愚慫空論

身体の情動反応と体癖論

またもや野口整体を取り上げ見たいと思う。体癖論だ。

 光るナス:体癖シリーズ

といって、私には体癖論の具体的な部分に立ち入るだけのものは、まったくない。一種から十種まであって、その上位に上下、左右、前後、捩れ、開閉と5つのタイプがある、らしい。実は12種類だという話もある。いずれにせよ、ぜんぜんわからない。

その詳細はいずれ私もアキラ師匠からボチボチと学んでいきたいとおもっているわけだけれども、今、ここで書いておきたいのは、もしその詳細を学び始めたら書けなくなるかも知れないこと。間違いとわかってしまったら書けないから。尤も、私の記事はそんなのばかりだけど。苦笑。

で、間違いかもしれないと思いつつ何を言ってみたいのかというと、それはタイトルにもあるとおり、身体の情動反応と関係している。「体癖」を文字通り“からだの癖”と解すれば、それが身体の情動反応と関係があるだろうと予想するのは、まあ、普通のことだろう。が、そういう「普通の理解」は間違いというこがと往々にしてあるから。

というわけで、今回の話は“普通の理解”に基づいて、身体の情動反応とはなにかということがメインになる。そこを明らかにした上で、体癖とは文字通り身体の情動反応の「癖」なのではないか、という主張をしてみたいわけだ。参考書は、これまたまたしても、こちら。

ハラスメントは連鎖する

第4章「愛情の役割」 p.112に図4-2として、右図が出てくる。

 人間は情動反応という手段によって、メッセージからコンテキストを創発する力を持っている。決してメッセージそのものが、コンテキストを創発しているのではない(図4-2)
 現時点で創発について人類が有している科学的知識は、ほぼ皆無であるといってよい。しかし、幸いにも創発の仕組みがわからなくとも、人間にはコンテキストを捉える能力――暗黙に知る力――がもともと備わっている。仕組みを知らずとも、そのコンテキストを踏まえた上でメッセージを受け止めることができる。
 創発が暗黙の了解のうちに自律的に起きるということは、人間の生命を生命たらしめている力である。そしてその能力は情動と感情のなかにある。


回想の野口晴哉『回想の野口晴哉』を読んでいると、野口先生は創発の仕組みを識っていたのではないかと疑いたくなる。ただ、それを伝えようにも周囲の理解力が足りなさすぎて(という言い方に語弊があるなら、野口先生はあまりにも飛び抜けていて)、伝えるのを断念した。そんなようなことをアキラさんの記事で読んだ思えもあるのだが、あまり憶測で書くのはよそう。そうでなくても、いい加減なことを書いているのだから。

話は元に戻って、情動と感情とが区分されていることを紹介しよう。

 脳神経科学者のアオントニオ・R・ダマシオは情動(エモーション)と感情(フィーリング)を別個のものとして定義しなおした。この節では、ダマシオに沿って、脳科学見地から情動と感情を捉え直していくことにする。
 例えば、街を歩いているときに突然近くで爆発音が聞えたとしよう。こうした自体に遭遇したとき、私たちは無意識のうちに身をすくめてしまう。動悸は激しくなり、汗をかきもする。このような、ある事態に直面したときにおこる身体的反応、それが情動である。そして、このような身体の状態の変化を感じること、それが感情と呼ばれるものだ。
 身のすくみ、激しくなった動悸、突然の発汗を感じることによって、私たちは恐怖という感情を覚える。


図4-2に戻ると、爆発音がメッセージ。メッセージが届くと身体に情動が生じ、感情によってモニターされる。その感情を「恐ろしい」と言葉にすれば、コンテキストである。こうした人間の情動反応は、あらゆるメッセージについて起こる。日々の言葉のやりとり、ネットで閲覧するテキストを読むことでも、生じている。

 ダマシオは、さらに情動には生得的に備わっている一次の情動と、後天的に獲得される二次の情動があることを指摘した。
 一次の情動は、生まれつき組み込まれているものである。突然の爆発音などの刺激に対して身がすくむことは、一次の情動である。一次の情動は、学習によって獲得されたものではなく、前節で述べたところの、魂の一部に属するものである。一次の情動は、脳内では扁桃体や前帯状回などを含む辺縁系回路に依存している。
 これに対し二次の情動は、一次の情動を土台にして学習を重ねることにより、後天的に獲得されるものである。実際に爆発音を耳にしていない時でも、友人に聞かされた爆発の様子を想像し、動悸が激しくなることがある。
 これは爆発事故という情況を分類したことと、一次の情動反応を結合した結果に生じた、二次の情動反応である。二次の情動は、一次の情動の装置である辺縁系回路に加え、前頭前皮質を必要としている。
 我々は、今までいかなる情況に遭遇し、どのような情動反応をしたかについての記憶を、経験として蓄えている。前頭前皮質の役割は、経験の中に蓄えられた情況と、情動反応の組み合わせを担うことである。
 このような二次の情動反応をするための前頭前皮質の活動は、前節の文脈ではインターフェイスに属している。インターフェイスは、魂の一部である一次の情動を利用することで、二次の情動反応を生んでいる。


二次の情動反応において主体を仮設すると、それが〈霊〉〈クオリティ〉になるのだが、その話はここではおこう。

さて、この後『ハラスメントは連鎖する』は、感情の3区分、コンテキストマーカー、ソマティックマーカーと説明が進む。これらは人間が主体的な選択を行なうときの機序の説明になっていて重要なのだが、ここでの本筋から少し外れるので割愛する。さらにその後に、「創発の自律性」。

 情動が生来備わっていることは、大きな意味を持っている。まったく情動反応がないなら、コンテキストが捉えられないので学習は不可能である。受け取ったメッセージがいかなる意味をもつかを、メッセージのみからおしはかることはできない。
 さまざまな要素が相互作用したとき、それらの要素の性質を単純に足し合わせた以上の性質が生じることを「創発=emergence」と呼ぶ。


ここで再び図4-2に戻ることになる。「創発」はメッセージに身体の情動が付加されることで起こる。いや、「付加される」が正しいかどうかはわからないが、少なくとも身体が触媒として働く。

この説明は、創発がよくわからないものとはいえ、筋の通ったものだと感じる。しかし、よくよく考えてみると、欠落したものがあることに気がつく。それは身体の具体的な反応についてである。もっとも、これこそが創発のよくわからない部分なのかもしれないが。

脳の反応の説明は、情動を一次二次と区分しているところといい、またこの後「意味とは」の節で記憶についての説明が出てくるとおり、詳細とはいえないまでもツボを押さえて説明がなされている。しかし、「身体の情動反応」といいながら、身体はブラックボックスのような取り扱いになっている。これでは、身体は脳からの刺激に線形的に対応する「情動装置」のようだ。

だが、そんなはずはない。そんなはずはない、で出てくるのが、野口整体の体癖論ではないかということだ。

たとえば、一種という区分を見てみると、身体的な特徴がこのように記されている。

 一種という人たち その2 ~ いつも背伸びしたような状態 ~

上下型の人たちは、上に 上に・・という動きがメインになっています。
ですから、エネルギーも頭に 頭に・・と行ってしまう。
上に 上に・・ですから、基本的に見た目も細長い感じになります。
キリンやラクダ系、顔もわりあい細長くて、背の高い人が多い。
お公家さんのような感じです。


身体の具体的な特徴が指摘されると同時に

 一種という人たち その3 ~ 1・2・3・・と順々に ~

常にいったん頭脳を通して、つまり言葉や数字といった緩衝材を通して、物事に距離をおいて俯瞰する、客観的に捉えようとする傾向がありますから、一種の人たちは言葉というものをとても重んじる性質があります。
客観的に物事をクッキリさせたいわけですから、理論や理屈を大事にすると言ってもいいでしょう。
そのような傾向が強いので、順序立っていることががすごく重要になってくる。
物事を考える場合の手順とか順序というのがあって、その順序通りにものを考えないと分からないわけです。

1の次は2、2の次は3、4、5・・というように、ちゃんと順々にいかないとダメなんですね。


ここに記述されているのは、コンテキストが創発されていく傾向なのだろうと思う。

こうした体癖論をどこまで科学的に――例えば身体を精密に測定することでその傾向を調べて、脳との接続の相関性を調べる――解明できるかはわからない。現在の技術では無理だろうし、これから先も実現しないかもしれない。なので、血液型占いと同様のトンデモニセ科学として取り扱われるようになってしまうのかもしれない。

その点はわからないけれども、もし、体癖論を手がかりに、それぞれの人間のコンテキスト創発の傾向が掴めるとするなら、その成果は大きい。コミュニケーションの失敗を防ぎ、適切な学習を促すことができるからである。

(適切な学習がどういったものかは、『ハラスメントは連鎖する』第4章のモデル、あるいは『回想の野口晴哉』後半の先生のお孫さんへの接し方などが参考になるだろう。)

私たちは日々コミュニケーションを重ね、日々コミュニケーションに失敗している。コニュニケ-ションの失敗は、自分がそのつもりではなくても、予期せぬハラスメントをしかけてしまう。そこを意識的にコントロール出来るとしたら...。

ところ昨日、私はツイッター上でとある【対話】をしてしまった。

 @gushouさんと @sunaoh さんのファシリテーターを巡るやりとり?

ざっと一見してもらえばわかるが、前半を除けば、コミュニケーションが失敗ばかりしているやり取りである。途中で言及しているように、そもそもテキストのみを介してのコミュニケーションには限界があるのかもしれない。それでも私は、野口先生だったらどんなふうにやり取りするのかだろう、という想像を抑えることができない。キチンと相手のことが捉まえられれば、相手の感情がどうであれ、適切な言葉を投げかけて学習を誘導することができる――かもしれない。

なんにせよ「かもしれない」しかいうことが出来ないのだが、「かもしれない」からダメなのか、そこへ掛けるのかは、当人の生き方の問題だろう。

コメント

ダマシオですか。

ここでダマシオが出てくるとは思わなかったですね。
だいぶ前に読んだけど、内容殆ど忘れてしまいました。どこかにしまってあるので、読み直してみますかね。

>体癖とは文字通り身体の情動反応の「癖」なのではないか

>上下型の人たちは、上に 上に・・という動きがメインになっています
>見た目も細長い感じに

体型は遺伝的な形質の一つとされていますから、これらから導出される仮説に則ると「身体の情動反応」も遺伝的にプリセットされるものだということになりますね。
たしかにそういう面もあるかも知れませんね。

>私はツイッター上でとある【対話】をしてしまった

これ昨夜読みましたよ。とても面白かったです。
愚樵さんが時々ヘンテコな変換ミスをしていて、へぇ~愚樵さんでも焦ったりすることがあるんだ~とか面白く読みました。
個人的には愚樵さんの文章は明快な方だと思うんです。ていうか、常に太刀筋がはっきりしているでしょ。
とは言え、愚樵さん側から見たら「平行連晶、こいつ分かってねえなアホだな」の連続かも知れません。まあそれでも私としてはわりと話が通じていると感じています。
他方、愚樵さんの文章はよく切れる刃物のようなイメージがあるので、人によっては刃物で捌かれているような気分になるかも知れませんね。切れ味が良過ぎるものは時として不吉な印象を与えることもありますし。
私は鈍器でツボから外れたところをボコボコ叩かれるよりは、急所をサックリ斬られる方が気持ちいいんですけど。

人はなぜ感情的になったとき、「私は感情的になってないよ!」って言い張るのでしょうか。
・感情的になった方が負け/私は感情的になっている/しかしそれを認めたら私は負けたことになる/認めるわけにはいかない/故に私は感情的になっていない
…こんな感じでしょうか。よく分かりません。
何かな、皆そんなに負けるのが嫌なんでしょうか。

会話が対話にならず迷走しまくる様子を傍から眺めると、例外なく、そして巧まずしてとても良質なコントになっています。
「面白い」という感情は論理的な機序が瓦解するところから生まれるのでしょうが、狙って生まれたものよりも偶発的なものの方が瓦解っぷりが美しいんですよ。だからとても面白い。

「キチンと相手のことが捉まえられれば、相手の感情がどうであれ、適切な言葉を投げかけて学習を誘導することができる」
誘導はされたくない人もいるかもしれない

コントとはね...(^_^:

平行連晶さん、こんにちは。早い時間にお出ましですね?

>ここでダマシオが出てくるとは思わなかったですね。

ご存知ですか。博学ですね。

体癖とは文字通り身体の情動反応の「癖」なのではないか

遺伝的なものと何らかの関わりはあるでしょうね。ただ、純粋に遺伝的に決まる「血液型」があの通りですから...
そのあたり、アキラさんはどう考えておられるのかな?

>これ昨夜読みましたよ。とても面白かったです。

それはそれは。(^o^)

>愚樵さんが時々ヘンテコな変換ミスをしていて、

や、私は元々ミスは多いんです。そそっかしいし、大阪弁で言うと「いらち」なんです。その上、ミスタイプが多いんですよ。最近とみに多くなってきたような気がして、ちょっと不安ではある。チェーンソーを使うでしょう? どうしても手を酷使しますからね。指の回りが悪くなってる感じがする。

>個人的には愚樵さんの

太刀筋とは上手いこと言いますね。私は逃げる相手に打ち込んでいただけなんですけど...
それにしてもまあ、よく逃げ回ってくれました。自分ではそういう意識はないんでしょうけどねぇ。

しかし、あのやり取りを読んで、どれほどの人が意味を汲み取ってくれるでしょう? ちょっと疑問です。ですので、けさ、togetterになっていたときは少し驚きました。 作成してくれたのは高橋健太郎さんのようですが。

それにしても、感想がコントとはね。平行連晶さんも、意地悪く眺めるもんですな。(^_^;

>人はなぜ感情的になったとき、「私は感情的になってないよ!」って言い張るのでしょうか。

それ、疑問ですね。あいや、なんとなくわからなくはない。強迫観念としてそういうのってあるのは理解できます。私もそうだった時期があります。

>感情的になった方が負け/私は感情的になっている/しかしそれを認めたら私は負けたことになる/認めるわけにはいかない/故に私は感情的になっていない

勝ち負けというのもありますが、自分と向き合うことに恐怖心を感じているように思います。で、おそらくはそういう人に限って承認欲求が強い。自己愛が満たされること求めるんですね。たぶん。

いいように思います♪

愚樵さんのこのような理解で合っているように思いますよ。 (^o^)

体癖とは「クセ」と書きますから、言ってみれば「動きの偏り」です。
体型や見た目の形にも表れるは表れますが、決定的ではありません。
形に表れないこともあるので、あまり体型的なことは参考になりません。
やはり、感受性の傾向を無意識の運動の中に探っていくのが一番確実なように思われます。
あとそれに、椎骨の動きの観察とを合わせて観ていく感じですかね。
・・ですが、むずかしいです。 (^_^;)

「動きの偏り」が体型に表れるのは、僕自身は動きの結果の「標本」みたいなニュアンスで認識しています。

体癖には厳密には「体癖素質」と「体癖現象」とあって、「体癖素質」は先天的なもの、「体癖現象」は後天的なもので、体が調ってくると、後天的なものはだんだんなくなってきて、「体癖素質」だけが残る(はず)というわけです。
ですから、「体癖素質」は「一次の情動」に関連すると見ていいかと思います。


>もし、体癖論を手がかりに、それぞれの人間のコンテキスト創発の傾向が掴めるとするなら、その成果は大きい。コミュニケーションの失敗を防ぎ、適切な学習を促すことができるからである。
<
僕らが心理指導で目指すのは、そういう類いのことです。
そのために「体癖」や、「潜在意識教育」と言われているような潜在意識的な問題を識っていくようなことが求められるんです。
が、これまたむずかしい。。。

体癖

愚樵さん、こんばんは。

>体癖論を手がかりに、それぞれの人間のコンテキスト創発の傾向が掴めるとするなら、その成果は大きい。コミュニケーションの失敗を防ぎ、適切な学習を促すことができるからである。

できると思います。
可能だと思っていますが私の体癖論の理解では、こういう傾向があるかなぁ・・程度です。

私がやっている太鼓教室の場での話しですが、太鼓の構え方や姿勢、叩き方や間違えたときのリアクションなどにいくつかの傾向があって、その傾向によって共通するものがあるんです。で、その傾向を受け止めて教え方や伝え方を変えると有効だったりします(たまにハズレます)。これは太鼓を教える私から見た体癖論だなぁ・・と、こっそり楽しんでいます♪

これも太鼓教室でのことですが、ある年齢以上の女性は、野口先生の体癖論でいうところの三種的傾向の人が多い気がします。。我、集団三種不得意(・・、)。とはいえどんな傾向があったとしても、結局は「その人自身」を観るってことなんだと思うんですけどね。

それから、、私がやりたいこと・やるべきこと(自分の荷物を持つとか些細なことでも)を他の誰かが気を利かせて先回りしてやってくれるということに嫌悪しちゃうんです^^;、そういう先回りをしたがる体癖(何種だったかなぁ?)があるってことを知ってからは、先回りされないように気をつけるようにしています。気をつけてても失敗も多くて、ときには怒ってしまうこともありまして、相手を【善人】として見てしまうともうダメ。素直に感謝できれば済むものをとも思いつつ・・、課題です。^^

高橋健太郎!

>愚樵さん

随分懐かしい名前を目にしました。以前はよくミュージック・マガジン辺りで彼が寄稿した文章に触れましたよ。
高橋健太郎氏が件のコンポジウムに参加していたんですね。氏のツイッターをさらっと読んだところ、プレゼンターの1人だったようですね。彼とは何か話されましたか?
愚樵さんとsunaohさんのやり取りを高橋氏がまとめていたのには驚きました。
愚樵さんが情報伝播力の大きさを重視してツイッター(&フェイスブック)に軸足を置こうと考えるのもよく分かります。

ところで、「私は感情的でない」という主張がネット等で散見される理由には、パブリックな場で感情的になることがタブー視されるという社会的背景があるようにも思えます。
パブリックな空間で感情的であることが許容されるのは、社会的な序列が明確な集団で、例えば上司が部下を感情も露に罵声を浴びせるような場面です。【システム】内での序列の確認作業、また確認作業の誇示と言ってもいいんじゃないでしょうか。これは端から対話ではない。双方向性のない一方通行のハラスメントです。

何故か、このハラスメント/対話の喪失といった概念だけが、それが生じる前提となった集団内の序列・相互関係の不均衡・対話がなされる場という諸条件から切り離されて、対等な関係の人と人の間にも入り込んでしまっているような気がします。
対話者双方の関係が如何なるものであれ、対話の中で感情が高ぶるということはあり得ます。
しかし、感情的になるため対話が成り立たなくなるわけではないです。
序列の確認作業のように、一方が他方に感情をぶつけられる不快感を忍従させるものではない。
「不快である=対話の喪失」は成り立たない。対話のモチベーションが低下することはあり得るとしても,不快感を契機に「発見」することもあるわけで。
寧ろ現実には、人は不快になるほど対話のモチベーションが上がるようにすら見えます。

そもそも、事物にプライオリティや相関関係・因果関係などを見出し行動へと置き換えるにあたっては理性の働きが介在しますが、理性が十全に機能するにはまず感情が働くことが不可欠なのです。愚樵さんの記事にある「これらは人間が主体的な選択を行なうときの機序の説明になっていて重要」という部分にかかってくる話です。

これらを念頭において「私は感情的になってない」を見直すと、まず感情を自ら抑制することによって対話のポテンシャルが向上するという誤認があるのではないか、また、誤認を引き起こしているのは「序列の確認作業」というハラスメントが私たちの社会の様々な場面に定着してしまっているため、そこから「感情的になる=ハラスメント」という視点が生まれてしまったんじゃないかと思うんです。

対話のために敢えて感情的になる必要はないですが、対話のプロセスの中で現れた「感情的な私」を余所に置いておいて(居ないことにして)対話をしようとしても、単に自己を疎外しているだけになってしまうのではないですかね。

Re: いいように思います♪

・アキラさん

こちらのコメントには、なにもお返しするものはありません。

あるとすれば一言、「よかった」 (^o^)v

Re: 体癖

ゆめさん、おはようございます。

ふむ、ふむ。

こちらへも今の私からお返しできることは、見当たらないようです。

先輩として、どうかご指導を。(^o^)

残念ながら

・平行連晶さん、おはようございます。

残念ながら、何も話はしなかったんですよ。その気になれば話をできる所にいたのに。今から思えば残念です。

といっても、私は高橋さんのことはコンポジウムに出てくるまで全然知らなくて、今もほとんど何も知らない。馴染みがないんです。だもので、同室でいろいろな人と歓談してたわけですけど、私からすれば“高橋健太郎、who?”でしたし、無効はなおのこと私には“Who?”だったでしょうから、その場に居合わせても偶然がなければ、直接言葉を交わすことにならなかった。 ま、機縁なんてこんなものです。

>愚樵さんが情報伝播力の大きさを重視して

小飼弾は「瞬縁」と呼びましたが、情報伝播力もさることながら、機縁を容易に結びつけることができるのがソーシャルメディアの特長ですね。もしツイッターがなければ、ブログだけだったら、その後に対話を交わすということもなかったと思います。コンポジウムで繋がらなかった機縁が、繋がらなかったがために、ツイッターで繋がるということが起きる。面白いです。

>ところで、「私は感情的でない」という主張がネット等で散見される理由には、

ここは、「抑制」と「抑圧」とを明確に区別するべきですね。

「公」の空間において感情が抑制されずに発露されることは、伝統的に日本ではタブー視されてきたとは言えるでしょう。けれども、抑制されていれば可だったし、むしろそうした発露は美風として讃えられる傾向があったと思うんです。ところが、「公」が「パブリック」へと変貌した時点で抑制は抑圧に変わった。

とはいえ、感情はずっと抑圧し続けられるものではない。どこかで発露させなければ人間は人間として保たない。そこでガス抜きが設けられるのですが、それが「立場」だったのかもしれません。

>パブリックな空間で感情的であることが許容されるのは、社会的な序列が明確な集団で、例えば上司が部下を感情も露に罵声を浴びせるような場面です。【システム】内での序列の確認作業、また確認作業の誇示と言ってもいいんじゃないでしょうか。これは端から対話ではない。双方向性のない一方通行のハラスメントです。

まさにこれです。

私にもわずかながら宮仕えをした経験があるのですが、その時から思っていました。人が出世したいと思うのは、金や地位よりも、上に行けば行くほど気兼ねなく感情を発露できるようになるからだ、と。もっとも、それは大いに気にくわなかったんですけどね。一応、上司には敬意は払いはしたが、人間としてはあくまで対等として振る舞った。それで言われましたよ。オマエは社長ように振る舞う、と。こいつらバカか、と思いましたがね。

>何故か、このハラスメント/対話の喪失といった概念だけが、

それは【システム】が全域化して、人々がみな「個人」になったからです。「対等な個人」とは互いに踏み込み合わない者同士ということ。都会のマンションを思い浮かべれば、ピッタリ来ますよね。あれですよ。

でも、それでは人間として保たないから、当時上手く行っていた職場共同体へ入り込んで、そこで「個人」から脱却しようとした。そこにはハラスメントも大いにあったのだけれども、高度成長のおかげで誰もがいずれ上司になれるという幻想があったから我慢できたのでしょう。今の若者はそんな幻想を持っていませんから、職場でハラスメントがあればさっさと辞めていく。それを成功体験にしがみつくオヤジ共が、我慢が足りないといって批判するんですね。バカバカしい。

とはいえ、この個人幻想はかなり深いところまで骨がらみになっています。私はまたこちらでツッコミを入れ始めているのですが、

 @mu0283さんが「コンポジウム余波のモヤモヤ」を語る(http://togetter.com/li/283751

ツボは「個人」なんですよ。「踏み込み」はダメだという、意識されない前提がコンポジウム主催者批判の根拠になっている。でも、本当はみんな求めているのは「踏み込み」なんです。抑制された「踏み込み」を求めている。

安冨さんがやろうとしていることは、私の理解では、とにかく欺瞞を排すること。ところがこれをやろうとすると、どうしても「踏み込み」が必要になる。そこに「踏み込むな!」の批判が来る。その批判もまた実は欺瞞の産物なんですね。

>対話者双方の関係が如何なるものであれ、対話の中で感情が高ぶるということはあり得ます。
>しかし、感情的になるため対話が成り立たなくなるわけではないです。
>序列の確認作業のように、一方が他方に感情をぶつけられる不快感を忍従させるものではない。
> 「不快である=対話の喪失」は成り立たない。対話のモチベーションが低下することはあり得るとしても,不快感を契機に「発見」することもあるわけで。

ここです。不快感を契機に「発見」なんですが、個人がバラバラになって【システム】への依存心が強まり、【システム】へのしがみつきが強くなればなるほど、そうした「発見」への誘いはかえって不快になるんです。

>寧ろ現実には、人は不快になるほど対話のモチベーションが上がるようにすら見えます。

ええ、それは隠蔽のためにです。暴かれては困るから、多弁になって隠そうとする。が、それは平行連晶さんがいみじくも指摘したように、コントにしかならないんです。

>そもそも、事物にプライオリティや相関関係・因果関係などを見出し行動へと置き換えるにあたっては理性の働きが介在しますが、理性が十全に機能するにはまず感情が働くことが不可欠なのです。愚樵さんの記事にある「これらは人間が主体的な選択を行なうときの機序の説明になっていて重要」という部分にかかってくる話です。

その話は、今回本筋から外れるので割愛しましたが、「愛情の役割」と題されているチャプターの核心部分なんですね。愛情なんて「踏み込み」以外のなにものでもないですよね。

追加

愛情は「踏み込み」以外のなにものでもないが、抑制されない愛情、あるいは擬製された愛情は暴力以外の何ものでもなく、ハラスメントの源泉になる。

現在、日本人が「踏み込み」を求めているにもかからず――これは人間としての本質的な欲求だ――とりあえず「踏み込み」を拒否してしまうのは、想像するに「ハラスメント」の被害者になってしまっているからであろう。

そのためにも「踏み込み」は必要なのだが、それをしようとすればPTSDのような状態になって、モヤモヤとした拒否反応が出る、のではあるまいか。

感想

「@gushouさんと @sunaoh さんのファシリテーターを巡るやりとり?」は、途中まで読んだんですけど、そもそもの経緯の様子が全然分からないので、フォローするのが苦痛で 途中でやめちゃいましたが (^_^;)、かじっただけの感想を一応。

愚樵さんの対応には「愛」を感じられませんでした。 (^o^)
相手も感じられなかったんじゃないでしょうかね。
何か、腹に一物もって話してるような雰囲気がありありなので(愚樵さん自身にそのつもりがなかったとしても)、相手もバリアを降ろしませんよね。

あと、「ほう」とか「おや」とかからは、すべて相手を茶化すような、挑発するような感じを受けます。
そうやってワザと相手の感情を波立たせる目的があるならば、それでいいと思いますが、そのつもりがなければ対話のためには「余計」ですよね。

整体の話でいくと、「褒めるときは外さずど真ん中で、叱るときは二分外す」です。
褒める・叱るの効果を得るには・・という意味で。
となると、やっぱりまずはどちらも「ど真ん中」が捉えられないと・・というお話で。
そうなると、その前提に相手との「ぴったり」が出ざるを得ないんですよね。

テキストのみのやりとりでは、とても難しいと思います。
僕はあきらめてますけどね。 (^o^)

「愛」は死にました

・アキラさん

おや、ご覧になりましたか。(「おや」は、まずいんだっけ? これ、口癖みたいなもので...)

あれはしんどいと思います。経緯をわかっている者でも意味は意味は掴みにくいはず。論理で追おうとするとなおさら。まあ、アキラさんにはかえってその方が、純粋に応答にある「愛」の在処がわかって良かったかもしれません。

興味はないかもしれませんが、一応、経緯を簡単に説明しておきますと。

3/28コンポジウムにおいて、赤城修司さんという福島の教員がプレゼンをしたんです。それは現在の福島で行なわれている「思いやり隠蔽」の証拠写真のようなものを次々と紹介しながら、自身の立場と苦悩とを淡々と語るといったもので、大変心に迫るものだったんですね。会はその後休憩に入ったんですが、その間に、ある女子学生が司会のところへ行って、ぜひとも意見を言わせてくれと申し入れた。司会はそれを受け入れて、休憩後の冒頭に彼女の発言を許可した。その発言が波紋を呼んでいるわけです。

大変に【純粋】な発言でした。【純粋】過ぎて、現地で苦悩する赤城氏の苦悩の上を跳び越えて行ってしまった。

・・・というのが私のその発言の印象だったんですが、その印象は主催者たちも共有するところだったようで、会が終わってツイッター上に感想やまとめが登場しはじめた頃に、主催者たちが批判のツイートを流した。焦点になっていたのは、その主催者の行為の是非です。

「対話リスク」や「発言リスク」が示すのは、その女子学生がネット上に登場してくるにあたってのハードルの高さをさすもの。主催者たる者、批判をするにしても、そうしたハードルを考慮に入れるべきという批判があって、@sunaohさんというのは、その批判者なんです。

で。「愛」なんですけどね。

最初、高橋健太郎さんとのやりとりがあって、最後の私が「@sunaohさんは対話リスクが高そう」と揶揄したところで、@sunaohさん登場してきた。ツイッターでは「@」をつけるとリプライになって、相手に届くわけです。登場してきた当初は、私にも「愛」は多少はあったんです。「愛」というより「引け目」かな? 不躾なリプライを送ったわけだから。

が、早々とその「愛」は死んでしまった。彼の正体が見えた気がしたから。「ファシリテーターの役は、あなたに相応しくなかったか?」という問いへの応答で見えてしまったんですね。その後は、私もその時には意識していたわけではないけれど、斬り捌きモードに突入です(苦笑)。

どう見えたかが興味おありなら、ツイッター@gushouの、2012.04.06 02:47のツイートから目を通していただければ。ヒジョーに手厳しい批判になってます。

で、それはそれとして。

あと、「ほう」とか「おや」とかからは、すべて相手を茶化すような、挑発するような感じを受けます。

これは口癖だとは冒頭でも触れたとおりですが、相手はそんなことは知りませんからねぇ。気をつけます。というか、こういう口癖が出るときの私自身の「モード」は自覚してはいるんですが。一層自覚します。

「褒めるときは外さずど真ん中で、叱るときは二分外す」

「二分外す」は難しいなぁ。「その一口」に通じるものがあるような。

テキストのみのやりとりでは、とても難しいと思います。

はい。それは承知の上ですが、「機縁」(最近こればっかり)というのもありますから。自分を隠蔽・抑圧せず、抑制して発露させる。その先に何があるかはお楽しみ、ということで(^o^)

モヤモヤしてないなあ。

愚樵さん、読みましたよアレ。

まず私はコンポジウムに参加していないので、その主旨を外側からしか解釈できていないですし、また欠席裁判は好まないので一般論として書きますね。
途中までは対話に参加しながら、旗色が悪くなると「私は参加者の立場で主催者に物申している。私と同格の無名な匿名の参加者と真面目に話す意志はない。また私が話を振ったのではない。以上!」というのは【異常!】ですよね。しかも発話者自身が匿名(ハンドルネーム使用)であれば、まるっきり自己否定ですよ。

主催者から「匿名の参加者を相手に真面目に話す意志はない。また私が君に話を振ったのではない」と自分が言われたら、一体どうするつもりなのか、とも思います。果たして自身の論理と同一で自明であると、受け入れられるのでしょうか。
そしてこれは「序列の構図・権力構造」を設定して、その中のポジションを通してしか対話できないという告白ですよね。

参加者同士の対話を否定し匿名(ハンドルネーム使用)での発言を否定するなら、初期のミクシィのような紹介制SNSに実名でアカウントを取って、予め承認した友人とその友人にだけ公開した日記で対話するしかないでしょう。
そのコミュニティに主催者(権力者でも名望家でも何でもいいですが)が参入してくれるか否かは分かりませんけど。

コンポジウムに参加されるような種類の方々は、まず一般的な方々よりは対話というものに自覚的なはずでしょう。
それでもなお、かかる【システム】に依拠した対話だけを対話とし、それ以外を排除する思考に囚われている人(たち)が存在することは、結構深刻な問題じゃないでしょうか?

呆れてます

平行連晶さん、こんばんは。そうですか、お読みになっていただきましたか。

>まるっきり自己否定ですよ。

そう感じるのが普通ですよね? 何でわからないんだろ?

> コンポジウムに参加されるような種類の方々は、まず一般的な方々よりは対話というものに自覚的なはずでしょう。

そのはずなんですけどね。求めている「対話」の質が違うんですよ。
これは高橋健太郎さんとやり取りしたことなんですが、対話には同一性を求める【対話】と、差異性を求める〈対話〉とがあるんですね。「魂の脱植民地化」というなら〈対話〉でなければならないんだけど、彼ら批判者が求めるのは【対話】。で、内心への「踏み込み」はタブー。タブーったって、自然科学を議論するならそれでいいですが、人間を議論するのにそんなタブーが機能するわけがない。タブーって要するに自己欺瞞。踏み込んでいることに気がついてはいけない、といういみでのタブーなんです。

3/28の「コンポジウム」は、脱原発、福島というのがサブテーマでしたから、ああいた「村野瀬風」の連中は、それに引かれてきたのだろうと思います。で、「魂の脱植民地化」批判を始めたんです。まったく「村野瀬」と同じ雰囲気を感じています。

で。

もうご覧になったと思いますが、今朝、対話を拒否したはずの相手からリプライが来たんですよ。卑怯者、弱虫でコメントを終わっていいのか、これでは私の主張どうりだ、云々。「ノープロブレム」と返答しておきましたが、宮台なら「爆笑もの」というところでしょう。卑怯なマネをして卑怯者と言われてそれが可視化された主張どうりだ、なんて、もう、頭の配線が狂っているとしか思えない。とはいえ、論理回路は結構立派なものを持っている。「バカに刃物」ですよ。

あんまり遊んでばかりいるのも何なので、そろそろ決着をと思っているんですけど、今日は疲れました。また、明日です。


> それでもなお、かかる【システム】に依拠した対話だけを対話とし、それ以外を排除する思考に囚われている人(たち)が存在することは、結構深刻な問題じゃないでしょうか?

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