愚慫空論

野口整体はナンパ術だった。笑。

昨日、念願だった野口整体「愉氣の会」へ出かけてきた。

 光るナス@らくらく塾(Facebookページ)

“念願だった”というのは、ちょっと違う。確かに、山梨に越してきて以来、富士におられるというアキラさんのことは意識していた。ネットの上ではアキラさんとは、私が熊野にいる頃からのお付合い。アキラさんを通じて私は野口整体に関心を持っていたし、野口整体は身体術だから、いくらテキストのやりとりをしていても通じるものには限界があるし、いずれ野口整体には直に触れてみたいし、そうなると門を叩くのはアキラさんのところだろうし...、と、ずっと思っていた。“念願”というとそれが出来なかったという響きになるが、やろうと思えば本当に出来なかったわけではない(昨年は本当にムリだったけど...)。ただ、なんとなく、機が熟していない、と感じていた。

それがやっと――というのが“念願”の意。今年になってから、3日間の断食をしてみたり、まだ記事にはしていないけれども、食べる量を減らしてみたり。こうした「現象」も機が熟したことの現われだと解釈しているが、その予感は実は昨年からあって、その証拠というわけではないけれども、昨年末のアキラさんへの挨拶は「来年こそよろしくお願いします」だった。

さて、そんなわけで体験してきた野口整体がナンパ術だったとは酷い話のように思われる――人はいないと思うけど、一応、念のためにいっておくと、これはものの例え。あまり上品な例えでないことは認める。ま、そこはそれ、樵の戯れ言ということで。笑。

これ、実際にアキラさんに向かって吐いた言葉なんです。アキラさんは笑って許してくれました。(^o^)

この言葉が出たのは、昨日実習したメソッドのひとつ「腕を引っ張る」の折に。呆れるなかれ、「腕を引っ張る」のが野口整体なのである――というのはさすがに嘘だが、アキラさん曰く、「腕を引っ張る」ことは野口整体のなんたるかを知る上で重要な要素がたくさん含まれている、んだそうだ。もちろん、ただ漫然と引っ張ればいいというわけではない。ピッタリ――とアキラさんは表現した――引っ張らなければならない。

回想の野口晴哉(それにしても、こういった方法論を体系付けた野口晴哉という人物はどんな人だったんだろう? とても興味が湧く。右掲書は注文してあるので、近々読んでみるつもりだ。)

それはこういうことである。他人に腕を引っ張れると、大抵の場合、人間の体は自然に拒絶反応を起こす。この拒絶は無意識に行なわれるものだ。腕に引っ張る力が加わると、身体は勝手に身構えるのである。しかし、上手にやると、身体の無意識的拒絶を引き起こすことなく、腕を引っ張ることが出来る。拒絶がないから縮こまった腕の筋肉や筋を能く伸ばすことが出来る。この「上手に」が「ピッタリ」なわけだが、そこをもう少しだけ詳しく説明すると、

 1.相手の腕を引っ張る
 2.相手の腕の反応を感じる
 3.相手の腕の反応に応じて、腕を引っ張る

というだけのこと。それだけだが、2.を感覚でキャッチしてそれを意識化して3.の動作へ結びつけるというようなことをやっていると、2.と3.に間隙が出来てしまって「ピッタリ」とはいかない。だから、意識せずに相手の反応に応じて、引っ張ることができるようにトレーニングをする。「ピッタリ」いくと引っ張られる方は気持ちがいい。

この「ピッタリ」は、人それぞれで異なる。同じ人でも、1回ずつ違う。一度引っ張れば多少なりとも腕は伸びるから、次に引っ張るときの状態は一度目とは異なっている。だから、毎回、機械的に引っ張ることはできない。相手の腕とコミュニケーションしつつ引っ張らなければならないのである。

さらに。それができるようになると、次は意識的に「ピッタリ」よりも少し強く引っ張ることをする、というのである。それを聴いて私は、なるでナンパだ、といって笑ったわけだ。相手に拒絶反応を起こさせないように、上手に、いや、かすかに拒絶反応を起こさせつつ、わずかな拒絶が快感になるように、引っ張る。これ、ナンパの極意でないかい? 

