愚慫空論

学ぶことを学ぶ ~【リアリティ】から〈クオリティ〉へ

アキラさんのところへ行ってから、少し考え込んでいた。

 野口整体はナンパ術だった。笑。

なぜ私はアキラさんのところへ行ったのか。目的は何だったのか。野口整体に直に触れてみたい、というのはそうである。だが、これはアキラさんのところでも言ったのだけれども、野口整体を学びたいということでは必ずしもない。また来月、アキラさんのところへ“遊びに”行こうと思っている。そこは野口整体を稽古する場だから、当然、野口整体をいくらかなりとも学ぶことになる。それは望むところだ。でも、そのことが私の本当の目的なのかと言われると、ちょっと違うと答えざるを得ない。

(実はこのあたりは、前記事『回想の野口晴哉』の前に書いてあった。現在、若干心境は異なるのだけども、そのままにする。)

このように自分に向かって問いを投げかけていく姿勢を「哲学」と評して下さる方がいる。私自身もその言葉を受けて、哲学かなと思ってみたりもする。その真似事をしているという意識はあるし、その評価を好意的だと感じるから、なおのことその評価を受け入れたくなる。でも、やっぱりどこかちょっと違うのである。「哲学する」ことが私の本当の目的ではないし、こんなブログを続けている理由でもない。

では、一体、何なのか。目的をどう表現すればよいのか。やっと納得のいく表現が見つかったと思う。それが「学ぶことを学ぶ」である。「哲学する」よりもよほど大仰かもしれないが、これがピッタリくる。

(先に予告しておきましょう。この文章は長くなります、たぶん。そうしたい気分だから。)



実は、哲学というならば、私はそれにまつわる場に籍を置いていたことが少しだけある。


私が大阪生れだということはこれまでもたびたび書いてきたが、今日はもう少し詳細に書いてみよう。

私は1967年(昭和42年)に大阪市の東住吉というところで生まれた。

小学校にあがる頃に両親が離婚。正確な病名は知らないけれども、母親の方が気を病んでしまったことが原因だったようだ。現在は福岡・筑豊地方の精神病院に居る。もう長らくそこで暮らしている。退院の見込みはないらしい。

私の学業の成績は、決して悪いものではなかった。平均よりは上。公立の中学校レベルでは、学年で1,2を競うといったところ。高校は地元の進学校へ。ここは学校名も出しておこう。facebookをつくるつもりだし。大阪府立天王寺高校というところ。それなりの名門校ということになっている。そこから京都大学へ入学した。工学部の化学系だった。

当時の夢はエンジニアになることだった。光合成の明反応を工業的に実用化して、水から水素を作って、水素社会の実現に貢献したい――などと夢を見ていた。大学に入るまでのところは、その夢に向かって順調に歩んでいた。が、順調だったのはここまで。

大学に入ってからは勉強が出来なくなってしまった。勉強が難しかったというわけではない。日本の大学は入ってしまえばどうにでもなるという通説は、当時はまさにその通りだったし。

大学入試を突破するまではそれなりの緊張感はあったのだろう。入学後はその緊張感が緩むということも、ごく自然なこととしてあったろう。その解放感からか、顕著に現われてきたのが、私が家庭から受けていたハラスメントの影響だった。そのことを自覚せざるを得ないことが高校時代にあって(ここにも触れると長くなり過ぎるので今回は割愛)、それを受験に打ち込むことでやり過ごしたのが、大学入学と同時にやり過ごすことができなくなって、顕在化してきたのだった。

私は、“自分自身が何者なのか”という問いと向かい合わなければならなくなった。京大生という「肩書き」は対外的には大変有効で、活用させてもらった。が、自身に対してはそんな「肩書き」はまるで効果がなかった。私は中学高校時代から山登りが好きで高校では山岳部に所属していたりしたが、その山好きに拍車がかかった。要するに、山へ逃避した。山にいれば、とりあえずはその問いから逃れることができた。

アルバイトに明け暮れて費用を稼いでは山へ行った。大学の部活動には参加しなかった。そこへ参加するとどうしても「肩書き」が視線に入る。同じ「肩書き」の者同士だから。その無効性に苛まれていた私にとっては、大学の山岳部はあり得ない選択だった。山岳部に誘われたことはあったが、乗らなかった。

そうして私は大学から遠ざかっていった。そのうちに、山で稼ぐということも覚えてしまった。こうなると大学どころか、都市からも遠ざかっていくことになるが、当時の私にとっては一石二鳥だった。

そう、哲学の話だった。

“自分が何者であるのか”という問いに向き合う必要に迫られ、そこから逃避していた私にとっては、もはや「夢」などどうでもいいことだった。しかし、往生際が悪いというか、大学というポジションには未練はあった。そこで「問い」に向き合うために、文学部哲学科へ転部することにした。そこで、一応、「籍」は置くことになった。

ところが、これは本当に籍を置いただけだった。一度も講義に出ることはなかった。転部など、所詮は無駄な足掻きでしかなかった。大学には足かけ7年在籍したが、大半は授業料を支払っただけだった。

