愚慫空論

雑談 ~「自力作善」と『ケ・セラ・セラ』

とりとめのない話を。
毒多さんところのコメント欄を読んでいたら、書きたくなったので。

 「卒業式」・・・といえば国旗掲揚、国歌斉唱だな(dr.stoneflyの戯れ言)

また犬の話(笑)。といって、我が家のフクとブーの話ではない。

山梨に越してきてからのことだが、ある日、ある現場へ向かおうと、車を降りて山道を歩き出すと、ほんのすぐのところでミニチュア・ダックスフントに出会ったことがあった。近づく私たちをみてキャンキャンと吠え立てるのだが、逃げようとしない。ははぁ、これはここに捨てられたな、と察しがついた。

ミニチュアダックスは人気の犬種だったから。「人気者」というのはしばしばこういう目に遭う。

現場で作業を終えて返ってくると、そのダックス君はまだその場にいた。飼い主を待っていたんだろうね。かわいそうに。
我が家にも犬はいるから、その心理はだいたいわかる。

このまま推移すれば、このダックス君はやがて山で暮らす他の動物の食料になるだろう。彼は「飼い犬」だ。犬も魂のある生き物だから、「飼い犬」から自立した「野犬」へと変貌する可能性はある。そうなれば生き残ることはできるかもしれない。でも、おそらくは無理だろう。そう推測した。我が家のフク、ブーなら「野犬」になるだろうけど。

そう考えると、突きつけられる問題は、このダックス君と自分自身がどう向き合うか、ということである。

見なかったフリをする、という選択がある。これがおそらくは一番無難だろう。でも、たぶんいちばん良くない。

ダックス君を助ける、という選択肢もある。現実的に最も困難な選択肢だ。

現実的というなら、私には不可能だった。フクとブーがいるから。飼う余裕がないというのもあるけど、連れて帰るとタダでは済まない。たぶん殺される。やつらはこの程度の大きさの動物を獲物だと思い込むフシがあるらしく...、後は想像にお任せする。

そのとき一緒にいた同僚は(ふたりだった)、これも借家だから飼えないといい、友人に犬関連の仕事(訓練士だったか?)をしている者がいるので問い合わせてみると言って、実際、すぐ携帯で連絡をとっていた。後日、その首尾を尋ねたら、「あれはもういいんです。」といった答えだった。なるほど。

そして三つ目の選択肢。それは敢えて見捨てるというもの。私の採った選択はこれ。かわいそう。でも、仕方がないね。縁がなかった。頑張って生きろよ。では、さよなら。

私はこれでいいと思っている。もちろん、人間ならこうはいかない。目の前に助けを求める人がいたら、何とかしなければならないと思うだろう。でも、目の前にいなかったら? 

そうした場合はたいてい1つめだろう。もしくは4つめ。とりあえず心を痛めたフリをして、自分が善人であるフリをして、自分を騙してやり過ごす。

「自力作善(じりきさぜん)」という言葉あるそうだ。先週のマル激で知った。

 これからわれわれは3・11とどう向き合うか

親鸞聖人の教えに「自力作善(じりきさぜん)」がある。これは、自分が何とかできるとか、自分が何かをわかったつもりになってしまうことを指す言葉で、浄土真宗では誤った態度として戒められている。本多氏はわれわれの多くが自力作善に陥り、本当は何もわかっていないのに、すでにわかったこととして、自分の中に固定化した考えを知らず知らずのうちに作り上げていたのではないか。そして、その「わかっていたつもり」が、今の政治、経済、社会の状態を生み、そしてそれがこの震災によって打ち砕かれた状態にあるのではないかと指摘する。まずは、大震災と原発事故という大惨事を目の当たりにして、何が正しくて何が間違っているのか、何が救いで何が幸せなのかがよくわらからくなって動揺している自分と向き合わなければならないと言う。



ゲストの本多氏は「東大話法」の安富教授との共著で

今を生きる親鸞

を出版された人。この本の存在は以前から知っていて、読みたいなぁ、でもちょっとカネがないなぁ、ここのところ本の買い過ぎやら福島行きやらで嫁が不機嫌だしなぁ、近所の図書館に入らないかなぁ、とか思っていたんだけれども、このマル激を見て、すぐに買ってしまった。今はネットで買えてしまうから、決めればすぐだ。

