愚慫空論

『回想の野口晴哉』

ここのところ、少し更新が滞っている。
前回のアップは23日で今日は28日。昨年後半以来の好調からすると、少し間が空いた感じ。

息切れしたわけではない。ネタはまだまだある。

理由は時間がないことだが、その内実には2つあって、ひとつは身体的理由。作業の内容がちょうど変わって「地拵え」というものになった。この作業は身体的に少しきつくて――いや、きついのは山梨の場合。そのあたりはまた改めて書くとしよう――、まだ身体が慣れていない。それで、パソコンに向かう時間が少なくなっている。これがひとつ。

もうひとつは精神的理由。少し不安定になっている。といっても、イライラしているわけでは全然ない。いつもより上機嫌なくらい。ただ、変わり目にさしかかっている予感がして落ち着かないのである。

実はこの記事、書くべきかどうか、書いていいものかどうか、迷っている。とりあえず書いているけど、公開しないかもしれない。公開してしまうと予感が外れるような気がしないでもないから。外れた方がいい、という気持ちもある。そのあたりが微妙なところで、そんな微妙さの中に今、居る。

そんななかで『回想の野口晴哉』を読んでいる。


まだ読み終えていない。読みながら、なぜか“困った”と感じている。

野口整体の創始者、野口晴哉の超人ぶりはこれまでもアキラさんから情報を仕入れていていた。それでも本書を読んでみると驚かされてしまう。

  我あり、我は宇宙の中心なり。我にいのち宿る。
 いのちは無始より来たりて無終に至る。
 我を通じて無限に広がり、我を貫いて無窮に繋がる。
 いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。
  我動けば宇宙動き、宇宙動けば亦我動く。
 我と宇宙は渾一不二。一体にして一心なり。
 円融無礙にして已に生死を離る。況んや老病をや。
  我今、いのちを得て悠久無限の心境に安住す。
 行往坐臥、狂うこともなく冒さるることなし。
 この心、金剛不壊にして永遠に破るることなし。
                                ウーム、大丈夫。


これが十代の頃の詩だそうだ。驚くよりも呆れるが、少し捻くれた見方をしてみれば、現代アニメ的(?)想像力に近いと言えなくもないかもしれない。だが、本当にそうした境地に立ち、その境地から具体的な技法を編み出していったとするならば? 一般人にとっては、信じるか信じないかの世界に入りこんでしまうし、実際、そういった取り扱いを受けているようだ。

この本には、一般人にはにわかには信じがたいことがいくつも書かれている。

私は元来、「信じがたいこと」も十分にありえると思って捉える人間なので、信じがたいことも事実だと思っている。目の前に起こったことでもそれが自分の常識から著しく外れていると信じないのが人間というもので、その事実は嫌というほど確認してきたから、「信じがたい」は単に信じたくないだけくらいにしか思っていない。

例えばだ。麻原彰晃なる人物は宙に浮くことができたと伝えられている。それは周到に準備されたマジックだったのかもしれない。が、事実であった可能性はあると思っている。それを信じた人間を信じたいから。かの人物の周りに集まった者たちは、そろいも揃って鈍いヤツラだったとは考え難いから。むしろ逆だったからこそ、困った問題だったわけだ。

ただ、いくら麻原彰晃の空中浮遊が事実であったとしても、私は何ら困ることはない。そんなことを自分と繋げたりはしないから。ただ客観的事実として受け止めて、それで終わり。科学的な解明にも興味はない。

ところが野口晴哉の場合は、なぜか繋がってしまった。だから困っている。

思い返してみれば、いままで私は無意識のうちに、繋がらないように防御線を張っていたように思う。アキラさんから情報を仕入れても、“すごい人っているよね”という「一般的理解」で済ましていた。こうした理解の仕方は(私の理解では)一種のハラスメントだ。「一般的理解」へと落とし込むことで、それ以上に「クオリティ」が上がっていくことに歯止めを掛けていた。

それはなぜかというと、“取り憑かれる”からである。私はそうした「クオリティ」を〈霊〉というふうに呼んでいるわけだけれども、この場合、〈霊〉の呼称はわれながらピッタリだと思う。“霊に取り付かれる”は、慣用句になっている。

慣用的な(?)理解でいうならば、霊に取り付かれるのは隙があったときだ。私は先週、アキラさんのところへ行って、野口整体のほんの一端に触れた。が、実はそこでも防御線は張っていて、失礼にもアキラさんに向かって、“特に野口整体を勉強する気はないんだ”くらいのことを言い放ってきた。いや、それはそれで悪いことをしたとは思っていない。実際問題として、時間あるいは経済的リソースは有限なのである。私が取り憑かれてしまうと迷惑を被る者も居る。

だから、なぜ、このタイミングでこの本を読んでしまったのかと思う。別のタイミングで読んだのなら、防御線を突破されることもなかったろうに。アキラさんに会ってしまったことで、ワキが甘くなっていた。困ったというのは、取り憑かれたということだ。

ただ、そうした予感は、以前から感じていなかったわけでもない。

取り憑かれたものをそのままにしておくことはできない。

今の私の「在り方」を維持しようと思うなら、取る手段は「除霊」になる。そうでないなら〈霊〉の導くところへ従うと選択だ。野口晴哉を【悪霊】と思うのなら迷うことなく除霊だが、野口晴哉はどうみても高級霊のようである。それもとびきりの。だからなおのこと、困っている。「何か」に誘われているようにも思う。