もちろん、そのほとんどを自身の稼ぎで支払った。大学関係の費用で両親に支払ってもらったのは、入学金と半年分の授業料。約半年分の諸経費。アルバイトが軌道に乗ってからは、一切を自分でまかっていた。食費も両親に支払った。というと、かなり経済的に貧窮した家庭だったように思われるかもしれないが、そんなことはなかった。父親の年収は800万はあった。それは奨学金の申請をし、父親の源泉徴収票を見たので間違いない。これでは奨学金など下りるはずもないと思ったが、果してその通りだった。が、私に対しては我が家は学費も払えないほどの貧乏家庭だった。要するにそういった家庭だったわけだ。また、私は私で当時はバブルの時代ということと京大生の「肩書き」のおかげでかなり稼げたのだった。だが、もし化学の専門課程へ進むならしそうした稼ぎは捨てなければならなかったし、そうなると当然、両親に経済的な「相談」をしなければならなかった。私はそんな「相談」などしたくなかった。それもあり得ない選択だった。

話が少し愚痴っぽくなった。

百間洞からの聖岳


そんなわけで、山は私のアジールになった。そのアジールで私は「無縁」の人たちと出会うことになる。

ここでいう「無縁」は、現代の無縁社会の「無縁」とは、重なる部分もあるけれども、少し異なる。現代社会を支配している【システム】とは無縁という意味であり、歴史的な意味で「無縁」と言ってよいだろう。だから、「肩書き」などといったものからも無縁であって、その点が「肩書き」の無効性に苛まれていた私にとっては大変居心地がよかった。

この「無縁」の人々は、大別すると二種類に分かれた。ひとつは、私のようにアジールを求めてやってきた者たち。都会からの逃避者と定義づけてしまうのは乱暴かもしれないが、都会よりも山に上手く適応した人たちとは言えるだろう。要するに変な奴ら(笑)。もうひとつは、取り残された人たち。時代の流れに取り残されていつの間にか【システム】からは遠縁になっていた人々。

私が最初に出会ったのは前者が多かったが、山へ深入りするにつれて、後者の人々が増えてきた。山というより山里である。

静岡市井川


つい先頃、昭和を代表する思想家である吉本明が亡くなったというニュースがあった。その吉本氏が提示した概念に「大衆の原像」というものがあったらしい。私は吉本思想にはほとんど知らないので言葉だけのイメージでしかないが、私が「アジール」で接した人々、そしてその接触から汲み取ったものは、もしかしたら「大衆の原像」だったのかもしれないと思う。それは、逃避者であれ取り残された人たちであれ、あまり変わりはなかった。

この私なりの「原像」を、これまた私なりに表現してみると、“〈クオリティ〉を求める人々”ということになる。そして、この“〈クオリティ〉を求める”ことこそが、〈学習〉に他ならない。それは、学校制度のもとで与えられる教育、与えられる知識や技能を【学習】するということとは、似て非なるものである。

その時点でそのことにはっきり気がついていたわけではない。ただ、労働していただけ。カネを稼ぐためでもあったが、それよりも、その場に少しでも居たいがために。歩荷(ぼっか)といって山で荷物を運んだり。大工の手伝いをしたり。炊(かしき)をしてみたり。樵の真似事や、罠を掛けて猟をするところを見せてもらったりもした。捕った獲物はもちろんその場で解体。木の実、キノコ、獣、いろいろ食べさせてもらった。間違えて毒キノコを食べて、食あたりで苦しんだこともあった。飯場で酒を飲む、賭け事をする。いろいろな仕事の話。昔の暮らしの話。言い伝え。それから女の話。

労働をすることと暮らすこと遊ぶことが不可分一体。これらが全部、〈クオリティ〉を高める〈学習〉であり、同時に心地よいことだった。

私の『愚樵空論』の出発点はここにある。私はこれまで、この〈クオリティ〉のことを何度も何度も表現を変えてはくり返して来た。現在〈霊〉と言っているのも〈クオリティ〉である。〈識る〉という表現をしたこともある。〈 〉や【 】の表記の使い分けも、〈クオリティ〉を言い表したいがために編み出したものだ。

ヨキ


ここからは、前にも再掲載したエントリー『知識』を、〈クオリティ〉の概念を元に再構成してみることで、〈クオリティ〉の意味を浮き彫りにしていきたい。同時に【リアリティ】の意味も明らかになるだろう。

上の画像は「斧」である。われわれ樵はこれを「ヨキ」と呼ぶ。刃に四本の筋が刻まれているのがわかると思う。この筋が「氣」であり、4本あるから「ヨキ」である。実は裏側には3本の「氣」も刻まれている。

3本の「氣」、すなわち「ミキ」は「御酒」である。「ヨキ」は五穀を育む地・水・火・風の4つの「氣」。昔むかし、伐り倒す木へ供物を捧げるのに、本来ならば御酒と五穀の現物を供えるのであるけれども、山の現場ではそれもままならない。交通の発達した現在ならいざ知らず、昔は何ヶ月も山へ籠もりっぱなしで作業をしたわけだから、致し方がない。そこで代用として斧に「氣」が刻まれ、ヨキを“供えて”祈るようになった。

私に樵の技術をいろいろと教えてくれた人は、ヨキは樵にとっては武士の刀のようなものだといった。しかし現在は、林業の現場でヨキが活躍する場面はほとんどない。私も紀州で仕事をしているころは使ったが、山梨に来てからは使った記憶がない。現在の林業の【リアリティ】にヨキは残念ながら合わない。新しい人ではヨキを使ったこともない人も多かろう。

