愚慫空論

霊から貨幣へ(4)~霊性と学習



 霊から貨幣へ (1) ~〈霊〉を定義する
 霊から貨幣へ (2) ~〈霊〉と死の観念
 霊から貨幣へ (3) ~〈霊〉と罪の観念

「霊から貨幣へ」シリーズ4回目の今回は、霊性を定義してみたい。

まず、Wikipedia から「霊性」についての記述を拾ってみる。

スピリチュアリティ(spirituality、霊性)とは、霊魂や神などの超自然的存在との見えないつながりを信じる、または感じることに基づく、思想や実践の総称である。必ずしも特定の宗教に根ざすものではなく、普遍性、共通性を志向する概念である。


ここで定義する霊性は、超自然的存在とは関連はない。(1)で示したように、〈霊〉の定義は“人間の本来的運動状態”、すなわち社会的存在となる以前の純自然的存在としてのヒトを「魂」と定義づけることから出発している。ヒトは自然な成長とともに「器(インターフェイス)」を発達させて社会的存在へ変貌していくが、その「器」のなかに人間が創出する他者の「像」が〈霊〉である。

さらに(1)では、チンパンジーとの比較を通して〈霊〉の定義を検討してみた。チンパンジーも当然に「魂」や「器」をもち、「器」の中に他者の「像」を創出する。しかしその「像」は、人間と比較したするとクオリティがかなり劣る。チンバンジーの「像」は生き生きとはしていないと考えられるのである。そこで、人間に最も近しい存在であるチンパンジーであっても生き生きとした〈霊〉は創出できない、つまり人間特有の生き生きとした「像」を〈霊〉と呼ぶ、とした。

このことは、人間は霊的動物だと言い換えることも出来る。霊的動物である所以は、人間のスペックの高さである。スペックが高いためにクオリティの高い「像」を創出することが出来る。

ここでいう霊性とは、クオリティの高い「像」である〈霊〉のクオリティの高さをいう概念である。

人間のスペックの高さを言い表す概念としては、他に知性や理性などがある。たとえば知性とは、人間が持つ「知の体系」のクオリティの高さ(体系の範囲の大きさ、緻密さ)をいう概念であり、ある人物を知性が高いと評するのは、その人物の「知の体系」のクオリティが平均水準よりも高い場合、あるいはクオリティを高めようとする構えを持つ場合である。また理性ならば、「知の体系」と自己制御の関連の緻密さと言えるだろう。理性の高い人間は、自己制御のクオリティが高いのである。

同様に、霊性も人間のスペックを言い表す概念だと考えることが出来る。「器」の中に創出する〈霊〉のクオリティの高さが霊性であり、高いクオリティの〈霊〉を持つ者、あるいは〈霊〉のクオリティを高めようとする構えを持つ者を“霊性が高い”と評することができる。




生きるための経済学

 最初に、あなたがモノと向き合っている場合を考えよう。あなたがモノに働きかけると、そのとき、モノはあなたに反応を返す。たとえば、ハンマーでモノを叩くと、ガキンという鋭い音がする、という具合に。
 こうやって何度もハンマーで叩いていれば、その反応の具合から、あなたはモノの様子やその変化を知ることができる。このとき、あなたはモノの中に「潜入」していき、そのモノに「住み込んで」いく。ハンマーを振るうあなたとモノとを含み込んだ、一つのフィードバック回路が形成され、その回路の作動そのものが、あなたが「モノを理解する」という創発を生み出す。
 この回路は、固定した同じ運動をくり返す回路ではない。なぜならあなたはモノとの「対話」のなかで、自分自身のモノへの認識を深め、作り変えていくからである。それにともなってモノも、受動的ではあるが、モノ自身の性質に従って変化していく。たとえばこのモノとの対話が、工芸品の製造過程であれば。この運動の発展の結果「魂のこもった」美しい製品が出現する。「魂がこもっている」というのは手続的計算によって表面をとりつくろったのではなく、創発的計算によって計算量爆発を乗り越えた深い計算量によって処理された、という意味である。この回路の作動はまぎれもない創発の過程である。


あなたが初めてハンマーを見たとき、あなたのなかにはハンマーの〈霊〉が創出される。その〈霊〉は大きさ、形、色といった情報から出来上がっているが、クオリティはまだ低い。次にハンマーを手に取る。すると、手触り、重さという情報が加わって〈霊〉が更新される。クオリティが高まったのである。さらにハンマーを振るってモノを叩く。すると、叩いたときの衝撃その他もろもろの情報がさらに〈霊〉のクオリティを高めていくことになる。この〈霊〉のクオリティを高めていく「フィードバック回路」を作動させることが「創発」であり、〈学習〉である。


すなわち〈学習〉とは霊性を高める霊的行為だということができる。そうした霊的行為の積み重ねによって出来上がる工芸品などを“魂がこもる”と表現されるのは、ごく自然なことだろう。

しかし、近代教育における【学習】は、霊的行為でないことの方が多い。近代教育はむしろ霊的行為を阻害する「ハラスメント」である。近代教育においては、〈霊〉は言葉によって規定された「データ」として注入される。データの精度を高めていこうとするのは霊性の高い霊的行動だが、データを「正しいもの」として捉えて「データ」の更新を怠るようになったとき、このデータはもはや【霊】でしかない。

(〈 〉、【 】の表記については、こちらを参照 → クリック )

近代教育は、次々に新たなデータを注入していくことで、〈霊〉が〈学習〉によって更新されていくことを阻む。近代教育において優秀な成績を上げて社会から評価されようとするならば、〈学習〉に労力を割くよりも、新たなデータを受け入れる【学習】に傾倒する方が効率的であるということになる。社会からの【学習】圧力を撥ね除け〈学習〉へと構えを切り替えるには、いわゆる「社会のレール」から離脱するという選択をするか、もしくは【学習】を易々とこなして〈学習〉へと振り向ける労力を確保できる“卓越した”人間になるしかない。後者となれるのは言うまでもなくごくごく一握りの人間だけで、我が国最高学府の東京大学においてさえ、数えるほどしかいないと推測される。

 参考記事:オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

近代教育は【学習】によって魂が植民地化された霊性の低い人間を大量生産することになる。現代の日本では学歴の良い者ほどアタマデッカチの霊性が低いバカになっていく傾向が見られるのは、近代教育が成功を収めたことの証しでもある。勤勉な日本人は、内田樹氏がいうように、システマティックにバカになっていったのである。



最後に。

松岡正剛 千冊千夜連関篇1393夜『ガンティーの経済学』


 なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。
 なんという卓見か。その通りだ。ダースグプタは、このガンディーの教育には「方法論的個人主義」が開花していると評した。


 関連記事:犬の後ろ姿に感じる不安
        〔再掲載〕 知識

コメント

ギターと日本刀

ハンマーの喩えは面白いですね。
もっともワタシの場合はギターですが、、、。醸しだす「音」ってのは霊性を高めるイメージが沸きます。しかも「ギター」そのものが、工場ライン生産品でなく「魂のこもった」道具(工芸品:ハンドメイド)の場合は、さらにその霊性の高まる余地は大きいと感じます。職人自身の霊性の高まりから生み出された物であるからでしょう。「霊性の伝導」とでも名づけましょうか(笑)?
ギターをショーケースに入れて飾っておいても、ワタシの霊性が高まることはない(もしくは微量)でしょうね。さらにギターというのは、ギター自身に弾けば弾くほど音が良くなるという特性がよく言われています。材が乾燥するからか?材と弦の調和が良くなるからか科学的な根拠があるのかないのか知りませんが、たしかにそういうことがあるような気がします。媒体自体も高まる、ってのは面白い。

さて、ワタシのコメントも貴エントリーにおいてもそうですが、〈霊〉が「高められていく」というなんとなプラスのベクトルについて述べられていますが、「霊」はプラスのものばかりではないですね。もっとも何をしてプラスとするか、マイナスとするかが問題になってくる気もしますが。
で、「日本刀」って媒体はどうでしょう?
ハンマーで日本刀を鍛える職人の霊性は高まっていき、それをつかう剣術士の型は高まっていく。北辰一刀流なんかの流派があり、免許皆伝なんてのもある。その実践は「人斬り」ですね。イメージとしてはマイナスなんですが、霊性としては高められた結果なんですよね。・・・と、こういうことを考えるのが、ワタシが今ひとつ解ってないところのような気がしています。

追加でもう一つ。
引用のなかに「魂がこもっている」という言葉がありますが、これは愚樵さんにとっては「霊性がこもっている」といったところでしょうか?
で、感じたのですが、霊性があるように魂性もあるんでしょうね。これがアキラさんの領域なのかな、いまさらながら気がつきました。

悪霊

・毒多さん

ハンマーが持ち出されたのは、おそらくはなるべく単純な例を出したかったからでしょう。ギターでもチェーンソーでも、同じようなものでしょう。機械を徹底的に否定したといわれるガンジーでも、「ミシンはいいね」と言ったという。

この話はリンクを貼っている松岡正剛の記事にも出ています。

ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。うーん、すばらしい。

「身体の拡張性」の限界を超えた機械は、個性を蝕むのでしょう。

で、日本との話ですが。

〈対話〉というのは〈霊〉が「媒介形式」なんですね。これおそらくは人間の「意識」というものに特有の作用かと思っているんですが、「媒介形式」が実在すると勘違いしてしまう傾向があるんです。その典型が貨幣なんですけどね。

〈霊〉が意識によって、実在とまでは認識されなくても、実在の方向へ引っ張られると〈霊〉は【霊】となり〈対話〉は【対話】となる。【霊】というのは「悪霊」です。で、【霊】との【対話】であっても、「対話」は悦びなんです。


http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-639.html#comment4551 での応答ですが、そのまま日本刀に当てはまると思います。しかも、日本刀は実在しますから、容易に「悪霊」になっていきますね。恐ろしいことです。

そういった【霊】の性質に気がついていくと、『バガボンド』(ご覧になってます?)で出てくるように、「剣禅一如」とかいう話になっていくわけなんです。

引用のなかに「魂がこもっている」という言葉がありますが、

おっと。本文では“ごく自然なことだろう”と「流した」ところを突いてこられましたね。

そう言いたいんですが、そう言わなかった理由もあるんです。それはやはりアキラさんがここで
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-638.html#comment4522
指摘されていることと関連があります。〈霊〉は他者の「像」ですが、「器」は「魂」をも他者とすることができる。ただしこれには修練が必要です。“魂のこもった”作品は修練なしには生み出せない。

このあたりのことも理論化してみたいと思ってます。それがあるので、本文ではとりあえず「流した」んですけどね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/644-f516e104

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード