愚慫空論

変革原理と順応原理 もしくは 切断原理と受容原理  その1

変革原理と順応原理、切断原理と受容原理とは、つまりは男性原理と女性原理のことである。一般に通じるように男性原理、女性原理と書くつもりで前から構想していたのだけれど、碧猫さんがやりとりの中で“その呼称はどうかなぁ”という疑問を呈されて、それもそうだと思ったので、男性原理女性原理を避けたんだけれども、かえってややこしいかな? まあ、いいや。

そういうわけで、変革原理と順応原理、切断原理と受容原理について、脈絡なく、あれこれと考えてみたい。私はこの二つの原理こそ、人間の活動を奥底で定義している根本原理ではないかと思っていて、また、現代社会は変革・切断原理に強く引きずられた社会だと思っている。そのあたりを脈絡なく。
原理

まず、変革原理を見てみる。変革という動詞は主語と目的語を必要とする言葉だけれど、この場合、主語は自己、目的語は環境である(one revolutionize environment)

ヒトは環境を変革することによって他の種との生存競争に生き残ってきたと言われているが、それは事実で、未開などという差別的な形容詞で呼ばれる部族であっても、環境を変革せずに暮らしている人たちはいない。

この変革原理の逆が、順応原理である。環境が自己を変革する(environment revolutioize one)と言ってもいいが、普通はそうした言い方はしないから、自己が環境に順応すると表現する(one adapt oneself to environment) 。
さきほど“未開”という形容詞を用いたけれども、この“未開”は単に自然を「変革」している度合いが少ないという程度を指すだけのことであって、そのことはつまり、“未開”であるほど逆に素に近い自然環境に「順応」しているということである。

順応原理を英語での表現で one を主語のまま oneself を使わないように言い換えてみると、それが受容原理になる(one accept enviroment)。つまり自己が環境を受容する。
また変革原理を oneself を使った表現で言い換えてみると、それが切断原理となる(one cut off oneself from enviroment)。自己を環境から切断する、である。
(※英語についてはまったく自信がないので、間違いがあったら誰か指摘してください)


さて、まず考えてみたいのが、「男性原理」「女性原理」といったものが唱えられ、それが「男性原理」「女性原理」と呼ばれるようになった理由。これはこれで理由はあるはずだ。

有性生物であるヒトには当然、身体上の性差(sex)がある。その最大の違いはなんといっても、子を産むのはメスのみという事実だ。
ヒトの属する哺乳類というグループは、胎生で子どもを産む。メスの体内で受精し、メスの体内である程度まで子を生育させてから、出産する。この方式は、卵生を採用している他のグループの生物たちに比べ、母子一体感がより強いものになるだろうと思われる。さらにヒトの場合、近類種と比べても出産時の子の生育程度が著しく低いことが報告されている。このことがさらにヒトという種の母子一体感を強いものにさせるのだろう。

ヒトの子どもは産まれた時には、自分が母親と切り離されたということに気がついていないそうである。“気がついていない”という言い方には語弊があろうか。気がつくもつかないも、そうした意識がまだ発達していない。母親の胎内から出て自発呼吸を始めた時点で、意識にならない無意識の領域では、個として外界にデビューしたという認識は生まれているはずではある。だが、無意識の領域でも、外界デビューは認識変化の決定的契機になっていないようだ。それはヒトの子がその未熟性故にまだまだ母体の庇護を必要とするということに関連しているように思う。ヒトは、どこかで決定的に外界に「個として存在する」という認識を持つようになるのではなくて、徐々にそうした認識を持つようになるという基本性能を持っている。