木に学べベテランの樵たちは、ヨキの〈クオリティ〉を識っている。ただしそれは、「ミキ」「ヨキ」の意味を知っていたからではない。私は「ミキ」「ヨキ」の知識は実は本から仕入れた。逆に私が先輩たちにその意味を教えたのである。これは【知識】としての「ヨキ」の意味と、その〈クオリティ〉とは別物であることを示している。
(この場合の知識は〈クオリティ〉が正しかったことを裏打ちするものになっている。これが知識の本来の役目だ――いうようなことを安冨教授は言っておられた。)

まだ〈クオリティ〉の意味は明らかになっていない。〈クオリティ〉とは、例えば樵がヨキを武士の刀に相当すると内発的に感じるその理由である。内発性が生まれるところが〈クオリティ〉なのだ。では、そうした内発性はどのようにしたら生まれるのか。

それは、木を木という「肩書き」で見ないところから、である。一本一本の木には個性がある。たとえ伐り倒す木であっても、個性あるものとして接すること。口で言うのは容易いが、これは意識したからといって、また知識を積み重ねたからといって、出来るものではない。

つまり、いくら文字で伝えても原理的には伝わらないということである。〈クオリティ〉とはいいかえれば「実感」だからだ。ただし、読み手が感性を働かせてくれれば、想像はできるはずだ。書き手も読み手も同じ人間なのだから。

続けよう。

木は重量物である。比重は比較的軽いが、体積が大きくなるので重量物になってしまう。現在では林業も機械化が進んでいるので、重量物であっても重機で以前よりは簡単に取り扱うことが出来る。しかし、昔はそうはいかなかった。

山から木を搬出するのは大仕事だった。少しでも重量を軽くするために乾燥させた。伐り倒して長期間放置して乾かすのだが、これにも木の性質があって、逆向けに伐り倒したのでは木はなかなか乾燥してくれない。葉を上向きにして蒸散を促してやらないと、葉は枯れても幹からはなかなか水分が抜けてくれないのである。それで木を伐り倒す際には上向きにということになるが、これが自然の理には反している。木は、もし根元からスパッと切るなら、自然に下向きに倒れる。光を求めて枝が谷側へと生長するから。そこで、技術が必要になってくる。テコの原理を使うのである。

具体的にはクサビを用いる。「追い口」をノコギリかチェーンソーで伐り進めながらクサビを打ち込んでいくのである。クサビを打ち込むことで木は持ち上げられ、そのままだと倒れるはずのない上向きの方向へと傾いていく。ただし、伐り進めるごとにテコの支点(ツル)の強度は弱くなっていく。切りすぎるとツルが外れて伐倒失敗だ。そこでこの技術では、木との〈対話〉が重要になってくる。技術の原理そのものは単純だが、問題は〈対話〉なのである。〈対話〉に失敗すると、伐倒失敗。

木を「肩書き」で接しないというのは、つまり〈対話〉をするということである。一本一本個性があるだけではなく、クサビを打ち込む一撃一撃が全部異なる。この〈対話〉の繰り返しが〈学習〉であり、〈学習〉を積み重ねるていくと、自然に〈クオリティ〉が生まれてくる。醸し出されてくる。ヒトはそのような能力がある。

知識がなく、見よう見まねでも。知識を元に試行錯誤をくり返すことで。あるいは何の手本もなく、突然の閃きを元に。

閃きは別名「イノベーション」だが、これだって何の脈絡もなく起こるものではない。その前段となる〈クオリティ〉の十分な熟成があってこそ――だと思うが、なかには天才というしかないような人もいるらしいから、断定はできないが。

他にも、木遣りという例も挙げておこう。木の搬出である。こちらは、もっと複雑だ。

「木遣り」というと今ではめでたい儀式などで披露される謡のようなものと捉えられることが多いが、本来は極めて実用的な仕事歌であった。機械動力がなかったころ、また畜力も使えなかった地形では、大勢の人間が人力で木を搬出した。木遣りは、その際に息を合わせるのに船頭が歌ったもの。決まった歌詞があったわけではない。その場の詳細な地形に応じて、引き手の力加減をコントロールするために臨機応変に言葉を換えフシに変化をつけて歌われたもの。各自バラバラに引っ張るよりずっと楽に引けたことは想像に難くなかろう。名人が歌うとずっと楽に引き出せたというのは、若い頃に実際に引き手を経験したベテランの話である。

もちろん、私が樵になった頃にはもう、木遣りなどは行なわれていなかった。搬出は機械動力が用いられていたから。だが、まだ重機はさほど普及はしていなくて、搬出はワイヤー架線によって行なわれていた(ちなみに私は、林業架線技師の資格を持っている)。この技法もかなりの〈対話〉が必要とされるものだ。実は一度、私はこの〈対話〉に大失敗をして木にはね飛ばされたことがあり、両膝に古傷となって残っている。小さな失敗は数えきれずだ。他人の失敗談は、それこそ山のように聞かされた。死に至るケースにも遭遇している。

どのような場合であれ、作業の安全は最優先でなければならない。重機を導入すると――林業の場合は未だに地形の制約が厳しいが――、重機特有の危険性が新たに出てくるとはいえ、全体としての危険度は減少する。それになにより、作業の能率が格段に上がる。人力とは全く比較にならない。


機械は圧倒的な【リアリティ】である。人類は「進歩」によって【リアリティ】を手にし繁栄を謳歌してきた――だが、私は機械文明に警鐘を鳴らしたガンディーに思いを致さずにはいられない。ガンディーは、〈クオリティ〉こそが人間の創造性であり、【リアリティ】が〈クオリティ〉を阻害することをはっきりと認識していた。それゆえにこその「スワデーシー」であり、浅薄なナショナリズムに基づく国産品愛用運動ではなかったことは、言うまでもなかろう。

