愚慫空論

人間には「一般意志2.0」を実装できるスペックがある

エントリータイトルの付け方を変更。『霊から貨幣へ』の(7)である。

〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉

今回は(6)で予告した通り、「一般意志2.0」について〈霊〉的な視点から語ってみる。

一般意志2.0


東浩紀氏が提唱する「一般意志2.0」の「2.0」とは、私に言わせれば「1.0」の霊性バージョンアップということになる。〈霊〉とは、個々の人間の「器(インターフェイス)」のなかで結ばれる他者の「像」だが、「一般意志」というのもそうした「像」の一種ということができると考えている。ただしそれは、社会的〈霊〉というべきもので、個々人の中に宿る個別的〈霊〉の延長線上にある集合的〈霊〉である。

「一般意志」を〈霊〉で説明するに当たって、もう一度〈霊〉の定義について考えてみたい。

コンピュータのイメージ図

このイメージ図は、コンピュータを構成する主要要素の関係を示すものである。
『PC初心者の館』より拝借。)

コンピューターが必ず持っている、5つの要素を紹介します。
   これはつまり、コンピューターが行っている仕事と言い換える事が出来ます。

    ・制御 ----- 各装置を制御。人間で言えば神経に相当します。
    ・演算 ----- データを処理。 人間では脳に相当します。
    ・記憶 ----- データを保存。 これも人間では脳になります。
    ・入力 ----- データを受けつける部分。人間では目や耳になります。
    ・出力 ----- データや処理の結果を外に出す部分。
                  人間では口や手足等になります。

   これらは コンピューターの5大要素と呼ばれます。

   5大要素を人間の器官に例えたのは、
   コンピューターは人間を真似て作られたからです。


コンピュータを持ち出したのは、むろん〈霊〉を再考するためだ。(1)では『ハラスメントは連鎖する』の「魂」と「インターフェイス」の定義を借用して〈霊〉を定義してみたが、その「魂」「器(インターフェイス)」「〈霊〉」をコンピュータの5大要素に置き換えてみようというわけだ。

「魂」に相当するのは、制御と演算の役割を担うCPUだろう。インターフェイスという言葉は、コンピュータ関連の術語としては入出力装置に相当するが、〈霊〉の定義としての「器(インターフェイス)」は入出力装置+記憶装置に相当する。ここでは「器(インターフェイス)」としていたものを「器」と「インターフェイス」とに分離し、「器」が記憶装置、「インターフェイス」が入出力装置に相当するものとしよう。

すると、〈霊〉の所在地は「器=記憶装置」の中ということになる。

(1)では、チンパンジーとヒトとの行動の差異からチンパンジーおよびヒトの「器」の中に結ばれる「像」のクオリティを推測し、ヒトのクオリティの高い「像」を〈霊〉だと定義した。チンバンジーおよびヒトの構成は、その遺伝子が99%同じだと判明している通りに、ほぼ同じだと考えてよいはずだ。異なるのはクオリティである。ヒトはチンパンジーと同様の構成をしていながら、高性能のCPU、広大なメモリ領域、多様なインターフェイスを備えた高性能のマシンなのだ。そしてヒトを人間たらしめる〈霊〉とは、高性能マシンの登場で実現したマルチメディアと考えられる。MS-DOSで動いていたマシンのスペックではマルチメディアの実装は到底無理だが、それでもマシン自体の基本構成に変化はない。


夢を語ろうと思う。未来社会についての夢だ。

日本発の新しい民主主義
民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。(中略)だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちは、もはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。


以上のコンピュータモデルを民主主義を遂行する社会に当てはめてみる。

民主主義に必要な「熟議」を担うのはCPUである。民主主義社会においては、さしあたっては議会であろう。議会は議員で構成されるが、その議員たちの集合意識的なメモリに「一般意志」は「像」を結ぶ。