人間が自分が善人であるフリをしてしまうことと「自力作善」とは、深い関連がある。この関連こそ「闇」というべきものだろう。その「闇」に身を置く。それでいいではないか、と。

このことはしかし、自身もが、ことによっては「縁がなかったね」と言われて見捨てられてしまうことを覚悟しなければならない。人間はそれが出来ないから、本当はちっとも善人なんかじゃないのに、いや、ちょっぴりは善人だけれども、大部分は悪人なのに、というより、好むと好まざるに変わらず悪人でしかいられない、いいかえれば自分が善人でいられる範囲でしか善人ではないのに、それを見つめるのが不安になって「本当は善人なんだよ」と嘘をつきたがる。そして、「だから助けて!」と言いたがる。それどころか「ゆえに助けられるべきだ」と言い募るようになる。

「だから」は必要ない。むしろ邪魔だ。ただ「助けて」だけでいい。

生きる技法

でも、「だから」がなければ助けてくれないじゃないか。オマエも見捨てると言ったじゃないか。それとも「助けて」も捨てろというのか?

実は、少し前までの私はそうなれたらいいな、と思っていた。なれない自分に執着を感じていて、それがもどかしかったのだけれども、今ではもどかしいというのも嘘だな、と思い始めている。“「助けて」を捨てる”ことを自力でやろうと思っていた。これこそ自力でできるわけがないのに。

「だから」は捨てて「助けて」だけでいい。「だから」を捨てることができれば、もし運悪く助けてもらえなくても、そのことを恨まなくて済む。恨まなくて済むなら上出来ではないか。

「だから」を捨てるのには、自分が助けるときにも「だから」を捨てることだ。助けたいと思ったら助ける。助けたくないなら助けない。どのように、あるいはどの程度助けるかも、自分に正直にやればいい。

誤解を招くのを承知でいえば、助けるときには「神」になればいいのだ。自分の気分の赴くままに、でいい。俗世のしがらみに囚われた非力この上ない神だけど、そのことも含めて、それでいいんじゃないか。

好感を持てば助けるし、嫌悪感を持てば切り捨てる。その時の自分の感性を信じる。ただし、あくまで「その時」だ。いつでもどこでも自分の感性を信頼するなら、それもまた「自力作善」だろう。


話は変わるが。

ここのところ関心を持って読んでいるブログに『ノマドでいこう!』というのがある。この挑戦を好感を持って眺めているんだけど、そのなかのひとつの記事

 ノマドな私の自己実現(elm200 のノマドで行こう!)

を読んで、そこで紹介されいた、「なでしこ Voice」なるものを訪れてみた。

 「なでしこVoice」海外で働く女性への第三弾取材旅行(READY FOR)

今はこんなのがあるんだね。で、これも「いいな」と思ってしまったんで、また嫁の機嫌が悪くなるなと思いながら、チケットを3000円も購入してしまった。1000円にしようかと思ったが、お土産が欲しいから。笑。

今、TVのCMでこれが流れている。


なんのCMかは知らないけど。

世界への信頼に満ちた歌。『ケ・セラ・セラ』は有名な曲だけど、今改めて聴くと、以前とは違って新しく聞こえる。「フクシマ」後の現在だから、なおのこと「ケ・セラ・セラ」で行きたいと切望する。

だから、「だから」の合理性ではなく「いいね」の感性で社会が動いていくように。若い人が率先してその方向へ足を踏み出しているのなら、オヤジがそ知らぬフリをすることなんて出来ないよね。ネット上ではあるけど、それが目の前に現われてしまったら。貧乏だけど、それで満足しているけど、その満足に埋もれないで、「出来るだけ」をしてみるかな、と思ったわけだ。


コメント

わざわざエントリーを上げさせて申し訳ありません。
ワタシはたしかに似非善人かもしれません。「だからいつか自分を助けてくれ」という深層心理にはまったく気づきませんでしたが、言われてみればそんなものかもしれません。
自分でもエエカッコしすぎだろ、と少し思いましたが、確かに「どんなやつでも人を切りたくない」という部分はあるのはあるのです。いつか自分が助かりたい言い訳ではなく、きっと今までに人を切りすぎたからではないか、と思っています。そのつど人切りを続けていても仕方ないかな、、、もっとも、これもカッコつけているのかもしれませんが。

いずれにしろ、切っておきながら善人ぶるのは気持ち悪いですよね。
かといって見て見ぬふりはできそうにありませんから、あまりカッコつけずに自分を受け止めていきましょうかね。
いつも気づかせてくれて、ありがと。

『今を生きる親鸞』、お勧めですよ

・毒多さん、どもどもです。

そちらへコメントしかけたんですけどね。どんどんとはみ出していったので、ここで書いてしまいました。

毒多さんが似非善人? そうです、そうです。そうでしかいられないんです。哀しいことに。仕方がないんだけど、仕方がないでおしまいにしちゃダメだということですよね。「ゼロポイント」に祈るのでもなんでもいいけど、向き合わないと。

そういうことを、実は毒多さんも識っていると思うんですよ。私も実は識っている。「知る」ではなくて「識る」と表記しますけど、言葉に出来なくても、実は「識っている」と思うんです。それを、誰かの言葉で気がついて、「識る」が「知る」に変わる。このきっかけになった言葉っていうのは「贈与」ですよね。変わった当人が「贈与」として受け取った。でもそれは、その言葉を贈与した方も、実は誰かから受け取ったもので、それを手渡したわけなんですよ。

具体的にいうと、私は『今を生きる親鸞』という本を読んで、その本から受け取ったものと、毒多さんち経由でいろいろと遭遇したところをないまぜにして、こういう文章を書いてしまった、ということなんですね。

ブログなんてやっている意味は、そういうことかなと思うんです。誰かを啓蒙しようとかいうんじゃなくてね。自分が受け取ったものを、次の誰かに手渡す。これって、まだよくわからないけど、人間の限られたスペックを有効に使う智慧ではないかと思ったりもしています。

私は今、『霊から貨幣へ』とかいうわけのわからない連載(?)をしてますけど、これの出だしは「ヒトのスペックの高さ」です。チンパンジーと比較してみて、ヒトはよりスペックが高いから〈霊〉という生き生きとした「像」を保持することが出来るんだ、という話です。でも、高性能と言ったって限界はある。使えるリソースは有限なんです。

それからすると、切ったり切られたりというのは、避けられない事態なんですよね。切りたくないと思う。確かにそれは〈善〉である、と。が、それが【善】になっていってしまうのは、能力の限りがあるからでしょう。人間は無限というものを想像できるけれども、想像できるだけで、無限の存在には永遠になれない。ならば、どこかで切るし切られるし、また寿命ということで切れていくんです。これは道理であって、受け入れるしかないし、受け入れずに超えようとするのは傲慢でしかない。

そういった傲慢が自身の有限性の枠の中で煩悩となって跳ね返ってきて、自身を苦しめる。でもこれは、他の動物たちと比べてみれば、持てる者の贅沢な悩みなんですよ。きっと。

なるようになる

こんにちは、こちらへコメントするのは初めてかもsv400s_dracinです…ツイッターのリストに入れてあるので、ツイッターに流れてきた表題が興味深いときは、読んではいました…村野瀬さんへのアクセスも同じです…

 てきとー なんとかなる…長いものには、軽く巻かれる…どうせ、嫌いな仕事なんだから、できうる限り、とっととやって、さっさと帰る…私の処世訓です…大げさです…人生も相当少なくなってきたのに、結局仕事が好きになれなくて…こーいうのんびりした生き方しています…サッカーに熱狂し、阪神タイガースを応援し、バイクレースを観戦に行き、バイクに乗り、街の写真を撮り、本を読み、昨年からは、クラシックを聞き始め、今年は大阪フィルの定期公演を聞きに行く予定です…こんな私には、他人や社会に関わる資格がありません…「私はどうしても自分を「社会の一員」と思う気にはならなかったのである。」そして「私は今でも依然として社会秩序の一部を構成することのできない、孤独な人間なのではないかと思う。」、ヘンリー・ライクロフトの一節です…ライクロフトのように生きたいですが、現実は、貧乏に追われたジョージ・ギッシングです…

なるようにしかならない

・sv400s_dracinさん、おはようございます。

こちらへおいでになったのははじめてでしょう。他所で邂逅したことはありましたけど。ま、これも「縁」ということでしょう。

仕事が好きになれないというのは、辛いものがありますねぇ。好きでも嫌いでも、人生のうちでもっとも多くの時間を割かなきゃいけないのが仕事です。また、欧米では労働は神から与えられた「罰」ですから“仕事が嫌い”と明言も出来るかもしれませんが、日本では明言した途端に村八分ですね。