もちろん人間は機械とも〈対話〉をすることできるし、それはそれで〈学習〉である。それはいいのだが、そうやって機械に熟達したオペレーターは、――林業機械の場合なら、木を「肩書き」で扱うようになる。なぜなら、それこそが機械の目的だから。木の個性を無視できるだけの圧倒的なパワーを駆使することで、効率性をあげることが可能になるのだ。しかも、そうした機械には資本が投下されている。経済原理からも効率性は追求され、〈クオリティ〉は蔑ろにされる。

それでも、機械といえども摩耗はするし、メンテナンスも必要で〈対話〉の余地かなりはある。が、それも分業のおかげで減殺される。オペレーターがエンジニアである必要はないのだ。そうでない方が経済効率はよいのである。

経済効率性の副作用はそれだけではない。効率的な資本回収が優先されるから、市場価値の低いものは切り捨てられていくのである。〈クオリティ〉の高い文化では生かされていたものが、経済効率性という【リアリティ】によって駆逐されていく。

人間は、自身よりもずっと大きなモノを〈クオリティ〉を高めていくことで上手く利用することができる。その利用は人間自身の創造性の発揮でもあった。小さなモノ、繊細なモノに対しても同じである。植物に対しても、動物に対しても、あるいは同じ人間に対しても、さらには想像上の神に対しても、〈クオリティ〉を高めてゆくことができる。しかし、機械文明の【リアリティ】は、そうした人間の〈クオリティ〉の向上を阻害する。

「ハラスメント」を人間の本来的な運動の阻害と定義するなら、【リアリティ】による〈クオリティ〉の阻害はハラスメントに他ならない。人間は自然の状態では、放っておいても〈クオリティ〉を向上させていこうとしていくものである。

〈クオリティ〉の向上を阻害するのはそれだけではない。もっと根源的なところで阻害しているものがある。それは【知識】である。特に今の日本の教育制度。ここで行なわれているは「知のエンジニア」の育成より、むしろ「知のオペレーター」の調教である。強大な【知識】の扱いに長けたオペレーターたちが、人々の繊細な〈クオリティ〉をなぎ倒していく――これが現代の日本社会の姿ではあるまいか。

東大話法と原発危機

しかし、知識は〈クオリティ〉の阻害にしかならないわけではない。知識の体系を自身の「立場」を維持するために使うのではなくして、状況に応じて組み立て、あるいは解体することが出来る「知のエンジニア」が知を駆使すれば、それが〈クオリティ〉そのものの向上になるわけではないにせよ、その補助をすることができる。熟達すれば〈クオリティ〉発展の歪みを見出すこともできよう。

現代は機械でさえも〈クオリティ〉向上に役立つ道具となるものが出現している。今、私の目の前にあるネットワークマシンがまさにそうである。万能ではない。諍いを助長することも多い。だが、使いこなせれば、私たちの〈クオリティ〉向上に非常に役に立つ。他の機械も使いようによっては、また限定的ではあっても、〈クオリティ〉向上に使える。

ただし、原子力だけは絶対的にダメだ。巨大なだけの装置は、上手く作動していても圧倒的な【リアリティ】しか吐き出さない。巨大な電力と、それに倍する温水と、処理できる見込みが立たないばかりでなく拡散すると甚大は被害をもたらす放射性物質だ。原発は巨大なハラスメント装置なのである。


話がいつものごとく大きくなってしまったが、最後はもう一度、私自身のことを。

縁とはまことに不思議なものだと思う。ハラスメントから逃避が〈クオリティ〉を掘り起こす機縁になったりもする。仮に、私が受けていたハラスメントの影響ががもう少し小さかったならば、私は大学にしがみついていたかも知れなかった。だとしたなら、今頃私は「東大話法」を駆使して恥じない「あちら側」にいたかもしれない。いや、たとえ家庭からのハラスメントはなくても、「あちら側」だったかもしれない。そう思うと、実は私は幸運だったのかもしれないのである。

幸運な私は、自分が(逆の意味で)マザコンであることを識っている。だが、その向こう側の、自分の記憶の残っていないところに、母から受けていた愛情の塊の気配を感じてもいる。その母が〈対話〉が上手く出来ない状態になっていることは哀しいが、でも、もう大丈夫だ。

私はこれからも学ぶことを学んでいきたいと思う。〈学習〉とは〈対話〉であり〈クオリティ〉を向上させることだから、「学ぶことを学ぶ」とは〈クオリティ〉向上の技術を探ることである。このことは、冒頭で取り上げた野口整体の話とつながっていく。人間の社会がいかに【リアリティ】に圧倒されていようとも、〈クオリティ〉を見出すことは必ず出来るはずだ。なぜなら、〈クオリティ〉は人間の「生」そのものだからである。

コメント

(#^.^#)

こんばんは。

なんか、良いエントリーですね。

少しほっこりした気持ちになりました。

\(^o^)/

おはようございます。

拙エントリーで「崇高」、「下世話」と表現したかったものは、それぞれ「クオリティ」、「リアリティ」に近いのかな、と感じました。ただ、「崇高」、「下世話」という「日本語」は本来の意味を持っているので、そこに個人の思いを乗せるのは無理があるのかもしれません。
いずれにしても今の日本は【リアリティ】のなかで生活しており、〈クオリティ〉向上を阻害しているということは言える。・・・・と、強引に〈〉と【】で括ってしまっているのですが、はたして〈リアリティ〉、【クオリティ】はありうるのか? 道を間違って【クオリティ】が向上してしまうと【リアリティ】より悪くなりそうで、、、という、抽象的概念では〈リアリティ〉になりそうにない(笑)。