(おっと。ここで言うまでもないことを言っておくが、私はナンパの熟達者などではない。私はナンパなど、したこともない。ただ、

 宮台真司、ナンパを語る - Togetter

といったようなテキストを勉強して「アタマデッカチ」になっているに過ぎない。笑。)

このときの話をもう少し続けてみよう。

アキラ先生からの注意事項は、引っ張る姿勢にも及んだ。曰わく、腕で引っ張ってはいけない、腹で引っ張ってはいけない。背中で引っ張ってはいけない、とにかく「いけない」「いけない」をいくつか並べ立た。要するに全身で引っ張れということなんだけれども、「いけない」「いけない」を意識しては絶対にバラバラになると思ったので、そこは聞き流して(ゴメンナサイ)、私は勝手に自分で引っ張るイメージを造り上げた。そのイメージが、やっぱりナンパである。幸いにも、実習の相手はゆめやえいこさんというチャーミングな女性だ。

 ゆめやえいこ ゆめがたり

そこでイメージしたのはこうである。相手の反応を感じつつ、全身で引っ張りつつ、自分の懐の中へと導き入れる。けっして疚しいことを考えていたわけではない。ただイメージしただけだ。その証拠に、えいこさんってうちの嫁と歳かわらないんだよなと思った瞬間に、バラバラになった...。

あれ、証拠になっていない? まあ、いいや。とにかく、一時的ではあったにせよ効用があったことには間違いないのだ。もちろん、現場ではそんなことは口にしていない。出来るはずがない。笑。

まじめに書こう。いや、これまでもマジメだが。

整体入門実技が始まる前、アキラさんはごく簡単なレクチャーを行なった。そこで出てきたキーワードは3つ。「活元運動」「行氣」「愉氣」である。

これらを詳しく説明出来るだけのものは私にはない。そのあたりはアキラさんに尋ねて頂くか、右の『整体入門』でもご覧頂くとして、(私が勝手に)簡単にいっておくと、「活元運動」とは体の偏りを正す体の自発的な運動、「行氣」とは活元運動を意識的行なうための“氣”を練ること、「愉氣」とは練った“氣”を相手に同調させることで相手の身体の活元運動を促すことである。そして、この「同調」のありかたを表現したのが「ピッタリ」というわけだ。

ならば“野口整体はナンパ術である”の言は、一面的ではあるけれども、アナロジーとしてそんなに外れたものだとは言えない。と思う。

アキラさんは「同調」について、別の言い方もしていた。「ピッタリ」のような端的な言葉ではない。またしても私が勝手に言葉にすると“相手のファントムペインを感じる”ということにでもなるだろうが、こういうことだ。たとえば相手の肩に手を置いて繋がり、相手の身体と同調したとする。すると、相手の身体の痛みのある部分、仮に右の膝だとすると、その痛みが察知できて、「そこ! 痛いでしょう?」という具合にわかるという。これがさらに発展すると、直接体を触れなくても、遠隔操作でも同調できるようなるし(ユリ・ゲラーだ、というのは古いかw)、過去の「痛み」も察知できるようになる、という。

私は、それは技術なのかと(敢えて)問うてみたが、アキラさんの答えは明確に「技術だ」であった。確かに、昨日教わった愉氣の実践、それは鼻の周辺の調子を整えるためのものだったが、それを見る限りな身体の具体的な構造に基づいた技術であるといえる。ただし、やはり“氣”が何かとは具体的には言えないし、ましてそれが時空を超えても作用するといった話なると、「トンデモ」という評価にもなりかねないとも思う。

もっとも、アキラさんをはじめとして野口整体を学ばれている方々は、そんな外部の評価など気にしはしないだろう。それはそれでいいと思っているのだが、ただ、野口整体というものがどういったものなのかということを私が自分の言葉するときに、限界を感じてしまうということ。なので“ナンパ”などと言ってみたりはするのだが、それでも限界は超えられず、その限界がもどかしいのである。

