愚慫空論

野蛮な日本人(2)

日本人の場合はどうなのか。何を基準にして野蛮を認定したのか。

 野蛮な日本人(1)

逆説の日本史3 古代言霊編今回は日本人の野蛮さを見てみるのに、時代をずっと遡って平安時代に行ってみる。それも、平安遷都を実行した桓武天皇の時代。ネタ本はやはり『逆説の日本史』。第3巻古代言霊編、平安建都と万葉集の謎。サスペンスに満ちていてなかなかに面白い「読み物」だ。

桓武天皇がなぜ平安遷都を行なったのか。ここは当記事の本筋ではないのだが、『逆説の日本史』の主張は大変に面白いのので少しだけ触れてみる。一言でいうと、それは「王朝交代」があったからだというのである。

時代をさらに遡ることこと百年弱、壬申の乱は西暦でいうと672年。天智天皇の後継者争いだが、実はこのときに「王朝交代」があったという。大海皇子すなわち天武天皇は、天智天皇の弟などではなくて別の系統の人間だった。井沢説によると、漢人だという。つまり、現在信じられている天皇家万世一系は、ここで一旦途切れているというのだ。その証拠は天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺にあって、ここには代々の天皇の位牌が祀られているらしいのだが、なぜか天武から称までは除外されているという。一般常識で考えるならば、位牌がないのはそれらは先祖ではないということだ。

称は女性天皇だったのしかも子どもがいなかった。その後を継いだ光仁は天智系だった。ただし井上皇后は天武系でその子である他戸親王が皇太子だった。光仁は井上と他戸とを抹殺し、別の妃との間に生まれた山部親王に後を継がせた。ここで天皇は純粋に天智系へと復帰するのだが、その山部が桓武天皇というわけだ。

桓武は当然、自分が天武系から天智系への転換点であること、すなわち「王朝交代」が為ったこと意識していた。だから遷都したというのである。

大変、面白い。

さて、その遷都だが、当初は、今の平安京ではなくもう少し西寄りの長岡京で行なわれる予定だった。途中まで造営が進んでいたにもかかわらず途中で放棄され、平安へと変更された。これもおかしな話だ。

理由は『逆説』によれば、怨霊である。桓武は皇太弟だった早良親王を謀殺したのだが、その怨霊が出たので長岡は捨てて平安へと変更した。もちろん、学会での意見の大勢は異なる。私たちが教科書で教わるとおりだ。

ただ、桓武は早良の怨霊を「公式」に認めてはいるらしい。それが史料で確認できるというのだ。日本の怨霊信仰は(井沢説は異なるが)学会「公式」にはこの桓武から始まったとされている。

桓武が行なった大事業は他に3つある。軍隊の廃止。死刑の廃止。そして蝦夷(えみし)征伐である。

明治憲法が日本で効力を持っていた時代、天皇は統帥権を握る軍隊の頂点だった。しかし、このことは日本の長い歴史からすると異常なことだった。古代では天皇は軍団長だった。桓武以前の時代は中国の律令制を採り入れていたわけだが、律令のなかには徴兵制度も組み込まれていた。ところが桓武はこの軍隊を放棄した。これ以降、明治まで天皇は基本的に軍事からは遠ざかることになる。理由は、怨霊、穢れである。

死刑の廃止も同じ理由からである。

ところがその桓武が、当時東北地方を支配していた蝦夷(えみし)に対して大規模な討伐軍を送り込んでいる。軍を征夷大将軍坂上田村麻呂に託して蝦夷を討たせた。田村麻呂は見事任務を果し、蝦夷の首領アテルイを捕縛した。アテルイは田村麻呂に投降してきたのである。

田村麻呂はアテルイを平安京へ連行した。それは田村麻呂の任務である。桓武はアテルイに処刑の断を下した。田村麻呂の強い助命嘆願を受け入れずに。

一方で軍隊と死刑を廃止し、一方で討伐軍を興し首領を死刑にする。このダブルスタンダードは何なのか。現代人の我々から見れば、このダブルスタンダードは野蛮に見える。

そう、キーワードは「野蛮」である。当時と今とでは「野蛮」の基準が異なるのである。現代人の我々は、桓武もアテルイも同じ人間だと見る。同じ人間に異なる基準を当てはめるのは、当てはめる人間が野蛮なのだと判断する。