このあたりは卵生生物と比べてみればわかりやすい。母性の庇護を必要とするのはヒトを代表とする哺乳類だけではなく、鳥類などもそうである。刷り込み(インプリンティング)という言葉で有名な、卵から孵って一番最初に見た動くものを母親として認識してしまうという基本性能を持った鳥類。インプリンティングはヒナが母性の庇護を必要としているところからの基本性能なのだろうが、この性能はそれ以前に、ヒナが外界に登場するときにはすでに「個として存在する」という認識をもっていることが前提になっている。
哺乳類のような胎生であれば、そもそもインプリンティングされる必要がない。出産時にはまだ「個として存在する」という認識を持っていない。母体との一体性を引きずっている。胎生動物には、「個の意識」より「家族の意識」の方が先なのである(ここでいう「個の意識」「家族の意識」は本来は「個の無意識」「家族の無意識」とするべきかもしれない。これらの意識は、意識の表れてくる以前の無意識の領域で作用するものだから)。

胎生動物であるヒトの誕生時の事情は上記の如くであったとしても、いつまでも「家族の意識」のみであっては環境に適応することが出来ない。他の生物との生存競争に負けてしまう。ここに「個の意識」の必要性が出てきる。
これは生物が、宿命として持つ寿命というものとも関係している。生物は子孫を残し、自らは寿命を迎えて死んでいくことで種としての存続を図る。環境に適応して他の種との生存競争に勝ち抜いていくには、環境と対峙する主体としての意識――「個の意識」を持たなければならなくなるのである。


ヒトを含む哺乳動物が、環境適応の手段として進化の過程の中で獲得した胎生という繁殖方法およびそこから導き出される「家族の意識」、生まれ出てきた個体として環境適応していくために求められる「個の意識」、これらがそれぞれ「女性原理」「男性原理」に対応する。これらの呼称に男性・女性がつくのも、それが繁殖というオス・メスに性差があることが前提にあるところから生じている原理であるので、これはこれで妥当と言えなくはない。
ただ、この2つの原理は性差から生じたものであるにしても、「個の意識」「家族の意識」という男性女性に関わりなく表れてくる原理である。「男性原理」「女性原理」という呼称は、そうした意味では誤解を招きやすい。そろそろ「男性原理」「女性原理」という呼称からは脱皮すべき時期に来ているのかもしれない。


ここで少し、ジェンダー論について触れてみたい。

有性生物の性差は、一般的には、身体的特徴(sex)だけではなく社会的特徴(gender)にも及ぶ(こうしたsexとgenderの使い分けは日本に特有のものらしいが)。社会的とは、主に子孫をなるべく多く残すための生存競争上の戦略として、オスとメスが役割分担をしているということなのだが、これは種によってそのあり方が全く違う。
ところがヒトの場合は、他の種のように種固有のgenderが見られない。ヒトの場合は、ヒトが人間である所以であるところの文化や文明などといったものに、genderは依存している。
とはいうものの、やはりヒトの場合においてもオスとメスの社会的役割分担はどの文化・文明においても存在した。そのあり方は様々であっても、オスとメス、男と女という性差がある以上、なんらかの一貫性があるのではないか――そうした「希望的観測」は漠然とながら存在していたようだ。

ジェンダー論は、その「希望的観測」を検証するものではなかろうかというのが、私の現時点でのジェンダー論解釈である。そして、その検証の結果として「希望的観測」は希望的観測に過ぎなかったのではないか、ということが明らかになりつつあるような気がする。


ジェンダー論そのものの議論は深くは知らないのでこれ以上の寄り道は避けるが、別の観点から「希望的観測」を検証することも出来そうだ。それは「個の意識」「家族の意識」が、人類の様々な文明・文化において、どのような割合でバランスされているかという観点・切り口である。

日本文明は、たとえば西洋や中国の文明と比較すると、「女性原理」=「家族の意識」が強い文明だと言われている。このことは日本という風土と強い関連性がある。温暖湿潤で自然環境が豊かであるという風土との関連性である。
こうした“ヒトに優しい”自然環境では、ヒトは生存していくのに環境と対峙する「個の意識」をさほど必要としない。ゆえに、母体からの生誕時から引きずっている「家族の意識」がより濃く繁栄される文明になる。現に日本文明とはそうした文明であり、受容原理が強く働く文明であったからこそ、他の文明・文化を受け入れ、飲み込み、変容してしまう柔軟性を持ちえたのである。