長くなるが、ここでこの文章はここで切るわけにはいかない。もどかしいと感じるには(私なりのではあるが)理由がある。

いつものことだが、話が飛躍する。

『今を生きる親鸞』の第四章(「愚」に帰る)では、「かわいそうなネルソンさん」の話が紹介されている。

今を生きる親鸞

 ネルソンさんは、ベトナム戦争から帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみました。いわゆる戦争後遺症で、戦争をありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢といったかたちで、戦争の再体験をして苦しんだのです。
 戦場で目の当たりにした殺毅やあらゆる暴力、そして自らも多くの人々を殺したことが片時も頭から消えず、その惨劇が悪夢となつて毎晩のようにネルソンさんを襲いました。
 ちょっとした匂いや音でもすぐ戦闘状態に戻つてしまい、帰国後わずか一週間で家族から追い出され、ホームレスの生活を余儀なくされたのです。まさしく「生きる場」を失つた苦しみです。
 ネルソンさんは、その耐えがたい苦しみから、自殺を試みたのです。彼と同じように苦しむ帰還兵で自ら命を絶った仲間は数万人にのぼると言われています。
 その、ネルソンさんが立ち直ろうとしたきつかけは、ある一人の少女との出遇いでした。ホームレスを続ける彼が、学生時代の友人である教師に頼まれて、小学校でベトナムの体験を話すことになり、四年生の教室に立ちました。しかし、いざ子どもたちの前に立つと、ジャングルで自分がしてきたこと、見てきたことをありのままに語ることはできなかつたので、戦争一般の恐ろしさを話してその場をやり過ごしたのでした。
そんなネルソンさんに一番前にいた女の子が質問したのです。「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」と。ネルソンさんは、そのことこそ、どうしても忘れてしまいたい、思い出したくない、消し去りたいと思つていたことなので、答えることができず、目をつぶつて下を向いてしまったのです。様々なことが頭をよぎりながら、最後に目をつぶつたまま小さな声で、しかしはつきりと「イエス」と答えたのでした。
 すると、苦しそうな彼の姿を見て、質問した女の子は彼のところまできて彼を抱きしめました。彼が驚いて目を開けると彼のおなかのあたりで目に涙をいつばいためた少女の顔がありました。「かわいそうなネルソンさん」。そう言ってまた抱きしめたのです。
 その一言を聞いたとたん、彼は頭が真っ白になり、大粒の涙が彼の目からあふれ出たのです。教室中の子どもたちが皆かけよつて彼を抱きしめました。子どもたちも先生も皆泣いていました。
 「この時、私の中で何かが溶けた」とネルソンさんは述懐しています。・・・


ネルソンさんを抱きしめたという少女はこのとき、ネルソンさんと「同調」して「ファントムペイン」を的確に察知し、そして「愉氣」したのではなかったか。

これを子どもらしい純真さのゆえの行動だと言ってしまうこともできるだろう。だとすると、大人にだって子どものような純真さがあれば、同様の行動は可能だいえることになって、そこには「大人としての技術」は介在する余地はないということになる。が、果してそうか。

私がアキラさんに向かって「それは技術か」と尋ねた核心はここである。具体的な身体と抽象的な心との違いはある。身体の場合には傷んでいる場所を具体的に指摘出来る。が、「同調」という現象がおこっているとするならば、身体と心とが不可分な状態にあることは事実となる。もちろん、そんな事実はないという意見もあるだろうし、その意見に明確に反論できる根拠を持たないことは、上で述べたとおりだ。

「同調」が「大人の技術」として確立しうるものであり、それが身体のみならず心にも作用させることができるとするならば。何度もいうが、こういった問題提起そのものを「トンデモ」として退ける立場の者を説き伏せる材料はない。現段階で言えるのは、それを「トンデモ」と断言できるほどに私たちは私たち自身のことをわかってはいないというだけだ。

身体にも心にも「愉氣」をすることが出来る体系的な技術など原理的にあり得ない、とわかったならそれはそれでいい。かえってスッキリしていい。だが、それは私の「直観」に反する。直観としか言いようがないことがもどかしいのだが、何かあると思えてならないのである。

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」

ついでながらいうと、私は安冨教授の、「魂の脱植民地化」のテーマのもとで提示される理論が、その「何か」に近いようなきがしている。思うに、安富教授の理論は「人間そのもの」に信を置くことから出発している。そして「人間そのもの」の正体を追究することはおいて、「人間そのもの」を阻害する要因を科学的に研究するのだ、としている。この姿勢は、どこか野口晴哉が提唱したという「活元運動」に通じるものがあるのではないか。

これももちろん、根拠不明の私の直観でしかないが。


【追記】 アキラさんのほうでも、記事を挙げてくださいました。

 リアル愚樵さんにお会いできました♪(光るナス

稽古で行なった「腕の引っ張り」についてはもっと的確に表現されていて、さすがは専門家という感じです。是非ともこちらもどうぞ。

コメント

整体といえば野口先生

はじめまして。
 えっとぉ・・・題名のとおりって感覚でいますので「野口」整体と聞くとどこか違和感が湧いてしまいましたです。
 あ、単なる個人の感想です(笑)、文句をつけているわけではありません。
 
 50年ほどまえに玉川道場で直接の愉気の会に参加する機会があり、「気」を体で実感しました。
 確かに基本は活元運動って理解で居ました。 風邪を引くのが敏感な体のしるしといわれたり、火傷はすぐに流水で冷やせと指導されたりして当時の世の常識(?)基準に罵詈雑言を浴びせられた時期がありました。
 でも、今では承認されている知見が多いように思います。