愚樵さんの生い立ちは前よりも詳しくかかれているのかな? 詳しくというより別の面で書かれているのかもしれませんね(前の記事もずっと昔だと思うので、ほとんど記憶がないのですが)。学生時代ですか、、、、すごく早く「気付かれて」〈出家〉wwされているんですうね。そのセンスがワタシにも若い頃にあればよかった。「気づき」が遅ければ遅いほど【リアリティ】に絡め取られて〈出家〉することができない。
ただ、「気づき」〈出家〉できたのは、ご不幸な家庭環境(【リアリティ】)ゆえだったかもしれない。となると何が幸するか分からないといったところでしょうか? 「普通」にいけば【リアリティ】に絡め取られる【教育】をされていて、「強迫観念」でもって個々が【リアリティ】化していくのでしょうが、、、
十代で「気づいて」しまっている野口さんは天才なんでしょうね。生まれつき「音感が鋭い」とか、「身体能力が別格」というような天才と同様に「哲学的天才」もいるんでしょうね。
元々頭が悪く不幸なことに〈不幸な〉(に繋がる)経験もしてないワタシは努力しかないね。青カンという他者の〈不幸〉では、限界があります。


最近まったく読書をしてません。する気がおきなかった。少しずつ読みたいなぁ、という思いが再発しはじめています。もちろん愚樵さんの繰り返しの「引用」のおかげでね。とりあえず「東大話法」「親鸞」「野口先生」のあたりかな。「野口先生」の引用部分は天才すぎて盆栽なワタシが感銘するか不安がありそうです。あれはね頭で考える詩ではなくて、感じ取る詩なんですよ。しかもその感性は【リアリティ】に絡め取られた者では阻害されている。アキラさんのエントリーのように凡人に噛み砕いて紹介してもらえればいいのですが、、、(笑)。「親鸞」がワタシにはあってそうな予感。「東大話法」は批判本なのか? 「秘書室」(またかよ、爆!!)では自己を顧みず「ネトウヨみたいだ」と取り上げていましたので、その批判自体が【リアリティ】土俵のうえに立っているのはないだろうか? と、先入観をもち穿った読み方をしてしまいそうです(笑)。

ほっこり?

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

これを読んで頂いて、ほっこりですか? 笑。

思わぬ反応だなぁ。もちろん、良い方に。

(^o^)v

鋭い

・毒多さん、おはようございます。

道を間違って【クオリティ】が向上してしまうと【リアリティ】より悪くなりそうで

ご指摘の通り。この話はそちらでのPPPVさんへのコメントにも書きましたけど、できるだけ精密に話をしてみたいと思っています。ま、私の精密はたかがしれていますが。

【クオリティ】というのは、「空気」なんですよ。

『空気の研究』で山本七平が指摘したように、日本人というのは、どうしてもモノに臨在感を感じてしまう。これこそ〈クオリティ〉の種です。日本人だけではなく、人間は〈クオリティ〉にみたされていると幸せなんです。ところがどうも日本人は、欧米人の比較すると、より多くの〈クオリティ〉が要るらしい。〈クオリティ〉が足りなくなって、窒息状態になると【クオリティ】になり「空気」になるようです。

私はそう思っているものですから、〈クオリティ〉=〈霊〉を満たせとカンバンに掲げてあるわけで。笑。

愚樵さんの生い立ちは前よりも詳しくかかれて

こういった出し方をしたのはブログでははじめてです。裏では書いたことがありますけど。これまでは書いても、「ハラスメント」は臭わせないように注意していましたから。

そのセンスがワタシにも若い頃にあればよかった。

毒多さんの若かりし頃がどうだったかは知りませんが、おそらく違います。センスではないんです。センスがなくてもわかるくらい、あからさまだったんです。センスがなければわからないような隠微なものだったら、私は今頃向こう側です、おそらく。ドイツが好みでしたから「ドイツ人のように倫理がどうたらこうたら」と格調高く(笑)唱えていたことでしょう。

その、あからさまだったことがかえって幸運だったと今、思っているんです。当時は不運だと思っていました。いえ、最近まで思っていました。不運を乗り越えたと思っていたんです。でも、それも違った。幸運だったんです。そう思ったから、こんなのを「書いてしまった」。笑。

となると何が幸するか分からないといったところでしょうか?

そう、それを引き受けるか受けないかの話なんです。「私は引き受けた、大丈夫だ!」という宣言です。笑。

少しずつ読みたいなぁ、という思いが再発しはじめています。

それは何よりです。リストには『生きるための技法』も加えてやってください。

野口先生(と私も勝手に呼ばせてもらうことにしました)は確かに天才で、あの領域には常人が努力したところで届くものではないと思います。でも、野口先生ほど〈クオリティ〉をまっすぐに追いかけた人もいないでしょう。

前記事は『回想の野口晴哉』を途中まで呼んだ時点で、亡くなられる前に“体から白い煙のようなすう~っと出て行った”というところまで読んだところで書いたのですが、素晴らしいのはその後です。野口先生が人間の何を見ていたのか、ということが具体的にわかる。それを野口先生が見ていたように見極めるのは難しいでしょうが、でも、拙いながらも、私たちは他人のそのようなところを見ながら生きている。うまく見ることが出来ないから迷うし、誤解するし、不幸になるんです。ちゃんと見えれば迷うこともなく幸せなんです。たったそれだけのことです。