匿名とはいえ、ここで書き込むにも抵抗感があったろうと推察します。

しかし、ものは考えようです。私は好きで仕事をしていますけど(最近はそうでもなくなってきているんだけど)、その分、不自由です。時間はありますが、経済的には全く不自由で、昨年の今頃は被災地へ行きたくて仕方がなかったんだけど、どうにも動けなくて悶々としていました。私はクラシックを中心に音楽も好きで、昔は大フィルもよく聴きに行ったものですけど、もう何年もライブなんて行ってませんねぇ。行きたいと思うけど、そんな余裕はまったくない。

ま、でも「なるようになる」ではなくて「なるようにしかならない」と思ってますから。それでいい。というより「待つ」ということかな。機縁を待つ。

sv400s_dracinさんが、他人や社会に関わる資格がない、と仰りたい気分はわからないでもないですし、批判はしません。でも、ないのは「資格」ではないような気がします。sv400s_dracinさん自身の「意志」でもない。やっぱり「機縁」じゃないですか。

社会秩序は大切なものですが、今の社会を見渡してみて、本当に大切と言い切れるかは全く疑問ですよね。秩序がハラスメント構造になっている。そんな局面においては、社会秩序の一部を構成していないということが逆に効果をもたらすことだってあり得ます。そういう役回りがsv400s_dracinさんのところへまわってくる可能性は低いでしょうけど、もし万が一回ってきたときには、「私に資格はない」なんて言ったって、ダメですよ。sv400s_dracinさんの意志とは関わりなく、押しつけられてしまうでしょう。「なるようにしかならない」です。

人間なんてそんなものでしょう。○○である、「だから」、どうこうとなんだ、と言いたがりますが、所詮はそんな論理で動いてはいません。世の中の「道理」は別の所にあると思います。

ところで話はぜんぜん変わりますが、「sv400s_dracin」って、どういう意味なんですか?

おはようございます…朝からせっせと、図書館から借りてきたクラシックCDをダビング中のsv400s_dracinです

>ところで話はぜんぜん変わりますが、「sv400s_dracin」って、どういう意味なんですか?

 dracinは本当はdéracinéが正解です…ですから、辞書を調べても載ってない筈…あったら、驚く…déraciné=根無し草。転じて、故郷や祖国から切り離された人…eにアキュート・アクセント「é(e+アクサン)」←が入力しにくいので、省いたわけです…省くな、私…って、誰も聞かなかったので、たぶん初めて説明する…第2外語でフランス語を選択した人なら、想像つくだろうし…SV400Sはスズキの4ストローク水冷90度V型2気筒エンジンを搭載した、スポーツ性を強調したハーフカウルモデルのバイク…sv400sに乗る根無し草の意…

>私はクラシックを中心に音楽も好きで、昔は大フィルもよく聴きに行った

 クラシック歴は、はるかに先輩ですね…私は昨年末に突然、聴きたくなりました…それまで、音楽はまったく興味ありませんでした…CDプレーヤーもレコードプレーヤーも携帯音楽プレーヤーを持ったことがない…当然iPodも…携帯電話で音楽をDLしたこともないし、やり方も知らない…昨年末にある本がきっかけでマーラーが聴きたくなり、手ごろなmp3プレーヤーをアマゾンで購入して、図書館のCDとwebのパブリックドメインクラシックを利用して、聴き始めました…大阪在住ですし、関西はオーケストラも充実してると知り、今年中には行きたいなぁと考えてます…

・sv400s_dracinさん、おはようございます。

HNの説明、面白いです。(^_^)

故郷や祖国から切り離された人。それとも切り離した人? 
そんでもってスズキのバイクか。

なんにもわからないけど、ちょっとだけわかったような気になりますね。sv400s_dracinさんが。

大阪で図書館といえば、西長堀の中央図書館ですか?
私も昔通いました。私は静岡の山のなかで家内をGETしたんですが(笑)、その後、一時大阪へ帰りましてね。2年もしないうちに和歌山へ逃げたのですが、それまでの間。平野から地下鉄に乗って。借りてくる本に切り抜きや落書きが多くてね。さすがは大阪、と妙なところで感心したりして。