これは動物であっても同じで、例えば現代のグリーンピースのような動物保護団体は、人間に近い知性を持つ(と推測される)鯨類を捕獲する日本人を野蛮だとして非難する。ここでは「知性の高さ」が基準なのである。

このような基準は、たぶんに思い込みでしかない。日本人を野蛮だとする欧米人も、その昔は鯨を大量に捕獲していた。鯨油を採るためだった。アメリカが江戸幕末に日本に開国要求してきたことの理由のひとつは、太平洋で活動する捕鯨船団の寄港地を確保するためだった。当時、欧米人は鯨の知性が高いとは思っていなかった。同様に桓武も、アテルイについては「思っていなかった」のである。では、その「思っていなかった」のが何かということだ。

それが怨霊を為すということ。桓武は野蛮なアテルイを処刑しても、早良親王(後に崇道天皇と諡)や井上皇后のように祟るとは考えなかった。桓武はアテルイを「霊的存在」とは見なかったのであって、この「霊的」こそが桓武にとっての野蛮の基準だったということである。

もし仮にアテルイが霊的存在だと見なされていたとするならば、祟りを怖れる桓武が処刑できるはずがない。よしんば処刑をしたとしても、そこには必ず神社が建立される。それが日本という国のやり方なのである。アテルイが処刑されたのは河内国だと記録されているが、河内のどこにもアテルイを祀る神社など存在しない。

(ただし茨城県の鹿島神社には、「悪路王」としてアテルイが祀られているらしい。なぜ茨城の地で祀られているのかは、よくわからない。)

(3)に続く。


コメント

こんにちは。

欧米人に、お勧めの日本料理はと訊かれれば必ず「鯨」と答えることにしています(笑)。

アテルイの処刑の話と直接関係があるかはわからないのですが興味深い話があります。源頼光が大江山で退治した酒呑童子の首を都に持ち帰る折に、大江山のふもとの老ノ坂というところでその首が動かなくなり、郎党・坂田金時の怪力を以ってしてもてこでも動かなくなってしまった。そこへ僧があらわれ、都に穢れを持ち込まぬよう御仏が首を動かなくしたと告げるというものです。
また時代はやや降り、以仁王を奉じて挙兵し最後には自害した源頼政のその首を郎党どもが関東へ持ち帰る時、茨木の古河でその首が動かなくなりそこに首塚(頼政神社)がつくられたという伝説があります。(ちなみに頼政神社は多数あります。)

鹿島香取は奥州征伐の拠点、アテルイの首をそこまで本当に持っていったかはわかりませんが、やはり朝廷はこれを穢れとして捉え、なるべく遠ざけようとしたのでは。しかしその裏には悪霊への恐れがあったのではないかと私は思います。

愚樵さんの「野蛮な日本人1」に触発されて勧進帳の記事を書いてみたのですが、やはりみちのくは魅力的ですね。まだまだ読んだり調べたりする甲斐がありそうです。

怨霊と穢れ

・あやみさん、おはようございます。

欧米人に、お勧めの日本料理はと訊かれれば必ず「鯨」と答えることにしています

あやみさんて、本当はイジワルな人? わはは。

大江山の鬼退治の話ですか。

どうでもいい余談ですが、家内の実家の家系は渡辺綱が祖先なんだそうで。何かの折に大江山の話をしていて、そこで綱の名前を出したら「うちの祖先だ、ぜひ大江山へは行って来なければ」という話になって。笑。


朝廷がアテルイの首を「穢れ」として捉えてただろう、というのはその通りだと思います。ですが怨霊して捉えていたかどうかというと違うと思うんです。「穢れ」は悪臭を放つゴミと同じで遠くへ捨てればそれでいいですが、怨霊は遠くからでも襲ってきますからね。後の道真が好例です。太宰府で死にましたが、京にいる藤原一族を祟ったわけで。

このあたりのところは今回、曖昧に流したところなんですけど。

現代の私たちの感覚でいうと、怨霊と穢れには近しいものがありますよ。私はこの理由は、私たちは鎌倉時代にあった『日本的霊性』の確立を経由しているからだと考えているんです。天皇と公家たちが軍事を放棄したために、日本では武家が台頭してきます。武家は公家からみれば穢れた存在ですが、彼らが歴史の主役になると、穢れのなかで主体的に生きていく哲学が確立されてくる。その過程で「一切衆生悉有仏性」が「山川草木悉皆成仏」へと発展した。

