愚慫空論

「杉下右京」という日本の文脈

日本の文脈内田樹と中沢新一の対談書『日本の文脈』を読んでみた。

 『日本辺境論』の内田樹と、
 『日本の大転換』の中沢新一。
 野生の思想家がタッグを組み、
 いま、この国に必要なことを
 語り合った渾身の対談集。
 鎮魂と復興の祈りを込めて――。

オビにはこのように謳われているけれども、読後の感想を言わせてもらえば、誇大宣伝。まあ、オビなんてそんなものだが。

このような言わずもがなのことを書きたくなったのは、“鎮魂と復興の祈りを込めて”、つまり昨年の3.11が商売の宣伝文句に使われていると感じているから。対談の大半は3.11以前のものだが、だからといって、「いま、この国に必要なこと」と語られていないわけではない。3.11後の混乱は「この国に必要なもの」が大きく棄損してしまっている結果として起こっていることだから、3.11以前の語られていたということが、対談者二人の知性の高さを示す上では重要なこと。しかし、それゆえに、その語り口は「渾身」ではない。むしろ普段着の、「普通」のもの。そこを魅力と感じる。

なので、「渾身」と宣伝してしまうところに嫌らしさを違和感を覚える。「商売」を感じる。3.11を都合良く使っているように感じる。そういうのは嫌悪感を覚える。

私は、3.11を語って商売をするなといいたいのではない。3.11を語ることは日本の知識人の責務だろう。だが3.11を都合よく使ってはいけない。そういった「節操」も「いま、この国に必要なこと」だと思う。わけてメディア業界において。

文句を並べてしまったが、中身は良い本なのでお勧め。


第7章は『世界は神話的に構成されている』と題されていて、これは3.11後の対談のようだが、日本の欠点を示す例としてパニック映画が話題に上っている。パニック映画は、マニュアルにない危機的状況に遭遇したときに、人はどう判断しどう行動するかの学習機会だ、という。

内田 (前略)
 パニック映画って、話の構造は同じなんです。「恐るべきもの」が切迫してくる。それを感知する人は非常手段をとることを訴える。それを感知できない人たちは自分たちの日常的な価値観の内側でことを処理しようとする。そして、「想定外」の悲劇が起きる。つまり、ハリウッドで繰り返しつくられるパニック映画って、あるいみでは危機対応マニュアル集なんですね。危機対応シミュレーションを、映画というかたちでふだんからやっている。だけど日本映画にはパニック映画ってほとんどないでしょう。
中沢 『踊る大捜査線 THE MOVIE』とか『交渉人 THE MOVIE』(2010年)とかあるけど、ちょっと違うね(笑)。
内田 日本のパニック映画といえば『ゴジラ』(1954年)が原型ですけど、ゴジラを退治に行く芦沢博士だってけっして自分から進んでいくわけじゃない。ちゃんと政府筋から要請されて公式にゴジラを殺しに行くんです。アメリカ映画みたいに、上の人たちはああしろ、こうしろと言っているけど、あいつらはぜんぜんわかっていないからって現場が自己裁量で行動して危地を救うヒーローの話って、日本映画には出てこないんです。
中沢 『ダイ・ハード』(1988年)でブルース・ウィリスが勝手に動き出すと上層部は困るけど、ああいうトリックスターが出てくるからカタスロフが回避できる。日本ではトリックスターがでてこないんですねえ。
内田 日本的システムの最大の脆弱性はそこですね。日本人は、上からの指示には従順だし、きちんと設計して精巧にものを作ることにおいては能力が高いんだけど、従来の手順では対応できない危機的状況で自己判断で動ける人財を育てるという気がぜんぜんない。



私は、私は伝統的な日本人は上に従順だとは思わないし、また、そうであるからこそ精巧にものをつくることにおいて能力が高いのだと思っている。設計図どおりに精巧に作り込むには、設計図で想定されている以上の精巧さが必要で、それは上に従順なだけでは絶対に生まれてこない。内田氏は武道家なのにそのことが感知できないのか? 武道家と職人とはまた異なるのかもしれない。

(自己判断で動ける人財をシステマティックに排除しているという点は同意。)

上に従順ではなく、職人的な精巧さと並外れた危機感知能力を持つキャラクター。「杉下右京」とは、まさにそれだろう。


(まったくの余談だが、私は『相棒』シリーズはほとんど視聴済み。『踊る大捜査線』は少し観た。『交渉人』は全然知らない。)

杉下右京のキャラクターは、アメリカの『コロンボ警部』とイギリスの『シャーロック・ホームズ』が元になったのだと想像する。精巧な頭脳と超人的な感知能力で難事件を解決していく。右京が主人公の『相棒』は大人気のシリーズのようだ(何度も何度も何度も再放送されていて、これしかないのか、といいたくなるくらい。実際にこれしかないのだろうが。)

『相棒』は刑事ドラマシリーズだから、物語の最終目標は「犯人逮捕」になる。だが、それもスケールが大きくなると「パニック映画」に近いものになる。そういったときの杉下右京は、キャラクターイメージこそ全く異なるけれども、ジョン・マクレーン(『ダイ・ハード』の主人公)と同じ役回りを演じることになる。上層部が困るということも同じだ。

ただ、トリックスターかというと少し違う感じがする。理由は杉下右京には理解者がいるからである。それが「相棒」であり、こちらの方がドラマのタイトルになっている。ここが重要なところである。

亀山  神戸尊

杉下右京が「真実の探求者」である。ただ、それはドラマシリーズのなかで絶対の正義として位置づけられているわけではなく、あくまで右京自身の信念とされる(右京の信念を相対化する人物として「官房長」がいる)。真実の探求であろうが、個人的信念に基づいて秩序を乱すのはトリックスター的なのだが、『相棒』は、そうした信念が理解者を得ることによって初めてうまく機能するのだという設定になっている。ジョン・マクレーンのように信念だけでは突っ走れないのである。トリックスターは、日本では、ただトリックスターであるだけでは機能しえない。

いや、ジョン・マクレーンにだって理解者はいる。だがその理解者は、物語の不可欠な構成要素ではない。むしろ信念の補強材料である。ところが『相棒』は違う。そのタイトルからして明らかだが、実は理解者こそが「主役」なのである。『相棒』は、理解者が主役になってゆく過程を描く理解者の成熟物語になっている。

(初代『相棒』の亀山薫は成熟した結果として「卒業」し、二代目神戸尊もまもなく「卒業」するらしい。)

もう一点。杉下右京という「コロンボ」+「ホームズ」=「日本的職人警察官」のキャラが示すのは、従順なのは「上」でも「下」でもなく「横」という点。「横」はいうまでもなく「相棒」である。

右京が忠実なのは、なにもりも自己の信念である。なので、その信念の社会的価値はどうであれ自己中心的に見えるし、実際に(といってもフィクションとしての物語のなかであるが)そういった場面も多い。だが、それは誰にも従順でないということにはならない。自身が「信念を持っていること」を理解する者には従順である。

「信念を持っていること」への理解と「信念」の理解とは大きく異なる。右京は自身の信念はあくまで自身のものであり、他人が理解すべきものとは思っていない。警察官であるならば警察官の使命である「真実の追究」を信念とすべきだとは考えている。だが「役」どころが違えば、具体的には警察官僚の「官房長」ならば、その「役」に沿った「信念」があっても構わないと考えている。自身の「信念」と他人の「信念」とがバッティングすることすらも致し方ないと考えている。と、そう考えながら、同時にどこかしら従順なところがある。自身が“うまく使われること”を意に介しないフシがある。

その点は「相棒」たちに対しても顕著だ。まるで、自身の「役」とその信念とを明確に示すことで、相棒たちが彼ら自身の「役」と信念とを探し当てることを促しているかのように見える。もちろん、それは成熟を促しているということである。

『相棒』は商業的なTVドラマである。そのこともあってだろう、「相棒」成熟のプロットが綿密に構成されているわけでく、実際の構成はいささか場当たり的ではある。今、上で述べたことは、前もって練られていた構想というよりも「流れ」としてそのようになったという印象を受ける。

が、だからこそ、こういった物語が日本で人気を博しているという事実を、「日本の文脈」から考えてみる必要があると思うのである。

  



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