それと実はもうひとつ、これは全く予期していなかったことだけれども、別の「誘い」らしきものが私のところへやって来ている。それを確かめに、今日、東京へ出かけてくる。山梨に来てから2度目の東京。

東京は人の数が木の数よりも圧倒的に多いから、嫌いなんだけど。

ええい、ままよと公開だ。笑。

【追記】 昨日、東京へ向かう高速バスのなかで読了。後半、輪を掛けて素晴らしかった。オッサンがバスのなかで泣いてしまった。周囲は不気味だったろう。苦笑。

完敗である。「アキラさんにあってワキが甘くなった」いたなんてのは、単なるエクスキューズに過ぎなかった。

コメント

>我と宇宙は渾一不二。一体にして一心なり。円融無礙にして已に生死を離る。
これを野口という人だけのものと思うから、迷いが生じるのではないでしょうか?
これがこの世の人間総ての本来の姿であると認識し、自信を持って自分の人生を生きたら良いのではないかと、私は思うのですが?
http://dendrodium.blog15.fc2.com/blog-entry-1179.html

大丈夫ですよ。
取り憑かれて体感的な理解を深めていって、〈霊〉の「クオリティ」が上がっても、相変わらず“すごい人っているよね”という他人事のような「理解」は変わりませんから。 (^o^)
それぐらいかけ離れた人だと思います。

最近、また最初期の高弟の方が亡くなられました。
野口整体は、「終わりの始まり」か、あるいは「新しい時期の始まり」に入ってきていると僕は感じています。

問題は技術なのです

・和久希世さん、おはようございます。

野口という人だけのもの? そんなことは思っていません。私もそのように思っています。が、そう言い切れるだけの「何か」が足りないのです。それを自覚しています。

だから技術が問題になる。もしかしたら技術では解決できないことなのかもしれませんが、たとえそうであったとしても、追求はやめられませんねぇ。

自分の思っている人生なんて、その後になってみなければわかりません。少なくとも私は。

垣間見てみたい

・アキラさん、こんにちは。

ははは。そりゃそうでしょう。そこは「安心」してます。そういう「困った」ではないんですよ。もっと“下世話”なレベルです。

でも、ほんと、垣間見たくなってしまいましたね。野口晴哉氏の見ていたものを。


野口整体は、「終わりの始まり」か、あるいは「新しい時期の始まり」に入ってきていると僕は感じています。

私は後者の方へ賭けます。といいますか、今の疲弊した日本の社会を立て直す方法論のひとつとして、野口整体は有効だろうと。アキラさんはそう考えておられるのだろうし、私もなんとなくそう思っていましたが、それがより確信に近くなってきました。私自身の思索とも結びつきての話ですが。

ただ、技法・技術はなんら変わりはなくても、装いはもう少し現代風に整える必要はあるのかもしれません。

ところで。読了した本書、昨日お会いした安冨さんに押しつけてきました。タイトルを見て、「この方は尊敬している」といわれ、自分で買うからと遠慮されましたが、半ば強引に。笑。

整体

愚樵さん

こんばんは。

昨年の秋頃、整体にご縁いただきまして、東京の中野で毎週水曜日に開催されている真矢修弘さんの『手の会』に何度か足を運ばせていただきました。年末の繁忙期を境にしばらく顔を出せていないので、愚樵さんの記事を契機の一つにして、またお邪魔させていただこうと思います。

整体で愉気を習い、自分自身の気の存在を初めて認識することができました。この体験は、素直に納得できました。

また、目を瞑って、相手の気を受けるということをやりましたが、瞑っている間に急に強い気が伝わってきたと思ったら真矢先生があてていて、人それぞれ、また訓練次第ではそうした変化もあるものなのだということも感じることができました。

これより少し前、だいぶ前にご紹介した合気の関係から、朴歯の高下駄を購入して履いていたところ、野口晴哉も朴歯の下駄を愛用していたということを教えていただき(まさにその本ですね)、「このタイミングでなぁ」と思ったものです。

整体が日本の社会を立て直す方法論のひとつとして有効だろうということに同意です。

愚樵さん、愚樵さんのところからは遠いですが、気が向かれましたら、そのうち合気もご一緒できたら嬉しいです。場所は埼玉県の北本市です。

Re: 整体

しわさん、おはようございます。

そうですか、しわさんも整体ですか。「ヲシテ」の人はやっぱり同じ傾向を持っているんですね (^o^)

「このタイミングでなぁ」

そう「タイミング」には意味があります。というより、意味づけてくことが大切。

気が向かれましたら、そのうち合気もご一緒できたら嬉しいです。

はい、気に留めておきます。「留めておく」とそのうち「タイミング」はやって来ます。来なければ縁はなかったということですが、大丈夫、きっとあると思います。

僕も「新しい時期の始まり」の方だといいなぁと思っています。

なんと、安冨氏に会われたのですね。
いただいた『今を生きる親鸞』、実はまだ半分くらいしか読み進んでないのですが (^_^;)、安冨氏の世界観は僕のものとそっくりのように感じます。
「波乗り方式」もそうですし、「いのちの作動」ありきもそうですし。
あとは「超越系・内在系」(また出ました)的感覚が加われば一緒じゃん、みたいな。 (^o^)

愚樵さんの今後も楽しみです♪

「コンポジウム」というやつで

・アキラさん、おはようございます。

28日に東大で催された「コンポジウム」(意味は「コンサート」+「シンポジウム」)の後の懇親会になぜか紛れ込むことが出来まして。そこへ向かう道中、この本の残りを読んでいて、それを押しつけてきたという次第。

実はその誘いが舞い込んだのは、アキラさんのところへ伺った日だったんですよ。帰ってくるとツイッターにDMが入っていた。安冨さんと同じテーマで研究されている阪大の深尾先生から。当日は司会をされていた。それまでコンポジウムの開催は知っていましたけど、行くつもりはなかった。でも、ああ、これはタイミングだな、と思って。

基本は学者の集まりでしたが、私のような変なのも幾人かいました。

安冨氏の世界観は僕のものとそっくりのように感じます

でしょう。そうだと思っていたんです。

あとは「超越系・内在系」

そう、ここが私にはまだよくわからない。言葉の使い方の差異かなとも思うんですが、どうもね、ここの感覚は宮台系のような気がして。

私の思うところでは、宮台系と安冨系はとは、世界観が根本的に異なるんです。宮台は判断的、安冨は蠱惑的です。

アキラさんは、ご自身で仰っていますが蠱惑的ですよね。そこへどのように判断的なところが入り込んでいるのかがよくわからない。まあ、判断的というのが誤解なのかもしれませんが。

「判断的」な言葉(象徴)のネットワークが形成する「世界」

宮台さんは、安冨さんの言う まさに「東大的な人」、「おかしさが表面に出ないようにするという技術に非常に長けている人(たち)」ですよね。
そして、愚樵さんが仰るように、彼の駆使する「判断的」な言葉は「情熱」を宿している。
と、僕も思います。

「判断的」な言葉(象徴)のネットワークが形成する「世界」についての、付き合い方のようなものが、宮台さんと安冨さんでは違うのだろうと僕は感じています。
安冨さんは「欺瞞」として退ける?付き合い方。
宮台さんは「ゲーム」として楽しむ付き合い方。
僕にはそんなふうに見えます。

僕は、『「判断的」な言葉(象徴)のネットワークが形成する「世界」』については必ず矛盾(ひずみ)が起こる、それが当たり前だと思っているので、その前提でそこに関わります。
ですから、見事に整合性がとれていると、必ず疑います。
どこに矛盾(ひずみ)が隠蔽されているか、と。
そこに、ラカン(&ジジェク)の言う〈対象a〉に関わってくるんだと思っています。
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/51502244.html

そういった意味で、「判断的」な世界があると、便利で好きです。 (^o^)
その「ひずみ」にこちらが気がつけば、そこにこそ、その人が「観える」わけですから。

あるいは、「ひずみ」なきところに、相手が「ひずみあり」と見る場合もありますよね。
(こちらの方が、本来の〈対象a〉なんだろうと思いますが)
そういうところで初めて、その人が、そして自分自身が観えてくるので、僕はとてもいいと思うんですよ。

僕自身が心動かされるのは、やはり「情」のところで です。
加えて、ベタに「情」だけだと暑っ苦しく感じるようなので (^_^;)、「理」の中に潜む「情」みたいなところがツボなのかもしれません。
だから、宮台さんを敬愛するのかもしれませんね。
小出先生などにも、やはり「理」の中に潜む「情」みたいなものを感じます。

〈世界〉の皺

・アキラさん

僕は、『「判断的」な言葉(象徴)のネットワークが形成する「世界」』については必ず矛盾(ひずみ)が起こる、それが当たり前だと思っているので、その前提でそこに関わります。

はい。これは私もそうだし、宮台・安冨両氏も同じだろうと推察します。宮台氏の場合は、確か『サイファ!』でそのようなことを述べておられたと記憶しています。その矛盾を「皺」と表現していて、「知」とはその「皺」をキレイに伸ばして一点に寄せ集まる行為だ、と規定していた。一点に寄せ集められた「皺」は「端的なもの」であり、宮台氏の「情熱」は「皺」をキレイに伸ばすことに傾けられている。そう私は見ているんです。

片や安冨さんのほうは、その「皺」をキレイに伸ばす行為を欺瞞と見る。人間ひとり一人が「皺」であると安冨さんは観ているのではないかと思うわけです。「方便論的個人主義」というのは、ひとり一人の「皺」に合わせて、いわばオーダーメイドで「知」を構築せよ、といっているように思います。

で、野口先生の体癖論も同じようなところに立っているのではないかと思うんです。身体を視ることで「知」という服を合わせるための技法。その伝でいうと宮台流はレディメイド、いや、プレタポルテになりますね。

私はまだラカン(ジジェク?)のことがよくわかっていないのですが、その上で敢えて言うと、〈対象a〉というのは、異なる身体を持つ個人が既成のプレタポルテを着たときに出来る「皺」ではないかと思うのですね。その「皺」をみればその人がわかる。

けれど、この見方はやはり「知」はプレタポルテであるということが前提ではないのかと思うのですね。そうでないと便利という話にはなっていかない。

あるいは、「ひずみ」なきところに、相手が「ひずみあり」と見る場合もありますよね。

こちらの方が本来の〈対象a〉だとするならば、辻褄も合うように思うのですが...?

加えて、ベタに「情」だけだと暑っ苦しく感じるようなので (^_^;)、

まあ、これも、服でいうならば、あまり身体にピッタリのは動きにくくてダメだということではないのでしょうか? 腕に良い職人ならば、それぞれの身体の動きの癖を見越して、動いたときにピッタリ来るように服を仕立てるでしょう。それは明らかに「知」の作用ですよね。「方便論的個人主義」というのは、そういうことなのではないかと思うのですが。そして野口整体の「体癖論」も同じところを目指している? まあ、私の楽観的予測ですが。

「共有」というところを考えると、「方便論的個人主義」的なものだとやっぱり難しいだろうな、と僕は思うんです。
独りよがりになりがちだろうし、一人で酔っ払うことにも陥りやすいだろうし。
何らかの宗教の信者によくある光景として僕には見えてしまって、そういうのはキライなんですよね。 (^_^;)
もうちょっと言うと、僕には「欺瞞」も「方便」も似たようなもんだろう、という意識があります。

また「方便論的個人主義」的なものになると、わたしはわたし、あなたはあなた、という感じが強くなって、相手のことを相手の立ち位置に立つようにして「理解する」動機が薄らぐように僕は感じます。

僕は『「知」はプレタポルテである』で充分だと思ってるんです。
その「規矩」があるからこそ、「シワ」が「シワ」として「シワ」らしく在れる。
どうせ、プレタポルテな「知」が、これから先 なくなるわけでもないですし。

それぞれの身体の動きの癖を見越して、動いたときにピッタリ来るように「知」を構築するためには、ありとあらゆる「知」を使いこなせなければなりません。
職人として、その『ありとあらゆる「知」』を獲得する作業は、ではどうしましょう? (^_^;)
やはり例外的存在は必要、ということでしょうか。

野口整体の「体癖論」も、あり得ないプレタポルテだと僕は思っています。
「三種の人」なんて人は存在しないからです。 (^o^)
各体癖の解説は、「実際にはあり得ない人」の解説になっている、と言えます。

だけれども、それがあるからこそ、実際の人が分かってくるわけです。
つまり、プレタポルテがあるからこそ、実際の「シワ」がどのような「シワ」かが分かってくる。
そんな感じを、体癖論からは受けるんですよね。
ネット上のおそらくほぼ全ての体癖関連の言説が間違っているのは、ここのところを腑に落ちる恰好で理解していないからだと思います。
そこが分かってる人は、ネット上などで体癖論議をしない。 (^o^)
いや、出来ませんから。

ちょっとイメージがずれているような?

・アキラさん、おはようございます。

全体的に「プレタポルテ」のイメージが私とはズレている感じを受けました。

また「方便論的個人主義」的なものになると、わたしはわたし、あなたはあなた、という感じが強くなって、

「方便論的個人主義」は「オーダーメイド」ですが、オーダーメイドの服を作る職人は、とうぜん高度なプレタポルテも作ることができるはずなんです。となると、その職人がオーダーメイド志向なのかプレタポルテ志向なのかはその職人の美学とでもいうべきもの。プレタポルテといっても、これは「究極の一品」ですから。職人として究極の一品を目指すか。あるいは、そんなものはないとして、ひとり一人の身体にあった服作りに打ち込むか。

いずれにせよ、ベースになるのは服を仕立てる技術ですよね。そのベースをアキラさんは「プレタポルテ」と言っているように思います。

そのようにしてアキラさんのプレタポルテ論を読めば、私はまったく異議無しです。たぶん。

野口整体の「体癖論」も、あり得ないプレタポルテだと僕は思っています。

ええ「体癖論」は「究極の一品」を目指しての技術指針ではない、という理解ですよね? 違うのかな?

そこが分かってる人は、ネット上などで体癖論議をしない。 (^o^)

ん~、なんかちょっと頑なな感じがします。
とはいっても、アキラさんの体癖論についての〈クオリティ〉に私は及ぶはずもないから、全く自信なし。(^_^;

で。

この先どうなるのかわからないので、つまり、ネット上で体癖論をぶつことができなくなるかもしれないので、今のうちにやっておこうかな? 愚樵的理解にもとづくプレタポルテ体癖論。といっても大したこと考えいるわけではないんだけど。

「知」の意味するところをとり違えてたかも、です

僕の「プレタポルテ」のイメージは、いわゆる「高級既製服」でした。 (^o^)
ですから、服を仕立てる技術ということではなかったです。
それと、僕の言ってた「知」は、「判断的な“知”」のつもりでした。
ですから、この服の話の基本的な僕のイメージは、「判断的な“知”」「近代的な“知”」の話の中でのことだというつもりです。

そのつもりのままコメントしますが、「方便論的個人主義」というのを皆がそれぞれおやりなさい、という話なんですよね?
そうなると、皆がそれぞれにそれだけのしっかりした基本を押さえてないとできない、という話に僕には聞こえるんです。
となると、「判断的な“知”」を使いこなせるだけの基礎力を、それぞれがまずはしっかり押さえないと・・という話になるので、それはそもそも可能なのか?と思うわけです。

ですので、「知」ということで意味していることが違ったのかな?と思ってます。

野口整体の「体癖論」も、あり得ないプレタポルテだと僕が思っているというのは、例えば「三種(左右型)というのはこういう人だ」という解説が、「究極の一品」になっている、といったニュアンスです。
でも現実には、そんな「三種の人」は存在しない。
なぜなら、僕ら一人一人がそれぞれ 上下・左右・前後・捻れ・開閉という運動をすべて持ち、すべてを使いながら生きているからです。

野口先生が仰っているんですが、体癖ってのは色の話とニュアンスがよく似てるんですよね、多分。
実際には、紫とか黄緑とか、灰色がかった青とか、そういう微妙な色あいだけが存在するわけです。
でもその紫を理解するために、紫の中に原色の赤を観る、原色の青を観る、そうやって実際の紫を理解していく手づるとしていくような感じです。
でも、その原色の赤とか原色の青とかいう人は、実際には存在しない・・みたいな。

ですから、「三種の人」についての解説は「完全なる欠如」?の表現みたいなことになってると、僕は捉えているんです。 (^o^)

「判断的」基準が明確になるほどに、歪みが露わになる

・アキラさん、おはようございます。

アキラさんが前コメントで仰ったことは、まさにこの〈対話〉になって現われているようですね。
「判断的」基準が明確になるほどに歪みが露わになる、です。

>僕の「プレタポルテ」のイメージは、いわゆる「高級既製服」でした。 (^o^)

はい。そのニュアンスを「レディー・メイド」ではなく「プレタポルテ」としたところに込めようとしたんですけど、ね。σ(^_^;

洋の東西を問わず、「知」というのはすべからく「判断的」なのだと思います。これは大前提ですね。そうでないと「知」など構築しようがない。

しかし、その大前提の上に西洋的一神教的前提と、東洋的仏教的前提があると私は思っているんです。

西洋的は、構築+構築。東洋的は構築→脱構築。「空」なんてまさに脱構築ですよね。

>そうなると、皆がそれぞれにそれだけのしっかりした基本を押さえてないとできない、という話に僕には聞こえるんです。

大前提の方ですね。

>となると、「判断的な“知”」を使いこなせるだけの基礎力を、それぞれがまずはしっかり押さえないと・・という話になるので、それはそもそも可能なのか?と思うわけです。

う~ん、ちょっと話の筋はずれますけど、私はこんな風に思っているんです。

オーダーメイド、あるいはプレタポルテと私は言いました。ここでイメージされるのは、いずれも「高級な服」です。でも、服なんてモノは、身体にキチンとあってさえいれば、高級かどうかなんてどうでもいい、という考え方もあるんですね。まあ、脱構築的ですけど。

私がそういった考えになるのも、別の記事でちょっと触れた私なりの「大衆の原像」が出発点なんです。

脱構築をするのは、構築が少ない人間ほど容易である。つまり「判断的な知」の蓄積が少ない人の方が方便論的個人主義が利く、というよりそもそも方便論的個人主義者なんです。

そう、あの笠松の爺さんですよ。

笠松の爺さんは、自身の方便によってある境地へ辿り着いた。笠松の爺さんの葬儀の場面で清吉おじさんが、“昔は仏の杵次だった”と述懐して憤りますよね。あれ、私は、昔は方便論的でよかったのが現代は「判断的」になりすぎた、という批判のように聞えているんです。

で、そういった見地から見れば、「判断的な“知”」を使いこなせるだけの基礎力云々という話が、そもそもどうなの? ということになってくる。このあたりが私が「子ども主義」だったりする理由なんです。余計な「知」を築いたばっかりに、余計に脱構築しなきゃならないじゃないか、ということなんですね。

でも、「知」は必要最小限でいいのかというと、これでもったいない。だって「知」は「ワクワク」をもたらすものだから。

私たちは「知」を役に立つモノとして扱いすぎているんだと思うんですよ。役に立てるのが「知」の本質だと思っている。原発推進派の主張なんて、その典型でしょう。

でも、「知」の本質は「ワクワクすること」にある。だったら、築き上げたモノを壊すのもまたワクワクじゃん?(←なぜか東京弁。笑) ということになるはすなんですよね。


>野口整体の「体癖論」も、あり得ないプレタポルテだと僕が思っているというのは、例えば「三種(左右型)というのはこういう人だ」という解説が、「究極の一品」になっている、といったニュアンスです。

はい。よくわかります。ここまでの私の言葉で言い換えると、「体癖論」は脱構築のための、具体的な技法だということでしょう。だから「究極の一品」のように扱うのはその前提からして間違えている。

こんなことを書きながら連想するのは、宮台氏のいう「再帰」です。野口先生は、行くところまでいって「再帰」してきたのだろうけど、その「再帰」の仕方が宮台氏の想定とは違うと思うんです。

宮台氏は、行った先で掴んだものを持ち帰ることを「再帰」と言っていると思うんです。だから「究極の一品」。ところが野口先生は、そんな「お持ち帰り」はせずにもと居たところへ、ただ戻ろうとした。ただし、その戻る道すがらを「行ったところ」で獲得した「大人(あるいは超人?)の目」でつぶさに観察した――そんなふうに思うのです。

「知(言葉)」自体は空虚

やっぱり「高級既製服」のイメージで、愚樵さんが何をイメージしているかが分からないなぁ。
僕は「学者さんの論」、いわゆるアカデミックな「論」のようなものをイメージしてるんですけど。

僕は、笠松の爺さんは自分の構築したもの(方便であっていいのですが)を、脱構築できなかった人だと感じています。
そこが哀しいし、悩ましいわけで。
あれは「頑な」であって「再帰的」ではないですよね。
だから、時代が移り変わってしまった中で「へなまずるい」人になってしまった。
僕にはそう見えます。

それはさておき、このへんの話をするときにずっとモヤモヤしていたことが、ちょっと自分で分かってきた気がしてきました。
洋の東西を問わず、「知」というのはすべからく「判断的」だろう、ということは了解です。
で、僕が思うに「判断的な知」は論理的、「蠱惑的な知」は想像的。
構築メインであろうと、脱構築メインであろうと、いずれにしても、「知」自体はどちらの性格であっても「空虚」であることには変わりはない。
その「空虚」を「絶対神」で担保するか(究極の一点)、「無常」(とか別の神様的存在)(究極のゼロポイント)で担保するかの違いなんだろうと思います。

それで、どちらの性格のものにしても、問題は、この「知(言葉)」自体は判断的なものであろうと蠱惑的なものであろうと「空虚」なのだ、ということをちゃんと理解できているかどうか、ということなんだろうと思うんです。
この「知(言葉)」自体が、そもそも絶対神(あるいはイズムへの熱狂)で満たされていると認識されていても問題が起こるし、そもそも「霊妙なるもの」(あるいは“空気”)で満たされていると認識されていても問題が起こる。
「知(言葉)」自体は、どこまでいっても空虚。

ただ、それが人と人との関係性の中で「その都度」満たされる、ということが起こるわけじゃないですか。
だからこそ、「言葉が生きている」という状態が出てくる。
同じ言葉、同じ論を聞いても、相手が違えば、すごく響いたり全然響かなかったり、拒絶反応が起きたり、いろいろするわけですよね。

それからもう一つ、「知(言葉)」を習得していく中で、どうしたってそれがもつ性格に絡めとられていってしまうということが出てくると思います。
またそれがないと、それなりに使いこなすところまではいかないですし。
判断的(論理的)な性格に絡めとられたり、蠱惑的(想像的)な性格に絡めとられたり。
それが作用して、後天的にその人を「論理的」寄りにしていたり、「想像的」寄りにしていたりすることがあると思うわけです。

そしてそれとは別に、そもそも「判断的な人」と「蠱惑的な人」みたいな感性の差があるように僕は感じているんですね。
で、「判断的な人」が「論理的な知(言葉)」を使う場合もあれば、「想像的な知(言葉)」を使う場合もある。
同じように、「蠱惑的な人」が「論理的な知(言葉)」を使う場合もあれば、「想像的な知(言葉)」を使う場合もあって。

だからあんまり事態は単純ではないと思うんですけど、それでも「知(言葉)」自体はどこまでいっても空虚なのだということは、どちらにしたって変わらないと思うんですね。
だから、そこをちゃんと各々が押さえられてさえいれば、どれほど構築を重ねようが、どれほど脱構築しようが、「知(言葉)」がその都度生きたものとして用いられ得るんじゃないかなと思います。
言ってみれば、『「知(言葉)」自体はクズだ』と分かっていればいい。 (^o^)


「再帰的」に・・というのは、「敢えて(分かっていて)」それを選択するということですよね?
ですので、『行った先で掴んだものを持ち帰ることを「再帰」と言っている』というのが、僕にはちょっとよく分からないんです。
ごめんなさい。
でも一応乗っかって考えてみると、野口先生も、元々は催眠術から治療術へと進んでいって、その先で「治さない方がよっぽどちゃんと治る」ということを見つけて、それを持って帰ってきているとも言えるかと思うんですよ。
で、「治せるけど治さない」と。 (^_^;)

話が一気にラカンぽい (^o^)

・アキラさん、おはようございます。

話が一気にラカンぽくなった感じですが...、アキラさんは最初からそのイメージかな?

「プレタポルテ」が高級というところで「学者さんの論」というのは、その通りです。「知」は、それがぼろ布で織られていたって、服は服であるように、知は知ですね。

僕は、笠松の爺さんは自分の構築したもの(方便であっていいのですが)を、脱構築できなかった人だと感じています。

なるほど、そうお感じなる。では、清吉さんは? 脱構築出来た人だとお感じになりますか?

私のいう「脱構築」とは「自分に還る」ことですから、仏であろうがへなまずるかろうが、問題ではない。仏もへなまずるいも、それは笠松の爺さんが笠松の爺さんであることからでてきているのなら、同じこと。仏になるかへなまずるいになるかは、その自分と時代との「ミスマッチ」の問題という捉え方。

へなまずるいというのは、ミスマッチからうまれてくる周囲の評価であって、笠松の爺さんその人がへなまずるかったわけではないと私は受け取っています。

構築メインであろうと、脱構築メインであろうと、いずれにしても、「知」自体はどちらの性格であっても「空虚」であることには変わりはない。

おっとすみません。ここで言われる「脱構築」は、ポスト・モダン哲学の文脈で使われる脱構築であるような感を受けます。というか、おそらく脱構築の日本的受容を反映しているというか。脱構築が構築の一種として捉えられている。

私が言いたい「脱構築」というのは「知」の「空虚」を明らかにすること、です。つまり「服」を脱ぐということ。「知」は「知」だけでは何らの意味もない。それを身につけるもの、「服」だという認識を持っていなければならないが、ということは、それは脱ぐことができるものだという認識を持っていなければいけない、ということですよね。

