愚慫空論

霊から貨幣へ(5)~〈霊〉と名前

「霊から貨幣へ」のシリーズは長くなりそうなので、リンクをまとめたエントリーを作ってみた。

 カテゴリー 〈霊〉 

今回のテーマは「名前」である。まず、下の動画を見ていただきたい。ドラマ『北の国から』のワンシーンだ。


(40秒あたりから)
 「バカな話だ。馬を手放す気にはじめて、馬に名をつけてないことに気づいた」
 「20年近くも経っているのに」
 「ここらじゃ、滅多に馬には名をつけん」
 「名をつけてはいかんと教えられた」
 「名をつけると馬に情が移る。手放すときに心が痛む」


なぜ名前をつけると情が移るのか。名前というのは言葉である。名前と情の関係を考えてみることは、〈霊〉と言葉との関係を考えることに繋がる。

(ちなみに。『北の国から』をご存知の方には説明の必要はないだろうが、この物語のこのシーンで「馬を手放す」ということには大きな意味がある。それは、主人公の純が馬に命を救われているという前段があるから。そのシーンが、↓)



私たち人間は、外界に存在するモノに名前をつける。人間が操る言葉には多様なバリエーションがあるけれども、“モノに名付ける”ことを言葉の出発点と言って間違いはないだろう。

言葉には記号という側面がある。例えば「A」という文字。「A」は、これだけではなにものも指し示さない単なる記号だが、しかし、「像」ではある。聴覚によって認識される“A”という図形と、“エー”という音声が「器(インターフェイス」のなかで結合することで「像」を結ぶ。ただしこの「A」は「像」であっても〈霊〉ではない。生き生きしていないからである。単に視覚と聴覚とが結びついただけの「像」では、それ以上にクオリティを上げるべく更新されることはない。人間がもつ霊性が発揮されなる余地がない。

霊性を持つ人間にとって、言葉は単なる記号ではない。外界のモノを知覚することで「器」に創出される〈霊〉は、「器」のなかでさまざまな感覚と結合することでクオリティを増していく。言葉とは、そうした〈霊〉を指し示し、他のモノと区別して際立たせる「装置」である。「言霊」という言葉が存在することからも推測されるように、人間にとって〈霊〉と言葉とは近しい距離にある。

ここで今一度、(4)の最後で引用したガンディーの言葉を引っ張り出してこよう。

「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」


なんという卓見かと松岡正剛が感嘆しているけれども、私も同感だ。ガンディーは、人間の霊性(とは呼称しなかっただろうけれども)というものを知悉している。文字という「像」をあまりに早く覚えさせてしまうと、子どもの霊性の発達を阻害する結果になる。小麦と籾殻との区別には視角と触覚と発達が必要だし、小麦の味は味覚が発達しなければ知覚できない。そうした感覚情報が「器」にもたらされ〈霊〉として結合されるようになるのを待ってから、文字を覚えた方がよい。そうすれば、文字もまた〈霊〉として結合されるようになっていく。

これは人間の本来的な悦びにも適った教育だとも言える。霊的な動物である人間は、〈霊〉のクオリティを高めることを本来的な悦びと感じる。この悦びは、生理的な欲求を満たされた時の快楽とは本質的に異なる。なぜそうなのかは説明がつかない。人間とはそのような生き物なのだとしか答えようがないが、その「事実」は誰もが実感できるはずだ。

話を『北の国から』の馬の所へ戻そう。

馬には、たの動物種と区別する「馬」という名称がある。その馬に名をつけるということは、馬という名称で括られる動物の中から特定の個体を区別する、ということを意味する。

「名をつける」という行為は〈霊〉のクオリティを高めるという行為とほぼ同じと考えてよい。馬という一群の動物の中からある個体を選別し、その個体と「対話」を行なう。身体の形状や(仏教でいう有情のものとしての)反応などを知覚し「器」の中にある〈霊〉を更新しクオリティを上げていく。これは人間の本質的な悦びなので、その個体に“情が湧く”のは極めて自然なことだ。

そうした個体に「名をつける」ことを禁ずる、つまり、〈言霊〉のバージョンアップを禁ずるということは、間接的にではあるけれども、〈霊〉の更新を禁ずるということに繋がる。「名をつける」ことを禁じたからといって〈霊〉の更新を防ぎきれるものではないけれども、抑制する効果はあるだろう。そうしたことをしなければならない理由は、“手放すときにつらい”から。〈霊〉のクオリティが増すほどに、〈霊〉と繋がっている外界の他者の喪失は人間には苦痛と感じられる。〈霊〉は人間の心を構成するパーツなのである。

十分にクオリティが高まった〈霊〉の名前を呼ぶことは、それだけで人間にとっては悦びになる。自分にとって愛しい者がいる人なら誰でも、その名を呼ぶことが悦びであることを識っているはずだ。名前を呼ぶという行為は、人間の身体に情動(emotion)を引き起こし、情動は感情(feeling)として知覚され、その知覚が〈霊〉と結合する。知覚と〈霊〉との結合は、人間には基本的には悦びなのである。

基本的にはということは例外があるということだが、それについてはまた後述することにして、この記事は『ビューティフル・ネーム』で締めることにしよう。



コメント

およそ存在するものは名を持たねばならぬ。

毒多さんのところでの例の話をこちらで引き継ぐつもりはないのですが。

件の、加害者の名前です。
あの時あの空間で、彼の名を表記する必要を感じました。
「元・加害少年」なる呼称は記号でしかないと思うのです。
顔も名前も奪われたまま、裁判が進行し判決が示されるというプロセスを経た彼をメディア越しに眺めていても、やはり一人の個人としての肉付けが自分の中でなされないと感じます。
それが法が定める少年の保護(匿名性の担保)というものであると言われれば、まさしくその通りなのはわかっているつもりです。
それでもなお名前を知って初めて、ああ、彼も私と同じように名を持つ個人なのだという実感が湧きました。

ただ呪術においても、呪うためには相手の名前を必要とするのですよね。名前は霊性を喚び起こし・また霊と関連付けられる媒質にもなれば、一方で「悪しき霊性」が対象(名の指示対象)を毀損するための媒質にもなる。
私は、悪意ゆえに呪うために彼の名を明記したと思われているのかもしれません。誤解なんですが、そう思われてもやむを得ません。

先ほど「悪しき霊性」と書きました。霊性に満ちる或いは欠けるということがあり得るように、霊性に満ちているものの中にも善いものと悪いものがあるように思います。これは少々オカルト寄りの考え方かもしれません。

まさに。

・黒い時計の旅さん、略させていただいて黒旅さん、おはようございます。

まず、NHを省略させていただいたことから。

仰るとおり「およそ存在するものは名を持たねばならぬ」です。全面的に同意します。ただ、名には名に相応しい名辞があって、「黒い時計の旅」では構築的でおよそ名に相応しくないと感じるのです。名前は蠱惑的でなくてはと思うのですが、「黒い時計の旅」は判断的すぎて蠱惑されていくことがどうしても阻まれる。それでずっと違和感を持っていたのです。

他人の名乗りを勝手に改変するつもりはありませんから、あくまで私の勝手な省略とさせていただきますが、黒旅さんのほうで違和感があるのでしたら略名を用いるのはやめますので、申し出てください。

で、件の名前についてです。

それでもなお名前を知って初めて、ああ、彼も私と同じように名を持つ個人なのだという実感が湧きました

私は彼がその名で呼ばれるのは当然だと思います。社会の規範をタテにその名を呼ぶことを禁止する方がよほど罪悪だと考える。それは欺瞞的態度でしかない。

社会的な実害は考えられます。ならば改名することを認めればよいだけのこと。服役が終わって(今回は残念ながら――)社会復帰する際に、改名するかどうかを判断する自由を当人に与えれば済む話。当人が犯罪者として刻印された名を引き受けて生きるか、それとも「リセット」を望むのかは当人の自由意志に委ねるが合理的というもの。

名を呼ぶ、というのは存在へ敬意です。如何に忌まわしい犯罪者であっても、その者が存在することには変わりはない。「およそ存在するものは名を持たねばならぬ」とは「およそ存在するものは敬意を払わねばならぬ」です。“死ねばみな仏”の宗教観を持つ日本人は、本来そうした感覚を持ち合わせているはずなのですが、近代に入って、そうした宗教観を歪める大きな阻害要因が生じたのですね。私の仮説ですが。

「悪しき霊性」は、私の考えるところでは「およそ存在するものは名を持たねばならぬ」から派生したもの。「およそ存在するものは名を持たねばならぬ」という命題は真であるべきですが、その逆、「およそ名のあるものは存在しなければならぬ」は、必ずしも真ではない。が、人間の「意識」は、この命題を真だと誤解する傾向がある。毒多さんへの応答でも指摘した通りです。

悪意というものは「存在しないもの」への敬意から生まれてきます。不思議なことに、人間は「存在しないもの」にこそ敬意を要求する。敬意を払わない者には敵意を感じてしまうほどに。

呪術の発生も、私の考えでは「およそ名のあるものは存在しなければならぬ」という命題から生じたもの。仏教は「空」という考え方でこの命題を否定しましたが、それゆえ呪術というものも認めない。もっとも日本仏教は呪術的ですが。

そんなわけで、〈霊〉というものをオカルティックに捉えてしまう呪縛から自由になれば、かなりのことが厳密に議論できるのではないかと私は考えています。

ああ、そういうことか

おはようございます。

弊ブログで、指摘のあった「名前」に関しては、指摘そのものになんらかの「違和感」があり態度保留してきたのですが、「こういうことだったのか」と少しヒントを貰った気がします。

また、別のエントリーでコメントした「霊性を高めることを実感する対話が楽しいのでしょ」ってのは、確かに格好つけすぎでしたね(笑)。

>悪意というものは「存在しないもの」への敬意から生まれてきます。不思議なことに、人間は「存在しないもの」にこそ敬意を要求する。敬意を払わない者には敵意を感じてしまうほどに。

これは、もう少し考えてみたいな。
ご指摘の貨幣?、、、他に、国旗国歌??、、それ以前に国家???、、、、でもって、法律??、、、、いやいや社会???、、、、まとめて思想?、、、、それとも神????、、、、戻って倫理はどう???、、、、
うーん一筋縄ではいかなさそうだな。


 


雑談めいた話です。

>愚樵さん

愚樵さんは察しがよいので時々焦ります。
もともと「黒い時計の旅」というハンドルネームは名前らしくない名前、座りの悪い名前、ありていに言えば記号として付けたものですから、違和感があるのは当たり前だと思います。

愚樵さんに違和感があると言われて思い出したことがあります。
私は10年以上前、2000~2001年くらいの一時期に例の2chに常駐して所謂固定ハンドルネームを付けていました。
洋楽板限定、しかも特定のスレッドにしか書き込みはしていませんでしたが。
その時に最初に書き込んだ時の通しナンバーをずっとハンドルネームに使っていたら、他の常駐者から「面倒だからハンドルネームを付けろ」と言われました。

「面倒」と言う言葉はどうも意味不明瞭で「?」だったのですけれど、あとから「記号と対話をしたくない」という意思表示だったのではないかと思いました。
愚樵さんの言葉に、その時のことをふと思い出しました。
考えてみると、名前というものは他者にとってこそ必要なものとも言えますよね。

そこで、ハンドルネームを変えました。他の、愚樵さんや毒多さんのところのような思索ブログと全くテイストの違う日記ブログに、たまにコメントを寄せる際に使っている名前です。
というか、「黒い~」は短縮してしまうと意味がなくなってしまうのです。
変更後の名も自分にとっては記号なんですけど、なんだか黒い時計の~よりはしっくり来るような気がするので。

>「存在しないもの」への敬意

存在しないものへの敬意は際限なく膨張させることができますから、場合によっては危険ですよね。
他方、すでに存在するものに対しては名前を消去することで実体を消してしまう、こういう使い方も出来ます。
私の場合は、自ら記号的な名前を用いることで、ネット上では実体としての私を希薄にしておきたいという意図があります。これは一種の心理的自己防衛・構えです。
ただ愚樵さんや毒多さんに対して防衛する必要を感じているわけではありません。癖みたいなものなんです。

要するに「虚構」です

・毒多さん、おはようござます。

「悪意」といったものがどういった機序で生じるのかということも考えてみたいですが、“本当のことを言われるとなぜか腹が立つ”というよくみられる現象が手がかりになると思っています。「真実を暴いてはいけない」のは、その嘘が強迫観念だからででしょう。

日本人が縛られる「空気」というのもそれですね。“福島は危ない”というと“非国民だ”と返ってくる...。

「存在しないもの」には存在しなければならない心理的な理由があるのですね。貨幣もそうだし、国家もそうです。国旗国歌や、また神話(日本における皇紀2600年神話とか、中国の南京大虐殺とか)なんかも、「存在しないもの」の【霊】のクオリティを高めるための装置だと考えることが出来ます。

人間の人間たる所以はひとつは〈霊〉を持つことなんですが、もうひとつ大きな特長があって、それは「見立て」の能力だと思っているんです。神も貨幣も「見立てられたもの」なんです。“ここに〈霊〉が居る”と見立てるんですね。その「見立て」が忘れられて存在そのものになってしまう。これが「虚構」です。

『NHKスペシャル ヒューマン』シリーズの第2集だったかで「ダンパー数」が紹介されていました。「ダンパー数」という言葉は出てきていませんが、ヒトが虚構のないデフォルトの状態で作ることの出来る集団の大きさが150人まで。これは人類共通で、他の類人猿にも見られて、それは脳の容量と比例しているという話です。