で、マーラーを聴き始めになったと。クラシックにマーラーから入るって人、多いみたいですね。私が聞き始めた頃は考えられませんでしたけど。音が多くて複雑怪奇、にも関わらずどこか素朴。要するにパラノイア気味。現代人の好みなんでしょうか。

マーラーから入った人は、その次はショスタコーヴィッチへ行く人が多いみたいですね。そんで、交響曲から弦楽四重奏曲へいって、ベートーヴェンの後期四重奏曲へとか。あるいはバルトークとか。sv400s_dracinさんならバルトークかな、なんて私が勝手に決められるものではありませんが。何に出会うかなんて、なるようにしかならないし。

楽しんでください。

雑談

>マーラーから入った人は、その次はショスタコーヴィッチへ行く人が多いみたいですね。そんで、交響曲から弦楽四重奏曲へいって、ベートーヴェンの後期四重奏曲へとか。あるいはバルトークとか。

 私はマーラーからブルックナーに流れました…長くて荘厳なものが好きなんでしょう…マーラーは大好きな作家辻邦生が好きだったのです…昨年、若き日の友情―辻邦生・北杜夫往復書簡を読んでいる時に北杜夫の訃報を聞き、年末に辻邦生の随筆や辻邦生の伴侶であった辻佐保子さんの随筆を読み返しました…そこで、マーラーでも聞きながら、読もうと思い立ちました…それから、クラシックを聞きながら読書するようになりましたが…クラシックの予備知識がありませんので…作曲家はおろか曲名さえ知らない…何から聞いたらさえ、わからない…しかし…ご指摘のように、マーラーにすんなり入る事ができた私は、実際「パラノイア」気味…パラノイア(偏執症)な気質を如何なく発揮して…いわゆる名盤を調べ上げ…A6の手帳にびっしりと聞きたい曲と指揮者、演奏者、演奏年月等々…こーいうリストを作るところがパラノイアです…さらにポータブルHDDを購入して、そこに適宜、録音ファイルを作成しては、入れています…そもそも、指揮者によって、作品があんなに変わるとは、クラシックを聞くまで知りませんでした…ショスタコーヴィッチは、パブリックドメイン入りしてないので…作曲者が近年まで存命だったので…主に、図書館から借りています…現在は主に指揮者から曲を収集していますが、やっと、弦楽器演奏者にも気が向くようになったところです…あーこーやって文章にすると、本当にパラノイアだなぁ…ま、いいか…では

ブルックナー!?

・sv400s_dracinさん、おはようございます。

えっと、まずパラノイアなんですが、私ちょっと勘違いをしていまして、パラノイアを分裂症だと思っていたんです(^_^; マーラーが偏執狂的だったというのも事実のようですが、音楽の方は分裂症的だと言いたかったんです。すみません。

で、マーラーの次がブルックナーですか? 

長大・壮大といえば双璧は確かにマーラー・ブルックナーの名が上がります。でも、この両者、中身は天と地ほど違います。sv400s_dracinさんはどのように聴いておられるのかな?

マーラーを言い表せば二言。「世界は不条理だ」「人間は哀しい」。ブルックナーの場合は一言。「世界は美しい」。

ブルックナーという人は9つの交響曲を書きましたが(習作等は除く)、全部、同じなんですよね。「世界は美しい」ということを、9回言い換えた。偏執狂といえば、マーラーよりもむしろブルックナーかもしれません。

ブルックナーは、私の考えでは、クラシック(古典)音楽の完結者です。古典音楽には「人間」が入ってこないんです。だからマーラーのように「人間は...」がない。ただ「世界は美しい」だけ。ま、「世界は美しい」に人間が入っていると言えなくはないんですが、間接的ですよね。

名演奏ということでは、もちろんいろいろありますが、象徴的とも言えるのはチェリビダッケでしょか。その美しさは録音には入りきらないとして、拒否していたことでも有名。生前は海賊版が出回って、ブルヲタ(クラヲタの一派)のお宝になっていました。死後、正規盤が発売されましたけど。

そのなかで面白いのは9番。何が面白いかって、演奏そのものはもちろんいうまでもないですが、演奏後の聴衆です。「美しいものに言葉を失う」という現象を記録したモニュメントになっている。演奏終了後、拍手が出ない。少しして拍手を始める人が出ますが、周囲に制止されている。野暮なことをするな、というわけです。こういうことはありそうで、そうそうあるものではありません。