 なるほどなぁ「ナンパ術」という捉え方、ユニークで面白いなあ と、ついコメントをいれたくなってしまいました。

ありがとうございました

昨日はお疲れさまでした。
愉しい時間となりました。

この少女とネルソンさんの間に起こったことは「愉氣」だと言っていいと思います。
それを成り立たしめたのは、整体的に言えば、少女の「天心」です。

この「天心」、野口先生いわく「赤子の天心」と「大人の天心」とあるとのことなんですね。
言ってみれば、大人になることで、僕らは「赤子の天心」を失うのかもしれません。
そこで、愉氣をするためには、再び「天心」に立ち戻る必要が出てきます。
すなわち、大人になった以上、「大人の天心」を成り立たせる必要がある。
(この「大人」は、生物学的にという感じですかね)

そのためのいろいろなこと、それが「技術」だと僕は思ってます。
それはおそらく、「これをする、あれをする」というよりは、「これをやらない、あれをやらない」という引き算の発想だとは思いますが。

そうして、いつでも誰に対してでも、この「天心」を発動できる。
そこを目指したいわけです。
だからやっぱり「技術」にならざるを得ないです。
気持ちが動いた人にだけ、自分が好きな人にだけ・・というのでは、これはやっぱり「赤子の天心」ですよね。

そんなことですので、こういう類いのことを「トンデモ」と退けてしまう人たちを納得させることは、絶対(と言っていいほど)不可能だと思いますよ。 (^o^)
だって、体感的にこういうことが分からないんですもの、そのような方々は。

成瀬吉明さんって空師?

・成瀬吉明さん、ようこそ。

そちらの『木挽屋』のページを拝見させていただきました。木の高いところので作業が多いようにお見受けしたんですが、もしかしたら空師さんですか?

「野口」整体と聞くとどこか違和感

なるほど、野口整体は、ザ・整体ということですね。

で、50年前ですか。なら、まだ晴哉氏存命の頃ですよね。

当時の世の常識(?)基準に罵詈雑言を浴びせられた時期がありました

へえぇ~、という感じです。世の中、少しは進歩したのでしょうか。

「ナンパ術」という捉え方、ユニークで面白いなあ 

ありがとうございます。また気軽にコメントください。

お世話になりました

・アキラさん、おはようございます。

なるほど、「天心」という言葉があるわけですね。

すなわち、大人になった以上、「大人の天心」を成り立たせる必要がある。
(この「大人」は、生物学的にという感じですかね)

そうして、いつでも誰に対してでも、この「天心」を発動できる。
だからやっぱり「技術」にならざるを得ないです。

はい。このあたり、よくわかります。ここでいわれる技術とは自身にむけた“内向き”のものだということですね。

この「子ども」と「大人」の捉え方は私とアキラさんとで意見が合わなかったりする点ですが、「天心」という言葉が入ってきたことで整理がついたと思います。ここに私の〈霊〉の理論を応用すると次のようなことになります。

1.人間には「魂」があり「天心」は「魂」に所属する。
2.人間は成長するにつれて「器(インターフェイス)」に〈霊〉を保持する。
3.子どもは「器」が小さく〈霊〉も少ないため、「魂」に存する「天心」が発動しやすい。
4.大人はは「器」に様々な〈霊〉を持つ。
  さまざまなハラスメントを引き起こす【悪霊】を保持していることが多い。
5.【悪霊】は、ハラスメントのみならず、「天心」の発動をも妨げる。
6.「大人の天心」を発動させる「技術」とは【悪霊】を鎮め「器」を治める技術である。

相手を好きとか嫌いとかいうのは、保持している〈霊〉の性質による。【悪霊】となっている相手は「嫌い」という感情になって表れ、「天心」が発動していかない。なので【悪霊】を鎮めなければならないわけですね。その際は「除霊」ではない「鎮霊」をしなければならない。そのための技術――といったようなことになっていくのでは、と、今、考えました。どうでしょう?

こういう類いのことを「トンデモ」と退けてしまう人たちを納得させることは、絶対(と言っていいほど)不可能だと思いますよ。

ま、相手にブロックされては「天心」も届かないでしょうし、それをこじ開けてしまっては「天心」そのものがなくなってしまう。

そうそう、お聞きしたいと思っていたんですが愉氣においても、相手の心理状態が関係してくるものなのでしょうか? つまり、そんなの効くはずがないと思っている人にも効くのか、という疑問です。

RE:お世話になりました

そうか、技術の “内向き” “外向き” か、なるほどです。

大人になるとたくさん余計なものが出てくるので、それをどうにかしないといかんわけです。
また、いつでも、どこでも、誰にでも、自分がどんな状態でも、を目指したいので、インターフェイスの「鎮霊」という捉え方はそんな感じだと思います。 (^o^)

『「トンデモ」と退けてしまう人たちを納得させる』というのは、相手が愉氣を受けて・・という話だったんですね。
そうは思ってませんでした。 (^_^;)
相手がトンデモだと思っていたり、「そんなの効くはずがない」と思っていても、愉氣自体は(技術があれば)通じます。
実際の変化もします。

ただその変化を、相手が感じるか、認めるか、受け入れるか、というところで大体はアウトになりますから、「何にも変わりゃあしない」という話になります、大概は。
とはいえ、そうは言いつつ、だんだん変わっていっちゃえば、認めざるを得なくなるわけですが、これまた大概ヘンテコな(ミョーなロジックの)受け入れ方をします。

まぁ、愉氣は基本的にはコミュニケーションですから、そのへんが問題にはなってきますよね。
そこで僕らは、そういう人たちにはうむを言わさぬ “外向き” の技術を使います。 (^o^)

“外向き” の技術も、もちろん “内向き” の技術が運用の前提になります。

いいなぁ…

こんにちは、愚樵さん。

アキラさんとお会いになったのですね。
いいなぁ。

私も「心」と「身体」の関係については以前よりとても興味があります。
そういった関係のワークショップ等に通っていたこともあります。

その中で印象的だったのは「身体の力を抜く」ことの難しさです。
そこで2人組になって1人は仰向けに寝て全身の力を抜き、もう一人は相手の手や足をゆっくり重みを感じながら持ち上げるというのをやったりもしたのですが、これが人によってはなかなか難しい。
相手に持ちあげられる手や足を思わず自分でフォローして持ちあげちゃう。
そして持ちあげている方の相手にも解るんですね。力が入っていることが。

これは単純な例ですが、アキラさんの様なプロになれば、力の入っている場所、姿勢などからいろいろな事が解るのでしょうね。そこがスゴイ技術なんだと思います。

ネルソンさん気づきの話は良いですね。
ただこの少女はごく普通の少女ですよね。
ネルソンさんくらいの心の大怪我をしている人を見れば、普通の感覚の人でも「なんか違うな」「ちょっと変だな」と思う筈なんですよ、きっと。
ただみんなそれを口に出さない。気付かなかったふりをする。なんですよ。
それを指摘することで逆ギレされる可能性を考慮しているところもあるのかもしれませんね。

この少女は見たまま感じたまま当り前の事を言っただけ。
「裸の王様」の寓話と同じです。少女は「王様は裸だ!」と指摘したにすぎないと私は思います。
もちろんネルソンさんは王様の様に恥ずかしい見栄を張ってたわけじゃない。
ネルソンさん自身も誰も指摘されないから、自分が裸なんて気付いてなかった。
でも「なんか寒いな」とか「なんか白い目で見られてるな」とか思ってた。

そんな風に思いました。

ちょっとちがうな。

読み返してちょっと違和感あったので補足します。
少女はネルソンさんに指摘した訳じゃないですね。

でもなんだろ?
「寄り添った」?かな。
「解り合った」?じゃないね。
「共感した」?でもない。

やっぱ「寄り添った」?のかな。

氣。

本エントリで語られているものと同じかは分からないものの、私も昔から「氣」のようなものを感じますよ。
両の掌を擦り合わせて、そのまま掌を向かい合わせにしたまま少し隙間を空けると、ぽわんとした弾力のある何かが掌の間にあるのを感じます。
或いは、両掌が磁石のように吸い付けられる感覚を感じることもあります。

また、ハンドルネームから分かるように道楽で鉱物標本を集めているんですけど(パワーストーン信仰のような趣味はなくただの鉱物収集)、スモールキャビネット程度のサイズの鉱物からも磁力のようなぽわんとした何かが出ているのを感じます。掌を近づけると押し返されるような見えない圧力を受けたりとか。

自分の場合、生来オカルトに引っ張られがちな気質があるようで、なるべくオカルティックな思考を持たないようにしています。でも、このエントリのような話になるとやっぱり自分の根が顔を出してしまいますね。
愚樵さんがオカルトの話をしているわけではないのは分かっているつもりながら、どうしても受け手側のバイアスとうものがありますので。

それから、過去に2日断食くらいなら何度かしたことがあります。なので、以前愚樵さんが断食の話を書いていた時は奇縁を感じて少し驚きました。
断食に馴れると空腹が苦痛でなくなりますね。
取り留めのない話になってしまいました……。

外向き” の技術

・アキラさん、おはようございます。

うむを言わさぬ “外向き” の技術を使います。

これ、関心あるなぁ。どんなだろう?
やっぱり合気道みたいな感じになるんですかね?

