愚慫空論

橋下批判と『生きる技法』

橋下徹昨夜、録画しておいた先月の『朝生』を見た。橋下徹大阪市長が出演したやつだ。

私は『朝生』を毎回録画はしてある。けれども観ることはほとんどない。大抵は見ずに消去。『朝生』はやかましい面白くないし、視聴は時間の浪費だと思えるからだが、それでも録画を続けるのは、惰性がひとつと万が一に備えて。今回はどうやらその「万が一」だったようで、『朝生』はどの回でも少なからずネット上では言及されるけれども、今回はその言及されている記事に興味を惹かれるものが多かった。といって、それらの記事は面白かったわけではない。むしろ消化不良の感があって、それゆえに余計興味を惹かれたのだった。

私は1ヶ月前に、橋下市長についての記事を書いている。

 現場とは何なのか/現場とは何処なのか

また、つい最近も橋下市長を念頭に、記事を書きかけている。

 民主主義は「従順な不服従」を容認すべきか(1)

私の橋下氏への見立ては「現場を識らない人」というものだ。「現場」というものの認識が異なると言ってもいい。私にとって現場とは【システム】と〈生態系〉とが接するところ。ところが氏のいう現場は【システム】そのもの。今回の『朝生』視聴後もその印象は変わらない。

例をあげよう。橋下氏は掲げる大阪都の構想理由について、大阪市260万では行政の規模が大きすぎて基礎自治体としての実態に即していないのだと説明する。それで、市を特別区に分割して規模を縮小する。基礎自治体の平均人口は10万で、その規模だと自治体の長が地域コミュニティーがつぶさに把握できる――とまあ、このような説明であった。

氏の主張は尤もらしく聞こえるが、こんなものはまやかしだ。地域のコミュニティーというのは一種の〈生態系〉である。私は大阪市の生れで25才くらいまで大阪で暮らしていたから言うことが出来るけれども、大阪には〈生態系〉としての地域コミュニティーなど存在しない。存在したとしても、自立した生態系にはなっていない。【システム】にどっぷりと依存している。大阪から離れて約20年経つが、その間に復活したとも考え難い。

大阪のような都市部で辛うじて生き残っているの〈生態系〉は、子どもを中心としたものだろう。子どもは自然に近い〈素材〉なので、どうしてもそうなる。家庭。あるいは学校。地域の子どもを中心とした集まり。などなど。

橋下氏の主張を私なりに解釈すると、こうである。260万では【システム】としては大きすぎる。だから規模を小さくして、より効率的な【システム】へと改変する。その心は「システムの全域化」だ。

ダンバー数〈生態系〉とは「自然な集団」である。人間同士の場合、「自然な集団」は個体数にして150程度が最適。これは脳の処理能力の限界から来るとされているらしい。このことはソーシャルメディアでの「適切なフォロー数/フォロワー数」などにおいても確認されているらしい。ソーシャルメディアは双方向性、〈生態系〉も双方向性なので、ソーシャルメディアは生態系的性質を帯びるが、それが維持できるのがだいたい200位までということらしいのである。

地縁で結びつき多様な世代が同居する地域コミュニティーの場合、その限界は3000くらいだと言われている。260万であろうが10万であろうが、その限界はとっくに超えている。逆の意味で「50歩100歩」なのだ。

ところが、橋下氏への反論者たちはそのことをわかっていない。だから橋下氏が【システム】の機能不全を論い、【システム】の効率化を主張することへ有効な反論ができない。「危うい感じする」といった気分だけの反論にしかならない。

この「気分」については、私は直観的にだが同意する。氏は「ハシズム」とも揶揄されるように、権力志向が非常に強いと感じられる。ことにタレント弁護士としてTV番組で活躍していた頃の言動を知る者にはその印象が強いし、公人となった現在でも言動の端々にその印象を汲み取ることが出来る。