対してマーラーの主題は「人間」です。だから饒舌で言いたいことがいっぱいあって、分裂症気味になる。演奏者の解釈によって音楽の表情もガラリと変わったりもする。

いわゆる名盤を調べ上げ…A6の手帳にびっしりと聞きたい曲と指揮者、演奏者、演奏年月等々

あ~、それ、クラヲタの入り口です。そのあたりから深みに入って、それぞれの演奏のウンチクを一通り吐き出すことができるようになれば、立派なクラヲタ。果ては、同じ演奏でも、CDのプレスの違い(日本プレスか海外プレスか)まで言い出して、コレクションします。私にはとてもついて行けません。が、sv400s_dracinさんなら...、おそらく...笑。

sv400s_dracin的断捨離(断捨利?)

愚樵さん、おはようございます…大阪は雨です…雨中、ベートーヴェン ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 Op.97 大公 Vcパブロ・カザルス Vnシャーンドル・ヴェーグ Pミエツィスラフ・ホルショフスキ 1958年9月18-20日録音(CD)を聞きながら、自転車通勤したsv400s_dracinです…

>sv400s_dracinさんはどのように聴いておられるのかな?

 そう問われたら、どうしようかなぁとは、思ってました…音楽を解釈できなかった…音が入ってくるのに任せてます…そのうちできるようになったら、考えます…小林秀雄やT・W・アドルノの音楽評論を読んだ事はありますが、読んだ当時は、クラシック音楽を聴いたことがなかったので、思想論として読んでますから、微妙です…ライナーノーツも、基本データを入力するためだけです…mp3に変換する際に、基本データを付加できるので…評論部分は基本的に目を通してません…基本データを入力したり、手帳に資料化するのは、その時点でどんどん忘れていくためです…その資料や入力データに目を通せば、いつ聞いたのかとかが、わかるようにして、重複を避けられるので…

>マーラーを言い表せば二言。「世界は不条理だ」「人間は哀しい」。ブルックナーの場合は一言。「世界は美しい」。

 音楽に人間を見ることができないのは、私が音楽に向かない証明になりそうですが、解釈をしないのが、私の解釈といえそうです…ブルックナーは、はじめて聞いたときは、なんて、迷いの多い人なんだろうとは、思いましたが…ぼけーっと聞いてますから…

>果ては、同じ演奏でも、CDのプレスの違い(日本プレスか海外プレスか)まで言い出して、コレクションします。

 20年若かったら、そうかもしれません…本もそうですが…15年位前に持ってる本を全て処分してから手元に置かなくなりました…一度に読める本はせいぜい、(同時進行で)5~10冊程度…いつ読み返すか、わからない本を持っていても、思って処分しました…たぶん2000冊くらい…あと、何年生きるか、わかりませんが、計算上では、残り読める本の冊数は、1500冊くらいかなぁと推測…音にこだわりを持つなら、mp3ではなく、可逆圧縮なflacにするか、wavで保存するんでしょうけど、mp3で携帯音楽プレーヤ聞いてますからねぇ…ポータブルHDDに入れてるのは、音楽だけじゃなく、自炊した本のPDFも含めてです…データは場所をとりませんから…

お薦めの曲があったら、教えてください…参考にします…kuronekoさんには、シュトラウスを勧めてもらいました…色々な指揮者ですぐに聞きました…

・sv400s_dracinさん

音が入ってくるのに任せてます

それ、いいですね。(^o^)

音楽はどんなジャンルであれ、それでいいはずなんですが、それでは済まないのが人間という存在の厄介なところですよね。「ヲタ」などと呼ばれる人種は、その厄介なところを積極的に楽しもうとするもの。sv400s_dracinさんも、そういう道を志向しているのかな、と思ったわけですが...

お薦めの曲があったら、

曲よりも本の方が先かな。日本の音楽評論の第一人者、吉田秀和の『私の好きな音楽』はいいですね。吉田秀和はまだ健在でかなり若い頃に書いたものですが、昔は新潮文庫で読めたんですが、今はどうだろう? 全集でしか読めないのかもしれません。

私は今から25年くらい前にこの本を読んで、クラシック音楽への憧憬を深めました。あの頃はまだ、クラシック音楽にとっても幸せな時代でした。まだ純粋に憧憬できたから。

そうした「クラシック音楽への憧憬」を過去のものとして眺めた本に『世界最高のクラシック』(許光俊著 光文社新書)があります。こちらは簡単に入手可能でしょう。「過ぎ去った憧憬」へと堕ちたクラシックへの、偏愛的ともいえる情熱が感じられて面白いです。

なお、前者は曲を中心とした解説、後者は指揮者の解説という体裁になってます。

オススメの曲というのは実はなかなか難しいんです。勧める側が好きな曲がいいとは限らないし。ま、難しく考えず私の好きな曲ということでいえば、これかな。

http://utshome.exblog.jp/3270850/

ヤナーチェクの歌劇『利口な女狐の物語』。吉田秀和『私の好きな音楽』で知って、自分でも聴いてみて、ぞっこん惚れた音楽です。ヤナーチェクといえばまず『シンフォニエッタ』でしょうけど。
(『1Q84』の出だしに登場してましたよね。)

ただ、この曲のCDは国内盤ではもうないのかもしれません。海外版は入手可能でしょうけど、海外版だと台詞の対訳がないんですよ。この曲の場合はモラヴィア語という言語らしいので、ほとんどの人は訳なしでは理解できないと思います。幸いなことに、今はネットに対訳を上げてくれている人もいます。

http://www31.atwiki.jp/oper/pages/1029.html

もし興味がおありならザッと目を通して頂くといいですが、子ども向けの動物劇というイメージがしなくはない。そこがいいんですけどね。

またコメントください。

ヤナーチェクの歌劇『利口な女狐の物語』

>ヤナーチェクの歌劇『利口な女狐の物語』

ども、sv400s_dracinです…告白しなければなりません…大仰な…私、オペラが苦手なのです…と、自らの周囲にバカの壁(この言葉も死語の彼方っぽいなぁ)を建ててますので、オペラはまだ、聴いたことがありません…それは、横に置き…マーラーの声楽曲もいまいち、わからん、と放置し、かの有名なベートーヴェンの第9も一通り、有名どころの演奏も聞いてみたものの「???」のオンパレード…オンパレードっていう慣用句も古い…どうしても、発話に意味を追ってしまうので、すんなり乗り切れない…四方八方に気が散ってしまうのです…交響曲第2番ハ短調「復活」交響曲第3番ニ短調 交響曲第4番ト長調 交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」…すべて、お手上げでした…辻邦生は語学の天才を自称していたので、マーラーの独唱付交響曲のほうが好みだったようです…で、私は声楽曲は避けてます…唯一、許せたというか、これは好きだな…と思ったのは、バッハ,J.S. マタイ受難曲 BWV.244 指揮カール・リヒター ミュンヘン・バッハ管弦楽団でしたが、如何せん、長くて…
 ですが、推薦曲です…聞いてみようかと、探しました…大阪市立中央×、府立中央×……ありました…高槻市立中央図書館に…早速、貸出が可能か、どうか問い合わせてみると…CDは、図書館のCD貸出協定が結ばれていないところへの貸出はしていないとの事…大阪市立中央図書館と高槻市立図書館はCDの協定が結ばれていない…CDは、断念したものの…youtubeにあるのは、わかっていますので…youtubeからDLするか、それとも、高槻市民の知り合いでも探して、借りてもらうか…検討中です…そのうち、なんとかします…
 吉田秀和の『私の好きな音楽』は近いうちに一度は目を通します(予定)…吉田秀和さんといえば、土曜日夜のクラシックのFM番組『名曲のたのしみ』はまだやってるんでしょうか?…wikで調べたら、まだ放送してるんですね…驚いた…ジョージ・セルとクリーブランド管弦楽団の最初で最後の来日ライブCDのライナーノーツで初めてお書きになったものは、読みました…他にもあったかもしれません…許光俊さんはお名前は存じ上げております…灰汁が強いっていう印象があります…ちょっと、苦手な人です…

オペラは臭い...

・sv400s_dracinさん、

まあ、オペラはねぇ、私もなかなか入り込めませんでした。今でもどうだろう? まあ、でも、好き嫌いは別にして、凄いものはやっぱり凄い。それを思い知らされたのは『トリスタンとイゾルデ』でしたっけ...

それにしても、マーラーの声楽付交響曲もダメとはちょっと意外。

それにしても『利口な女狐』はツボに入ったかな? いえ、sv400s_dracinさんならば、入手困難なもの方が情熱を燃やすのではないかと(笑)。

オペラは大仰なんですが、しかし、ヤナーチェクはちょっと違うんですね。そのあたりのところが吉田秀和の『私の好きな曲』には書かれてある。図書館にはあるはずです。ぜひとも。そうですね、先に曲を聴くよりも、こちらをお読みになってからのいいかもしれません。

ヤナーチェクといえば器楽曲もいいですよ。『草陰の小径にて』とか。私が好きなのは、ルドルフ・フィクスニー...、もう廃盤みたいですね。アンドラーシュ・シフのもよかった記憶があります。

ベートーヴェンの第九も、ちょっとしたツボを。

この曲の4楽章のミソは声楽を導入したということはよく言われることですが、どの導入の仕方が本当のミソなんです。ベートーヴェンは「声」を楽器として導入した。そこのところがわかるかどうか。これは歌詞に振り回されていたのでは感得できません。

第九は「歌」としては、非常に歌いにくいものなんだそうですね。そのように作られていないから。声なのに器楽的だから。

4楽章冒頭、嵐のような器楽の斉奏があって、低弦のレチタティーヴォが否認。1~3楽章のテーマも次々と否認されたあとに、例の「歓喜の歌」のテーマが木管に萌え出てくる。そして、地の底から湧き上がるように低弦で「歓喜の歌」が奏され、次はヴィオラ+ファゴットが加わって、三度目は弦楽合奏で、四度目は全楽器によって、と繰り返し演奏される。

このあと、この繰り返しがもう一度、「声」によってくり返される。その構造を感覚的に感得するんですよ。

嵐の斉奏が再度あって、否認のレチタティーヴォが声楽のバスで出る。このメロディは低弦で出たときと全く同じ。歌詞は「O, Freude ...」というやつですね。1~3楽章のテーマ否認は省略されて、低弦が奏した「歓喜の歌」をバスと男声が奏する。二度目はソプラノを除いて、三度目は変奏されて四声で。四度目はかなり形がかわりますが、全器楽+全声楽。聴くべきはこの「構造化された雰囲気」です。

一段落して続くテナーの独唱も、ラッパを朗々と吹き鳴らすように歌われる。あれはプロでも血管がブチ切れそうになるといいます。声でラッパをやらされたらそうなりますって。(^_^;

というような扱いの「声」なんですが、しかし1カ所だけ、声が歌として扱われる部分があります。そこのところがこの音楽のクライマックスです。1楽章から始まって一時間以上に渡って続けられてきた音のドラマは、ここを目指して行なわれてきたのです。

そこは、声が楽器として扱われているということが諒解できればすぐにわかります。静謐な場面です。そして、その歌の意味(歌詞ではない!)がわかれば、なぜベートーヴェンが声を楽器として扱ったのか、その意味もわかります。感覚が高度に構造化されているんです。これがあるからクラシック音楽は止められないんです。

許光俊さんはお名前は存じ上げております…灰汁が強いっていう印象があります

のは仰るとおりで、好みの分かれる所なんですが、sv400s_dracinさんが好まれないであろうことも推測はしていたのですが、それでもオススメしたのは『世界最高のクラシック』には、なぜ灰汁が強くなるのか、その理由が氏自身によって「告白」されているからなんです。そしてその「告白」がクラシック音楽というものの歴史的な構造に沿ったものになっているからなんです。

感想

>私はこれでいいと思っている。もちろん、人間ならこうはいかない。

なんで?と思いました。人間にだってそうしたっていいじゃない。
弁解しなくていいのに。

なぜ弁解だと思う?

・すおうよしこさん、こんにちは。

人間にだってそうしたっていいですよ。そうできるなら。
私は出来ないと思うから、「そうはいかない」というまでで。

弁解しなくていいのに。

どこにも弁解はしてないと私は思うんですけど、なぜ弁解だと思われたのかな?
よければ理由をお聞かせください。

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どういう運動を作るのか……

 コメント欄でいろいろ議論をした(ネタを言いにいっただけでしょ!)村野瀬玲奈の秘書課広報室のエントリーはこれです。    「起立」する人の責任 (「ペガサス・ブログ版」を読んで)  http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-3246.html  もとは...

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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