愚慫空論

「マイケルへの思い」を巡って

マイケルといえば。



『スリラー』が流行ったのは私が高校生の頃だと記憶している。

マイケル・ジャクソンは、とにかくダンスがすごい。そこに魅せられる人も多い。しかし、そうでない人もいる。私が最初に「スリラー・ダンス」を見たのは、クラスメートが踊ったもの。いちびってる(“いちびる”は関西弁)と思った。実際、踊っている当人はいちびっていたのだろうし、「スリラー・ダンス」はいちびるのにもってこいのものだった。それ以来、私の中のマイケル・ジャクソンのイメージは「いちびり(ふざけたお調子者)」だった。

レッテルは〈クオリティ〉の向上を阻害する。マイケルに貼り付けた私のレッテルもまさにそう。ダンスが凄いことは一目でわかるけれども、だからどうした? エンターテイナーなんだから、当たり前だろ? くらいの感じで、まったく届かなかった。

マイケルを巡る報道がレッテルをさらに強化していった。マイケル・ジャクソンは変人。エンターテイメントでカネを儲け、好き放題やっているいちびり。だから、マイケルが死んで、世界中でマイケル・ファンが悲しんでいるという報道に接したときにも、まあ、世の中にはいちびりが多いからね、と片付けてしまっていた。
安富歩
そうしたレッテルをマイケルに貼り付けた者は、私に限らず多いと思う。
私のこのレッテルを剥ぎ取ったのは、――またしても、この名前を出さなければならない――安富歩さんである。

私が安冨思想に出会った切っ掛けは、『水からの伝説』を巡るニセ科学論争があったからだった。ニセ科学批判vsニセ科学批判批判という対立構造が出来上がって、私は後者の側にいた。水に言葉をよい言葉をかけると綺麗な結晶が出来上がる。そんな非科学的なことはあり得ないと思いつつもそういうことに共感してしまう人間と、そのような共感は科学的な思考を妨げるのでケシカランという者たちとの感情的な対立。共感派vs論理派という構図になった。

『複雑さを生きる』そんな頃に、図書館で本を眺めていて目に留まったのが、これ。この本を読んで、共感を抑圧しようとするのが「ハラスメント」であることを知った。

この出会いは偶然であり、それを「切っ掛け」というのはニュアンスが異なると思われるかもしれない。客観的にいうならば、その通り。が、後付けではあっても、私はこの偶然に偶然以上の意味を見出している。その意味が「切っ掛け」と言わしめる。

この本との出会いで安富歩に関心をもった私は、その後、『生きるための経済学』ハラスメントは連鎖する』『経済学の船出』と読み進めていくことになった。そして安冨思想に惹かれていくことになる。

その安冨さんが、マイケル・ジャクソンは偉大な思想家だとして、その思想を紹介するブログを運営しておられることを知ったのは、最近だ。『経済学の船出』が出版された頃だったと記憶している。

 マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩*引越し中

の最初の記事、

 マイケル・ジャクソンは救世主である。

マイケル・ジャクソンは、ベートーベンに匹敵する音学家であり、リストに匹敵する演奏者であり、ニジンスキーに匹敵するダンサーであり、チャップリンに匹敵する映像作家であり、ゴッホに匹敵する画家であり、キング牧師に匹敵する非暴力活動家であり、マザー・テレサに匹敵する慈善活動家であり、スティーブ・ジョブズに匹敵する企業家であり、その上、最も優れた思想家でもあったのである。

その驚くべき能力と影響力の深さを考えたとき、マイケル・ジャクソンに匹敵する人物は一人しか思いつかない。モーハンダース・カラムチャンド・(マハートマ)・ガンディーである。


尊敬する安冨氏のいうことではあるけれども、なんと大袈裟な。記憶はもう定かではないけれども、この文章にそんな印象を抱いたと思う。ベートーヴェンに匹敵するというだけで許せなかったのかもしれない。なぜなら私にとってベートーヴェンは「心の師」だからである。あの「いちびり」がそれと匹敵? いくら安冨さんの言うことでも、あり得なかった。

レッテルというのは恐ろしいものだ。

音楽は西洋クラシックで来てしまった私だけれども、かつてはロックといった“低俗な”ポップミュージックを色眼鏡で眺めていたのは事実だけれども、それも機縁があって、外すことができたとは思っていた。なのに、マイケルはまだ私にとっては「いちびり」でしかなかった。

しかし、なんといっても安冨センセーの言である。無視はできないし、関心がある人の関心しているものに注目するのは私の流儀でもある。しかも、その思想を解説してくださっているのだ。勉強しない手はない。

ということで、一通り、『マイケル・ジャクソンの思想』を読んでみた。そうだったんだ、マイケルは「いちびり」なんかじゃない。哀しい心を抱いた「マハートマ(大きな魂)」だったんだ。そのことを私は(アタマで)理解した。

けれども、だからといってマイケルを楽しむことは始めなかった。やっぱり趣味じゃないや、と思っていたのである。



...長くなったが、ここまでが前振り。

安冨ブログにあるひとりの画家が紹介されている。『マイケル釈尊(1)』という記事だ。その記事から

 悟りのマイケルシリーズ

へリンクが貼られていて、作品が掲載されている。実は「マイケルへの思い」というのは、画家☆まみ☆さんの作品に結集した「思い」のこと。

先日、私はこの☆まみ☆さんとお会いする機会があった。3/28に安冨さん主催で「コンポジウム」という催しがあり、その後の懇親会に私はなぜか紛れ込んでいた。そこには☆まみ☆さんも居られたのである。

お会いしたといっても、ほとんどほとんどその場では☆まみ☆さんと会話を交わすことはなかった。会もそろそろお開きかという雰囲気になった頃、☆まみ☆さんが(やっと?)持参されていた作品をその場にお披露目をして、ネットで見るのとは違うそのクオリティに驚かされていたところへ、☆まみ☆さんがどこかで個展を開きたいという希望を口にされた。それを聞いた私は調子に乗って(この“調子に乗る”は断じて“いちびり”ではない)、「私が住んでいる富士吉田でなら、伝手がありますけど?」と声を掛けた。その後は、私には帰りのバスの時間もあって、詳しくは後日連絡を取り合いましょう、ということで別れたのだった。

私の念頭にあった伝手は、義父である。現在、陶芸倶楽部を主催していて20人あまりのメンバーと共に日々土いじりを楽しんでいる。この愚樵空論で一度紹介したこともある。

 これって、ガラパゴス。

この記事は倶楽部の作陶展を紹介したものなのだが、このときの会場を☆まみ☆の展覧会に使えるかもしれないと思ったわけだ。この会場は街のケーキ屋の中に設けられているギャラリーなのだが、そこの主人と義父とは昔からの馴染みであって、義父に頼めばなんとかなるだろうと目星はついていた。そこで早速、私は義父に経緯を話して、東京のマイケル画家が展覧会を開きたいという希望をもっているのだけれども、紹介を頼めるだろうか、ついては費用はどのくらいで、と相談してみた。義父はだいたいの費用の目安を教えてくれて、紹介の労をとってくれることを約束してくれた。それで私は☆まみ☆さんに連絡を取って、大方のところを伝えた。

☆まみ☆さんは、私からの情報を前向きに受け止めてくれたようだった。それはそうであろう。もともとその希望をもっていたのだから。ただ、場所が東京からは遠いこと。会を開くと、その間こちらの常駐するのがネックだという点を伝えてきた。

そこで私は、常駐は特に考える必要ないのではないか、と自分の考えを伝えた。期間中の作品の管理は基本的に店でやってくれることになっているし、私も近所なのでサポートできる。お任せいただければ、大丈夫。実際、義父の陶芸倶楽部野飼では、そのように運営している。そう伝えると、☆まみ☆さんは、さらに前向きになったようだった。

その感触を得た私は、さらに余計なこと、だが正直なことを伝えた。

☆まみ☆さんが常駐を考えておられたことからすぐに気がつかなければならなかったのですが、互いの展覧会のイメージに若干、差異があるのかもしれません。

こちらはなにせ田舎ですので、東京あたりのギャラリーのように、ひっきりなしに人が来るといったようなことはありません。田舎のケーキ屋の一角に設けられているギャラリーですし、オーナーの趣味という感じが強いです。ギャラリー自体、商売でやっているわけではないんです。料金もそういう価格でしょう? ほとんど光熱費です。店の宣伝になればという程度。

なので、おっと、これは先に言っておくべきでした、ギャラリーの運営もオーナーの個人的な趣味に左右されるところもあって、田舎のオヤジですから、ただ「マイケル・ジャクソン」だけでは響かないかもしれない (^_^;

それで、私の作戦としては、仲の良い義父を丸め込んで話をできるだけスムースにと思っているわけです。

が、その義父も、かなりハイカラなひとではありますが、やっぱりお爺ちゃんですから、マイケルそのものに趣味はない。・・・


すると、☆まみ☆さんから断りの返事があった。私が上の連絡を入れたのが3/30日早朝(樵は朝が早いのだ)。☆まみ☆さんからの連絡は同日深夜。時間からして、かなり迷ったのだろうと推察する。

その返事に書かれていた断りの主たる理由は経済的なものであった。しかし、実は私はそこは腑に落ちなかった。ここでは☆まみ☆さんを画家と紹介はしているが、はっきり申し上げれば無名の人だ。だからこそ私のような人間が出しゃばったりする。そういった人が個展を開こうというのである。ある程度の持ち出しは覚悟の上のはずだ。私もそこを推察するから、東京よりもずっと格安で出来るはずのところを紹介したつもりだったのである。

もっとも作品を美術品として厳重に輸送するとなると、費用は凄くかかる。が、それは仮に都内であっても同じだろう。だから、経費は実は理由ではない。そう私は思った。

☆まみ☆さんは、次のように書いてこられた。

展示期間いなくていいことも、ありがたいのですが。。
私の気持ちとしては、できれば毎日その場にいて、見てくださる方とも交流したいのです。。
なぜかというと、マイケルに対する誤解も解きたいのですよね。
だから、お話もしたいのです。。


マイケルに対する誤解を解きたい。そうか、そうだったんだ。そこのところは私にはすっぽり抜け落ちていた部分だ。

私はマイケルを理解したつもりになっていた。だから、マイケルの絵を描き続けている☆まみ☆さんの「マイケルへの思い」も理解したつもりになっていた。そして【善意】によって、マイケルを商品にしていた。その価値を値踏みして、それに見合った場所を提供すれば良いのだと考えていた。オーナーや義父にはその商品価値を宣伝すればいいのだと思っていた。

☆まみ☆さんは、私の【善意】からその気持ち悪さを感じ取っていたのだろう。そして、見せかけの【善意】に惑わされることなく、自身の感覚に従って、しっかりと私の【善意】を拒否したのである。

これには本当に驚かされた。同時に私は自信の欺瞞の【善意】を恥じた。なにもわかっていなかったのだ。
(その後の☆まみ☆さんの変身のタイトルは「ちょっとビックリ」としましたけど、本当は「本当にビックリ」でした。ただそう書くと、今度は☆まみ☆さんをビックリさせるだろうと思って...)

お返事、承りました。

驚きをもって読ませて頂きました。私が軽く考えていたことに気がつきました。
こちらこそ申し訳ありません。

誤解しないでくださいね。

私は今回の☆まみ☆さんの気持ちの揺れを非難するつもりはちっともないのです。
経済的な面で断念せざるを得ないこともあるのかもしれませんが、それで仕方がないと思ったわけでもありません。

>私の気持ちとしては、できれば毎日その場にいて、見てくださる方とも交流したいのです。。
>なぜかというと、マイケルに対する誤解も解きたいのですよね。
>だから、お話もしたいのです。。

この☆まみ☆さんのお気持ちに、私は全然思い至ることがありませんでした。

良い作品だから展示をすれば、好きな人は喜ぶだろう。
マイケルのファンは全国的にいるし、ネットで宣伝すれば客も集まるだろう。
私はそういって義父やオーナーを説得するつもりでいました。

これはつまり、私も義父もオーナーも、別にマイケルを好きでなくてもいいと考えていたわけです。
マイケルを商品と考えていたわけですね。

正直申し上げて、今の私は取り立ててマイケル・ジャクソンのことが好きではありません。
ただ、以前から注目していた安冨歩なる人物が持ち上げたので、少し興味を持っただけ。
少し興味を持って少し聞いたのですが、でもよくわからなかった。届いていないのです。

先日拝見した☆まみ☆さんの作品はいいと思いました。
マイケルを好きな人の絵だなと思いました。
でも、私には届いていない。
私以外の、マイケルが好きな人には届くだろうと思いました。

ところが☆まみ☆さんは届けたかったのですね。
マイケルを好きな人だけではなく、そうでない人にも。

>マイケルに対する誤解も解きたいのですよね。

私はここのところに驚いたのです。
そんなことは想像していませんでした。

私は☆まみ☆さんのやりとりを、ちっとも不愉快に思っていません。
結果はどうであれ、良かったと思いました。

私にはまだマイケル・ジャクソンはよくわかっていません。
でも、☆まみ☆さんの「マイケルへの思い」は届きました。
このことをきっかけに、私も「マイケルへの思い」を共有することができるようになる気がします。


私はまだマイケルをわかっていない。マイケルの〈クオリティ〉に届いていない。それはなにもわかっていないということだ。ベートーヴェンに心を動かされる私だが、マイケルにはそうではない。心の中では、ちっともマイケルがベートーヴェンに匹敵するとは思っていない。マイケルでは身体が動かないのである。

(余談になるが、私の「ベートーヴェンへの思い」はこちらのコメントから窺えると思うので、リンク。「第九」に関するくだり。)

上記のように返信を送った私に、☆まみ☆さんは次のようにメッセージを下さった。

マイケルは、人生の後半にあまりに過酷な出来事ばかりあり、
全くの純粋な思いで生きていただけなのに、世界中から誤解されました。。
幼少期から、普通の人間では考えられないほどの運命を生きています。。
なのに、なにひとつ心が汚れることなく、見事に生き抜いた人なんです。
ひとりで、いろんなことと戦ってきています。
私は、彼の作品に触れることで、心が元気になります。
彼の人生を知れば知るほど、彼の生き方に魅せられました。。

なので、少しでもマイケルがどのように生きていたか、
また今でも誤解されていることをひとりでも多くの人に改めてもらいたい。。
そんな気持ちで、絵を描いています。

もちろん、見た目の美しさに惹かれてはいますが、
それだけではなく、マイケルの心を描きたいのです。。
純粋な心が表れている、あの魅力的な瞳を描きたいのです。。

いくら描いても描ききれず。。
もう200枚近く描いてますが、おそらく死ぬまで描いていくと思ってます。。

自分でもクレイジーなこととわかっていても、やめられないのです。


なんとも「思い」が溢れている。〈クオリティ〉に届いているのだ。

〈クオリティ〉は、私が見事に失敗したとおり、アタマだけでは届かない。身体にまで響かなければならない。けれども、それはなかなかに難しいのである。安冨さんが唱える「魂の脱植民地化」の困難もここにあると思うし、また、だからこその「マイケル・ジャクソンの思想」なんだろう。

〈クオリティ〉はすぐには届かない。機縁が要るのである。それは後からそうであったわかるような性質のもの。内田樹氏が「贈与」と呼ぶものだ。

〈クオリティ〉がすぐに届かないのであれば、届けたい者は相手へ機縁となって届くまで贈与し続けなければいけない。これは難しいようだが、原理的には簡単なことでもある。自身が幸せであればいい。幸せになれば、自然にその幸せを届けたくなる。届け方は人それぞれだろう。☆まみ☆さんの場合は「マイケルの絵」だ。私の場合はこの文章がそうだ。

そう、私はいま幸せなのである。だからお裾分けをしたい。いや、見せびらかしたいのかな? まあ、どっちでもいいや。

私はまだマイケルの〈クオリティ〉を識らない。その点では幸せではない。しかし、そんなことは重要ではない。機縁が届いてさえいれば、後は自然の流れに沿ってゆけばいいだけのこと。

吉田秀和というクラシック音楽の評論家が次のように言っている(だったと思う)。

バッハを知らない者は幸せだ。それはこれからバッハを知る悦びを味わうことができるからだ。


バッハがマイケル・ジャクソンになっても同じだろう。また野口整体になっても同じだと思う。

というわけで、これから愚樵空論にもマイケル・ジャクソンの記事が載るようになるかもしれない。
  (^o^)



この『JAM』については、こちらを参照。

 Jam とは何をすることか(マイケル・ジャクソンの思想)

コメント

救世主。

マイケル・ジャクソンにまつわる発言に関して。
まだ90年代の半ば頃、彼が存命中に安富氏と同種の発言をしていたミュージシャンを知っています。
Tricky。

前後の文脈ははっきり覚えていないのですが、「子供たち(『世界』だったかも知れない)を救うために懸命に戦っているマイケルの姿を見ていると、涙が出てくる」、そんな発言をしていました。
この人も黒人で、ただしマイケルと異なり英国ブリストルでミュージシャンとして活動を始めた人です。
ミュージシャンor薬の売人・ギャングスタくらいしか選択肢の無い環境で育ったようです。幼い頃に母親は自殺。
生い立ちゆえに感じ取れる「クオリティ」があったのかも知れません。

http://www.youtube.com/watch?v=4SPGaMM_94M
恐らく愚樵さんの好みではないでしょうから強いて聴く必要はありませんけど、こんな曲を作っています。向かって右側で歌っているのは、英国を代表するロックミュージシャンの1人、PJハーヴェイ。

私は「☆まみ☆さん」のような形ではミュージシャンと対峙しないので、彼らの生き様・思想について他者に述べ伝えたいという想いはよく分かりません。分からないけれども、ある種のミュージシャンが音楽という創作物を超えて存在そのものによって受容される・或いは需要されることは理解できる。
ただ、そのように全存在として受容されることが、ミュージシャン本人にとって望ましいことなのか、それも私にはよく分かりません。
Coccoが無数のファンから深い想いの籠もった手紙を受け取り、「とても私には背負いきれない」と言ったのを覚えています。

ファンの中にどのような「霊」が形成されるかは、ミュージシャン本人にも統御することは不可能で、ファンが巨大な群になればなるほど一個人でしかない者がそれに向き合うのは困難になるだろうとも思います。
いや、これは「☆まみ☆さん」を批判しているのではないです。生前ペドフィリア・性的虐待者として理不尽に中傷され続けたマイケルに関する誤解を解きたいという思いはよく理解できます。それでも、よい作品を遺しさえすれば創り手の人生や人格は問わなくても良いんじゃないか? という思いがある。
私の「クオリティ」の限界なのかも知れませんが。

これだけ書くとただの傍観者のようなので存命中のマイケル・ジャクソンに対して私が感じていたことを書きます。
オスカー・ワイルドの『幸福な王子』の王子像みたいな人だなと思っていました。マイケル自身には明確に好感を持っていました。
他方、彼の音楽的な志向は私の持っているベクトルと外れていたので、自発的に聴くことはありませんでした。
マイケルの曲がというより、キャリアハイの時期にプロデュースを手がけていたクインシー・ジョーンズのプロダクションが全く好みに合わなかったと言うべきでしょう。
より厳密に言えば、全体に80年代のメジャーな音楽シーンのヒットチューンに共通する、ぎらぎらした派手なアレンジが苦手だったようです。

ありがとうございます。

愚樵さん、私のわがままな思いを真摯に受けとめてくださって、ありがとうございます。
とても、嬉しかったです。

マイケルへの私のこの思いは、とても個人的な感情です。。
もちろん興味のない方には、なんの意味もない思いです。
誤解を解きたいという思いは、出来ればいいな、と思っているだけです。。
マイケルの魂の美しさを私の絵で表現したい、出来れば誤解も解きたい、ただそれだけです。
マイケルを描いている時間だけが、私にとっての幸せなんです。。

平行連晶さんのコメント、言いたいことはわかります。
マイケルの作品は、音楽です。あくまでもそれについて鑑賞して、味わうことが大切と思っています。
でも、マイケルはあまりに誤解されていますから、その入り口で踵を返してしまう人もいるのも事実です。
だから、、私の絵などきっかけでいいのです。
そんな気持ちでもあります。
大それたことなど、出来ません。。
ただただ、私はあの魅力に取り憑かれたんです。。素晴らしい音楽とともに!
なので、惚れ抜いているマイケルをひたすら描いているだけなんです。
愛している男を馬鹿みたいに描いているクレイジーで馬鹿な女なんです。

この私の個人的思いは、万人に伝わるとも思っていません。

でも、愚樵さんには、届いたということが、ひたすら嬉しく感激しています。
感謝の思いで、いっぱいです。
ほんとに、ありがとうございました!

そうそう、これからマイケルを味わわれるんですね~!
いいな~!って、思いますね、ほんとに。。
また、感想ありましたら、是非お聞かせくださいね!
待っています☆

いかにも、という感じ。

・平行連晶さん、おはようございます。

いかにも平行連晶さんというコメントですね。ありがとうございます。

オスカー・ワイルドの『幸福な王子』の王子像みたいな人だなと思っていました。マイケル自身には明確に好感を持っていました。

そうなんですか。すごいな。私なんかよりずっと精密なイメージをもっておられたんだ。その「王子像」が正しいのかどうか、マイケルをよく識らない今の私には何とも言えませんが、☆まみ☆さんから受ける印象だと、いかにもですよね。

ただ、そのように全存在として受容されることが、ミュージシャン本人にとって望ましいことなのか、それも私にはよく分かりません

そういうふうに感性が向かうのが平行連晶さんなんですねぇ。私の勝手なイメージかもしれませんが。

敢えてオカルティックに話を振りますが、私はだからこそマイケルはあんなに早く逝ってしまったのではないかと想像するのです。生者に他人の思いをあまりにも背負わすのは酷です。だから死者になったのではないか。が、死者ならいくらでも背負うことが出来る。その意味で、マイケルは生前も大きな「役」を果したけれども、死後はさらに大きな「役」を果し続けている、ということもできる。

こんなことを想像するのも、ひとつは、本文でも紹介しましたけど、「マイケル釈尊」なんてイメージが☆まみ☆さんを通じて出てきているからなんです。「通じて出てきている」なんてのはひとつの解釈ですが。

もう少し話を膨らませましょう。たとえばイエスとマイケルとを並べてみる。イエスも生前大きな「役」を果しました。が、死後に果した「役」の方が遙かに大きい。2000年経った現在でも果し続けているんですからね。釈尊も同じですね。

パウロという存在は、死後のイエスの「役」を担った人物だといえるでしょう。それをマイケルに置き換えると、安冨さんや☆まみ☆さんということになる。エヴァンゲリストですね。これもひとつの解釈ですけれども、現象としては間違いなく同様のことが起きているとは言える。

よい作品を遺しさえすれば創り手の人生や人格は問わなくても良いんじゃないか? という思いがある

それはもしかしたら、生前のマイケルの〈クオリティ〉を保持されているからかもしれませんね。私には生前の〈クオリティ〉はありませんし、その点は☆まみ☆さんも安冨さんも同じじゃないかな?

機縁を繋ぐのは「立場」より「思い」

このコメントは、平行連晶さん宛てでも☆まみ☆さん宛てでもなく。

この文章で私が伝えたかったことのひとつは、機縁の伝わり方なんです。あくまで「愚樵の場合」ではあるのですが、機縁は「立場」でよりも「思い」で繋がる。

最初に延々と安冨さんとの「出会い」を書いたのは、☆まみ☆さんとの「出会い」の質の違いを浮き彫りにしたかったから。

内田樹氏の最近のブログ記事に『教育の奇跡』というのがありますね。
http://blog.tatsuru.com/2012/03/15_0854.php

ここで書かれていることをつづめていえば、教師は立場が大切、の一言にまとめられる。教師は今日としての立場がありさえすれば、教師であることができる。それが教育の奇跡というわけです。

で、教師という視点でマイケルを眺めてみると、安冨さんにとっても☆まみ☆さんにとっても、マイケルは教師なんですよね。でも、私はそうは思ってはいなかった。

その私をしてマイケルを教師たらしめたのは、社会的な地位としては最高に教師として地位におられる安冨さんではなくて、一個人としての☆まみ☆さんだったということなんです。

私は私淑といいましょうか、勝手に安冨さんを教師と仰いでいた(だったら「安冨さん」は拙いかな? まあ、いいや)。でも、そのことと、マイケルを教師とすることとは結びつかなかった。結びつけてもよかったはず何ですけどね。

それはたぶん、私が安冨さんを教師の「立場」として見ていたから。今は若干、違う視点も持っていますけど、でも、やっぱり教師だと思っている。その点、☆まみ☆さんは、始めら生徒だった。ここが大きいと思うわけです。

しかも、ちゃんと教えを守って私の【善意】の誘惑を振り切った。そこへ気がついてしまったなら、その「教え」の源に惹かれていくのは、自然というか、どうしようもないことだと思うんですよね。

一幕は終わったけど?

・☆まみ☆さん、おはようございます。

マイケルへの私のこの思いは、とても個人的な感情です。。

はい。でも、その個人的な感情こそが大切なんだということは、上のコメントで申し上げた通り。
なんとならば、私も「個人」だから。

それで、です。

3/28日の出会いからはじまって、メールのやりとり、そしてこのブログ記事ときた流れは、ここらで一段落かなという感じです。でも、私の感覚では、これは一幕目というところ。第二幕もあるんじゃないかな、と思っているんですが。

といって、二幕目がすぐに開くわけではないかもしれないし、やっぱり一幕で終わるのかもしれません。なにせ先のことはわからないですから。

が、今回、☆まみ☆さんが思い止まるきっかけになった私の【善意】が明らかになったのなら、そこをクリアする目処は立ったんじゃないかな、と。

そうすると後は、メールでもお伝えしたとおり、なるべく☆まみ☆さんが望むような方向に――これは今や私の望むことでもある――サポートできるかどうかということになってきます。おっと、もちろん、それは☆まみ☆さんが、まだ希望を継続してもっておられるかどうかが一番重要なことなんですけど。

作品を運ぶのは、私の車で良ければ務めさせていただきますし、こちらへの滞在も我が家を使っていただければいい。ただ...、☆まみ☆さん、犬は大丈夫かな? 我が家は犬と同居なんですよね。それに狭くてゴチャゴチャ (^_^;

――というようなわけで、私の方は話が死んだなんて全然思ってません。

色々とすみません。

>☆まみ☆さん

たぶん☆まみ☆さんがコメントされるでしょうから、先に私がこういう懐疑的なコメントを入れるのは良くないかなぁと思いながら、結局不躾な内容の文章を書いてしまいました。すみません。
本当は、マイケルについて私が色々書くべきではなかったんです。少なくとも私は彼のファンではないですから。
でも、生前から同じミュージシャンの中にマイケルの聖性を感じていた人がいたことを、書いておきたかった。
あとはほとんど付けたりです。

精神から平衡を奪うものは「失敗」ではない、「成功」である、という言葉があります。
マイケルは世界中のファンに様々な善い物を贈り続けた代わりに、あまりにも自分を削り過ぎたのだと思います。ついには自分の命まで。
だからといってファンが責められたり負い目を感じる謂れはありませんよね。

>愚樵さん

私が自分の中にマイケルの像を形成した切っ掛けになったのが『ムーンウォーカー』という映画です。
これは彼が原案を練り、製作を司り、主演した作品です。
観たのはもう20年以上前の話ですから今再見したら印象は変わるかも知れません。でもこれをご覧になったらマイケルという人の考えていたこと・願い・自らに課した使命といったものが何となくつかめるかも知れません。
決して映画としての完成度は高いわけではありませんが、何かの機会があったらご覧ください。
とても優しい人だったんだと思います。

『THIS IS IT』も良いんですけど、こちらはシンガー/ダンサー/コレオグラファー/舞台演出家としてのマイケルの鬼才ぶり・プロフェッショナリズムに特化しているんで、彼の小児的な夢や希望・イノセンスみたいなものはあまり出ていない気がします。

私は、私の好きなミュージシャンにはのんびり長生きして、悪態でもつきながら気が向いた時に客の注文なんかまるっきり斟酌しない作品を作って欲しいんです。アルバムを録音して、売って、そこそこ食っていける程度の金を稼いでね。神や殉教者や、誰かの重荷を背負う人になって欲しいとは思わない。
だらしのない人間のままでいい。
あまり自覚してなかったんですが、けっこう甘っちょろい性格みたいです。

平行連晶さんの〈クオリティ〉

平行連晶さん、おはようございます。

平行連晶さんおすすめの『『ムーンウォーカー』、観てみますね。

それにしても。

なんだかだんだんと平行連晶さんの〈クオリティ〉が明らかになっているようで面白いなあ。こうやってみてみると、平行連晶さんの〈クオリティ〉は、「平行連晶」という言葉のイメージとはちょっと違った感じになってきましたね。

たいへんに面白い。

だらしのない人間のままでいい。

ちょっと思ったんですが、平行連晶さんはご自身は「だらしのない人間」なんですか?

わかりました。

>平行連晶さん

お気持ち、わかりました。
いつマイケルと出会うかも、人それぞれですよね。
それぞれが、それぞれのやり方で関わればいいだけの話です。

マイケル自身を貴方が感じたということの感想と受け止めています。
ファンでなくても、あれだけの存在ですから、きっと同時代に生きた人間にとっては、何らかの影響を与えられていると思います。

謝っていただかなくても、大丈夫ですよ。
誠実さに感謝いたします。ありがとうございました。

>愚樵さんへ

温かい申し出に、また気持ちがほっこりしています。
いつか、そちらで個展ができる日がくるかもしれませんね。
そのときは、ほんとによろしくお願い致しますね。
いいところと、聞いていますので。。

どうなんでしょうか。

>ご自身は「だらしのない人間」なんですか?

自分の性格は、よく分からないですねえ。
そもそも性格って、自分でこうと定めるものでなくて他人がそのように評価するものだと思っています。
キルケゴールは、印象や人物像が接した相手によってまるで異なる人だったそうですね。
ゆえに彼の肖像画は非常に端正なもの(一般に知られている方)もあれば、酷く醜く描かれているものもあるそうです。
そこで、例えばキルケゴール本人が自分の性格や人物像はこういうもので、あれは正しいこれは間違い、と言ったところであまり意味はないという気がします。
平行連晶のコメントを読んで、「この人はだらしなさそうだな」「神経質そうだな」「メンドクサイ人だな」と感じるなら、それがその人にとっての平行連晶なんでしょうし、それでいいです。他者が形成する平行連晶(これを私自身と見立てられても可)の「霊」がどのようなものであっても構わないし、責任を負うことは出来ないし、コントロール出来るとも思いません。

やっていないことをやった、言っていないことを言った、逆に言ったことを言ってないなどという事実誤認・誤報を元に人物像を作られるのは困りますが、ネットの場合良いところは、言ったことが大抵コメントとして残るところです。

ところで、「だらしのない人間のままでいい」というのはミュージシャンに対しての要望であり、現実の私自身がどうあるかとはまったく関連がないんです。
「けっこう甘っちょろい性格みたいです」というのはコメントを書いていてふと感じたことで、自分自身意想外だったので、そう書きました。思いついたことを書き連ねる過程で自分自身の気が付かなかった面を発見するということは、誰しもあることではないでしょうか。

無題です。

>☆まみ☆さん

どうも、ありがとう。

マイケルの『Invincible』、先ほどamazonに注文しました。
ロドニー・ジャーキンスetcが参加しているのですね。後期のマイケルの作品をほとんど知らないので、この機会にちゃんと聴いてみようと思います。

私からのお礼といっては何ですが、気が向いたら聴いてみてください。
音楽性はまったく異なるものの、私はこの人にマイケルと似たものを感じています。
感想のコメントなどは特に不要です。
http://www.youtube.com/watch?v=R6zCmCIsoAE

☆まみ☆さん

(^o^)v 

お心のままに。

おや、平行連晶さんになった

・平行連晶さん、おはようございます。

そもそも性格って、自分でこうと定めるものでなくて他人がそのように評価するものだと思っています。

身も蓋もない。いや、その通りなんですけどね。

ところで、「だらしのない人間のままでいい」というのはミュージシャンに対しての要望であり、現実の私自身がどうあるかとはまったく関連がないんです。

なるほど、それは私の誤読だったようです。確かに、

私の好きなミュージシャンにはのんびり長生きして、

ですね。私は太字のところは読み飛ばしてしまいまして、ミュージシャンという衣装を纏った生身の人間に対して「のんびり長生きして」と言っているのかと思ったんです。だもので、生身の平行連晶さんはご自分の生身をどう感じておられるのかがちょっと気になって。

思いついたことを書き連ねる過程で自分自身の気が付かなかった面を発見するということは、誰しもあることではないでしょうか。

はい。そして、気づきを他人から強要されるのは気持ち悪いものですよね。(^_^;

妄言。

Charles Wesley Cooper III(自殺)
Will Sinnott(溺死)
Peter Christopherson(死因非公開)
John Balance(転落死)
Dwayne R. Goettel(ドラッグOD)
Ian Loveday(肺炎・併発症)
Frank Tovey(心臓発作)

私が好きだったミュージシャン(サウンドクリエイター)たちです。
皆、境界線の向こう側に行ってしまいました。皆、老いる前に死んでしまいました。
彼らは私に待つことの愉しみを教えてくれましたが、もう彼等の新しい作品を待つことも出来ません。

それが、西洋古典音楽を愛好する人とポップミュージックを好む者の差、かも知れません。

愚樵さんは「機縁」という言葉を使われましたね。
私にとっては「クリエイター」がいま生きている、ということはとてもとても大事なことで、個々の作品はそれを通して彼等のいま現にある生の一部に触れることにより、私自身が生きていることを実感する役割を果たしています。
クリエイターと私が同じ時間・空間に存在しているという実感。
作品が媒質となる縁です。
ですから音楽は文字通りの「メディア(メディウム)」です。

音楽は停止させた瞬間に消滅してしまいますが、再生されている間は圧倒的な実在感を持っています。その確たる実在感とクリエイターの生が私の肉体を介してリンクしている。
音楽が流れている時間は、一種の霊的な交感の場が聴き手である私の周りに存在している。

ですから死者の音楽は、特に私が作品に触れるようになった後に死んだ者の音楽は、違うんです。
あくまで「遺産」です。どんなに素晴らしく美しい音楽でも。
少なくとも今の私は死者と交感するという感覚を備えていない。


「生身の~」という話については、私は自分の肉体に畏敬の念を抱いています。
60兆の細胞が協同し私という個を保たせている事実に対し、謙虚な気持ちになる。
この肉体がなければ、私にとっては音楽も存在しないわけですから。
余談ですけど、私が死刑を否定するようになったのは、肉体に対しこういった感覚を持つようになってからです。

お言葉を返しましょう

平行連晶さん。

仰りたいところは理解できると思います。たぶん。

>私が好きだったミュージシャン(サウンドクリエイター)たちです。

すごく偏ったリストだなぁ。あ、“偏った”には何の批判もありませんからね。ただ正直な印象。
『黒い時計の旅」』からすれば、妙に納得ですが。

>それが、西洋古典音楽を愛好する人とポップミュージックを好む者の差、かも知れません。

これは西洋古典音楽を識らない者の言だな。
クラシックだって、新しい音楽は日々奏でられています。ポップス界でも古典をカバーすることがよく行なわれるようになってきましたが、クラシックはカバーがデフォルトというだけの話。カバーだって新しい音楽。古典音楽愛好家は、誰が何をどのように演奏するかを期待している。作曲家が死者なのはデフォですが、演奏家が過去の人になったときの哀悼は、ポップミュージシャンへのそれと何ら変わらないですよ。

>あくまで「遺産」です。どんなに素晴らしく美しい音楽でも。

この感覚は明らかに私と異なりますが、それはクラシックとポップの差というより、平行連晶さんの個性のように私には思えます。

遺産は生かしてこその遺産なんです。遺産が生きているならば、その元が死者であろうとなかろうと、生きている。精神を引き継ぐ者がいれば生きているんです。これが歴史や伝統というものの〈クオリティ〉ですね。

>「生身の~」という話については、私は自分の肉体に畏敬の念を抱いています。

なるほどねぇ。私は平行連晶さんにはとても静的な感じを受けるんだけども、同時に、それが表面的なものとも感じているんですよね。その感触とこの言は、一致します。私のように身体を動かす者よりも、むしろ強烈に感じておられるかもしれない。

その強烈さがかえって歴史・伝統への〈クオリティ〉へ向かうのことを阻んでいるのかもしれませんね。

すみません。これは当てずっぽうです。お気を悪くしたらゴメンナサイ。

ありがとうございます。

>お気を悪くしたらゴメンナサイ

いやいや。
本来こういう妄言(自分語り)を長々人様のブログに書くこと自体、けっこう負い目を感じるんですよ。
他にも幾つかの個人ブログ(テーマのない雑記系)にちょこちょこコメントしますが、ここで書いているような内容は絶対に書けませんからね。たぶん頭のおかしい人だと思われて終わりでしょう。

こうしてやり取りする中で「発見」があるので、それが楽しみでコメントしている面が多々あります。
しかし私にとっての一方的な利得であって愚樵さんにはただの大儀なお付き合いかも知れません。見極めが難しい。
引き際や潮目を読むセンスはあるつもりなんですが、そう思っているのは自分だけ、な気もします。

>これは西洋古典音楽を識らない者の言だな。

仰る通りです。
私の場合中高6年間器楽をやっていたのでスタートラインは広義の西洋古典音楽なんですが(ブラスでも一応ホルストやシベリウスくらいは演奏しますから)、自分でやっていてもクラシックを「識る」ことは出来ませんでした。
ひどく「偏って」いるので、ひと頃はその極端な偏りを補正しようと民俗音楽やクラシックのCDに手を広げたりもしましたが、どれも結局「勉強」にしかならなかったですね。
もちろん収穫もありました。以前書いたような一部の現代音楽の他に、古楽、中欧の民謡など。
ちなみに、hiphopを「識る」ためには10年かかりました。分かりが遅いんです。頭がよくない。

>とても静的な感じを受ける

肉体というものは止まっていても動的なものですよね。私の静的/動的という言葉の捉え方がずれていますか?
私の実社会での周囲の印象は「騒がしい・騒々しい」というものらしいです。仕事関係の人たちの中では、一時期「平行連晶は売れない芸人らしい」という噂が立っていたと最近聞かされました。
つくづく、他者が持つ「私の霊」はコントロール不能だと知りましたよ。どうぞ勝手にして下さいという感じです。

どういたしまして。こちらこそ。

平行連晶さん

>本来こういう妄言(自分語り)を

まあ、それは一般的な感覚ではないんですか。ブログって「家」という感じがしますからね。

>たぶん頭のおかしい人だと思われて終わりでしょう。

ははは。でも、そうでしょうねぇ。このあたりは次記事の「感情的」の話と繋がると思うのですが、どうしても異質なものを認めたがらないですよね。なぜなんだろう? 変わっているから発見があって面白いのに。
結局、ブログ運営の目的も自己承認ということなのかな? いや、私にだって確かにそれはあるんですけどね。

>しかし私にとっての一方的な利得であって

私だって十分利得を受け取っていますよ。なにせ平行連晶さんは、この私から見ても「変人」ですから。
互いに変人同士ではあるが、ベクトルが全然異なっていますからね。面白いですよ。
平行連晶さんも独自にブログをやれば...って、以前も勧めましたっけ?

>引き際や潮目を読むセンスはあるつもり

ここは難しいですね。

とても静的な感じを受ける

これは文章のから受けるイメージですね。太刀筋云々という話がありましたが、それでいうと「正宗」という感じ。私はさしずめ「村正」かな? 妖刀。笑。
で、そのイメージと自身の肉体について語られたイメージがリンクしたというか。

>私の静的/動的という言葉の捉え方がずれていますか?

いえ、そうではなくて、振幅が大きいというイメージです。静/動のツートーンがはっきりしている感じ。

>私の実社会での周囲の印象は「騒がしい・騒々しい」というものらしいです。

へえぇ、それは意外。けど、もしかしたら、キャラを演じているのかしらん、とも思ったり。

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