しかし、『朝生』における氏の対応は完璧に近い。私人と公人とを(少なくとも表面的には)きっちり区別をしている。公人としての立場は、あくまで【システム】の効率化が主眼。しかも手法はあくまで民主主義的。反論者たちは私人としての橋下徹の危うさを攻撃するが、それは公人橋下徹には届かない。氏はあくまで公人としての立場を崩さない。つまり腹を割らない。番組の最後、沈黙気味の東浩紀が満を期して(のように見えた)(暗に)「腹を割れ!」と迫ったが、うまくかわした。ここらは見事というしかない。

しかし、だ。いかに表面的には私人・公人の区別を付けようが、あくまで橋下徹はひとりの人物なのである。【システム】の効率性を掲げ、実践し、人気を獲得してカリスマとなってゆく。カリスマの地位を獲得してしまうと、私人・公人区別自体が民衆の方から撤去されてしまう。氏が狙っているのはおそらくそれだろうし、反論者達もそこを怖れている。なので、人気取り的な手法を攻撃するのだけれども、しかし当の支持者からすると、それはコミュニケーションの結果なのであって、反論者たちはその点を全く理解していない。

その典型例が「大阪市という行政組織は破壊するがコミュニティーは破壊しないと」する橋下氏の主張と、その主張の不首尾への反論者の攻撃。確かに選挙戦の最中に表現が変わったりして論理一貫していないことは事実ではあるが、そんなことが支持者にとっては全く失点にならないことを攻撃者達は理解していない。論理が途中で変わったことは、むしろコミュニケーションの成果だと支持者は捉える。そこに論理性で攻撃することは、コミュニケーションへの攻撃と捉えられる。しかもその言葉は中途半端。ゆえに、反論者たちは反発を招いた上に「バカ」のレッテルを貼られてしまうのである。

橋下氏の主張が説得力を持つ根拠は、偏にコミュニティーへの幻想にある。反論者たちですらその幻想を共有している。大阪というコミュニティーなど存在しない。が、存在して欲しいという欲求は存在している。その欲求が幻想を生み、行政組織の非効率という現実と合致して、ありもしない幻想を非効率なシステムが抑圧しているかのような「物語」が成立してしまう。橋下氏はこの「物語」の主人公となってカリスマを獲得し、【システム】の効率化を推し進める。その果てにあるのは、【システム】の全域化、〈生態系〉としてのコミュニティーへのより厳重な抑圧であろう。

橋下氏の教育論が、「気分」という文脈において、より危険視されるのも頷けることである。というのも、子どもはその特性上どうしても自然な存在であり、放っておくと〈生態系〉的コミュニティーを取り結ぶ。【システム】の全域化を目指す橋下氏にとっては、学校は子どもたちを【システム】へと取り込む入り口でなければならず、そこに発生する〈生態系〉的コミュニケーションは極力抑圧しなければならない。「日の丸・君が代」はそのための仕掛けであり踏み絵だ。氏は内心の領域に踏み込むことは注意深く避けているように見える。教師達にはあくまで【システム】の一員として【システム】のルールに従え」と言うのみである。しかし、これこそが最も危険でかつ欺瞞に満ちた言動だと私は思う。

「現場」とは【システム】と〈生態系〉との接点である。学校という現場において教師とは、その接点に経つ「現場の人」。現場の者はその双方に属する者なのである。【システム】の一員であるということは事実だが、それは事実の片側でしかない。【システム】のルールに従えという要請は、ゆえに、片方の事実、〈生態系〉を構成員であることを止めよと言うに他ならない。

橋下氏はそのことを明示的に言わない。欺瞞である。反論者達もそこを明示的に批判できない。彼らもまた実は橋下氏と同じ欺瞞を共有するからである。橋下氏は確信犯的な欺瞞者なのであり、それゆえにこそ氏のメッセージは、〈生態系〉へと向き合う覚悟を持てない者に心地よく響く。橋下氏のメッセージはこうである。

 【システム】に依存しなさい
 私が【システム】を皆さんが依存するにたる効率的で全面的なものにして差し上げます
 だから私を支持してください


【システム】においては、依存は依存でしかない。自立とは【システム】を道具として使えるようになること、つまり他者を抑圧することに他ならない。自立と依存は二項対立なのである。ところが〈生態系〉においては、依存は自立である。自立と依存は二項同体なのである。

橋下氏が先導する【システム】の合理的欺瞞性に危うさを感じている人には、この本がお勧めだ。

生きる技法


この本は〈生態系〉的に生きていく技法が論理的に展開されている。ここで展開されている論理の次元に立つことができれば、欺瞞の輪郭が見えてくる。

コメント

うふふ

効率を前面に出すやつは信用できない

社会が閉塞状態になってくると、スパッと改革してくれそうな「粗暴な」人間に人気が集まるようですね。非常に危険な状態だと思います。
民主主義は本来効率が悪い、面倒くさいシステムだと思います。しかし、粗暴な人間はその面倒くさいプロセスを省いて自分の理想を実現しようとしますね。
お説の通り、日の丸・君が代」は子どもたちを【システム】へと取り込む入り口だと思います。面倒なプロセスを省いて、とにかく人を権力に従わせようという、そういう意図にもっと多くの人々が敏感になって欲しいです。

日の丸・君が代は必ずしも【システム】への入り口ではない

・御坊哲さん、はじまめして。ようこそ。

民主主義というのは複雑系システムなんだと思います。なので効率が悪いのは当たり前。効率性を高めようとすると単純系になりますから、民主主義ではなくなる。これも当たり前なんですね。でも、システムの動作が不安定になって多くの構成員が不安に陥ると、早くシステムを安定させて欲しいと願うようになる。すると効率性が重視されるんですね。ここで独裁者が待望されるようになる。

今の日本はそういった局面ですね。

日の丸・君が代は天皇制と深い関わりがあります。次エントリーで書いてみましたが、日の丸・君が代は必ずしも【システム】(【 】は単純系という意味)への入り口ではないんですね。「ゼロポイント」を経由して発散するなら、複雑系へと移行する。

私は橋下氏が要請する学校行事での日の丸掲揚、起立、日の丸斉唱に抵抗するのは、戦略的にはあまり上手くないと思っています。というのも、人々の多くは効率性を希求しているから。それをマズイといってもおそらくは届きません。そこを冷静に観る必要があると思うんですね。

橋下氏とは条件闘争をすべきです。橋下氏の要請を受諾する代りに、日の丸や君が代について教師が各々の心情を表明する場を正式に設けよ。おそらく橋下氏はそうした条件を呑もうとしないでしょうが、それはそれで反論の糸口が出来るでしょう。氏の論に従えば(とにかく表面上は規則を守るべき)、個人の心情が表明された場があったところで問題はないはずです。むしろ、そうした場があった方が、なぜ表面的には規則に従うべきなのかということの意味が子どもたちには伝わる。それを拒否するとするならば、表面上だけでなく、深層にも規則を浸透させようと図っていると見なすことが出来き、それができたなら「ハシズム」は単なる気分だけではなくて、論理的根拠を持つことになる。

私にはそういった議論が出来ないことが残念。このような考えが浮かんでこないのは、結局、橋下氏に反対する者たちが単に日の丸・君が代に反対したいからでしょう。子どもたちのことよりも自身の信条の方が大切なんでしょうね。そして、そういった部分が大衆に見透かされていることに気がついていない。橋下氏の危うさには気がつかないでも、反橋下の下心には気がつく。というのも、公務員達のお手盛りに皆が疑いの目を向けているから。誠実な教師もその枠の中へ入れられてしまっている。

さすが

お久しぶりです。
相変わらず、鋭いですねぇ~。

自分の身の回りでも、橋下氏を支持する人は多いです。理由を訊いてみても、だいたいが「なんとなく」です。
イメージ戦略が上手い人なんだろうなぁとは思います。が、だからこそ危険性を感じます。

上手いと思うのは、<自分で論証しないこと>ですね。
教育の問題、公務員の問題、財政の問題等々、自分では論証せずに批判者に対して「対案は?」と切り返すことで論証に変えている。相手がダメだからといって自分がいいことにはならないのは自明なのに。
(「学者はバカばかり」と相手を罵るけど、自分のブレーンも学者であることには触れないし)

あとは瞬発力でしょうか。ハッタリきかせながらしたり顔で瞬時に話す点は、凡百の学者の及ぶ所ではありません。

大阪にとどまっている限りにおいては、こちらとしては何もできませんが、国政に出るとなると話は別(たとえ本人がでなくとも)。何らかの方法が取れるのではないかと考えています。

どうも

・CKさん、コメントありがとうございます。

橋下氏は、自身の構想についてはしっかりと話をしますね。大変に説得力もある。『朝生』の討論でも、反論者たちもその点については批判できていませんでした。だからこそ「対案は?」というだけで十分な切り返しが出来てしまう。私はそのように感じていました。

現在の日本の【システム】、特に行政のそれが大変に非効率なのは誰の目にも明らかです。そこは異の唱えようがない。論証する必要がないのですね。橋下氏のやり方は、反論者たちの攻撃をすべて議論の余地のないところへ逸らしてしまうこと。

【システム】の効率化は何も橋下氏のやり方だけではないでしょう。しかし、目的が効率化である限り、どのような方法を提案しても、次は民主主義の手続きによる多数決の決定を持ち出してくる。

「その方法も良いかもしれないが、支持を得たのは私である。」 

と同時に、より有効な方法は採り入れます、とのたまう。

ハッタリきかせながらしたり顔で瞬時に話す点は

こういったところを香山氏は精神病理学的に指摘したかったのでしょうが。やり方が大変拙かったですね。

大阪にとどまっている限りにおいては

ですね。このあたりは小沢一郎の動きと絡めて考える必要があると思います。小沢氏が検察の呪縛から自由になって、国政の一線に復帰するか否かで橋下-維新の会へのスタンスも変わってくるでしょう。

>基礎自治体の平均人口は10万で、その規模だと自治体の長が地域コミュニティーがつぶさに把握できる――とまあ、このような説明であった。
>氏の主張は尤もらしく聞こえるが、こんなものはまやかしだ。地域のコミュニティーというのは一種の〈生態系〉である。

愚樵殿は、橋下氏が考える「コミュニティ」の範囲を理解して、このようなことを言っているのかが疑問。橋下氏は、あくまでも「地方自治」あるいは「行政」からのアプローチにおける「コミュニティ」を言っているのであって、そこまで踏み込んだ「コミュニティ」の定義づけをしているわけではない。そこを認識されているかどうかが、私には疑問である。

ついでに御坊哲殿の発言に言及する。
民主主義は、確かに民主主義は本来効率が悪い、面倒くさいシステムである。
『少数の尊重』は、『真理は多数決で決めることではない』のである。たとえ多数の意見であっても、それが真理ではない場合、少数の説を理解し、納得し、賛同する責務がある。このために「議論」がある。このため、どうしても効率が悪く、面倒くさいものになる。

しかし、小田原評定をするためにあるシステムではない。いかに効率が悪く面倒なものであっても、「一定の結論」に導くためのシステムなのであって、今の日本の閉塞状況は、この「結論」「決定」がなされないまま停滞していることに起因する。
『少数の尊重』は、また、『少数の権利利益を最大限守る』ことであって、「少数のわがままを許す」ものではない。日本では、「議論を尽くす」をいうのが、「少数が納得しないものは、絶対に決定させない」というものにしかなっていない。本当に議論を尽くしているわけではないのである。

『社会が閉塞状態になってくると、スパッと改革してくれそうな「粗暴な」人間に人気が集まるようですね。非常に危険な状態だと思います。』というのは正しいが、その原因を作った方に何の反省もなく、ただ橋下氏のようなキャラクターを「危険だ」と考える方が危険であることの認識がない。
このような人たちが認められる社会にあっては、貴殿が考える「危険な状態」など、何度も何度も起こるだろう。

だから、チャーチルはこういったのだ。「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。」と述べたのだ。「これまでに試みられてきた民主主義以外の あらゆる政治形態を除けば、だが。」の部分ばかり重視する日本の状況では、「民主主義は最悪の政治形態」でしかないのは、誰も否定できない事実だ。2005年と2009年の総選挙と、その結果日本社会がどうなったかを見れば、誰も否定できない。

視点が逆さま

わくわくさん、お久しぶりです。お元気でしたか?

せっかく頂いたコメントですが、的を外していますね。

橋下氏は、あくまでも「地方自治」あるいは「行政」からのアプローチにおける「コミュニティ」を言っているのであって、そこまで踏み込んだ「コミュニティ」の定義づけをしているわけではない

『朝生』はご覧になったのでしょうか? まあ、ご覧になったのでしょうが、私とは「見方」が異なるらしい。

橋下氏が踏み込んだ定義付けをしていないのは仰るとおりです。が、“定義づけをしていない”という言い方に私は同意できない。そうではなく、氏はあえて行政とコミュニティをごちゃ混ぜにしたのです。

「定義付けをしない」ということと「ごちゃ混ぜにする」ということは、同じようで全く異なります。『朝生』の議論で橋下氏への攻撃者達は、選挙公約と選挙後の政策の差を攻撃していましたが、橋下氏はこの攻撃を「ごちゃ混ぜ」でかわしたのです。それを「定義付けしていない」と言えなくはないが、氏の意図していること隠蔽する物言いです。

私が踏み込んだ定義付けをしたのは、攻撃者たちが「ごちゃ混ぜ」をうまく捌くことが出来なかったからです。「ごちゃ混ぜ」を捌くための足場を構築するため。議論の基本です。

橋下氏の「ごちゃ混ぜ」を捌くのに、橋下氏の「定義付けの無さ」を根拠にしてもどうにもなりません。せっかく疑問を提起していただいたのですが、視点が逆さまでは受け付けようがありません。

>そうではなく、氏はあえて行政とコミュニティをごちゃ混ぜにしたのです。

行政とコミュニティをごちゃ混ぜにしたのは、山下氏や薬師院氏の方であり、橋下氏ではない。
橋下氏は、『「大阪市という行政・自治体」と「自然発生的なもの」を混同するな』と言っているのです。言い換えれば、愚樵殿がいうところの「幻想としてのコミュニティ」である「大阪」は、都構想で壊れるようなものではない、ということなんですよ。
要するに、「橋下は、大阪そのものを解体しようとしていると言ってる人がいるが、そんなことできるわけないでしょ」っていうこと。つまり、ごちゃ混ぜどころか、その反対の言動を橋下氏はしている。
ただ、東浩紀氏が指摘したように、表現方法はまずかったのは間違いない。

橋下氏は、最後の最後に「大阪維新の会」としての言動をしたものの、それ以外では、あくまでも行政マンとしての言動に終始していた。このことを踏まえれば、愚樵殿の橋下氏に対する「攻撃」は、今回は的を完全に外してしまっている。
(橋下氏の政策主張である核武装論も、質問されたにも関わらず触れなかった点をみれば、それは明らか。これで「言い負かした」かのようなことを主張した共産党の機関紙は、本当に愚かだとしか言いようがないが。)

政治家は行政マンではない

・わくわくさん、おはようございます。

いやいや、見方は異なりますね。

コミュニティか行政かということで議論の的になっていたのは「区」という単位です。橋下氏の「区」の扱いは選挙公約と選挙後の具体的な都構想とでは異なっていた。山下・薬師寺陣営は、そこ誤魔化しだろうと言って攻撃していたわけです。山下・薬師寺陣営がコミュニティを持ち出してきたわけではない。それは橋下氏です。

つまり「ごちゃ混ぜ」にしたのは橋下氏です。幻想のコミュニティが壊れないのは当たり前です。幻想なんだから。

(幻想が壊れたり、あるいは生成されたりするのは教育の影響ですね。だから氏はそこへ手を突っ込もうとしている。ま、これは私の勝手な解釈とわくわくさんは受け取るでしょうが。)

