愚慫空論

霊から貨幣へ (2)~〈霊〉と死の観念

貨幣とは何だろうか(1)より。

「貨幣を経済学の封じこめから解き放ち、人間の根源的なあり方の条件から光をあてて考察する貨幣の社会哲学」。『貨幣とは何だろうか』の内容紹介冒頭のセンテンス。その第一章は「貨幣と死の表象」である。

人間であるということは、単に生物学上の一種であるヒトであるということと少し異なる。人間はヒトととして生まれてきて、人間になる人間になるということが、他の動物との根源的な違いだろう。『貨幣とは何だろうか』の第1章では、人間と他の動物との根源的な違いを、精神でもなく、言語でもなく、家族でもなく、「死の観念」を持つことだとする。

人間に特有のもの

(前略)
 それは死の観念である。死と死の観念はちがう。死ぬという現象は、動物にも人間にも共通であり、自分以外のものの死に直面して何らかの反応を示すのも、動物も人間もたぶん変わりはない。高等動物では悲しみの感情を表現することさえある。だが、生物学的死に直面してなんらかの欠如感を示すことはあっても、死の観念という反省的な抽象観念をもつことはないであろう。
 このことを典型的に示す事実がある。それは、人間を除くどの動物も例外なく墓を持たないという事実である。墓は死の観念の具象化である。(後略)


私の考えでは、人間と他の動物との根源的な違いは、(1)で示したように、〈霊〉を持つことである。人間に最も近しい種であるチンバンジーでも〈霊〉を持つことはできない。チンパンジーが「交換」を出来ないのは〈霊〉をインターフェイスの中に持てないからだというのが私の仮説である。

死の観念も〈霊〉の仮説から導き出すことができる。

ヒトには本来的な運動としての「魂」があり、「魂」は外界との仲立ち機能を果す「インターフェイス」を持つ。外界に存在する他者はインターフェイスのなかで「像」を結ぶ。この「像」が〈霊〉である。


他者は客観的存在であるから、同じく魂とインターフェイスを持つ他人と共有されることになる。


死という現象は、外界に存在した他者が存在しなくなるという現象だが、人間は他者が消滅してのインターフェイスの中に〈霊〉を保持し続ける。


死の観念は、インターフェイスの中に残った〈霊〉と外界に存在していた他者との断絶が起こったことで生じる。

他の動物であっても、インターフェイスの中に「像」を結ぶことはあると考えられる。なので何らかの欠如感を感じることはあるだろう。しかし、人間が保持する〈霊〉は生き生きとした質感を持つ。〈霊〉はインターフェイスのなかで「生きている」。

貨幣とは何だろうか

 ここで重要なことは、人間は他人の生物学的死(生命体の機能停止)に驚き悲しむだけではなく(これは低いレベルの動物にもある)、死の観念にもとづいて死の世界を構成することである。しかも死者たちの共同体(墓)を生者の共同体の不可欠の要素にすることである。葬送儀礼は二つの共同体の結合の儀式である。目に見えないものをあたかも存在するかのように創造的に想像する能力を人間はそなえているのだろう。それは自分の死の可能性について意識をもつことであり、そこから一般的な死の世界を構想し、その反作用から人間世界の社会的、政治的、経済的、文化的現象をつくいだしていくのだ。

(太線強調は愚樵)


 まとめていえば、墳墓贈与貨幣権力は、動物にはまったく見られない現象であるが、これらを人間にしかない現象、人間特有の現象にするものは、死の観念である。人間が人間であること、人間が人間になること、人間が死の観念をもつこと、これらはまったく同じことなのである。


死の観念は人間が備えている「目に見えないものをあたかも存在するかのように創造的に想像する能力」から生まれる。これは〈霊〉を創出する能力である。よって、人間が〈霊〉をもつことと、人間であること、人間になること、死の観念を持つことはまったく同じことだと言うことができる。

 関連記事:『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』


コメント

はやい

おはよーさんでございます。しかし、なんちゅう速さでしょう。
ここんとこのエントリーup速度は。3-4日macから離れているだけで置いてけぼり。
余命○日で、書き急いでいるようにも感じます、爆!!
(3)を先に読み、坂東眞砂子を思い出しながら、この(2)にもどり、さらに理解不足の(1)にもどり、
どこからコメントしようか悩んでいるうちにtimeupになりそうです。

で、手短に、
実は随分前から、「自分」の「墓」は要らない、と思っているのですが「人間」失格なのでしょうかね?
墓や死が【経済】に利用されるという理由(もあるんですが)ではなく、さらに観念を具現化する意味はわからないでもないですが、それが必要かと言われれば疑問を感じます。ワタシ自身、逝った他者の墓参りをしたこともなく、墓がなくても思い出すときには思い出すし、思い出さなければそんなものなんだろう、と感じています。
あまりこういうことを言うのも阻まれのですが、よくあるような「死体」に対する固執も(多分)あまりありません。こんなワタシは人間としてのインターフェースが未発達なのでしょうか?
どうも観念を具現化しなければならない、というところに引っかかるんだようなぁ~。

おそらく「墓」は、死んだワタシのためのものではなく、生き残っている者のためのものなのでしょうが、双方が生きているなかで「遺言的」に「墓イラネ」っていうのはどんなもんなんでしょうね?

なんか、人生相談みたいだな(笑)







「どうしても伝えたいこと」

毒多さん、こんにちは。

書き急いでる、は残念ながらハズレです。(^o^)
もっと書きたいんです。時間の許す限り。セーブしてるんです。オーバーヒートするので。

私はこれでも、そんなにスラスラと文章が出てくるタイプではないんですよ。そういったときもありますけどね。だいたいは苦悶しながら書いてる。毒多さんとこへのコメントも、長いものだと2時間くらいかかって書いてたりします。

オーバーヒートすると頭がボウッとしたり、酷くなると頭痛がしてきます。ホントの話し。
だもんで、この頃はアキラさんの記事を読んで減食したりもしてます。なるべくこちらへ回すエネルギーを確保したいと思って。効果はあるみたいですよ。

近頃やっと、「どうしても伝えたいこと」が見つかったような気がしています。誰にというわけでない。誰も聞いていなくても構わない。とにかく表出したい。それがこの〈霊〉というテーマです。今までいろいろ書いてきたのも、ここに至るための道程だったのかもしれません。

これまで考えてきたことが〈霊〉でスッキリとまとまっていきそうな感触があって、その感触を追いかけていくと「言葉の卵」が湧いてくる。その「卵」を、あっちこっちと選り分けて「言葉」に置き換えていく。そんな作業を続けています。

そんなわけで、とにかく「どうしても伝えたいこと」を出し切るまでは死ねません。でも、もしスラスラと言葉が並んでいくようになると危ないかも知れないですね。

墓は必要がなくなりつつある?

・毒多さん、コメント欄を改めて。

実は随分前から、「自分」の「墓」は要らない、と思っているのですが

私もそのように感じています。同様のことを感じている人も多いような気がします。

仰るように、墓は生者のためのものです。生者には「観念の具現化」――それを『貨幣とは何だろうか』では「媒介形式」という呼称しています――が必要なんですね。貨幣もそのような「媒介形式」のひとつ。

私たちが墓を必要としなくなったと感じるのは墓以外の媒介形式、言い換えれば「墓2.0」が出現し始めているからだと思うんです。墓というのは一種のアーカイブですよね。他にも、歴史だってアーカイブ。出世して名を残して死んだら歴史上の人物になるというのは、古い言葉でいうと(?)「男子の本懐」というやつですが、現代の情報化社会では、別に出世しなくても歴史は簡単に残せる。墓や仏壇の位牌といったような形でアーカイブを一点に集約させる必要はなくなった。

故人の記録、写真やら文章やらをアルバムに編集して記録に残す。そんなビジネスがあると聞きますけど、そういった「形」でアーカイブがどんどんと残されていくようになるでしょうし、それはデジタルデータだから、誰でもアクセス出来る。墓にせよ位牌にせよ、もともとは誰もがアクセスできるようにするための装置なんですよ。名前と同じで、見知らぬ第三者がアクセスすることを想定しなければ、必要はない。“オレとオマエ”だけなら、「オイ」で済む。死者なら思い出せば済む。死者のアーカイブは、生者の「器(インターフェイス)」の中に〈霊〉としてあるわけですから。しかし、第三者にはそれはないので、アーカイブの象徴として墓が必要になったのでしょう。

現代社会ではアーカイブは象徴にまで圧縮しなくてよい。膨大なアーカイブをそのまま残しても第三者は現実的にはアクセスできないから、編集した形で残す。それが従来、墓が担ってきた役割を担うようになる。

そんなの、オレは要らないよと毒多さんは言うかもしれませんが、ま、それをするのは毒多さん自身ではないし。それに自分でせっせとブログというアーカイブを残しているわけですしね。要らないと感じるのは、そのことも影響しているんじゃないですかね?

よければ、またそちらで「戯れ言」してみてください。このテーマなら「衝突」もないでしょうし?

すみませんでした

墓、、、が、アーカイブね。
ちょっと発想しなかったことです。

と、その前に、

>長いものだと2時間くらいかかって書いてたりします。

どうりてレスするのがシンドイはずだ。
ごめんよ、もっとスラスラ書いているものだと勘違いしていた。
この勘違いは罪深いな。つまらん衝突をしてるバヤイじゃないじゃないか!!
(ホント「あれ」は悪かったと反省してるから許してちょ)
ちゃんと思索しなくっちゃ、、ね。
最近の自堕落な我が思考回路を反省します。
とはいえ、すぐに反映できるかは別なんですが、、、笑

 で、戻って、墓がアーカイブかぁ。
 やはりそう言う側面というか心理はあるのかなぁ。「人間」だけがわざわざ墓を造って「遺す」ということはそういうことかもしれないな。でもね、それがどうも(今を生きるワタシには)形式だけのような気がして(むしろ強迫観念)、遺族にとってはそこを通さなくても「霊」はいるじゃないか、というふうに感じてしまう。ここに「第三者」という発想はなかったということだね。どうも鈍っているときの発想は貧困だ。

 人間(の歴史)という大きな流れのなかでは多数のインターフェースによって、これまた多数アーカイブが共有されたり、発展させられたり、引き継がれたりして流れていくんでしょうが、この「アーカイブ」が「霊」と考えていいのかな?ここがまだちょっと解っていさそうだ。
 ワタシとって「霊」のイメージというのは、たとえば他者の「アーカイブ」を含んだ「顔」(画像、残像)であるのですが、墓が第三者のためであるところの共有は「アーカイブ」のみのような気もします。あまり「顔」が必要じゃない気がするのね。
 たとえば、「戯れ言」がワタシの墓であり、空論が愚樵さんの墓とします。これらのブログが、人間の大きな流れのなかで「遺され」「共有」されたり「引継がれた」りすることが(たとえ今、誰にも読まれてなくても、たとえ淘汰されたしても)意味があることであると思います。(そういえば、何故ブログを書くのかというやりとりがありましたね)。墓がそういう意味をもつことも、これからは象徴(墓)がなくてもよくなりそうでることも解ります。とはいえ、やはりブログがあるから墓はいらない、、ということとは感覚としてなかなか繋がりませんが、、、。

で、まあ、一定の納得をするとして、では「霊」とはなんでしょうか? 「アーカイブ」=「霊」となるのでしょうか? 第三者にとっての「アーカイブ」には顔や名前は必ずしも必須条件では無い気がするのですが、「霊」にはどうしても映像(や名前)が欲しい気がして仕方ないんですね、ワタシとしては(笑)。

ああこのコメントですが、愚樵さんの(オーバヒートにいたるまでの貴重な)時間を阻害するようでしたらスルーしてくださいね。

と、書いたとこでふと時計をみると50分かかっていた、、、時間が流れるのははやいねぇ、爆!!

・・・

あぁ、そうだ、「アーカイブ」がワタシのなか(インターフェース)で、ワタシ自身と相まって、ほんと取り込まれたとき(同化したとき)に「霊」に昇華するのか。きっとそうだね。(このニ行で1時間10分www)

新鮮

愚樵さん、どくたさん

私も「ヘー」です。ご両名、スラスラ書いてるもんだと思っていました。
勝手に良いなぁ、俺もスラスラ書ける才能が欲しいなぁ、と思っていました。

それでも私の方が遅いとは思うけど、そんなにスピードは大差ないんですね。\(^o^)/


ところで、昨年父を亡くしたのですが「墓」はありません。今後も予定はありません。
本人の希望でもありましたし、私たちも特に必要とは感じていません。
葬儀屋はしつこく仏壇の購入を勧めましたが、今のところそれも予定はしていません。
あるのは、写真と遺骨と位牌だけです。

だからなんだと言うわけではないですが…(^^ゞ

光陰矢のごとし

・毒多さん、おはようございます。

そうなんですよね、時間が経つのは本当に早いです。言葉を繰っているとなおさら。“適切な言葉”を探そうとするじゃないですか。言葉って“その場所”に置いてみなければ適切かどうかわからない。ちょうど写真を撮るときに、被写体にカメラを向けてみて、アングルを変えてみたり、被写体の位置を動かしてみたりといった微調整をする感覚と似ている。これ、結構時間がかかる。

あの「事件」は、あれはあれで必要なプロセスだったのではないかと私は思っています。前にも書きましたが、いずれああいったことはあるだろうなと思っていたし、近々あるなという予感もあったんです。あれが本震だったとすると、前震に当たるような微動があったと思うんですよね。

あれも「風邪の効用」ではないんですが、一種の「体調のリセット」になったのではないかと予想します。ああいったことがあると風邪をこじらせてしまう人が多いのですが、その点、毒多さんは基礎体力は十分あると思っていたので、さほど心配はしていなかったのですよ...、って、ずいぶん上から目線だな。すみません。ご容赦を。

「アーカイブ」=「霊」となるのでしょうか?

アーカイブの言葉の使い方がもうひとつ適切ではなかったようですね。

アーカイブは直訳すると「書庫」ですが、その保管場所によって2つに大別できます。ひとつはインターフェイスの中。内部記憶ですね。もうひとつは外界のなかの物理的な、外部記録です。

〈霊〉というのは、内部記憶ですね。

魂は共有できません。インターフェイスもできません。共有できるのは外界に存在するものだけです。しかし、インターフェイス上の存在、すなわち〈霊〉も、共感ならできるんです。で、墓というのは、共感のための装置なんですね。この共感のための装置を「媒介形式」と呼ぶわけです。「媒介」は〈霊〉を媒介。「形式」というのは、実質が問題ではなくて(共有なら実質が問題になる)、その存在感、「それらしさ」が重要だということですね。墓なら墓らしさ

ということから考えると、毒多さんの『戯れ言』、私の『空論』は、そのままでは媒介形式にはならない。これらはあくまで外部記録であって、第三者がそのインターフェイスの中に保持している私は毒多さんの「像=霊」を共感させるものではない。らしくない、からです。そこには第三者による「編集」という作業が必要になってくる。

現在の墓だって編集されています。四角い石塔も、戒名も、みんな“らしく”するための編集ですね。ところが現在ではその編集方法そのものが、らしくなくなってきている。

 私のお墓の前で、泣かないでください
 そこに私は居ません。眠ってなんかいません
 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています

こんな歌がヒットしましたけど、なぜヒットしたかというと「らしい」からです。なぜ「らしい」のかは説明不能ですけど、とにかくそれらしいと感じる。この場合は「風」もしくは「大空」が媒介形式ですね。かなり原始的ですが、原始的だからダメだなんてことは全く言えない。墓がらしくなくなって、風や空がそれらしくなったということしか言えない。

といったところらで、よろしいでしょうか。

それと念のために言っておきますが、こういったコメントは大変ありがたいです。〈対話〉の効用が大ありなんです。違和感を感じたことをぶつけていただくと〈霊感〉が作動するんです。この〈霊感〉についてもエントリーしてみるつもりです。

これに対して〈霊感〉がまったく作動しない、むしろそうした働きを阻害するようなコメントもあります。誰のとは言いませんが、そういったのと応対するのは本当にシンドイ。嬉しくない。ハラスメントだからです。なぜそうなのかということも〈霊〉の概念で説明できますし、する予定です。

安心?

すぺーすのいどさん、おはようございます。

そんなにスピードは大差ないんですね。\(^o^)/

才能のある人ってのは世の中に確かにいるんですよね。でも、才能ってのも良し悪しです。

「書けない」といっても二種類あって、ひとつは「書きたいこと」がないから書けない。もうひとつは「書きたいこと」はあるのに書けない。書く段になって引っかかるわけですよね。

上の毒多さんへのコメントで写真撮影のたとえ話をしましたけど、引っかかるというのは、(アングル)などが決まらないということです。決まったと感じられないから、たとえ書き上げても不満足。それでいろいろいじくり回しているうちに「書きたいこと」を見失ってしまう。

「決める」というのは、たぶん一種の芸です。芸は磨くしかありません。才能のある人は引っかかることがないために、得てして「書きたいこと」がなくても書けてしまう。いえ、最初は誰だって「書きたいこと」はあるはずなんです。そうでなければ書き始めない。しかし、才能に溺れると「書きたいこと」が深化しない。自己模倣の繰り返しになる。

そういったところに留意して見渡してみると、自己模倣の人がいかに多いことか。そういう人は「能のない人」は消費されておしまいです。「芸」を磨くことは「能」を磨くことでなければならない。引っかかりがなくなって滑らかになるほどに、微細な引っかかりを感知できるようになっていかなければならない。だから、引っかかる手触りは忘れちゃダメなんです。初心忘れるべからず、というのは、おそらくはこれです。

このあたりのことも〈霊〉に絡んできます。ご期待あれ。笑。

ところで、昨年父を亡くしたのですが「墓」はありません。

ふむ。お父様は〈らしさ〉を追い求める人だったのかもしれませんね。

ここでいう〈らしさ〉とは、例えば「父親らしさ」といったようなものを予め設定して、そうした【らしさ】を実現しようとする態度とは異なります。〈らしさ〉そのものを追い求めるという意味です。父親らしいというのはどういった状態なのか、というふうに追究する構えをもつことですね。

そういった構えの人であるならば、墓が当人にとって「らしくない」と感じられるのはまったく不思議なことではありませんからね。

まあ、あくまで私の推測ですが。

雑感

おはようございます。

>上から目線

とりあえず、ワタシは「なにも解ってない」と自認してますからかまいませんよ。それに「上から目線」は愚樵さんの「癖」でしょ(笑)。「上から目線」が愚樵さんの「霊性を高める」のに適した「癖」であるなら、大した問題ではないでしょう。
ただ、「対話」が楽しいのは、お互い「霊性を高めあう」ことを実感できるときでしょう。おそらく愚樵さんのみの霊性が高まるときは、愚樵さんにとっても、(対話として)面白くない。それで、「癖」が相手の「霊性が高まる」障害になっている場合は愚樵さんにとっても面白くないはずです。そこで愚樵さんがどうするか、、ですかね(笑)。あ、そんな些細なことが障害になる相手は切ってしまえばいいのか、、、納得、爆!!


>「書きたいこと」はあるのに書けない。

ワタシの場合は、「書きたいこと」がなんなのかを見つけるために書く、ことがよくありますね。何か「引っかかる」のだが、それが何か解らない。この「花」にひっかかる(惹かれる)けど、何にひっかかる(惹かれる)か解らない。それで取り敢えず、写真をとってみる。アングルを変え、露出を変え、焦点をかえ、という感じでしょうか。書くこと(撮ること)で何が見えることがある。何も見えないと「ボツエントリー」になる。まあ、無駄ではないのでしょうが(笑)。

と、この辺りが「霊性を高める」ということになりそうですね。そしてそこに言葉が深く関与している、という感じでしょうか?
(本題であるとこの、つづきのコメントは(4)に書きますね。)

〈対話〉が【対話】になるとき

・毒多さん、おはようございます。

それに「上から目線」は愚樵さんの「癖」でしょ(笑)

って...(^_^; まあ、構造的欠陥ですね。

「上から目線」についてはあちこちでも書かれていますけど、「何か」を論じるときは俯瞰しなければならないのだから構造上どうしても「上から目線」ですよね。ただ「何か」は「目線」を感じないから「上から目線」はない。「何か」が「誰か」に変わったとき「上から目線」が生まれる。

だから議論を「誰か」に適用するときには気を留意すべき――と、実は思っていないところも私にはあるなぁ。苦笑。

「対話」が楽しいのは、お互い「霊性を高めあう」ことを実感できるときでしょう

基本的にはその通りですね。けど例外もあるし、その発生頻度はかなり高いと言わざるを得ない。

〈対話〉というのは〈霊〉が「媒介形式」なんですね。これおそらくは人間の「意識」というものに特有の作用かと思っているんですが、「媒介形式」が実在すると勘違いしてしまう傾向があるんです。その典型が貨幣なんですけどね。

〈霊〉が意識によって、実在とまでは認識されなくても、実在の方向へ引っ張られると〈霊〉は【霊】となり〈対話〉は【対話】となる。【霊】というのは「悪霊」です。で、【霊】との【対話】であっても、「対話」は悦びなんです。

だもんで、仰る「実感」というのは当てにならない。私は面白いと思っていても、相手はそう感じていないことだってあるはずです。実はかなりあるだろうと思っていますし、毒多さん相手でもあるはずです。

ただ、それは「不愉快」とは違うように思います。「違和感」の方です、おそらく。毒多さんの違和感を私が感知せず、どんどん舞い上がっていった...、なんてことが、あったでしょう? おそらくは。

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