愚慫空論

権威のトーラス型/ブラックホール型

この話題は取り上げてよいものか、少し迷った。もう、いい加減に解放してあげればという気持ちがあるので。

<光市母子殺害>元少年の上告棄却 死刑確定へ
毎日新聞 2月20日(月)15時16分配信

山口県光市で99年に母子を殺害したとして殺人や強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(30)の差し戻し上告審で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は20日、被告の上告を棄却する判決を言い渡した。広島高裁差し戻し控訴審(08年4月)の死刑判決が確定する。


解放してやっては思うのは、もちろん被害者遺族のこと。この上ない不運に見舞われ、それが一応の決着をみた。個人的には、もう、そっとしておいて...と思うのだが、それでは商売にならない連中もいて、情報は耳に届く。そして情報が広がると、致し方なく影響も広がっていき、多くの者が否応なく巻き込まれていく。

今、思い返してみても、この「事件」は衝撃的だった。光市母子殺人事件の最大の事件性は、加害者が為した犯罪にあるのではない。もちろん犯罪の内容そのものも衝撃的ではある。だが、はっきり言おう。所詮は他人事である。遠くで生きている関係のない者には、知らされなければ何の関係もなく過ぎ去った事件である。世の中にはおそらく、もっと残虐な事件が世間に知られることなく、ということはもちろん誰からも裁かれることなく、埋もれている。これにはほとんど確信に近いものがある。人間にはどうしようもなくドス黒い面がある。「天網恢々疏にして漏らさず」などというが、こんなのは呪文に過ぎない。この「確信」から目を逸らすための、欺瞞の呪文。

「空気」の研究この「事件」の事件性の本質は、この欺瞞が隠蔽されてしまったことにある。それは無関係な者が他人事でいられなくなった、そのアクセスの仕方と深い関係がある。そう、この「事件」は刑事事件ではない。裁判は刑事事件として裁かれたが、「事件」は社会事件である。「空気」が生み出され、メディアによって増幅され、国家権力によって正当化された。つまり「事件」は殺害現場で起きたのではない。遺族が感情を吐露した会見で起きたのだった。少なくとも「他人」の我々にとっては。

ここに遺族と我々との間の絶対的な断絶が存在する。遺族にとってはこの事件はあくまで刑事事件であるはずだ。だが、我々には違う。刑事事件が社会事件を引き起こし、その2つの円が交わる部分に本村洋という人物が立っている。我々が「事件」を事件として見ていたとしても、それは「本村洋」という媒介を介してでしかない。そのように規定されてしまったことが「事件」なのである。

この判決に勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者だと思う。社会から人が減るし、多くの人が悩むし、血税を使って裁判が行われる。結局得られるものはマイナスのものが多い。そういった中から、マイナスのものを社会から排除することが大事で、結果として、妻と娘の命が今後の役に立てればと思う。そのためにできることをやってきたということを伝えたい


これは産経の記事からの引用である。この記事は見出しに「この判決に勝者はいない。犯罪が起きた時点でみんな敗者だ」を使っている。私は欺瞞的だと思う。「空気」を醸成しようとしていると感じるからだ。

刑事事件の被害者遺族の立ち位置からすれば「勝者はいない」の言は正しいだろう。だが、我々は刑事事件とは無関係である。我々が関係しているのは社会事件としての光市母子殺人事件なのだ。であるならば、刑事事件として向き合っている者の言の正しさを、そのままわれわれの正しさとすることは誤っている。この誤りを見過ごすことが欺瞞であり、誤りを見過ごすように誘導するのが「空気」である。欺瞞を為すことが社会的犯罪と認定されるのであれば、メディアは犯罪を侵している。

だが、これはメディアだけの責任ではない。本村氏は自ら積極的に社会事件としての光市母子殺人事件に関わってしまっている。「マイナスのものを社会から排除することが大事」。どうみても社会的な発言としてしか受け止めようがない。

(氏は望んで「事件」に関わったわけでないことは明らかだから、商売として情報を売り出しているメディアと同一に責任を論ずることは、もちろんできないが。)

社会に「マイナスのもの」があるとするならば、それを排除することは正しい。ただし、「マイナスに見えるもの」ではダメである。「マイナスになったもの」でダメ。あくまで「マイナスのもの」でなければならない。絶対的に「マイナスのもの」でなければならない。このことはセンテンスの語彙を置き換えてみればすぐわかる。

 「マイナスに見えるものを社会から排除することが大事」
 「マイナスになったものを社会から排除することが大事」

どちらも無条件に承認できない。前者ならば、排除しなければ「マイナスに見えてしまう原因」。後者ならば「マイナスたらしめた原因」だ。

世の社会人に問うてみたとしよう。社会に「絶対的にマイナスのもの」はあるのか、と。「マイナスに見えるもの」「マイナスになったもの」ならば、まず全員があると答えるだろう。だが、「絶対的にマイナスのもの」をあるとは答えにくい。即答できる者に対しては違和感を覚えるだろう。少なくとも(表面上は)無神論者が多数を占める日本では。「絶対的なマイナス」は「絶対的なプラス」を絶対的に想起させ、それは宗教性を連想させる。しかもそれは邪教の類である。

そうであるにもかかわらず、上の引用文に違和感を覚える者は少ない。正しいと感じてしまう。ということはつまり、その正しさは宗教的な「正しさ」であるということだ。感情移入を絶対化することで生じる「空気」というものの呪縛にかかっている。

加害者は「マイナスになった者」である。それが「絶対的にマイナスの者」に「見える」のは、原因があるからなのである。「空気」はその原因に目を向けることを妨げる。欺瞞である。欺瞞によって肯定された言は、当然のことながら正しくない。

だから、「誰も勝者はいない」は誤りである。刑事事件としては正しい。社会事件としては誤りである。勝者は「空気」によって、その存在を隠蔽された者。言い換えれば「空気」を正当化した者。「空気」は「空気」であるがゆえに、感じられなくなることが正当化なのだ。勝者はいうまでもなく、国家権力だ。刑事事件としては勝者はいなくても、社会事件としては勝敗は決したのである。

この「事件」によって勝者が獲得した者は、無色の、だが得体の知れない権威だ。犯罪者を裁く裁判所は無私公正という信憑だ。確かに加害者の犯罪は明白である。そこに争う余地はない。が、争点はもとよりそこにはない。権力が生者に死を宣告することが出来る範囲が拡大するか否かが社会的には争点だったのである。だが、その争点自体もまた「空気」によって隠された。

関係性が複雑に織り重なる社会には、単純に規定できる善悪はない。正邪もない。そのようなものが「ある」と認められることが悪なのである。権威が善悪を規定できるようになってしまうことが悪だ。

正しい権威とは、「マイナスになったもの」をプラスへと変換させるもの。つまり「ゼロポイント」だ。

 参考記事:『祈りのゼロポイント』
トーラス

善悪を規定する悪しき権威がブラックホール型なのはいうまでもない。

民主主義社会における死刑制度の不当性は、権威がブラックホール型に作用するからである。

人間はこの世、つまり「此岸」の生き物である。が、同時にあの世、つまり「彼岸」を想起せずにいられない存在でもある。そこから宗教が生まれる。宗教とは此岸と彼岸とに跨がる知の体系だということができる。

近代以前の人類社会は宗教社会であった。社会の中に彼岸が組み入れられた〈社会〉であった。彼岸の存在は死者であるから、死者と同居していた社会だといってもいい。ところが近代民主主義社会は人間社会である。此岸の存在である生者のみで構成されるのが、今、私たちが暮らしている〈社会〉だ。

宗教社会では「ゼロポイント」は、彼岸、あるいは此岸と彼岸の接点にあった。生者は死者になることで「ゼロポイント」を通過した。少なくとも日本の宗教社会はそう捉えていた。「死ねば誰もが仏」である。そうした宗教社会であるならば、死刑制度は「あり」である。生者を此岸から彼岸へ送ったとしても、彼岸もまた〈社会〉の範囲内であるから、「抹殺」にはならない。

しかし、人間社会であるはずの現代〈社会〉には彼岸は入らない。死者は私たちとは同居していない。少なくとも国家権力はそのような「前提」のもとに組み立てられている。そうした国家権力が生者を死者へと返還する権威を持つということは、これは〈社会〉からの抹殺、つまりブラックホール型である。複雑で多様なバランスで保っている〈社会〉を単純な【システム】へと改悪してしまう悪である。

死刑制度の不当性の焦点はここにある。生者だけで構成される人間社会の建前である以上は、「ゼロポイント」は此岸に設けなければならない。権威はそのためのものでなくてはならない。キリスト教宗教社会から人間社会への変換を遂げたヨーロッパ諸国が死刑制度を廃止するの流れにあるのは、当然の帰結なのである。人間社会においては、刑罰は教育刑以外には正当性を確保できないのである。

だから、もし日本がどうしても死刑制度を維持したいのであるならば、人間社会とは訣別して、宗教社会へと戻ることだ。実際のところ、日本社会の実態はいまだ宗教社会である。それも「空気」という見えないものによって支配されるステルス宗教社会である。ゆえに、あたかも人間社会であるかような思い込みの中に安住していられる。

死刑によって葬られた者は、日本社会の伝統に従って神社で祀られるのが正しい。私の試案としては、国家権力の犠牲者ということで、靖国の「英霊」たちと合祀されるのが適当だと思われるが、どうか。そして毎年、天皇や総理大臣が参拝するようにすればよい。

ステルスな「空気」への感度がない聾の者たちは大反対するだろうが。

コメント

こんにちは

やはり書かれましたか。そっとしておいてあげるのがいいのか?そうかもしれませんが当の本村さんは、騒いで欲しいと思っているのではないかと(という役を演じずにはやってられないのか?)感じますので、ワタシも取り上げました。騒いで欲しいというのは語弊がありますね。考えて欲しい、に言い換えます。

ワタシは本村さんの「マイナスのものを社会から排除することが大事で」という報道記事を見逃していました。これを知っていたら多少ちがうエントリーになっていたかもしれませんが、いまさら書きなおす気はしません。
時代と状況により流動的な「社会」にとって「マイナス」と言う評価基準がどこにあるのか分かりません。と、書いた所で再度読みなおすと、殺人者がマイナスで排除してしまえ、と言っているのではないのかな?(勝手にそうおもっていた)
「人が減ることがマイナス」、、、そのままですね。
「悩むことがマイナス」、、、、そうだろうか?
「血税をつかって裁判がマイナス」、、、、これを無くすということは、「法治」国家をなくすということで、そこを目指すのはいいような気がしますが、、、それともやはり今回の殺人者がマイナスと言っているのでしょうか?
本村さんが人生のなかでこれほど思索することができたという面ではマイナスではなさそうですが、、、という言い方はよくないですね。

それにしても「勝者」は国家ですか、、、なるほどねぇ。ということは、国家の主権者たる国民が勝者ということになるのですかね。国民の意識の集合体であるところの意志と契約という権威の勝利になるのかな?その意志の一部にカウントされると思うとなんだかタメイキがでますね。

話はかわりますが、最後の段落では、ワタシが死刑制度反対の理由とする「生のなかのできごとは生のなかでしか解決しない」もあながち遠くないのかな、と感じました。もっともワタシには愚樵さんのような説明はできませんでしたが、、、。
ああ、それと死刑によって葬られた者は、靖国へ、、、ってのは思わず笑わせて頂きました。不謹慎ですかね?

ps みなさんが絶賛される動く絵ですが、じっとみていて、酔って気持ち悪くなりました

この事件のこと、愚樵さんは書かれないのかなと思っていましたが、やはり書かれたのですね。
この事件の判決について、ネット上でみる意見はほとんどが「当然。これが正義だ。早く○ね。」といったもので、愚樵さんはどのように考えておられるのか、知りたかったです。
そして、やはり私の考えも及ばなかったことを書いておられ、またネットでよく見るような意見でもなく、変な言い方かもしれませんが、ホッとしました。

私は本村さんのような体験をしていないから言えるのかもしれませんが、死刑制度には反対です。確かに複数の命を奪い、しかも1歳間もない子どもの命を奪うのは決して許されるべきことではないと思います。ただそのことが、イコール死刑だとは思えないのです。
また、私が怖いと思ったのは、ネットでの多くの意見が死刑で当然というものであり、被告を口汚く罵っているようなものだったことです。
マスコミによって、そのような空気が作り出され、その空気に支配された結果なのでしょうか。

> 社会に「絶対的にマイナスのもの」はあるのか
人間ということについては、私はないと思うのです。以前、ある神父様が「人間は性善説ですか、性悪説ですか。私は『修復説』と思う。基本的にはよいのですが、一部は壊れているので、修復する必要がある。どれくらいの時間がかかる? 一生でしょう」とfacebookに書かれていたのですが、今まではマイナスであったとしても、本当に悔い改めた人間は、立ち直ろうと真剣に思った人間は、いつまでもマイナスであり続けないと思います。

> 善悪を規定する悪しき権威がブラックホール型なのはいうまでもない。
なるほど。ストンと腑に落ちました。

こんにちは

一人の人間に対する最後の「裁き」は神様か閻魔大王が下すと思うのですがそれは彼の世に行ってからの話、此の世の決着は法が着けるしかない。自らの欲を満たすために人の命をとるといったような死に値する罪を犯したものを死刑にしなかったならば、復習合戦がおこるか、連鎖反応が起こるか、慣れて不感症になるか。とにかく罪が罪の上を行くような世の中になってしまう、それを防ぐのが国の仕事だと思います。でもそのためには「国」がまともに機能していなければ恐ろしいことになります。世界には政府が好き勝手に投獄・処刑をおこなう国がまだたくさんあるはずです。トルコも共産時代はそうでした(その後外圧によって死刑廃止になりました)。

死刑はあるべきと考えますが、器である「国」の質が大前提です。死刑が存在しても東電の誰一人として罰せられないのが日本。ブラックホールとはお見事な比喩です。

イスラム法では最高刑は公開斬首です。此の世での体は法で裁かれ人の手によって消されるとしても魂を裁くのは神様です。ですから悔恨したかどうかは法廷では全く別問題。罪人が罪を認めて裁きを受け入れ、被害者の遺族が赦したとしてもそれを聴きいれるのはやっぱり神様で法廷ではないんです。まあこれはイスラームの場合ですが。

ひとの命を平気で奪うのは、「人は死んだら消えてなくなる」という彼の世を切り離した思考が根にあるのだろうと思います。戦争はそれを拡大したものでしょう。

ゲシュタルト崩壊?

・毒多さん、おはようございます。

じっとみていて、酔って気持ち悪くなりました

毒多さん、NICE! そのような戯れ、いいですね (^o^)

あの「絵」は、三次元的な動きを二次元に押し込めたもの、一種の「騙し絵」ですから、あまり凝視するとゲシュタルト崩壊(でいいと思うんですが)を起こします。気分が悪くなるのは正常な反応です。

「絵」のイメージが理解できたらそれをご自身の頭の中で再生して、「聴く」ことです。すると気分は良くなりますよ。笑。

国家の主権者たる国民が勝者ということになるのですかね

主権者の勝利には間違いないでしょう。主権とは国民を殺してもよい権利でもあるのですから。ただ、日本において主権者が国民かどうかは怪しいところ。それは日本の隠蔽された死刑制度によく表れています。

日本と同じく民主主義体制でありながら死刑大国のアメリカは、死刑は公開されているらしい。TVで中継されることもあると聞きます。それに比べて日本は、死刑はほぼ完全に隠蔽されています。死刑執行を最終的に許可するのは法務大臣で、これは命令書にサインするしないでよく騒がれますが、その法務大臣でもその「現場」に立ち入ることは容易ではない。そのことを千葉元法相が暴いたことは記憶に新しいところです。

この「隠蔽」は何を隠蔽しているのか? 真の主権者でしょう。小沢一郎を犯罪者に仕立てあげようとするのは、小沢が政治家を主権者たる国民の代表にしようとしたから。そこで「真の主権者」が暗躍したのでしょう。つまり日本は「ステルス国家」ということなんですね。

私たちに責任があるとすれば、直接的に死刑を執行してしまうことよりも、「ステルス国家」であることを見過ごし放置してた点にあると思います。その点は、死刑廃止を唱える左翼も同罪です。

死刑によって葬られた者は、靖国へ

可笑しく思われるのは不思議でも何でもありませんが、私はかなりマジメです。

死刑に処された者を祀るとして、別に靖国である必要はありません。ただ「靖国」に合祀するとメリットがある。それは天皇をはじめとする公人が参拝できるようになるということ。日本ではいかなる者でも「死ねば仏」、靖国は神社ですから「英霊」ですね。そのことを諸外国に分かりやすく示すことが出来るというメリットです。

政教分離は民主主義の原則ですが、完全に分離されているかというとそうでもない。欧米では宣誓の際には聖書に手を置いて行なう。キリスト教徒でないなら、たとえばムスリムならクルアーンに誓う。そういった「純宗教的な行為」は認められています。「靖国への合祀」が実現すれば、その参拝は、宗教を政治的に利用しようとするのではない「純宗教的な行為」として認定されるでしょう。それは、(死刑存続派が多いと思われる)靖国参拝是認派にとっては大きなメリットであるはずです。

以前は政治ブログでした

・愛希穂さん、こんにちは。

死刑廃止というテーマ、またこの「事件」については以前はしばしば取り上げていました。私の政治的スタンスは「左」と言われる人たちのそれに近いですし、政治ブログだったころは「左」だと自認もしていました。が、ものの考え方はかなり異なります。そこから「左」だと位置づけることはやめにして、あまり政治的なことへは言及しなくなった。

上の毒多さんは「左」だった頃からの付き合いで、死刑や「事件」についてもよく意見を交換していました。それで“やはり”なんです。

ちなみに、私は護憲派でもあります。

ただそのことが、イコール死刑だとは思えないのです

取り返しのつかないことに償いようはありません。「死んで償う」というのは、償いようがないことを理解しているからこそ自発的に死を選択するということなんですね。「命をもって償う」のではなく「命で償わさせる」ことを正義だと考える者たちは、そのことを全く理解していません。彼らの論理でいうと、死ねば償えることになってしまう。

愛希穂さんのご記憶にもあると思いますが、大阪で付属池田小事件というのがありました。小学生8人が殺害され、犯人は死刑に処されました。真偽の程はわかりませんが、その犯人が死刑判決を受けたとき、遺族たちに次のように言い放ったと言われています。

 子ども8人の命とオレ1人の命は同じだ!

「死をもって償わさせる」という論理でいくと、上の言葉の正しさは否定しようがないのですが、こんなことが正しいはずがない。こんなことが正義であるはずはないのです。死刑を正義だとする者たちは、こんな簡単なことにも思いが及ばない馬鹿者たちです。

死刑は遺族のために行なわれるのではない。国家が国家のために行なうものです。国家が正義であることの「証明」のために行なわれるのです。

「空気」はその「証明」を省略してしまうものです。「空気」がなければ国家は自らその「証明」を行なわなければなりません。そのためにさまざまな基準を作ったりする。ところが「空気」があれば基準はあやふやでも構わなくなる。“遺族感情に配慮して”と文言を付け加えれば済んでしまうのです。

本当に悔い改めた人間は、立ち直ろうと真剣に思った人間は、いつまでもマイナスであり続けないと思います

はい。歴史を紐解けば、そのような事例はいくらも出てくるでしょう。人間とは「そのようなもの」なのです。

〈社会〉とは人間がコミュニケーションを為しえる範囲

・あやみさん、こんにちは。

私はイスラーム法で社会を治めている国に死刑制度があるのは、理に適ったことだと思っています。政教一体がイスラーム。ということは、〈イスラム社会〉には神が組み込まれている。そして神は人間よりも上位の存在です。そのことを人間自身が認めている。

〈人間社会〉とは、人間が〈社会〉の最上位に位置すると考えられている社会です。〈キリスト教社会〉から発展(?)した〈近代社会〉とはそのようなものです。神は〈社会〉のなかにはいない。〈社会〉の外で〈世界〉の終わりの時に裁きを下す“だけ”の存在。

人間より上位の神が〈社会〉にはいないので、神から与えられた生命を裁けない。これも理に適った考え方です。

日本の〈社会〉はもともと人間が最上位の社会です。和を以て貴しなす。神がいればこんなことにはなりません。なので魂を裁く存在はいない。ゆえに魂は不滅でした。だから逆に死刑があり得たのです。肉体を滅ぼしても魂は残る。死刑は必ずしも生命への裁きではなかったのです。

国家が魂を認めるのであれば、私は現在でも日本において死刑はありだと思います。ですが国家は魂を認めない。ならば生命は肉体だけになる。神のいない日本では、生命は裁いてはいけないのです。それがどのような形であれ、神なしに生命を裁くことは理に適わない。

日本で死刑の範囲が拡大されていくのは、理なきゆえにです。理がないので力で治めるしかなくなる。東電が裁かれないのは理不尽なことですが、それもまた日本を覆っている巨大な理不尽の一部にしか過ぎません。

理なき統治は力を必要とし、力はいずれ力によって滅ぶでしょう。

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