なので、私がオススメというなら『回想の野口晴哉』から。追いかけるもののイメージがはっきり掴めてからの方が、その後の読書の理解も進むと思います。

「秘書室」(またかよ、爆!!)では自己を顧みず「ネトウヨみたいだ」と取り上げていましたので

へえぇ、そうなんですか。体感できないんだな。こればっかりは、自分で掴むしかないから。それができないから、あんな「コンビニ」にしかなれないんでしょうね。

私はもう「コンビニ」には用事はないな。〈クオリティ〉の高いものを所望です。

ほっこりっていうの、わかるなあ。
ぼくもこの記事すきです。引き込まれるように読みました。とくに愚樵さんの生い立ちが書かれている部分。
愚樵さんの「実感」から出た言葉であるいうことを嗅ぎ取って、そこに<クオリティ>の一端を垣間見るからかもしれません。【リアリティ】から生まれた言葉には引き込まれないですから。(蛇足ですが、ぼくはリアリティという言葉を「実感」というニュアンスで捉えてました。愚樵さんの【リアリティ】とは違うようです。単語だけでは真意が伝わらないこと多いですよね。)

べつに愚樵さんの生い立ちを知りたいというミーハー的な心情ではないのですが、それを読んでほっこりするのは「共感」っていうことかもしれないなと思いました。同じ体験をしていなくても、あまり似ていなくても、どこかで共感(共鳴?)するっていうことがあるんだなあと。

追記です。
(スマホから書いてるのですが、コメントの編集がうまくいかず、連投失礼します)

ぼくは山のことをほとんど知らないし、ましてや樵のことははじめて聞く話ばかりで、体験の共感はしようがないのに、樵の話に引き込まれる(そして<クオリティ>を嗅ぎとる)のは、これが愚樵さんの「オレの場合」で書かれた文章であるからだと思いました。

誰もが読みやすいようにとか、論理的整合性が破綻しないようにとか、【クオリティ】を慮って書かれたものからは共感は生じなくて、オレが「オレの場合」のことを書いたものに共感する。オレはオレで、そこに書かれているオレとこっちのオレは体験していることも経験値も異なるぜんぜん別人なのに。不思議なものですね。

実は、何を隠そう

・山やまさん、おはようございます。

この文章を書くきっかけになったのは、何を隠そう、山やまさんの『オレの場合』です。〈クオリティ〉という言葉を使うことにしたのも、そうです。『オレの場合』を読んでいなければ、これまで通り〈霊〉という言葉にしていたところです。

「小島慶子さんの場合」で、“圧倒的なリアリティ”と仰った。これを読んだとき、私は、“あ、違う”と思ったんです。

「リアリティ」で間違いではない。間違いではないどころか、そちらこそが正しい用法です。でも違うと思ったんです。あの一文

ダシをとりながら、放射性物質も一緒に入っているんだなと思いながらお味噌汁を作り、そして子供たちと一緒に食べました。何とも言えない気持ちでした。

にはリアリティを超えて共感を呼ぶものがある。これを「リアリティ」と呼んでしまうのは、言葉の一般的な用法からすると正しいのだけれども、その一般的な用法そのものが誤っている。「リアリティ」と呼んでしまうことで、超えた共感部分を切り捨てるわけではないけれども、混同されてしまう。「リアリティ」は共感がなくても使えますからね。それで「クオリティ」という言葉が浮かんだんです。そこからこの文章が始まった。もちろん「愚樵の場合」です。

(というわけで、『オレの場合』のTBください。こちらかも送らせてもらいます。)

私の生い立ちの部分は、これまでは書くのを避けていたところです。書けなかったのです。これまで書くと絶対に「オレはこんなに優秀なのに不運があった所為で樵になっちゃった。でも、頑張ってるよ」というものになってしまったはずです。今回のだってそう受け取られるかもしれないし、逆に以前に書いてもそのように受け止めない人もいたかもしれない。けれども、自分がそう書いてしまうということが問題だった。もし、以前に書いていたら、好意的に受け止めてくれる人に好意を抱いて、擦り寄っていったでしょう。でも、これは自分を欺すことでしかない。騙してくれる人を好きになってしまう。

やっと、そうではないところで「オレの場合」を書くことができるようになった。自画自賛ですが、正直なところ、嬉しいんです。それが他人に“ほっこり”で伝わったというのなら、なおのこと。

不思議なものですね。

ですねぇ。しかし、考えると不思議ですが、「感じる」という構えからみれば不思議でも何でもない。当たり前のごく自然なことです。この不思議こそが〈学習〉の原理でしょう。安冨さんも、内田氏も、野口先生も、そこのところではみんな同じことを言っているのだと思います。

コンビニ。

>愚樵さん

毒多さんが村野瀬さんの「東大話法」に関するエントリについて触れていますが、一応フォローしておくと、村野瀬さんが「ネトウヨ」みたいと呼んだのは東大話法を操る人たちのことです。
あれはタイトル(キャッチ)の付け方に失敗しているんじゃないですかね。
私は東大話法を駆使するというか、思考をそのような形で表出する人たちと「ネトウヨ」は異なったタイプの人間だと思いますけど。
こんなことを書いてますが、未だに私は『東大~』を読めてません。図書館に行くと他館にしか所蔵していなくて、しかも予約23件とかですからね。無理。
ちなみに『一般意志2.0』は予約16件だったかな。無理。
東浩紀は、笙野頼子が「東ヲタ紀」とかディスってるんで私はそっちに引っ張られてあまり印象がよくないと言う部分もあるな。笙野は経路・方向性は違うものの愚樵さんと近い場所にいるような気がしますよ。とくに『おんたこ』シリーズや『金毘羅』などを読むと。
あ、でも笙野は明らかに幻覚体質なので愚樵さんともまたちょっと違うか。

「知」に関しては、音楽評論家でTV番組パーソナリティのピーター・バラカンが「日本人は『知識』を『雑学』のことだと思っている」と語っていますが、私もそう思います。というか私自身がそうだから。
愚樵さんのいう「クオリティ」と現在の平均的日本人が認識する「知」は断絶してしまっている(ように見えます)。
特に私のような都市生活者は。でも今は田舎住まいの人も概ね似たようなものでしょう。

うちの親父くらいの世代までは「学問するとバカになる」という言葉を知っています。日本人が教育を施されると「クオリティ」が目減りしてしまうという意なんでしょうが、私はこのフレーズを聞いて「なるほどね」とは思うものの、自分の中からこの言葉は出てきません。

余談ですが、私自身は「道」やある種の術式を通して「クオリティ」を上げることにはあまり関心がありません。
オウムの村井はジョナサン・リヴィングストンに憧れたそうですが、その結果はご存知の通りです。
自分が高めているのが〈クオリティ〉なのか、それとも【クオリティ】なのか、誰がどこで判断できるのか? とも考えます。私は少なくともそれを審判してくれる「神」を持っていない。

私が感じる神は、そういうことに関知しない。関心を持たない。
【クオリティ】が上がった結果、「クオリティの低い」大衆を蔑んだり憎悪したりするような可能性が自分にはなくもないなと思います。

ついでに書くと、これは養老の引き写しですが、東大や京大に進むような高偏差値の人間は「異常な人」です。
偏差という値にそれが現れている。愚樵さんは常人より高い方に偏っている異常な人ですよ。だからこういう高度な思索に届くことが出来る。
私は以前IQ159の男と一緒に仕事をしたことがあります。彼は漫画しか読まない男でしたが、思考力が私と段違いでした。まるっきり敵わない。普通じゃない。
愚樵さんもそういうタイプですよね。ハラスメントとそれに対する気づきだけでは、ここまで来られなかったでしょう。

異常の二乗かな? 

・平行連晶さん。いつものように気持ちの良いツッコミを入れて下さいますね。

村野瀬さんが「ネトウヨ」みたいと呼んだのは東大話法を操る人たちのことです。

なるほど。まあ、しかし、その反応も不健全だと思います。健全な人があの本を読んで感じるのは、まず、自分もそういった話法を多かれ少なかれ使ってしまうという「自省」です。彼女にとって「ネトウヨ」は自分と全く相反する存在である、ということは、自分の中に東大話法的な要素はないということになる。

いえ、そういう反省はみられるかもしれませんが、まずはネトウヨと来たところで...、まあ、そんなものだろうと。

東浩紀は、笙野頼子が

笙野頼子って知らないんですけど、「東ヲタ紀」はおもしろ。笑。たしかに、彼の普段の言動はそういう感じがしなくはない。といって、私は追っかけているわけではないですけど。ただ『一般意志
2.0』は、わりとノーテンキに未来を語っている分だけいいんじゃないですかね。あれを読んで私は東氏は基本的なところでは人間を信頼しているんだと思いました。

「日本人は『知識』を『雑学』のことだと思っている」

これ、重要な指摘です。その通りで、それが「日本的霊性」というものだというのが私の考えなんです。

日本人は個々のモノに〈クオリティ〉を求める。〈クオリティ〉は「知識」として記述できるところを超えたところにありますから、〈クオリティ〉主義者、言い換えると汎神論者にとっては、知識は雑学にしかならないし、それでいいんです。逆に、知識を雑学以上の体系にしてしまおうとすると、それは「重機」になってしまって、〈クオリティ〉をなぎ倒すようになる。

一神教的な伝統を持っている人たちは、山本七平が指摘しているように、原初的な個々のモノへの〈クオリティ〉追求を厳密に禁じるんです。そのかわりに「知識」の体系でもって、神というたったひとつの〈クオリティ〉へと迫ろうとするんです。その知の在り方を一神教的霊性と言えるのだとかんがえているのですね。

日本的霊性の持ち主にとっては、知識を体系的にしようと勉強するほどバカになるのは当然なんです。それは現代に至っても何ら変わりはないと思っています。

オウムの村井はジョナサン・リヴィングストンに憧れたそうですが、

野弧禅という言葉をご存知ですか? オウムのように、しっかりした師につかずに手前勝手に修行をすることを昔はそう呼んだのだそうです。こう言った言葉があったと言うことは、昔の人は【クオリティ】へと堕ちていく危険は高いことを認識していたということですね。そして同時に〈クオリティ〉への道筋があることも認識されていたということです。

自分が高めているのが〈クオリティ〉なのか、それとも【クオリティ】なのか、誰がどこで判断できるのか?

この問いはどこまでも無限退行していきますね。しっかりした師につくとして、それを誰がどこで判断できるのか、ということになる。わからないとしか言いようがない。が、同時にわかるときがくればわかるとも言える。

このあたりは内田樹氏の言説が一番納得行くのではないですか? 師がホンモノかどうか重要なのではなくて、ホンモノだと思いなすことが大切だ、と。そうした構えが「ホンモノ」の追究に繋がっていく。とはいえ、やはりつくならホンモノにつきたいのは人情ではあります。

で。

私も異常です、と? わははは、その通り! 

しかし、その異常性も私にとっては悩みの種なんです。なぜ「愚樵」などというHNを名乗っているのか? 衒ったのだと思う人も多いかもしれませんし、事実、その面はあるのですが、そうなりたいという憧れでもあるんです。 異常でなりながら異常に違和感を感じている。異常の二乗です。笑。

でも、日本の文化にはそういった面が色濃くあるのも事実です。

私も若い頃はご多分に漏れず西洋かぶれでした。教会へ行って洗礼を受けようかとかなり真剣に考えたこともあります。でも、結局行かなかったのは、そうすると自分の異常性を認めてしまうことになるという違和感からでした。当時はこんなふうに明確に言葉にはできませんでしたけどね。

話は変わるようですが、先日のコンポジウムの懇親会に竹原信一氏が来ていたんですよ。元阿久根市市長です。話をするとやっぱり変な人でしたが、大変立派なことを言っておられた。「政治家の使命は政治をなくすこと」だと言うんです。異常でしょう? いや、異常の二乗でしょう?

政治家という存在も別の意味で異常です。われわれにはそういう感覚がある。政治家になると得てしてそういうことを忘れてしまいますし、また、そういった感覚がない人が政治家になるわけですが、政治家を経験していながら、逆に政治家を経験しているからこそかもしれませんが、政治家が異常だという感覚を保持し続けているというのは、大変りっぱなことだと思ったのです。

まあそうだったんですね。それもまたおもしろいなあ。
というわけでTBしました。

たしかにぼくがあそこでリアリティという言葉を使ったのは「共感」というニュアンスをかなり含んだものでした。ほんと言葉の使い方って難しいですね。ぼくなんかもそうですが、言葉の定義というよりはイメージで使っているほうが多くて。

>この不思議こそが〈学習〉の原理でしょう。安冨さんも、内田氏も、野口先生も、そこのところではみんな同じことを言っているのだと思います。

そう思います。
芸術でも科学でも武道でもなんでもジャンルは違えど道を究める人たちは、【クオリティ】を極めていくと同時に<リアリティ>に到達するのだと思います。ダヴィンチやアインシュタインの多才ぶりはリアリティに達していたからだろうと。ジョブズもそうじゃないかな~と個人的には思ってます。次記事のマイケルもたぶんそうなんでしょうね。

TB、ありがとうございます。

・山やまさん

ぼくなんかもそうですが、言葉の定義というよりはイメージで使っているほうが多くて

みんなそうだと思いますよ。私が山やまさんの「リアリティ」かあ「クオリティ」を派生させたのだって、私のなかのイメージに基づいてですから。

そうやって言葉を分離させることの利点は、イメージをより膨らませることが出来ることだと思うんですよ。そうしたイメージの膨張がこの文章の発端になったのは、上のコメントで書いたとおり。

ついでと言っちゃあなんですが、こちらによくおいでになって下さるすぺーすのいどさんのブログへのコメントを引っ張ってきてみます。〈クオリティ〉のイメージが膨らむと思うので。
http://spacenoid.blog9.fc2.com/blog-entry-423.html

>「愛」は安定したイメージだが、「恋」はアクティブでエネルギッシュだけど安定感がないイメージ

ですよねぇ。同意です。で、これを〈クオリティ〉あるいは〈霊〉を使って言い表すことができると私は考えているんです。いずれ自分ちで取り上げようと思っていたのですが、すぺーすのいどさんのところで披露しちゃいます。

「愛」は〈クオリティ〉から生まれます。〈クオリティ〉〈霊〉とは、心の中にある他者の生き生きとした「像」のことですから、その質感が高まれば高まるほど、「愛」は深くなる。「像」が【クオリティ】あるいは【悪霊】であった場合には、「愛」ではなく「憎悪」になってしまいますけれども、いずれにしても根っこは「クオリティ」なんです。

対して「恋」は、〈クオリティ〉への「情熱」のことなんですね。恋したら、“もっと識りたい”ですよね? つまり〈クオリティ〉を高めたい。

「愛」の反対は「憎悪」ですが、「恋」の反対は想像できませんよね? それは「情熱」の反対を想像できないのと同じ。ただ“情熱がない”“恋ではない”というしかない。

「恋」は順調に育てば「愛」になります。これも間に〈クオリティ〉を置くと、わかりやすくなる。「恋」によって〈クオリティ〉への「情熱」が生まれて、その「情熱」によって〈クオリティ〉がだんだん高まる。すると〈クオリティ〉から「愛」が生まれる。下手に転ぶと【クオリティ】になって、「憎悪」になる。


この文章の〈クオリティ〉を〈リアリティ〉に置き換えても、文脈としては十分通ると思うんです。しかし、では、我々がたとえばおカネに感じている圧倒的な「リアリティ」とどう区別をするのかということになると、混乱してしまいますよね。そうするとせっかく膨らんだイメージが混乱によって縮まってしまう。その点「リアリティ」と「クオリティ」を分けてしまえば、膨らんだイメージを保持できて、具合がいいなと思うのです。

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