愚慫空論

「フクシマ」と「福島」 それぞれの思い

3月11日、福島県郡山市まで出てかけてきた。


参加者は1万6000人だったそうである。私は1万6000人の1だったというわけだ。誘って下さる方がいて、企画されていたバスツアーに参加させていただくことになった。以下はその折りの感想だが、例によってヒネクレタたものとなる。笑。

 参考記事:報告 : 原発いらない!3.11福島県民大集会

もともと3月11日はどこかへ出かけたいと思っていた。行くなら東京だろうと思っていた。福島に行ったのは、声がかかったから。特に東京でなければならないとも思っていなかった。でも、反原発の意思表示をするなら東京が相応しいだろうとは漠然と思っていた。

なぜ東京だと思っていたのか。漠然と思っていたことの理由に気づいたのは、恥ずかしながら「福島県民大集会」へ出かけていったからだった。ここにあったのは「フクシマの思い」だったのである。それは必ずしも「福島の思い」ではなかった。

我々にとって3.11とはどのような日であるのか。それは1に大震災があった日。2に原発事故があった日。そして、被災していない私にとっては、2のウエイトが大きい。1よりもかなり。これは偽りのないところだ。だから「福島」は「フクシマ」なのである。

しかし、「福島」の人にとってはどうか。ここのところがよくわからない。県民大集会の渦中にいると、それは私と同じである。2のウエイトが大きい。県民代表として訴えた6人の声も同じであった。でも、それが果して本当に「福島」の声なのか。

集会の後は、お決まりのデモ行進。デモで訴えの声を挙げる我々に手を振って、賛同の意を表してくれる人もいた。が、私の印象では、好意的な人はそれほど多くなかったように思う。関心無さそうな人は多かったし、なかには私たちに向かって罵声を浴びせかけた人もいた(私が遭遇したのはひとりだけ)。そうした人の背後に、どれほど無言の抗議があることか。

デモ行進の最中、我々の方も声を挙げていたこともあってその罵声の内容は聞き取れなかったが、その抗議の声の主にしてみたところで、原発の再稼働を望んでいるわけではなかろうと想像する。東電は未だに福島第二の再稼働の野望を捨て切れていないようだが、それはどう考えてもあり得ないだろう。

では、原発反対を叫ぶ我々に浴びせた罵声は何だったのか。それは「福島」を「フクシマ」としてしか捉えない我々への抗議ではなかったのか。原発で最も深刻な被害を受けたのは福島であることに間違いはない。空間線量も高い。だが、それでも、福島に暮らす者たちはそうでない我々には窺い知れぬ葛藤があるのだろう。一番の被害者だから一番反対のはずではあることに間違いはないはずだが、我々が想像するように、「一番」と「一番」とが単純に結びついているわけではないようだ。

帰りのバスの中、参加者たちで意見を述べ合った。私を除いて、参加してよかったという意見が占めた。私とて、参加に後悔をしているわけではない。だが、次は反原発の意思表示のために福島に行くことはない。行くのなら原発推進の本拠地である東京だ。「福島」の声を「フクシマ」に単純化し、それを背景に訴えることはもうしたくないし、する必要もないだろう。仮に「フクシマ」がなくても、原発には反対なのだから。

もう一点。

県民代表の訴えに先立って、作家の大江健三郎が登壇した。彼はドイツを引き合いに出して「倫理」という言葉を口にした。ドイツは倫理的な観点から反原発へと舵を切った。日本も見習うべきだ、という。まことに尤もなことだが「無責任なことを言ってくれる」というのが、私の感想だ。日本人にドイツと同じ「倫理」は逆立ちしても無理だ。

集会で一番盛り上がったのは、加藤登紀子の歌でもなく、大江健三郎の演説でもなく、県民の代表6人による訴えだったと思う。さすがに生の声は違う――だが、私は少し退いて見ていた。大江健三郎の「倫理」があったために。

県民代表の訴えに、集まった民衆が応える。それは「熱いもの」だったし、その「熱さ」を否定するつもりはまったくない。ただ、見方を変えれば―――集会の場はまるで被告不在の法廷のようであり、「県民の訴え」は「被害者の意見陳述」であり、大衆の応答は被害者への感情移入だった。東電や政府が裁かれなければならないことはいうまでもない。正当に裁きが為されないから、なおのこと裁きを求める声は高まる。それはいい。だが、あの「訴え」と「応答」は、倫理的だったのだろうか。

同じ集会に参加した人に倫理的だったかと問えば、倫理的だという答えが返ってくるだろう。しかし、私にはそれは「倫理」の意味を理解してのことだとは思えない。ここで言われる「倫理」とは、敵であっても通じる共通のルールということだ。だが、東電に果してそれがあるのか。我々も東電や政府にそれがあると思っているのか。

民主主義は闘争である。しかしそれは、共通のルールに立った上での闘争だ。宮台真司が何度も言及するウルリッヒ・ベック――原発廃止の提言をしたドイツ倫理委員会の委員でもあったらしい――の『危険社会』によれば、原発は民主主義に相応しくないという。想定できない“残余の”リスクの大きさが、民主主義的な決定の枠を超える。民主主義的に原発導入を決定はできるが、そのリスクを民主主義社会は負いきれない。『危険社会』は、チェルノブイリ以前にすでにそのことを指摘していた、という。

これこそが倫理というものであろう。倫理は民主主義を超えている。超えているから共通のルールたり得る。翻って日本はどうか。民主主義を超えたルールなど、日本人に想起することが出来るのか。

これも帰りのバスの中、やはり「倫理」という言葉を引っ張り出す者がいた。その言葉はすでに自分たちの「正義」を裏付けるものとして使われていた。闘争の土俵を定める共通のルールとしてではなく、闘争に勝つための武器として。そんなものはもはや倫理でも何でもないのだが、日本人は必ずそうなる。大江健三郎ともあろう者が、そのことに気がついていないとは。

「フクシマ」の声を自分たちの声と見なし、「倫理」を自分たちの武器だとした者たちは、さらなる【闘争】に向かうべし、と声を挙げていた。私は、共通のルールを自分たちの専有物にしてしまったら相手は倫理ない闘争で挑んでくるだけだ――と言いたかったが、残念ながらその機会には恵まれなかった。もっとも、言ってみたところで通じもしなかったろうが。

私たち日本人が共有できるのは、倫理であったとしても、それは西洋流のそれではない。3月11日、出かける前に視聴したビデオニュースドットコム――福島からの帰りが遅くなったことも相まって寝不足になってしまったが――で取り上げられていたテーマ。「倫理」と呼ぶよりも「道理」と呼ぶ方が相応しいもの。鎌倉時代に成立したといわれる「日本的霊性」ではないのかと思う。
(そのような、私からすれば他人による出来合いの【闘争】に参加するつもりは毛頭ない。)

今を生きる親鸞



コメント

オンカロ。

記事を読んで、タイトルにも書いた『オンカロ』を思い出しました。
愚樵さんは恐らくその名をご存知だと思いますが、フィンランドが国内に建設中の高レベル放射性廃棄物最終処分場です。大深度地下の処分場。
22世紀まで原発から生成される放射性廃棄物を収容し続け、しかる後に封印されます。
収容される放射性廃棄物が安全なレベルになるまでの10万年間、この処分場に安全な状態で保管しなければなりません。

そこで、オンカロの設計者たちが議論していること。
現代の文明と知/情報を共有しない後世の人々(もしかしたらヒトですらないかもしれません)が、その何たるかを理解しないままにオンカロの封印を解き高レベルの放射性物質に被曝する危険性を、如何に取り除くかという方法です。
もはや現代の言語を理解し得ないかもしれない後世の人間に警告するために、壁画のような絵で危険を知らせるべきだという者がいる。
一方、警告を発すれば人間はますます好奇心を掻き立てられ一層封印を解こうとするだろう、と説く者もいる。
こんな議論を科学者や哲学者などが侃々諤々、真剣に繰り広げている。

これが「倫理」なのではないでしょうか。
シミュレーション可能な程度の子孫に対する危機管理(現在の延長にある功利主義の地平上の未来)を遥かに超え、純粋な概念としての未来までも射程に入れ、主体としての責任を「自らに課す」。
民主主義を超越した思考としか言いようがないです。
このような思考を、おそらく日本人は持っていない。
1千年後、1万年後の人間(いや、ヒトじゃないかも)への責任を自覚し、それを全うするという意識・意思が、たぶん日本人にはない。
せいぜい「中間処分場」に象徴される、「仮設」的な概念しか持ち得ない。

だから、愚樵さんが言う通り、倫理はその時その時で仮設的に、何だか不定形の空気のようにつかみ所のない「正義」や「良心」に置き換わってしまいます。更に気が付くと倫理の奪い合い・どちらに倫理が属するかの争いになっていたりする。

承前です。

ただ、例えば原発に対して、日本人が倫理で向き合えないとしても、別の方法で向き合うことは出来ると思います。

http://www.youtube.com/watch?v=7g6sOe633d4
これは私が幼い頃よく観ていた子供向け特撮番組の、エンディングテーマです。
書き込まれている新しい方のコメントに、非常に驚きました。
私と全く同じ感受性の持ち主が、そこにいたからです。

こんな風に私たちがフクイチや、その他の原発と向き合うことは不可能ではないんじゃないか。
そんなことを思っています。

連投ですみません。

ついでに言うと、このテーマって、アレですよね。
死刑存廃とか日の丸・君が代にまつわる争いとも、通奏低音のように繋がっているんですよね。
これを考えると気が滅入ってくるんで、あまり考えたくないんですけど。

〈霊〉が足りない

・平行連晶さん、おはようございます。

かまいませんよ、思いついたこと、だらだらと書き込んでくださっても。(^o^)

これが「倫理」なのではないでしょうか。

だと思います。古代ギリシャ時代はいざ知らず、現代西洋文明に通奏低音として流れているのは、まさにこれだと思います。この基盤があるから民主主義が民主主義でいられるんですね。

ご紹介の動画見てきました。マッハバロン、懐かしいですね。私も見てましたよ。レッドバロンとどちらが先だったかな? あれ、平行連晶さんは同世代なのかな? もっと若いとイメージしていましたけど? まあ、いいや。

あの哀しげな歌、ああいったものこそが私は日本の「政治」の原点だと思うんです。荒ぶる御魂(御霊)を鎮めること。

『霊魂』(http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-550.html)の記事でこんなことを書いています。

人間が幸せになるためにはふたつの条件が満たされいなければならない。
1.〈霊〉が豊かに存在していること。
2.〈霊〉が上手く治まっていること。

かつて人々は〈霊〉が実在すると信じていた。政治とは社会で〈霊〉を祀って豊かにし、上手く治めようとする営為だった。

今日、人々は〈霊〉の実在を信じていない。ゆえに今日の政治は、金をどのように集め、どのように使うかという経済の一部分に成り下がってしまっている。


マッハバロンのEDの歌詞は、マッハバロンを霊的存在だと見なしていますよね。正義の味方ではあるけれど「荒ぶる御魂」であると。それは例えば、初代のゴジラなんかもそうだったんです。あ、これは逆か。最初は「荒ぶる御魂」だったのがいつの間にか「正義のヒーロー」になってしまった。

一神教のもとでの「倫理」というのは、とどのつまり“神の意志に沿うこと”をなんだと思う。たとえ現生の人類が存在しなくなっても神は存在するはずだし、ゆえに“神の意志に沿うこと”を追い求めたときに民主主義の枠を超えていくなって当然のことなんです。

ところが日本人にはそういった「倫理」がない。日本人は「GOD」という存在をうまく把握できないんですね。本来、「神」は「マレビト」であって「御霊」なんですけど、それは「GOD」と圧倒的に異なる。

日本人にあったのは、世界の不条理を「道理」として“そのまま”受け入れる「構え」だったんです。“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり”は仏教的ですが、同時に非常に日本的なんですね。ところが近代的日本人は不条理を受け入れられなくなってしまっている。と同時に自身が不条理な存在だということも失念してしまっている。日本人が偏差値が高くなるほどバカになるのは、そのためでしょう。

死刑存廃とか日の丸・君が代にまつわる争いとも

もちろん、そうですね。

私はその構造に非常に関心があるんです。そこを明らかにするのが自らの課せられた使命くらいに思っていて、切迫感を感じるほどです。笑。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/650-2cd38d1f

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード