愚慫空論

祈りのゼロポイント

まず先に言っておきたいが、私は天皇家に対して特に愛着をもったりしているわけではない。わけではないけれども、このようなニュースには好ましいものを感じる。

「早い回復を」手術成功祈り皇居前に見舞いの列
テレビ朝日系(ANN) 2月18日(土)14時47分配信
 天皇陛下は心臓の血管が狭くなる症状が確認されたため、血の流れを良くするバイパス手術を受けられています。皇居前には、手術の成功を願って大勢の人が記帳に訪れています。
 記帳に訪れた人:「ご回復を願っています。この際、ゆっくり回復してほしい」「走るのを中断して、心配で記帳に来ました」「天皇陛下の病気が治るようにお見舞いに来ました」「早く良い知らせが聞きたいです」
 記帳は、陛下が退院されるまで毎日午前10時から午後4時まで受け付けています。18日午前11時現在、1577人の記帳があったということです。


先日、ごく一部で話題なっている『THRIVE』という映画がなぜか無料で見られるというので観てみた(もう観られないみたいだ)。その最初部分に「トーラス体」なるものが紹介され、“宇宙はトーラス製造工場だ”というセリフがあって、印象に残った。

(なお、『THRIVE』そのものには私は感心しなかった。これはディスインフォメーションの意図を持った者が制作した映画ではないかというのが、私の感想。)

トーラスを言葉で説明するのは難しい。それより百聞は一見如かず。下の図を見ていただいた方が話が早い。(図をクリックすると、図の引用元へリンクする。)
トーラス

上の図は、たとえば磁石が発生させる磁場のイメージ。正極から磁力が空間へ広がり負極へ収斂していく。磁石は正極と負極に別れるが、その2点が1点に融合すると、上図のようになる。その融合は「ゼロポイント」と言うことができるだろう。

先の報道を観て思ったのは、天皇とは「祈りのゼロポイント」なのかもしれないな、ということ。天皇は国と国民の平穏無事を祈る。国民は天皇の平穏無事を祈る。多様な祈りはゼロポイントに収斂し、再生され、循環する。そのような「流れ」の一部を観たような気がした。

私は冒頭で述べたように、特に天皇に愛着を持っているわけではない。だから「ゼロポイント」が天皇でなければならない、とは思わない。クリスチャン達の胸に光る十字架でもいいし、メッカのカアバ神殿の中にあると言われる「石」でも良いと思う。もちろん仏像でも、神社に祀られるご神体でも。「ゼロポイント」はたくさんある方がある方がいいと思っている。大きなトーラスの流れのなかに小さなトーラスが生まれて、またその中にさらに小さなトーラスが――という具合に、「ゼロポイント」はたくさんあるにほうがいいし、この世界は自然にそうなるもののような気がする。「宇宙はトーラス製造工場」というのは、そういった意味だろう。

(大きなトーラスが小さなトーラスを生む現象を自己組織化と呼び、自己組織化の様子を図示するとフラクタルになるのだと思う。詳しくは知らない。)

曼荼羅

話を少し天皇へ戻そう。

世の中には天皇に対して、あるいは直接天皇に対してではなくても『君が代』といったような歌に対して、よいイメージを持たない者もいる。その不快感の先にあるイメージはトーラスではないだろう。おそらくは下のようなイメージだ。

ブラックホール

これは国立科学博物館のHPのブラックホールのページからお借りしたもの。1点へ収斂されていくエネルギーはどこへも放出されない。再生されない。循環しない。「ゼロポイント」へ飲み込まれていくばかり。だからケシカランと反対する。

しかし、これはよくよく見てみなければならない。トーラスの一部分だけを見てブラックホールと勘違いしているかもしれないからだ。確かに明治維新から太平洋戦争敗戦までの天皇制はブラックホールだったと言えるだろう。見通しのない戦争に突入した挙げ句の壊滅的な敗戦は、ブラックホール的と表現するのが相応しい。

だが、ブラックホールとトーラスとは、縁の遠いものではない。ブラックホールの底が抜ければトーラスなのである。視野が狭く、トーラスの一部分だけを見てブラックホールと思い込んでしまう。そういった例は少なからずあるように感じられる。

とはいって、人はそう簡単には視野を広くは持てないものだし、自分の視野の広さも自分ではわからない。視野を広くというのは簡単だが、実際のところはあまり当てにならない。トーラスかブラックホールかを見極めるポイントは別にある。それはブラックホールは小さなトーラスの存在を許さないということだ。

戦前の天皇制、すなわち明治政府の政策でもっともブラックホール的だったのは、おそらくは明治39年の神社合祀令であろう。当時、日本全国津々浦々にあった神社を明治政府は統合整理して、国家管理の下に置いた。神社というのはそのそれぞれがトーラスなのである。小さなトーラスは大きなトーラスの一部でありながら、独立した存在である。それを整理・合理化するというと聞こえはいいが、要するに飲み込むのであって、それはブラックホールである。

トーラスは人間の肌感覚には心地よいものだ。自然がトーラスだからである。ブラックホールはどこか肌感覚的には居心地が悪いものだが、困ったことに頭脳感覚的にはブラックホールの方が快感であったりする。単純なので人間のお粗末な知力でも簡単に理解できるからだ。

南方熊楠明治の神社合祀令に反対したことで知られているのが南方熊楠である。熊楠は同時に日本における自然保護運動の先駆者としても知られている。神社合祀令の結果、各地で鎮守の森が伐採されたことに反対運動を展開した。

また、熊楠は並外れた頭脳の持ち主であったことも知られるところだ。森羅万象の探求者といったような称号で呼ばれたりもする。その熊楠の「作品」のなかでとりわけ注目されているのが南方マンダラ。

これがトーラスを彷彿とさせるのは、単なる偶然ではあるまい。

 【追記】

この文章には根本的な誤りがあることに気がついた。ゼロポイントには実体がない。天皇が祭主であるということは、天皇はゼロポイントには位置しないということだ。ゼロポイントに限りなく近くに位置するとしても、ゼロポイントではない。

天皇の特殊な政治性は、ゼロポイントにもっとも近い存在でありながら、決してゼロポイントそのものではないことにあるような気がする。

ゼロポイントに位置するのは超越神。あるいは何も存在しない。すなわち「無」。そのいずれかだ。超越神であっても無であっても、ゼロポイントに固有の「名」を付けることは出来ない。名を付けた瞬間にゼロポイントから外れる。一神教が神の名を呼ぶこと、また偶像崇拝を禁止する理由は、ゼロポイントは名付けることが出来ないからであろう。

コメント

今晩は。

> これがトーラスを彷彿とさせるのは、単なる偶然ではあるまい。
偶然かどうか、私の理解能力では分かりませんが、なるほどって教えられことを。

> ブラックホールの底が抜ければトーラスなのである。視野が狭く、トーラスの一部分だけを見てブラックホールと思い込んでしまう。
> 視野を広くというのは簡単だが、実際のところはあまり当てにならない。トーラスかブラックホールかを見極めるポイントは別にある。それはブラックホールは小さなトーラスの存在を許さないということだ。

もう、この一文は私にぴったりあてはまることではないかと……。
「あなたは視野が狭いからね……」等と言われたりしたら、ムッとしてしまうと思うのですが、このような説明をされたら「確かに仰る通りです」と脱帽するしかありません。

> 頭脳感覚的にはブラックホールの方が快感であったりする。単純なので人間のお粗末な知力でも簡単に理解できるからだ。
これもよく分かります。
そしてそう思うのは、二者択一方式の、ただ一つの答えだけを求めさせる日本の教育の成果なのでしょうか。

自然=トーラス、循環し続けるもの。
とてもおもしろい記事でした。
天皇に対して抱く漠然としたイメージをうまく表現してくださっているような気がします。祈りの人なんですよね。そして経済活動的に合理的なわけでも生産性を持つわけでもない「祈りの人」が、実に多くの国民から敬愛されている。なんというか、日本人って天皇が「好き」なんだなあと。ぼくも天皇家、とくに今上天皇に関してはもっと知りたいと(たぶんもっと身近に肉声を聞きたいと)思っています。

天皇陛下自身を悪く言う人ってほとんどいないと思うんです。天皇制や君が代に対する嫌悪感って、それ自身に対するものじゃなくて、天皇制や君が代を利用して自己のイデオロギーを担保しようとする人への「ケシカラン」であるような。でもけっきょくそれって左右のふれ方が違うだけで、嫌悪感を表明することで自己のイデオロギーを担保しようとするという意味では同じなんだよなあと。(↑愛希穂さんの仰るように二者択一方式ってやつですね)

当の天皇自身はそんなものを超越したところに存在しているように、うん、感じます。

ブラックホール≒原理主義

・愛希穂さん、返事がおそくなって申し訳ありません。

もともと宗教という分野は人間の視野の向こう側を観ようとする営為でもあるのだと思うのです。なかには非常に視野の広い人もいて、通常の人には見渡せないところも俯瞰できたりするのかもしれませんが、凡人にはまず無理。それよりむしろ肌感覚を鍛える方が近道のような気がします。

肌感覚って言葉にはなかなかならないんですけどね。トーラス/ブラックホールはそういった肌感覚を言葉にしてみたものですが、それだけに感覚的ですよね。論理的にどうこう言うのは難しい。

(それにしてトーラスの図というか動画はよくできていますね。お借りしてきたものですが、動いてくれるので感覚的理解を促してくれます。どうやって作るんだろ?)

