愚慫空論

霊から貨幣へ(6)~〈霊〉の潜在的需要

 〈霊〉に関するこれまでの記事はこちらから。

 カテゴリー〈霊〉



ご存知、『涼宮ハルヒの憂鬱』冒頭の、キョンの長台詞である。なんど聴いてもこれはなかかなの名調子だ。
(引用した動画は妙な字幕がついているし、音声はこもり気味で不満なのだが、良いのが見つからなかった。著作物なのはわかるが、『涼宮ハルヒ』はもはや文化遺産なのだから、冒頭の部分くらいはネットで「ふつう」に見ることが出来てもよさそうなもんだ。)

「サンタクロースをいつまで信じていたか――、なんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどーでもいい話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じいさんを信じていたかというと、俺は確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。
 幼稚園のクリスマスイベントに現れたサンタは偽サンタだと理解していたし、お袋がサンタにキスをしている所を目撃した訳でもないのにクリスマスしか仕事をしないじじいの存在を疑っていたさかしい俺なのだが、はてさて宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織や、それらと戦うアニメ的特撮的漫画的ヒーロー達がこの世に存在しないだということに気付いたのは、 相当後になってからだった。
 いや、本当は気付いたのだろう。ただ気付きたくなかっただけなのだ。俺は心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力者や悪の組織が目の前にフラリと出てきてくれることを望んでいたのだ。
 しかし! 現実てのは意外と厳しい! 世界の物理法則がよく出来ていることに関心しつつ、いつしか俺はテレビのUFO特番や心霊特集をそう熱心に見なくなっていた。
 宇宙人、未来人、超能力者?そんなのいるわけねぇ。でも~ちょっと居てほしい~みたいな最大公約数的なことを考えるくらいにまで俺も成長したのさ。
 中学を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業してこの世の普通さにも慣れていた。俺はたいした考えもなく高校生にもなり、そいつと出会った…」


この台詞が面白いのは、その調子の良さもさることながら、語られている内容にもある。子どもの頃はみんな誰でも「あの世」――つまり彼岸の存在を信じていた。それが大人になるにつれ、キョン曰わく「そんなガキな夢を見ることから卒業」し、極めて精巧に出来上がった物理法則が普通に支配する「この世」に慣れていくもの。そういった普遍的事実が語られているからだ。

普遍的? いや、違う。それは近代的と呼ぶべきだ。

普遍的なのは、子どもは彼岸を信じているということの方だ。それこそ古今東西、変わりはない。大人になっても彼岸の存在を信じている者は少なからずいる。何を隠そう、私もそのひとり。

だが、今シリーズで取り上げている〈霊〉は、近代的常識とは異なって、彼岸の存在のものを指しているのではない。それは(1)で定義した通りだ。

 『なまはげの潜在的需要』(yamachanblog)

なまはげこのおもしろおかしいブログ記事でも「キョンの長台詞」と同じようなことが語られている。もう一歩踏み込んで、「なまはげ」という彼岸の存在の効用が語られている。子どもという彼岸に近しい存在が、近いゆえに彼岸を信じるという普遍的特性を利用して、「なまはげ」を子どもたちを此岸に適応させるためのツールとして使うといったような内容である。

大人は「なまはげ」という名で呼ばれる「鬼」(彼岸の存在)が、少なくとも此岸には実在しないことを知っている。知った上で、「なまはげ」をかたどった面をかぶり、「なまはげ」を此岸に召喚する。これをアウフヘーベンと呼んでよいかどうかは正確にはわからないけれども、アウフヘーベンのようなものであるとは言えるだろう。「なまはげは実在する」というテーゼと、「なまはげは実在しない」というアンチテーゼとが、実在しないとされながらも彼岸から此岸へと召喚されるのだから。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか実は私が考えている〈霊〉というのも、この「アウフヘーベンのようなもの」である。近代以前の社会では、「霊」は実在するものだと信じられていた。近代以前の人間にとって世界とは、此岸と彼岸とが入り混ざったものだったからである。それが近代社会では社会が人間化したために、此岸と彼岸の間には厳密な境界線が引かれ、彼岸は忘却の彼方へ追いやられた――とまではいかないが、意識の隅の方に見下されつつも辛うじて位置を占めるといったような状態になってしまった。

〈霊〉は、そのような位置づけになった「霊」を此岸へと召喚したものである。

〈霊〉とは「器(インターフェイス)」すなわち人間の「心」のなかで生じる「現象」である。それは生き生きとした「像」として私たち人間には知覚される。知覚されるが外界(此岸)に存在するものではない。私の言う〈霊〉とは、そうした「心的現象」を言葉によって定義づけすることで此岸へと召喚して、此岸で取り扱うことができるようにしようという試みであり仮説である。

この記事のタイトルの“〈霊〉の潜在的需要”は、yamachanblog の記事から流用させてもらったわけだが、もちろん実際に潜在的需要もあると考えてのことだ。需要があるというのは「効用がある」ということだが、次回は具体的にその効用を示してみたいと思う。その対象には「一般意志2.0」を予定している。

一般意志2.0


コメント

彼岸と此岸による解説、おもしろいですねえ。
自分ではそこまで考えて書いた記事ではなかったのですが、こうしてまとめていただくとさらに妄想が膨らんでいきます。

>此岸に適応させるためのツール

とは的を得たり。
あくまでも親の都合に合わせた、自分勝手な願いであることがわかっているのです。が。
此岸で生きるためには此岸の技法を学ぶことも必要ということなのでしょうかね。
そう考えると、彼岸と此岸をつなぐツールとも言えるのかもしれないと思いました。

子どもが見ているであろう「彼岸」とはいったい何なのか。橋源一郎さんの『「悪」と戦う』は、まさに子どもが見る彼岸を描いた小説でした。そんな夢見る子どもたちへの愛情に溢れていました。ぼくはこの小説を読み終えた時に息子を抱きしめたい気持ちになったんです。それこそ、なにも願わずに、ただぎゅっと。

先日、おきなわの唄者がうたう「うた」を聴いて感動したのですが、そのような卓越した唄者による「うた」って「祈り」に近いなと思ったんです。以前の記事にあったような「垂直軸」へ向かうようなうた。それもまた、彼岸と此岸をつなぐ行為であるのかもしれないと思いました。


あ、潜在的需要といえば、前に内田樹さんがなにかの対談で
「祟りがある」ということで人々が畏れるということは、実際的な効用をもたらす
というようなことを言っていてなるほどなあと思ったことを思い出しました。
※この記事が近いですね。
http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.php

霊的作法としての「なまはげ」

・山やまさん、こんにちは。

そちらでコメントさせて頂いた通り(?)、妙ちくりんな記事が出来上がってしまいました。笑。

「一般意志2.0」は前々から取り上げる予定だったんですが、その前にちょっと何かないかなと考えていたんです。その「何か」が「なまはげ」になるとは自分でも驚いていますが。

偶然といいますか、出会いといいますか、こういうのってホントに面白いです。想像力の翼が羽ばたくようで、書いていて楽しい。(^o^)

さて。

あくまでも親の都合に合わせた、自分勝手な願いであることがわかっているのです。

う~ん、リンクを貼って頂いた内田樹の言葉でいうならば、「なまはげ」もまたその地域の霊的作法だっだということではないでしょうか。「親の都合」はそうでしょうけれども、それだけに留まらない感じも強くありますよね。その留まらない部分が霊的作法の部分だったのでしょう、たぶん。現代ではこそのところが忘れられて、「親の都合」だけが残ったのではないでしょうか。

彼岸と此岸とを繋ぐのが“垂直的”というのは、まさにその通りでしょう。“魂のこもった”優れた芸能は、エンターテイメントとしての此岸の領域を突破して彼岸へと向かっていきます。このことは実は誰もが“識っている”はずですし、そのような体験は持っているはず。ただ現代人はその意識構造から、そうした体験を「非日常」という枠の中へ押し込めて、「癒し」と活用するくらいがせいぜいで、その範囲を超えると「スピリッチュアル」ということになるか、あるいはキョンの台詞にあるように「ガキな夢」というレッテルを貼り付けられることになる。

そうやって自分を騙してしまうんでしょうね。

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