「衆生」というのは「有情」つまり霊的存在ということですが、「山川草木」では「非情」のものにまで霊的に捉えるカテゴリーが拡大しています。そのことと怨霊と穢れとが近くなったこととは関連していると思うわけですね。ということは、日本的霊性の確立以前の感覚では、怨霊と穢れとははっきりと区別されていたと推測することになる。怨霊には神社が作られるが、穢れはうち捨てられるだけ。

アテルイの処刑を河内で執行したのも、それが穢れであるためですね。京から遠ざけたということでしょう。で、その首級が鹿島にあって祀られている。とはいえ、鹿島はタケミカヅチですから、祀るといってもタケミカヅチの神威で押さえつける祀り方なのでしょう。

しかし、このことは、アテルイが怨霊の一種であるとは認めていたことにはなりますね。 

はじめまして。
アテルイについては北河内の枚方市の片埜(かたの)神社にまつられてます。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/koeda/C4_1.htm

この時のモレとアテルイの処遇については天皇はかなり庶民の反感を買ったようであり、その後関西には東北の人たちに同情する世論が巻き起こり平安時代には恵比寿の神をまつる神社(最も有名なのは十日戎の西宮神社)が多数作られますし、面子を潰された征夷大将軍の坂上田村麻呂と天皇の遺恨がその後の鎌倉時代の武家社会の誕生につながったとするのが大阪の人間の歴史観のようです。

また、穢れだから河内で処刑したという意見には河内=部落、ガラ悪いという偏見を感じます。というのも河内の地にはそこそこ当時の大物をまつる神社があるからです。皮肉なことにリンク先を確認してほしいですが黄金を求めて東北征伐を天皇に勧めた百済王の神社もこの片埜神社のすぐ近くにあります。

穢れだったからでなく、残酷な処遇を行って民衆の反感を買うのを恐れた天皇がこっそり河内で処刑したというのが一般的な歴史観かと思われます。

ありがとうございます!

・fabriceさん、ようこそ。はじめまして...、でしたでしょうか?

この時のモレとアテルイの処遇については天皇はかなり庶民の反感を買ったようであり、

へえぇ、そうだったんですか。だとしたら嬉しいですね。古代であっても為政者の感覚と庶民感覚とは異なったでしょうが、庶民がアテルイとモレに同情的だったと聞くのは、なんとなく嬉しいです。

ですがやはり、片埜神社は、アテルイ神社ではないようですね。主神はスサノオ。「祀られている」というか「封印されている」というか。ただ、神社の境内で処刑されたというのが本当ならば、処刑した側も怨霊だと捉えていたということにはなりますね。

しかし、当時はどうかわかりませんが、処刑地は、現代は神社の境内の外のようですね。神社は神域であり、結界が張られているというのが古代から続く日本人の意識ですから、“境内の近く”というのは関係ないでしょう。境内の中か、外かが重要だと考えます。

で。

関西には東北の人たちに同情する世論が巻き起こり平安時代には恵比寿の神をまつる神社が多数作られますし

私は大阪、南河内の産なので恵比寿神社があちこちにあるのは知っています。しかし、恵比寿は蛭子であり、記紀によればイザナギ、イザナギの流産となってしまった第一子ですよね。それが蝦夷と結合したということなのでしょうか? ちょっとピンときません。

面子を潰された征夷大将軍の坂上田村麻呂と天皇の遺恨がその後の鎌倉時代の武家社会の誕生につながったとするのが大阪の人間の歴史観

これは面白いですね。後に主導権を握る板東武士への反感かな? だとすると、意固地な大阪人らしい。笑。

また、穢れだから河内で処刑したという意見には河内=部落、ガラ悪いという偏見を感じます。

や、それこそ偏見です。私は河内の出ですから、部落というものへの差別の一端を実際に知っていますが、部落に偏見を持っている河内の人間に「河内=部落、ガラ悪い」なんていうと、激怒されてしまいますよ。河内が部落差別の強かった地域なのは事実ですが、それは、河内の中に被差別部落地区が多かったということではあっても、河内=部落とは全然違います。それこそよそ者の偏見です。

けれど、fabriceさんって、よそ者?

>・fabriceさん、ようこそ。はじめまして...、でしたでしょうか?


すいません。確か何回かコメントさせていただいた記憶がありますが、私の記憶も曖昧なので念のためはじめましてとさせていただきました。よく拝見はさせていただいております。

>けれど、fabriceさんって、よそ者?

はい、よそ者です。ちょっと事情があって故郷でも村八分にされてて帰属主体を一切持ってない、と言いきれますね。お恥ずかしい話ですが。

私自身は河内地方が源氏発祥の地であり(侍なのに戦うべき相手がどこにいたのか謎なのですが)由緒正しい地であるというのを人には語っておりますが、どうしても偏見をお持ちの方が多いので小言が多くなってきてますね。すいません。

私の家系はどうも昔からアウトサイダー的な人たちと交流が深いらしく被差別部落の人たちやら在日朝鮮人の中でもちょっと特殊なコミュニティやら山窩やらいろいろとお話だけですが家族から聞いてまして差別意識は無いのですが感覚的に一般人と違う認識を持っているのをご理解いただきたいです。

「ヱビス」という語についてですが、私が幼少の頃から私の父は東北の人たちを指す語として、かなり差別的に使っておりました。「えみし」というのは本当に目にするのは歴史の教科書だけでしたね。ですので私は「えびす = 東北の(特に岩手の)人たち」という認識です。

>これは面白いですね。後に主導権を握る板東武士への反感かな? だとすると、意固地な大阪人らしい。笑。

実際、私はおぼろげながら「やっぱそういう感覚ってあったのかな?」くらいに思ってたんですが平安時代の大阪の東北同情論はそのものずばり大阪の某商工会の会報のコラムに書いてありました。「確かに大阪って昔から昆布とか東北の海産物大好きだなぁ、この頃から交流があったのか?」と思いました。

あと、これは歴史ミステリーですがアテルイが祀られているという茨城県の神社について、茨城県には茨木姓が昔からあって大阪の茨木市とリンクしてるのでは?と言われております。茨木市とアテルイの処刑された枚方市はすぐ近くなので気になりますよね。

それと私の故郷ですが、奥様が行きたがってる某鬼の山のすぐ近くです。鬼の話は昔からタブーでした。

そういえば小倉屋って戎橋ですね

・fabriceさん、再度、ようこそ。

私のおぼろげな記憶では、fabriceさんのブログへお邪魔した記憶もあるんですけど、どうでしたっけ?

どうしても偏見をお持ちの方が多いので

そのようですね。そんなの少し考えればわかるんですが。そういう人が今度は「フクシマ」を差別するんだろうなぁ...、差別したい人は理由さえあればいいんだから。

私の家系はどうも昔からアウトサイダー的な人たちと交流が深いらしく

へえぇ、それは面白い。

「えびす = 東北の(特に岩手の)人たち」という認識

そう言われみれば「戎」の字はよくない字ですからね。昔から何となく、なんで「戎橋」なんだろう? 「恵比寿橋」の方が感じがいいのに思っていました。

ちなみに私の父方の実家が今宮戎のすぐ近くでしてね。今宮戎の北側に廣田神社ってあるんですが、その斜め向かい。昔はそこで餅屋を営んでいたらしいです。私が物心ついた頃には廃業してましたけど。ま、そんなこともあって、その界隈は「テリトリー」だったんです。

今宮戎は「えべっさん」でしから漢字の方にまで気は回らなかったのかな、今宮戎に違和感を感じたことはなかったな。

「確かに大阪って昔から昆布とか東北の海産物大好きだなぁ、この頃から交流があったのか?」と思いました。

かもしれないですね、

>茨城県には茨木姓が昔からあって大阪の茨木市とリンクしてるのでは?

茨木といえば、まずは茨木童子でしょう。大江山由来の。これも「鬼」のはずなのに「童子」というのが面白いですよね。なぜなんだろう?

同じような話といえるかどうかはわかりませんが、奈良県大峰の山中に前鬼というところがあって、そこには役行者が家来にしたという鬼の子孫がずっと暮らしていたというのがありますね。修験道の行者のための宿坊を営んでいたということですが、今はもうなくなって、いや、一件だけ、常駐はしていないけど、営業はしているということでしたっけ。

こちらは「鬼」が人間社会の中へ入っていったという話ですが、もしかしたら童子たちも歴史の裏ではそういったことがあったのかもしれない。

そうそう、大江山には、元伊勢内宮皇大神社なんてのもあって、これも不思議。よりによって、なぜ大江山なんだろう?

網野善彦によると、天皇家は実はアウトサイダーの人間たちと深く繋がっていたんだという話ですが、そうしたことと、大江山/元伊勢内宮皇大神社の存在とは繋がっているのではと、想像を膨らませていたりしています。

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