議会のCPUなメモリも、集合意識的ではあるが構成するのは人間であるから、そのスペックは基本的には人間と同じと考えてよいだろう。ただ議会のCPUとメモリに情報を提供する入力装置は、人間身体に備わった感覚装置のスペックと同等とは考えられない。それは社会制度に制約された非常に回路の細いものであって、情報量は少ない。

いくらCPUとメモリのスペックが高くとも、インターフェイスから入力される情報量が少なければクオリティの高い「像」を結ぶことは出来ない。従来の「一般意志1.0」とは、クオリティの低い、いわば静止画像的なものであってマルチメディアとは到底言えない。が、入力インターフェイスが改良されて情報量が多くなれば、結ばれる「像」はマルチメディア的〈霊〉となっていく。東浩紀氏が想像する「一般意志2.0」とはそのようなものであろうと私は解釈する。

東氏は次のように言う。

 「一般意志2.0」が橋下市長の“独裁”を止める?―現代思想家、東浩紀インタビュー

加えて、人々は政治家というものに対して、勘違いをしているんじゃないかと思っています。政治家というのは、基本的に民衆の空気を読む人たちです。みんな、政治家がわけのわからない勝手なことをやっていると批判しますが、それは政治家が空気を読めなくなっているということを意味するにすぎない。


政治家も私たちと同じ人間である。ゆえに私たちと同じ構成と同等のスペックを持ったマシンだと考えられるだろう。ならば、政治家が「空気」を読むことが出来させすれば、大衆の欲望の集積であるところの「一般意志」を高い精度をもって感知できるだろう。

それは具体的にはなんだっていいんです。僕は本でニコニコ動画を取り上げましたが、それは一つの例に過ぎない。ただ、情報技術によってサポートされた、世論調査を遥かに超えた、細かい精度をもった民意の可視化システムを整えるというのは、これからの政治、国家にとって、非常に重要なことだと思います。そしてそれこそが本当は近代民主主義の原理に近いというのが、僕がわざわざルソーを読み返した理由です。そういう発想がないからこそ、独裁ポピュリズムしか出口がなくなっているんです。


これは要するに、入力インターフェイスの情報量を増大させよと主張しているのである。そうすれば自然に、高いスペックを持て余しているであろう議会は、もっと生き生きとしたクオリティの高い「像」(〈霊〉)を生み出すであろう、と。

私は東氏のこのような楽観的ともいえる姿勢に好感を持つ。希望を語るならばこうでなくてはいけない。自身のスペックの高さを信じて、高パフォーマンスの発揮を阻害している要因を見出し改善する。この姿勢は私が〈霊〉の発想をする元になった安富歩氏の姿勢とも共通する。

この提案について「しょぼい」とか批判が寄せられていますが、これはまったくしょぼくないと思います。この変化をしょぼいと考えるのは、想像力がないからです。考えてみて欲しい。ニコニコ動画は単純なサービスです。あれが登場した当初、それが映像の見方をここまで変え、クリエイターのコミュニティをここまで変えるとだれが予見したか。でも現実はこうなった。スクリーンのうえにコメントを流す、という単純なアイデアが、クリエイター、ユーザー、プラットフォームの関係を劇的に変えてしまう。それと同じようなことが政治でも起こると思います。


ニコ動が付け加えたのは、動画上にコメントを流すというごく単純なことである。情報量の増加という観点で見れば小さいかも知れない。しかし、それがブレークスルーポイントになって、大きなクリエイティビティを発揮させることになった。その源泉を辿れば、チンパンジーとヒトとのスペックの差異であろう。ならば、そのスペックの高さを信頼するなら、政治で情報量増大のブレークスルーがあれば創造性は発揮されていくようになるはずだと期待するのは当然の流れである。

確かに東氏が提案したシステムとしての「一般意志2.0」の具体例は、しょぼいと言える。だが、それは、チンパンジーと人との遺伝子の差異が1%しかないからしょぼいと言っているのと同じことだ。その1%の差異がどれほどの創造性を発揮したか。そのことを予想できるのはやはり「想像力」であろう。

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