『「トンデモ」と退けてしまう人たちを納得させる』というのは、相手が愉氣を受けて

あ、いえ、私もそこまで考えていませんでした。でも、流れとしてはそうなりますね。

そちらで私が受けている温熱療法の話をしましたが、その先生がそのようなことを言うんですね。神経の緊張を解放することで筋肉の緊張も解放していくんだけれども、そういったことがあるんだと信じられない人には、効かないと言わないが効きにくい。やっぱり

ただその変化を、相手が感じるか、認めるか、受け入れるか、というところで大体はアウトになりますから、「何にも変わりゃあしない」という話になります、大概は。

になるみたいです。そこのところが愉氣ではどうなのかな、と思ったもので。

名古屋から富士では遠いですよね

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

へへへ、いいでしょ。(^o^)v

すぺーすのいどさんもいらっしゃれば? と言いたいところですけど、名古屋からではね。私は今、富士吉田なので、ちょうど富士山の表と裏。距離にして50キロくらいかな。

いっそのこと、名古屋へアキラさんをお呼びしてはどうですか? 希望者を何人か集めることができれば実現するかもしれませんよ?

その中で印象的だったのは「身体の力を抜く」ことの難しさです。

これ、私たちが稽古したことと同じなんじゃないかな。メソッドが違うだけで。アキラさんは「動・感一如」と端的に言われましたが、別の言い方をすると「(余計な)身体の力を抜く」になるのではと思います。「余計な部分」が【我】の部分であり、そこを削ぎ落とすことで「動・感一如」へ行こう、ということですから。

ネルソンさんの話は、実は私は以前から知っていました。最近は言わなくなりましたけど、護憲運動ブログの頃に出会っています。

ネルソンさんはベトナムで殺すことが正義だと考えてその任務を遂行していたわけですが、あるとき、出産の現場に立ち会ってしまったそうです。立ち会ったといっても、女の人がひとりで出産しているその場面に出くわしただけだったらしいですが。もちろん、戦闘の最中に。

生み終えた女性は、同時に生み出した胎盤をネルソンさんにむかって投げつけて、だったかな? そのあと赤子を抱えて走り去った。自分はベトナム人を殺すことを正義だと思っていたのに、殺せなかったという話。

ちなみにネルソンさんはその後、日本でお坊さんになったとか。

この少女は見たまま感じたまま当り前の事を言っただけ。

ええ、その通りだと思います。その「だけ」が大人になるほど高度な技術を要するほど難しい、という話ですね。野口晴哉の言葉を使えば「天心」ですが、その発動を意識的に行えるようになるためには心身の鍛練が必要だということで、ここで心と身体の関連が問題になってくる。

やっぱ「寄り添った」?のかな。

だと思います。

内向きの「氣」、外向きの「氣」

平行連晶さん、おはようございます。

実はアキラさんと交わした会話のなかで、中国の「氣」についての話題も出たんです。「氣」というと“なにかを注入する”といったイメージで語られることが多いじゃないですか。整体のなかにも「気功整体」というようなものもあって、実は私も一度受けてみたこともあるんですが、やっぱり「注入系」でした。

上のアキラさんへのコメントに「合気道」って出ていますけど、これもその時出たんです。中国の拳法が注入―放出系だとしたら、合気道はむしろ受容系ですよね。受容しながら躱す、みたいな。

で、平行連晶さんのコメントから感じるのは、放出系な感じです。何かそこの物理的なパワーが実在するような。

放出系と受容系との「氣」があったとして、それがどのように異なるのかはまったくわかりません。ただ「氣」の使い方が異なっているだけなのかもしれない。その当たりを言葉にできるだけのものは全く私にはありません。でも、「氣」が実在するかどうかはともかく、「氣」というものを想定することで一定の「現象」が起こることは確かだと思います。

おそらく「氣」そのものに言及しようとすると、将来的にはわかりませんが、現段階ではオカルトになるでしょう。ですので、“オカルトの縁”を回るような感じで「氣」については言及しているつもりです。理解して頂けていると思いますが。

平行連晶さんがオカルトに引っ張られる性質があるというのは、なんとなく想像できますね。もしかしたら、それゆえに鉱物へと感性のアンテナをチューニングしたかもしれませんね。動的な生物に合わせてしまうと、オカルトへ飲み込まれてしまったかもしれない。

過去に2日断食くらいなら何度かしたことがあります。

やってそう。笑。

よもやま話。

>放出系な感じ

返信ありがとうございます。
で、この「放出系」な感じというのは実際その通りなんですけど、前述したように吸い付く感覚もあります。表面張力みたいなイメージです。
その時その時で感じ方が違うので、実際に体験してもらうしかないのが悩ましいところです。自分の場合植物よりも鉱物の方に「氣(?)」を感じやすいです。また左掌(利き手)よりも右掌の方が感覚が鋭いようです。

>、意識せずに相手の反応に応じて、引っ張ることができるようにトレーニングをする。「ピッタリ」いくと引っ張られる方は気持ちがいい

これを読んで思い出したことがあります。
その昔10年間くらいタランチュラを何匹か飼っており、そのうちの1匹が脱皮に失敗して死にかけたことがあります。
蛛形綱の生物は、みな定期的に脱皮します。タランチュラの仲間は脱皮の際に仰向けになります。頭胸部の背甲が外れて、そこを出口にして古い外皮から体や脚を抜きます。仰向けになりデニムパンツを上に向かって脱ぐような要領。
これをうつ伏せでやると脱皮に失敗して、おしまい。
何故か飼っていた蜘蛛がうつ伏せで脱皮を始めてしまい、途中で私が気が付いたので慌てて仰向けの状態に返しました。
脱皮は何とか終えたんですけど、体力を使い果たしてしまったのか歩脚を畳んだまままったく動かない。

昆虫の屍骸や標本などご覧になればお分かりでしょうが、脚を畳む→死、です。
なので、歩脚をつまんで引っ張り、1本1本繰り返し伸ばしては戻すという「ストレッチ」をやりました。
脱皮したてで関節も外皮も柔らかいんで、力を入れすぎたら関節が壊れるか脚がもげてしまいます。
歩脚を伸ばしたり、縮めたりは蜘蛛のレスポンス(といっても半死半生のグッタリ状態なんですけど)に全感覚を集中しながら慎重に行いました。
たまたま運が良かったのでしょう。なんとか蜘蛛は蘇生しました。放置していたら死んでいたのは間違いないです。

たぶん歩脚の曲げ伸ばしに効果があったのは、蜘蛛が衰弱していたために逆に「抵抗」の構えがなくなっていたことがプラスに働いたのだと思います。衰弱したために私からの働きかけを受容しやすくなったと。
そう考えると「衰弱」にもある種の効用があるのだなと思いますよ。

蛇足ですが、中南米産のタランチュラの仲間は体毛に毒があるので、素手で触るのはお勧めしません。
手袋をはめると微妙な感覚が読めなくなるので、素手でやりましたけど。



ついでに。

愚樵さんは山梨県在住のようですが、甲府にはスクナビコナを祀る金櫻神社があり、ここの神宝は「水晶」なんですよね。
本当にエントリと何の関係もない話で、すみません。

平行連晶さん、オモシロ杉 (^o^)

おはようございます。

タランチュラに「愉氣」したなんて。おもしろすぎ。(^o^)

この調子で、どんどんコメントしてくださって結構ですよ。
というか、いっそのこと自分でブログを立ち上げればいいのに。

それが面倒、もしくは抵抗あるなら、なんでもウェルカムですよ。記事に関係なくてもぜんぜん構いません。

で。金櫻神社ですか。昇仙峡の方ですね。

よくは知りませんが、山梨は水晶が昔から産出されるのでしょう。宝飾品加工も、私は山梨に来てから知りましたが、地場産業のひとつのようですね。

また脱線です。

>愚樵さん

甲府は水晶の一大産地「でした」。
既にあらかた掘り尽くしてしまって、今ではほとんど良質の水晶は産出されないはずです。
現在流通しているインクルージョンやクラックの少ない良質の無色透明な水晶は、ブラジル産や米国のアーカンソー産が多いですね。ヒマラヤ産やスイスアルプス産もありますが、特にスイスアルプス産は大変お高いです。掘りに行くのがまず一仕事な上に、甲府のひそみにならってというか何というか、大分稀産になってきているようで。

それでも甲府には、水晶の名産地として名を馳せた往時の面影が、宝飾加工業が産業として定着しているところに見受けられます。

私が集めているのは9割がた未研磨の原石で、残り1割弱がカボション等の研磨した鉱物です。
その中で、ブラジル産の直径8cm弱の水晶球があり、これはインクルージョン/クラックのない良品ながら購入時に擦り傷が何箇所かあり、甲府の宝石研磨業者に頼んで磨き直して貰いました。研磨料が3万円でした。

それはともかく、2つほど驚いたことがありまして、一つは研磨業者のおじさんの親指。
親指の腹が、普通の成人男子の倍ほどの分厚さなんです。業者さんが言うには、30年以上この仕事をしていたら、こうなったとの由。
もう一つは、研磨が仕上がった水晶を受け取った際、業者さんに「この球は完全な球形じゃないね」と言われたこと。僅かに歪んでいるらしいんです。もちろん私が見ても全然分からない。
おそらく、触感で真の球体であるか否かが分かるんでしょう。わざわざ研磨のためにゲージで測る必要もないでしょうし。

こういった、人間の皮膚/脳がもつセンサーの(潜在的な)霊妙さには、まったく驚かされます。
自動車のエンジンを製作する職人などは、シリンダーの1/100mmの凹凸も指で感じることが出来るといいますからね。

そのうち平行連晶さんの「脱線」まとめエントリーをあげよう

・平行連晶さん、おはようございます。

というわけですので、もっと、脱線してください。(^o^)

...といっても、そう言われるとかえって難しくなったりするんですが? 難しくなければどんどん、やっちゃってください。

甲府は水晶の一大産地「でした」

なるほどねぇ。

それはともかく、2つほど驚いたことがありまして、一つは研磨業者のおじさんの親指。
もう一つは、研磨が仕上がった水晶を受け取った際、業者さんに「この球は完全な球形じゃないね」と言われたこと。
>[色:0000FF]こういった、人間の皮膚/脳がもつセンサーの(潜在的な)霊妙さには、まったく驚かされます。


ここいらは愚樵空論的には全然脱線ではないですね。

〈対話〉あるいは〈学習〉の成果ですねぇ。

そうやってひとつの「道」を突き詰めていくことを尊ぶ精神的・文化的な価値観が日本にはあります。そういった職人技が妙技に域に達することは、唯物論的な見方でいけば単に「職人技」ですけど、それだけではない「プラスアルファ」があるというのが、私たちの「見方」だと思うんです。

現代はそのことがかえってマイナスに作用している部分もある。「専門家信仰」とでもいうべきものが私たちの文化的要素の中にあって、それが原発安全神話が構成される際の重要な要素になっていったような気がします。

愚樵さんのナンパは上手でした^^

愚樵さん、こんにちは。
愚樵さんが、「ナンパ」と言い出したときは「そう来るか」と思い笑っちゃいました。^^
愉氣(整体)の学びは、なんでこれだけのことで変化するのか?と驚くこと多々です。
自分のこともよく観察できちゃうし。

ネルソンさんの話しを読んで、愉氣に対する初心を思い出しました。
からだの痛みにもこころの痛みにも愉氣は届く。

愚樵さんがいらっしゃったおかげで、私の「やる気」が増えましたから、
ぜひまたご参加くださいねー♪

今度はいっしょにラーメン食べましょうね (^o^)

ゆめさん、おはようございます。

愚樵さんが、「ナンパ」と言い出したときは「そう来るか」と思い笑っちゃいました。^^

私としては安直だなと思ったんですけどね。だって女の人を「引っ張って」いたわけだし。笑。

愉氣(整体)の学びは、なんでこれだけのことで変化するのか?と驚くこと多々です。

まだ私はわかっていないな。一回だけだしね。

からだの痛みにもこころの痛みにも愉氣は届く。

そうだ、という確信を私はまだ持てません。そうかもしれない、と思っている段階。アキラさんのところへ行ったのは、それを探るためというのが一番だったかもしれません。

愚樵さんがいらっしゃったおかげで、私の「やる気」が増えましたから、

それは何よりです。実は私の方は、アキラさんのところへもコメントしたとおり(?)、それほど「やる気」だった訳ではなかったんですけど、そのはずだったんですけど、今、心の中で化学変化が起き始めていて、困ったことになってます。どうなるんだろうという感じ。

とりあえず、次回は行きます。必ず。

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リアル愚樵さんにお会いできました♪

富士の指導室で月に一度 有志で行っている愉氣の会に、昨日、愚樵さんが来てくれました。 愚樵空論 「野口整体はナンパ術だった。笑。」 ネット上ではもう何年にもわたってのお ...

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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