中学・高校で学習する歴史では、人類の文明はエジプト・メソポタミア・インダス・黄河の4箇所から発祥したかに書かれている(今はどうか知らない)が、実際にはもっと古くから様々な文明・文化があったはずだ。例えばメソポタミアの神話には英雄ギルガメッシュが森の怪物フンババを退治する話があるが、あれはおそらくは森の文明を農耕文明が滅ぼしたという史実に基づくものなのであろう。さらに推測を重ねるが、森の文明は従順(女性)原理的であり、農耕文明は変革(男性)原理的であったのであろう。従順原理的文明と変革原理的文明が争ったとき、これは圧倒的に変革原理的文明の方が強い。

人類の文明発祥期においては、記録には残っていないが、本当は従順原理的文明の方がずっと多かったのではないだろうか。環境負荷が少なく、また西洋やイスラム・中国等の変革原理的文明と地理的にも遠くて“未開”のままでいられた文明が従順原理的文明であることは、そのことの傍証になってはいないか。だが、発祥時には少数であった変革原理的文明は従順原理的文明を次々と飲み込み、また変革原理的文明同士で争い、その歴史の果てが現在の西洋発の変革原理的文明が世界中を飲み込もうとしている状況なのであろう。

そういえば旧約聖書にも、こうしたことを窺わせる記述がある。創世記の失楽園がそれだが、サタンの策略に引っかかって神に禁じられていた「知恵の実」を食べてしまったアダムとイヴは、楽園から追放されてしまう。私の勝手な解釈だろうが、その楽園こそ従順原理的文明世界であり、そこから出て行かなければならなくなったことは、変革文明的世界に移らなければならなかったということを意味するのではないだろうか。またそれが「知恵の実」を食べた結果というのも示唆的である。

日本文明は、絶妙な地理的関係と幸運とで、従順原理的を基調にしながら変革原理的文明を美味く取り込んでいった、奇跡的な文明であるといえるかもしれない。
島国であるということから、お隣の中国文明から変革原理的文明を取り込みながら、直接的侵略は避けることが出来た。ただこれも幸運に恵まれたといわざるを得ず、不幸な例を挙げるとノーマン・コンクエストで征服されてしまったイギリスの例もある。ドーヴァー海峡と対馬海峡の大きさの違いもあろうけれど、日本も少なくとも3度、征服の危機にさらされた。一度目は天智天皇の頃、白村江での敗戦を受けての当時の唐のからの侵略の危機、2度目は元寇、3度目は太平洋戦争の敗戦である。
3度目は征服されてしまったのであるが、これも幸運なことに、なぜか従順原理的な憲法9条を押し付けられたという結果で終わってしまっている。この条文は、明治維新以降、変革原理的文明に移行しようとした日本を再び従順原理的文明に引き戻すものであり、また、日本にまだまだ従順原理的文明が色濃く残っていたからこそ受容できた条文でもある。変革原理的文明を基調とする国であれば、戦争放棄を押し付けられるくらいなら、それこそ国家の存亡をかけて争うことになったであろう。


話はジェンダー論とは別の観点で
「希望的観測」を検証しようということだった。ずいぶん回り道をしたが、結論めいたことをいうと、文明・文化には変革(男性)原理、従順(女性)原理の役割分担に性差に基づく一般的な法則は見られないかもしれないが、文明・文化そのものが変革原理もしくは従順原理を基調とする度合いは、取り巻く環境負荷の強度と文明同士の衝突によって定められていくという法則がありそうだ、ということである。

それにしても話がわき道に逸れすぎた。本当は文明・文化よりも個人の思考法則としての変革原理・従順原理を考えたかったのだが、そこまでたどり着けそうにない。また、仕切り直しをすることにして、今回はとりあえず終了。

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