今日、ブラックホール的に捉えられるのは「原理主義」といわれるものですね。本来の宗教原理はいずれもトーラス型のはずですから、原理主義というのはニセ原理主義なんですけどね。これは確かに恐い。現代の日本人は、宗教というとおしなべてニセ原理主義だと解釈する傾向があって、嘆かわしい。無宗教に科学的にものごとに接するのが理性的と思っているのですが、これは視野が狭いだけでなく肌感覚も鈍いのだと言わざるを得ない。そうなっていったのはおそらくは教育の所為でしょう。

二者択一方式の、ただ一つの答えだけを求めさせる日本の教育の成果なのでしょうか

ただひとつの答えも求め続ければ「究極のシニフィアン」へと至るはずなんですけどね。科学もそこを追究する姿勢から派生したもの。なのに、究極まで極めようとすると、途端に(ニセ)原理主義だとしてしまう。欠陥教育だと思います。

天皇はどうしようもなく政治的な存在

・山やまさん、おはようございます。

祈りの人。今上天皇はそうだと思いますし、代々の天皇が「祈りの人」、つまり日本の祭主ですね。その役割を担ってきたことは間違いありません。

天皇の快癒を祈る人たちは、ただ陛下個人のことを祈っているわけではなくて、その向こう側――天皇が日本と人類の安穏を祈ること――まで含めて祈っていたような感じを受けたんです。またそもそも「祈り」というのはそういったものでもあるでしょう。

しかし、これは天皇に限らずですが、トーラスは権力によって都合良く切り取られてしまうものでもある。古代の政治は「祈り」と「リアル政治」とが不可分なものでしたが、近代に至ってこの2つが分離するようになっても、いや逆になったがために、権力が都合良く切り取るということが興ってきたのですね。明治政府は明らかにそうした体制でした。

左右のふれ方が違うだけで、嫌悪感を表明することで自己のイデオロギーを担保しようとするという意味では同じ

仰るとおりです。しかし、これは不可避なことでもある。実際に、現在も権力は天皇を利用しています。首相をはじめとする国家の要員は天皇から任命されることに、形の上だけですが、なっています。ということはどうしても天皇は純粋に「祈りの人」というだけではいられないということなんです。イデオロギーとはとどのつまりは権力志向ですけれども、「ゼロポイント」と権力とが未だに結びついている以上は、左右のブレが起こるのも仕方がないことです。

私は個人的には、天皇は京都へお帰り頂くというのが最上ではないかと考えています。なるべくリアル権力からは遠くへ身を置く。政治がらみの告示行為は、天皇に京都から詔を出してもらって、東宮は今まで通り東京にあって皇太子が代行すればよいと思うのですね。例えば、内閣総理大臣が国会で選出されたら東京から京都へ奏上の使者が赴き、京都で天皇が詔を発して、また使者が東京へ下る。この使者は皇太子でもいいし、別の者でも構わない。女性でもよかろうと思います。

日本の国の在り方からすれば、「ゼロポイント」とリアル権力とを完全分離することは難しいと思いますが、もう少し距離を置くようにした方が良いように思います。そのようにした方が、天皇の超越性がより明確になると思うのですね。

宇宙はトーラス製造工場

愚樵さん

こんばんは。

トーラスの動画、これはGIFアニメーションというものでしょうか?
う~ん、すごいですねぇ。
何度もみてしまいます。

この記事を読んで、ブラックホール的というと、やっぱり今の貨幣制度やら貨幣のもつ仕組みやらをイメージします。神社合祀令以降も、小トーラスとして生き残った神社たちが、いま存続危うく次々と消えかかっているのも、貨幣制度やら何やらのブラックホール的なものに飲まれつつあるからでしょうか。

逆に、トーラス的に地域の中に溶け込んで、ただ鎮座しているだけでなくその生活の循環と関わりを持ち一部となっている神社は、どんなに小さくとも活きているように感じます。

それから、私も「ゼロポイント」はたくさんあったほうが良いと思います。近代化が進んだ国のなかでは、日本は「ゼロポイント」がまだまだ残っているほうなのかな。

天皇陛下の特殊性を、ゼロポイントにもっとも近いけれども、ゼロポイントではない、という風に定義されるのも、とても興味深いと思いました。今まで聞いてきた天皇陛下についての考え方の中で、もっともしっくりきそうです。ちょっと、もやもやが晴れました。ありがとうございます。


ところで、以下は余談です。

ヲシテ文献にも、トーラス構造?を思い起こさせる概念があります。

それはフトマニ図(http://bit.ly/AlNppR)という図象の中心にある概念で、「ア(左巻きの渦巻き)」「ウ(熱、転じて生命の根源となるEnergy…など)」「ワ(右巻きの渦巻き)」、ひとまとめにして「アウワ」と言います。あるいは、フトマニ図そのものがトーラス的とも言えます。

「アウワ」は、どうやら彼らの感得した「根本となる生命原理」のようです。記述によると彼らは山川草木悉すべてのものが宇宙の子であると考えていますので、すべてのものがこの生命原理に基づいて生まれてくるという感じでしょうか。

また「アウワ」を内包するフトマニ図は、それそのものが宇宙の構造を現したものだそうです。山川草木悉すべてのものが宇宙の子であるなら、そのすべての存在がこの仕組みを内在しているということになりましょうか。

ちなみにフトマニ図は5重の輪の中に48音+1音(アウワ)のヲシテが配置されて成り立っていて、その輪はそれぞれ回転するという動きが想定されていますが、それもトーラスを思い起こさせる理由のひとつです。

それで、フトマニ図の中心には「アウワ」があり、その中心には「ウ」、「ウ」のヲシテの中心には◯があり、その中にはフトマニ図が内在している…という感じで無限に続いているのが彼らの世界のイメージだと私は考えています。

大きなトーラスの中に、小さなトーラスが生まれて…という感覚が、それなのかなぁと思いました。

余談?

・しわさん、おはようございます。

この動画はいいですよね。なんてことないのに魅せられてしまいます。なぜでしょうね?

ブラックホール的というと、やっぱり今の貨幣制度やら貨幣のもつ仕組みやらをイメージ

全く同感です。そのあたりは改めて記事にしてみたいと思います。

「ゼロポイント」はたくさんあったほうが良いと思います。

つまるところ、私たちひとり一人が「ゼロポイント」なんだと思います。〈生態系〉はそんなふうに出来ているものなんでしょう。ただ、これを「アタマ」で理解しようとすると処理能力を超えてしまうんでしょうね。

それからフトマニ図。これをトーラスへ重ねる感覚、私も共有します。さらに言わせてもらえば、こちら(http://blog-imgs-12-origin.fc2.com/g/u/s/gushou/20120214055900e4a.jpg)の「蠱惑的言語空間」のイメージも重なると思っているんです。

トーラスを上から見ると、ちょうどこの「イメージ図」のグラデーションが逆転したものになります。でも、中心は「ゼロ」ですから、グラデーションとしては「空白」でいいはず。そこへフトマニ図が重なる。やっぱり、という感じです。

前にもコメントしたと思いますが、私は「ヲシテ」の性質と蠱惑的言語の性質とが深いところで繋がっているような気がしてならない。まだ「気がする」という段階ですが、追いかけてみたいです。

素晴らしい!

愚樵さま

本当にトーラスの図を見て感激致しました。
しわさんが、おっしゃる通りと思います。

また、愚樵さまが

>つまるところ、私たちひとり一人が
>「ゼロポイント」なんだと思います。
>〈生態系〉はそんなふうに出来ているものなんでしょう。

ということは、ヲシテ時代から考えられてきたことだと、
私は思っております。

しわさんの示されている宇宙図・フトマニ(モトアケ図)、
あるいは「カミ」というヤマトコトバ、
また「アマカミ」と呼ぶ古代の天皇さまについて、
何日か前に、私が語った動画(図付きラジオ放送)がアップされました。

何かのご参考になるかと思いますので、ご紹介致します。
http://zaigainihonjin.iku4.com/Entry/35/

おうちラジオ、見ましたよ

びーちぇさん、おはようございます。

おうちラジオ、拝見しました。

でも、隔靴掻痒といいますか、まだちょっとピンとこないんです。ピンとくるには、たぶん知識が足らない。そんな気がします。

しわさんにヲシテのことを教えてもらってから、いえ、その前にヲシテに興味を持つ前段階があったのですが、なんだかじわじわと私の関心がヲシテの方へ押し出されている感じです。

おうちラジオの前回放送分もネット上にあるようなので、後ほど拝聴させていただきますね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/631-69f8e506

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード