつくるべきだな

・平行連晶さん、田中さん、おはようございます。

平行連晶さんご紹介のリンク、覗いてみました。面白かったです。

アフロアメリカン系ミュージシャンたちの「理由」がよく伝わってきます。
彼らはアメリカにおいて偉大な成果を成し遂げた。でも、世代が新しくなって、自分たちを根無し草のように感じ始めた、ということでしょうか。

ここらは私たち日本人とは、非常に隔絶したものがありますよね。

で、田中さん、お世話になっています。次エントリーの動画も田中さんのFacebookからのリンクなんですよね。

http://togetter.com/li/266942

昨日の連続ツイートの正体はこれだったのかぁ~!
じっくり覗かせてもらいます。

本論と乖離した趣味の話題に走ってしまい

私はそんなの全然歓迎なので、お気になさらず。

それより平行連晶さん、ぼちぼちご自分の根城を作ればいかが?
ここを使ってもらうのは私は全然OKですけど、もったいないよ。

いやいやいや。

>tanakazuhikoさん

お目汚し、失礼いたしました。
私よりもtanakazuhikoさんの方が遥かにきちんと音楽を聴いている方でいらっしゃいますよ。本当に。
ご自身がこれまで聴いてこられたミュージシャンを、音楽史(ポップミュージック史)の流れの中にきちんと定位できるような聴き方をしてらっしゃるというのが、togetterのまとめを見てよく分かりました。
私は全然なっちゃいないんです。基本的にはリアルタイムで聴いて来たもの、それも酷く偏ったものについてしか知りません。
ですから愚樵さんに指摘されたように、「歴史・伝統といったものに関する『クオリティ』の否定」を抱えてます。
正確には否定というより、単なる無知なんですけど。これは謙遜や自嘲でなく、たんなる事実です。

愚樵さんのブログコメント欄には時折現れますので、機会がありましたらまたよろしくお願いいたします。
tanakazuhikoさんにとっては、随分と物足りない相手になるとは思いますが…。

自分は「同時代性」とか「今動いているもの」に対する執着心があるのです。「現在」に縛られているのかも知れません。

>愚樵さん

私は根っからの居候体質なんで、自分の小屋を持つということには、ほとんど関心がないのですよ。
自分が面白い文章を書いているとも、また書けるとも思っていませんし。
ですからここにお邪魔させていただければ、それで十分なんです。

いいですよ、あのtogetter

・平行連晶さん、おはようございます。それから田中さんも。

居候がお好みでしたら、勝手にやってください (^0^)
特にお構いもしないこともあるかもしれませんが。

田中さんのtogetter、いいですよ。

ブックマークに放り込んで、順にBGMとして聞いています。
歴史的なことはよくわからないんですが、楽しめます。楽しむのが先。

そうそう、そういえば高橋健太郎さんの著作って、紹介されている一冊だけなんですってね。
図書館にないとツイートして、恥かいてしまいました (^_^;
もっとあるものだと勝手に想像していました。
あってもおかしくないはずなんですけど。

コメントありがとうございます!

>平行連晶さん

「同時代性」こそ、私たちが今呼吸しているこの世界で、
最もアクチュアルな表現が切り拓かれる現場だと思っておりますので、
そこにコミットし続けていくことは、自分にとっても最重要課題です(^_^;)

今後ともぜひよろしくお願いいたします!(^O^)/

>愚樵さん

私は80年代後半くらいから健太郎さんの音楽評論を、最も信頼できる基準の一つとして
フォローしていましたので、原発に関してまさかどんな物理学者よりも正確な認識をお持ちで、
更にはコンポジウムでお会いすることになろうとは、夢にも思いませんでした、、(^_^;)

確かにあの冷静な分析や正確な論理は、音楽評論に限らず、様々な分野で著作を出されてても
おかしくない方だと思います(^_^;)

でもそういう視点であの唯一の著作を振り返ると、確かに普通の音楽評論では出会うことのない
豊かな論考が展開されていることに、改めて気づかされます、、(^_^;)

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