愚慫空論

霊から貨幣へ (1)~〈霊〉を定義する

「霊から貨幣へ」とは、またふざけたタイトルをつけたものだと思われるかもしれないが、冗談ではない。現代人にとって〈霊〉とは実体のないオカルティックなもの、逆に貨幣はリアリティそのものだから。しかし、私はこのふたつは現代人の一般常識とは異なって、近しい距離にあるのではないかと思っている。だから大まじめである。

前々回、『信頼のトーラス型/ブラックホール型』という記事をアップしたが、今回のシリーズはその続きになる。

『信頼のトーラス型/ブラックホール型』では、NHKの『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第4集』で、チンパンジーは交換をすることができないという事実を紹介したが、今回も同じNHKのシリーズの『第1集 旅はアフリカからはじまった』から、これまた同じチンパンジーについての事実を紹介する。以下のような実験である。

まず、二匹(プチとマリ)のチンパンジーを隣り合った檻に入れる。檻は出入りはできないが、品物は出し入れできるし、互いの様子を視認することもできる。そして、

1. 一匹のチンパンジー(プチ)の檻の外の手の届くところへジュースを置く。当然、プチは手を伸ばしてジュースを取って、飲む。

2. ジュースをプチの檻の前の、手の届かないところへ置く。マリにはステッキを与える。すると、プチはマリにステッキを渡すように要求し、マリはプチにステッキを渡す。プチはステッキでジュースを引き寄せて取り、ひとりでジュースを飲み干してしまう。


 
(画像はコチラより拝借)
3. 2.と全く同じに実験を行なう。すると再びプチはマリにステッキを要求し、マリはステッキを渡し、プチはひとりでジュースを飲み干してしまう。

2.と3.は同じ実験を行ない同じ結果に終わったわけだが、同じ結果で終わるということが人間とは異なっている。ヒトであれば、3.の時点では2.から学習して行為に変化が見られるのは容易に想像がつく。プチとマリがヒトならば、マリはプチの前にジュースが置かれた時点でプチの欲求と行動の予測がつく。なので、考えられる行動としては

 a) プチの欲求を察して、自発的にステッキを差し出す     
 b) プチが2.でジュースを分けてくれなかったことから、要求されてもステッキを渡さない

のどちらかだろう(もっとも、ヒトならば2.の時点でジュースを分配しているはずだが)。

チンバンジーの行動は、ヒトにとってすれば不思議に思える。マリの行為は純粋な利他行為に見えなくはないが、何かが欠けた印象を受ける。私は、その欠けた何かこそが〈霊〉だと思う。チンパンジーには霊を創出する能力がない。

〈霊〉とは「この世(此岸)」に実在するものではない。ヒトは「心」あるいは「人格」というものを持つが、それが実在しないのと同じこと。ヒトは心をもつことで「人間」になるが、〈霊〉とは人間の心を構成する部品に過ぎない。人間の心が脳の働きによって生じる一種の現象だとするならば、〈霊〉も同じ。心や人格は「魂を中核とした霊による構造体」だと定義することができる。

 参考記事:『霊魂』
       :『〈霊〉について 〔再掲載〕身体性=脳の拡張性』

『霊魂』の記事で記した霊の定義を再掲載する。それは「魂」を定義するところから始まるが、これは「東大話法」で注目の安富東大教授のものをそのまま拝借する。

ハラスメントは連鎖する

 出発点となるのは「魂」である。ここでは魂という言葉にいかなる宗教的な意味合いも含めてはいない。人間が生まれたときから持っている本来的な運動状態のこと、我々はそれを魂と呼ぶ。
 運動状態と言うと、とっつきにくい印象を受けるかも知れないが、魂と身体を対比させて考えるとわかりやすくなる。
 私たち人間はみんな、肉体、血液、脳などの全てを含む身体を持っている。しかし、ただ 身体を持っているということと、生きていることとは別の話である。
 私たちは誰に習うこともなく、呼吸をしている。肉体を構成する細胞はつねに代謝活動をしている。血液は血管を流れ全身をめぐっている。脳では数百億個の神経細胞、ニューロンが互いに電気的、化学的に通信をしている。これらの動きが十全に機能しているからこそ、私たちは生きることができる。
 これらすべての動きのうち、人間に生来備わっているもの、それが魂である。
 新生児について考えてみれば、身体という構造に魂という機能が備わっており、その魂という機能があってこそ、身体という構造が生きた状態のまま維持されていると言うことができる。
 何かを学習すると、脳内のニューロン同士の接合部であるシナプスが変化する。毎日重い荷物を運んでいると、筋肉が肥大していく。食事をして休息することにより、身体は成長していく。
 これらは運動が身体の構造を変化させていく例である。運動は身体の構造を変える。そしてまた、構造の変わった身体は、構造が変化する前の身体とはちがった運動状態をもつ。身体が大きくなれば、血液のめぐり方も変化する。このように運動状態と構造は不可分であり、魂と身体も不可分である。
 身体とは別個に魂が存在するわけではない。運動状態と身体の構造を同時に変化させながら、生物は生きている。


つまり、魂も〈霊〉や心と同様の、身体(とりわけ脳)の作用によって現象なのである。魂は、そうした現象のうちで、ヒトが本来的に持っているもののことを指すと言うことができる。

 魂というのは、人間が生まれたときからもっている本来的な運動状態である。ところが、それが人間の運動状態の全てであるわけではない。それは、人間が発達を通して運動状態を変化させていくからである。新たに得られた運動状態も当然、魂を土台にしており、魂なくして維持することは不可能である。しかし、学習を通して得られた新たな運動状態は、魂とは区別されるべきものである。
 生まれたばかりの子供は、外の世界に対して魂がむき出しの状態にある。より正確には母親の胎内での発生過程で、すでに学習は始まっているが、ここでは話の繁雑さを避けるために、生まれた状態を魂がむき出しの状態とする。
 外の世界、つまり外界とは、周囲の環境や周りにいる人間のすべてを含むものだ。魂がむき出しの状態にある新生児は、自分の欲求や気分を単純な方法で外界に表現する。
(中略)
 自然に成長していくなかで、魂と外界の間のインターフェイスが学習を通じて発達していく。インターフェイスとは、受けたメッセージを自分のわかる形に変換し、自分の送りたいメッセージを相手のわかる形に変換する装置のことである。
 インターフェイスという言葉に馴染みがなければ、「仲立ち」あるいは「媒(なかだち)」と呼び名を置き換えてもよい。
 仲立ちとは、異なる出自のもの同士のやりとりを媒介するものだ。
 そもそも、私たち人間が見ているものは、外界にある光の波そのものではなく、光の波を網膜の奥にある視細胞で受けた結果生じたものである。また、私たちが聞いているものは、外界にある空気の振動そのものではなく、蝸牛内にある有毛細胞が空気の振動に応答して、その場で作り出したものである。
 このように、私たちが外界から受けたメッセージを理解できるのは、外界からのメッセージを変換するインターフェイスがそもそも備わっているからである。
 ものの見え方や聞こえ方は、それまでに得た経験に応じて変化する。つまり、メッセージの変換のやり方が、学習によって変化するということだ。メッセージを媒介する仲立ちが経験とともに成長することにより、媒介できるメッセージも増え、種類も変わっていく。
 これがインターフェイスの発達である。


ヒトはインターフェイスを発達させることによって人間になる。インターフェイスとは人間の心・人格の外側である外界に実在する他者との「仲立ち」の機能を担うものだが、ここが自然に発達すると、インターフェイスのなかで他者の「像」が結ばれることになる。この「像」が〈霊〉である。


長々と説明(引用)したが、もっと簡単に言うことができる。例えば、友人を思い浮かべてみよう。その時に私たちの心の中に浮かび上がってくる「像」が〈霊〉である。友人は心の外(外界)に実在する。と同時に心の中にも〈霊〉として棲息している。今私の目の前にあるパソコンだって、私がデスクから離れてトイレへ行ったとしても、心のなかには〈霊〉として棲息している。目の前になくても思い浮かべようと思うとすぐに「像」が結ぶ。

しかも、その「像」は生き生きとしている。私たちは友人であれパソコンであれ、心の中にその「像」を生き生きと甦らせることができる。パソコンが静止画像を表示するように像が結ぶのではない。パソコンによって再生される動画よりももっと生き生きとしたものとして、私たちは「像」を動的に心のなかで再現できる。それが〈霊〉の特徴である。

(このような〈霊〉を「クオリア」と呼ぶことが出来るのかもしれないが、ここではそこには立ち入らない。)

話をチンパンジーに戻そう。

上記の魂の定義に従うなら、チンパンジーにも魂はある。インターフェイスもある。またインターフェイスのなかに他者の「像」も結ぶはずである。しかし、その「像」は〈霊〉とよぶに値しないものだと推測できる。つまり、生き生きとはしていないだろう、ということだ。いうなれば、チンパンジーは静止画像を再生するだけのスペックしかないパソコンのようなもの。この差はヒトとチンパンジーのスペックの違いに由来すると推測するのは合理的だろう。

もしチンパンジーの結ぶ「像」が〈霊〉であるなら、上記実験の3.の段階において、マリはプチの行動を予測できるはずである。また、プチはマリもジュースを欲していることを確信できるはずだ。しかしにはチンパンジーは、動的(霊的)な予測はできない。チンパンジーのスペックでは、相手の身体言語の意味を静的に理解するに留まる。

以上のように仮説を組み立てみれば、チンパンジーのちぐはぐな利他行為も合理的に説明することが可能であると思われる。

つづく。


コメント

質問です。

こんにちは。

ごめんなさい。エントリーとはあまり関係無いのだけど、ふと聞いてみたくなったので、よろしければ教えて下さい。

愚樵さんが、このエントリーも含むこういった内容の文章と言うか表現を、ネット上で公開している理由はなんですか?

普段こんな事聞いたりとかしないんですけど、愚樵さんにはなんか急に聞きたくなったので、書いてみました。

変なしつもんですよね。
気が向いたらで良いです。

自分自身の「核」である「魂」についても、「器(インターフェイス)」のところで「霊」として感受されている、と主張したいです。 (^o^)

使命だからです(`・ω・´)キリッ

・すぺーすのいどさん

有り体にいって「霊」のことですよね?

この問い、確かに直接的には記事とは関係ないようですけど、深いところでは大いに関係のあるところです。

以前、黒い時計の旅さんからも似たようなご指摘をもらった憶えがあります。「霊」という言葉は宗教的な印象、それも俗にいう“スピリッチュアル”なが強すぎる、ということでした。だから、伝えたいことを伝わりにくくなる、というご指摘。

「霊」という言葉を使い始めたのには、理由は2つあるんです。ひとつは、本文で引用した『ハラスメントは連鎖する』に「魂」という表現が使われていたこと。もうひとつは、以前から知性・理性・感性とならんで「霊性」と呼ぶべき人間の属性があると感じていたこと。

すぺーすのいどさんもご存知だと思いますが、以前、『水からの伝言』を巡っての論争、というよりも諍いがありましたよね。あの頃から霊性の高い/低いというのがあると思っていました。

それら2つに加えて、今は3つめの理由、なぜ「霊」という言葉が宗教的なものになったのか、ここを考えてみたいと思うからです。『霊から貨幣へ』では、ここにも斬り込んでみたいと野心を燃やしたりしています。笑。

と、こんなところでよろしいでしょうか?

その主張、受け入れます

・アキラさん、コメントありがとうございます。コメント本文はありません。笑。

(#^.^#)

愚樵さん、こんにちは。

>使命だからです(`・ω・´)キリッ

おぉ。カッコいい。(笑

最近、愚樵さんから自分の言葉でいうと「表現」を磨け!と言われている気がするんですよね。
「表現」っていろいろありますよね。普段の会話から文章、音楽、絵画、写真、映像、etc…。こんな風に普段から「表現」しながら生きてる訳だけど、技術の向上を目指せばいろいろ考えることも多いわけで。それに「表現」することは、曝すことでもあるし、快感を感じることでもある訳ですよね。
こういった「欲求」と「抑制」のコントロールのところで少し留まっている今のわたしなのです。


>有り体にいって「霊」のことですよね?

そうなのかな?多分そうなのかもしれないけど、私の中で愚樵語との翻訳が済んでいないようで、まだよく解んないですね。
その自分の言葉でいう「表現」は、愚樵語でいう「霊」や「インターフェース」と関わりがあるのだろうな?とは直感するのですが、イマイチしっくりこない。でも、それはそのうちにそれなりの解も見つかるでしょう。きっと。

レス、ありがとうございました。

贈与

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

「表現」を磨け! なんて言ってませんが(笑)、そのようにすぺーすのいどさんが自ら捉えているということろがいいですね。私も嬉しいです。それは贈与を受けたと思う者のなかに内発的に生じる使命感なんだろうと思います。

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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