私たちの暮らす社会は集団ですが、いうまでもなく150なんて数は大幅に超過している。「虚構」が機能しているからです。そして文明人には、虚構への執着というか強迫観念がある。おそらく集団の大きさと安全保障とが関係するのでしょう。

安全保障を脅かそうとする者に「悪意」を感じてしまうのは当然のことです。虚構と安全保障とが結びついているなら、虚構の嘘を暴くのは安全保障を脅かすことだと捉えられてしまうのは致し方がないのかもしれません。ですが、現代はその虚構こそが個人の安全保障を脅かしているのですね。

雑談めいた話にこそ

・平行連晶さん

雑談めいた話にこそ、その人の本質が現われるものなんでしょうね。

私の場合は、自ら記号的な名前を用いることで、ネット上では実体としての私を希薄にしておきたいという意図があります。

それはよく理解できます。

ですが、そうした意図に変化の兆しが出てきていて、それは平行連晶さん自身も意識している。以前、そうしたコメントを頂きました憶えがあります。

また、これはひとつ前のコメントでの記述、

あの時あの空間で、彼の名を表記する必要を感じました。

も、その兆しであろうかと思います。防衛意識が高ければ、おそらくそうした必要は感じないでしょうから。

考えてみると、名前というものは他者にとってこそ必要なものとも言えますよね。

です。そして、それは結局、どうしても他者を必要とする当人にとっても必要ということなんです。

それからすると、平行連晶さんの名乗り方は戦術的には正しいのですけれども、どうしても自己矛盾を孕むものですから、最後まで貫き通すというのは難しいはずです。また貫き通したからといって、そこに積極的な意味も生まれてこない。自己防衛というだけですね。

というわけで、お節介だったでしょうけれど、揺さぶりをかけてみました。(^o^)

実はちょっと違うことを考えているんです。

>愚樵さん

返信ありがとうございます。
10年ばかり前の話なんですが。
近所のオジサンが翼に怪我をしたカラスを拾って飼っていました。
私が通りかかった時にちょうどそのカラスとオジサンが遊んでいましてね。

オジサンがその辺に落ちている砂利を拾ってカラスに放るんです。
するとカラスはそれを嘴で器用にキャッチする。片道のキャッチボールです。
カラスは咥えた小石を、さも嬉しそうにシャッターのレールに開いた穴にしまう。
大事なものを扱うそぶりで、そっとしまう。
オジサンがまた小石を放る。カラスはまたそれを巧みに捕らえて、レールにしまう。
それを飽かずに延々繰り返している。

とても幸福な情景でした。

カラスにとって、砂利はオジサンが放ってくれた瞬間、ただの砂利でなく素敵なオモチャ、コレクターズアイテムになったんです。

それと同じことをやってみようかなと。
記号を名前にする。記号を名前に変える。
「平行連晶(へいこうれんしょう)」はまだ私の中では記号ですが、ちょっとづつ名前になりつつあります。
ただの記号でしかなかったものに愛着を覚えつつある。

これから、このハンドルネームで愚樵さんと交流を続けていくうちに、愚樵さんもこれを名前っぽいなぁと感じる日が来るかもしれませんよ。
私が変わる機会を貰っているというのは、そういう類のことです。

感性の違いですなぁ

・平行連晶さん、おはようございます。

なるほどね、と思いました。そういうのは鉱物のような「静物」に感応する感性からくるのだろうな、と。

カラスの話は私もよくわかります。そんな情景を眺めてみたい。ただ、そこから

それと同じことをやってみようかなと。

もう「同じこと」と感じることが違ってる。私だったら「同じこと」が

記号を名前にする

にはなりません。笑。

しかし、それならば平行連晶が私には蠱惑的に感じられる「ひらゆきつれあき」ではなく「へいこうれんしょう」というむしろ無機的なものになることも腑に落ちます。そしてです。私の感性からすれば、その理由が腑に落ちていけば、もはや違和感はない。

以前の『黒い時計の旅』ですが、考え直してみえれば、あの違和感の表明は、じつは小説『黒い時計の旅』へものだったのかもしれません。ネットにある書評では、読み始めると止らないとあったこともあって読んでみたのですが、読み進めるのに実に苦労した。「像」がうまく定まらず、クオリティが上がっていかないのですね、あの小説は。そのように書かれていて、そこに価値があることはわかるのですが、その理解と「腑に落ちる」というのは私には別物なんです。

また時間があれば『黒い時計の旅』の書評も挑戦したいと思ってますが、いまのままではちょっと無理っぽいですね...

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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