前コメントでの、清吉さんの言葉をかりて「判断的」といったのは、こういうことなんです。

まず「構築」は、すべからく「判断的」です。「構築」は言葉を使って為されますから、「判断的」言語が用いられるか「蠱惑的」言語を用いられるか差はでてきますが、いずれにせよ基本的なところで「判断的」であることに間違いはない。

「判断的」か「蠱惑的」かの差異がもっとも大きくなってくるのは、脱構築の時です。

「蠱惑的」な場合には、簡単に服は脱げてしまう。つまり「蠱惑的」は脱ぐのが容易だということ。
一方「判断的構築」は、行くところまでいかないと脱げない。究極のシニフィアンに達するまで脱ぐことができない。

日本は「蠱惑的」な国ですから、もともとは簡単に服を脱げたわけです。ところがそこへ「判断的」な「知」が中途半端に入ってきてしまった。だから、みんな服が脱げない状態になってしまっている。それが清吉オジサンのいう(って、言ってないですけど)「判断的」になりすぎたということなんです。

だから、笠松のじいさんに対するへなまずるい批判は、“あいつは裸だ”という批判なわけです。「蠱惑的」な時代であれば、裸になれば裸だと周囲も諒解して、だから笠松の爺さんは仏になれた。

「判断的」な文脈のなかで「知(言葉)」を生かすというのは、“同じ服を着ている”ということだと私は解釈しています。一神教はその「知」が究極の一点に向かって構築されている(という諒解がある)から、“同じ服を着ている”ということが絶対的な意味を持ち得る。だから、ドイツで行なわれたように、倫理による脱原発というようなことが可能になるんですね。倫理なんて「構築」以外のなにものでもありません。

ところが日本の「知」は、どこまで行っても絶対的な意味を持ち得ない。だから「空気」となって漂ってしまう。「空気」を破るにはその都度裸にならなければならないが、その裸になることを忘れてしまっていて、裸に慣れる人がいると、逆に「裸だ!」と批判を浴びるようになってしまった。

宮台氏が日本が近代的になり得ないと批判することの意味を以上の文脈に当てはめると、「服を着ることが絶対的な意味を持たない」批判です。で、その宮台氏自身は、その服は究極のところでは脱ぐことができるもの(脱がなければならないもの)として諒解しているが、ほとんどの日本人にはその諒解がないんです。「お持ち帰り」と言ったのは“究極の所で脱ぐ”ことです。だから普段は服を着ているのがデフォルトであり、しかもその服は「究極の一品」であることが望ましい。「究極の一品」が脱ぎやすい服だということですね。

それに対して野口先生は、「裸の人」だったのではないのか、と。毀誉褒貶が大きかった言いますが、それは「裸だ!」という批判でしょう。笠松の爺さんと比較で異なるのはその批判を受け止められたか否かですが、アキラさんは、その批判を受け止めることを「脱構築」だと考えておられるように見受けます。でも、普通の人は裸の所に攻撃を浴びたら、傷つきますよ。受け流して無傷でいられるのは、よほどの人じゃないと。

もう一度「究極の一品」に戻りますとね。「究極の一品」とは防御が完璧でしかもすぐに脱げる鎧です。「知」はそもそもが空虚。その鎧に突き当たるとどのような攻撃も空虚化してしまう、そんな鎧です。

「裸」はあり得ないかと

ん~、ラカンっぽくなったというよりは、蠱惑的・判断的うんぬんのそもそものベースがラカン的なのだろうと思うので(佐々木先生が)、どうしてもそうなるかなぁ・・という感じですかね。
あと、僕はラカンはすごく見てるとこ見てると感じているので、けっこう我流にですが腑に落ちていることが多いからかもしれません。

「プレタポルテ」の方のイメージは合ってましたね。 (^o^)
その元になっているものごとの考え方の方がずいぶん違うようです。

僕は「知」が人間のアタマで行われる以上、それに影響を受けない「地の自分」ということはあり得ないと思っています。
それに絡めとられるものだし、それが「成長する」ということでしょうし。
ですから、「知」で染まっていない「裸」の状態はあり得ないと思っています。
服を脱ぎ切った「自分に還る」ということは、あり得るかもしれませんが、そのときには社会の中では生きていけないでしょう。

僕の思っている「脱構築」は「意味を抜き取る」みたいなイメージです。

「服」を脱ぐということは出来ると思いますが、「知」で培われた「地の自分」の部分があるわけですから、脱ぎ切ることは不可能でしょう。
どうしたって「残る」、あるいは「そこは手放さない」というところがあると思います。
それをもって「自分に還る」と仰っているのなら、僕も理解できます。

笠松の爺さんは、服を脱げなかった人でしょう。
僕はそう感じますけど、「そこは手放さない」=「服を脱がなかった」でもいいかもしれません。
「敢えて」脱がない・・ならば「再帰的」ですから、でもそれだったら もっと柔軟だったはずです。
あれほど周囲と軋轢を起こすほど「頑な」でなくていい。
だから僕には、「そこは手放さない」ではなくて「手放せなかった」と見えるんです。

清吉おじさんは、それなりに服を脱いだ人だと思います。
でもどうしたって下着が残っちゃう。
そこは自分でもしょうがない。
(脱いじゃうのをしょうがないと感じているのか、残っちゃうのをしょうがないと感じているのかは微妙だと思います)
この「下着」の部分が、「知」で培われた「地の自分」の部分になってしまっているからです。
ですから清吉おじさんもまた、「再帰的」ではないですよね。
彼のはある種の「あきらめ」のように僕には感じられます。

日本の「知」が、どこまで行っても絶対的な意味を持ち得ないということには同意です。
けれど、「空気」となって漂ってしまうとは僕には思えません。
元々空虚な知が「空気」を帯びるんだと思います。
空虚であることが顕著ですから、空気を帯びやすいのかもしれません。
(日本的な)空虚な知自体は「空気」ではないと思ってます。

野口先生が伝えたかったのは「言葉による知」ではないので、その意味では服にそれほどこだわっているとは感じませんが、ある面では非常に頑なですよ。
五・六種(前後型)、七・八種(捻れ型)の順番を入れ替えて、五・六種(捻れ型)、七・八種(前後型)とした人がいるんですけれど、それだけでいきなり破門ですからね。 (^_^;)

Re: 「裸」はあり得ないかと

アキラさん、おはようございます。

>僕は「知」が人間のアタマで行われる以上、それに影響を受けない「地の自分」ということはあり得ないと思っています。

エディプス・コンプレックスを経由して人間になる、ということですね。

> 「服」を脱ぐということは出来ると思いますが、「知」で培われた「地の自分」の部分があるわけですから、脱ぎ切ることは不可能でしょう

どうなのかな~、断言できないと私は思っています。パンツの中を覗くくらいはできるか、とか思ってもいるし。

>笠松の爺さんは、服を脱げなかった人でしょう。
>あれほど周囲と軋轢を起こすほど「頑な」でなくていい。
>だから僕には、「そこは手放さない」ではなくて「手放せなかった」と見えるんです。

こうなってくると「知」についてのイメージがだいぶ違ってきますね。
「頑な」を当人の所為とみるか時代の所為と見るか。私は後者よりで、だからかえって清吉おじさんは日和見にも見える。

その日和見を「服を脱いだ」と解釈できるのはわかります。でも、そういうのって、私自身の職人的気質のようなものからは違和感あるんですよね。

これって何種? (^o^)

>彼のはある種の「あきらめ」のように僕には感じられます。

ですね。

>元々空虚な知が「空気」を帯びるんだと思います。
>空虚であることが顕著ですから、空気を帯びやすいのかもしれません。

私は「知」と〈霊〉とは切り離せないものだと思っているんです。「知」だけだと空虚。日本の知が「空気」になるのは蠱惑的だからでしょう。もともと「知」そのものの構成力が弱い。逆に判断的な「知」は、構成力が強いから「空気」にはならないけど、津波みたいなものになったりしますよね。ジェノサイドとかね。日本には近代化以前は、ジェノサイドはなかったのかな? 今の北海道あたりではやらかしていたかもしれません...。

>野口先生が伝えたかったのは「言葉による知」ではないので、その意味では服にそれほどこだわっているとは感じませんが、ある面では非常に頑なですよ。
>五・六種(前後型)、七・八種(捻れ型)の順番を入れ替えて、五・六種(捻れ型)、七・八種(前後型)とした人がいるんですけれど、それだけでいきなり破門ですからね。 (^_^;)

なんじゃそりゃ...

「知」ということが、どのへんのあたりのことまでを内包しているかが、お互いにもっとハッキリしてこないと、すり合わせが難しそうですね。 (^o^)


>「ただ、技法・技術はなんら変わりはなくても、装いはもう少し現代風に整える必要はあるのかもしれません。 」
 ( 03-29 | コメント番号4612 |)
<
こういうのも、おんなじだと思いますよ。
僕は変わる必要がないと思ってまして、変えるのは「日和見」に感じます。 (^o^)
でも、「変わる必要がない」と再帰的にそう思っているので、ゴリ押しはしませんし、界面のところでの出し方はいかようにもなるとも思ってます。

できれば体癖論から

・アキラさん、おはようございます。

>「知」ということが、どのへんのあたりのことまでを内包しているかが、お互いにもっとハッキリしてこないと、すり合わせが難しそうですね。 (^o^)

はい、そうなんですけど、理想を言わせてもらうと、同じ言葉で諒解しあいたくないんですよ。
つまり、愚樵は○種だからこういう理解、アキラさんは◎種だからこうなのか、と、別に体癖でなくてもいいのですが、互いの〈クオリティ〉への理解から、互いの「知」の理解を推察するというやり方。

その方が、私としても「方便論的個人主義」の立証になって、都合がいい。(^o^)


>「ただ、技法・技術はなんら変わりはなくても、装いはもう少し現代風に整える必要はあるのかもしれません。 」

ああ、これはですね、具体的にいうと、『身体の情動反応と体癖論』がそうなんです。私はそのつもりで書いているんですね。で、都合ということで言いますと、アキラさんには装いもそのままでいてくれた方がいいんです。新たな装いをつけていく人間は、現時点では野口整体の外部にいる人間が担うのがいいと考えているんですね。また、そうでないと「終わりの始まり」になっていってしまいかねない。

そんな展開になるかどうかは全然わかりませんが、一応、そういうことでご理解ください。

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