私は、そんな幻想との「ごちゃ混ぜ」を捌くことができなかった理由は何かと問うているんです。なので、ここですでに橋下氏の見解は定義は問題にしていない。

あくまでも行政マンとしての言動に終始していた

私も氏の言動がほぼそうであったことは認めます。本文にも記しています。が、幻想と「ごちゃ混ぜ」にするのは行政マンとしての言動とは言えない。

ただ、これも本文に記していますが政治家としての「ごちゃ混ぜ」を私は必ずしも批判的にみているわけではないのです。有権者とコミュニケートする過程での行き違いはあって当然だし、大切なのはその行き違いを解消する努力をすること。その姿勢において、橋下氏は山下・薬師寺陣営よりずっと勝っている。だから橋下氏の「学者・評論家批判」が有効に機能するわけです。

このことを踏まえれば

完全に読み違えてますね。私は政治家は行政マンとしてありさえすればそれでよいのかと問うているのです。都構想は、橋下氏の説明では、あくまで行政を効率化させるためのものです。そして、氏のいう「つぶさに地域コミュニティーを把握」というのも、地域コミュニティを行政の末端として捉えてのもの。私は地域コミュニティーは幻想でもなければ行政組織でもないと言っている。

私の的がどこにあるのかを把握せずに的外れといっても、それこそ的外れ。私は行政マンとしての橋下徹を批判しているのではない。政治家橋下徹に批判の目を向けているのです。

>コミュニティか行政かということで議論の的になっていたのは「区」という単位です。橋下氏の「区」の扱いは選挙公約と選挙後の具体的な都構想とでは異なっていた。山下・薬師寺陣営は、そこ誤魔化しだろうと言って攻撃していたわけです。山下・薬師寺陣営がコミュニティを持ち出してきたわけではない。それは橋下氏です。
>つまり「ごちゃ混ぜ」にしたのは橋下氏です。幻想のコミュニティが壊れないのは当たり前です。幻想なんだから。

まず、「区」という単位については、あくまでも「行政」としての位置づけしか橋下氏はしていません。コミュニティについては、橋下氏は「大阪」という単位でしか述べていません。そして、橋下氏は「私が大阪市をバラバラにしないといったのは、大阪市役所を解体することは、大阪そのもののコミュニティや文化を破壊することを意味すると反対勢力が偽りを言ったからだ」ということを述べています。

次に、選挙公約と選挙後の「都構想」が異なっているという意味がわかりません。
山下氏は、「大阪市を壊さないと言いながら、大阪市役所を解体するとはどういうことだ?」ということしか言っていませんし、薬師院氏に至っては、実にレベルの低いイチャモンをつけただけです。

つまり、愚樵殿の認識は「わくわく44と違う」のではなく、「明らかな誤り」としか言えません。

>幻想が壊れたり、あるいは生成されたりするのは教育の影響ですね。だから氏はそこへ手を突っ込もうとしている。ま、これは私の勝手な解釈とわくわくさんは受け取るでしょうが。

この一文を入れた意味がわかりません。誤解を招く言動は慎むがよろしいと思います。
この一文を素直に読めば、「橋下氏は、既存のコミュニティ幻想を壊すために、教育に介入しようとしている」と解釈されても仕方がありませんよ。もし、違う分野のことを述べたというならば、「こういう発言を、今ここでしてはいけない」と注意しておきます。

>私は、そんな幻想との「ごちゃ混ぜ」を捌くことができなかった理由は何かと問うているんです。なので、ここですでに橋下氏の見解は定義は問題にしていない。

前提たる「橋下氏は、ごちゃ混ぜをしていない」ので、捌くもへったくりもありません。
香山氏、山下氏、薬師院氏は、単に橋下氏が掲げた政策に対して、ピント外れの主張ばかり繰り広げて論破されただけです。これ以上でもこれ以下でもありません。

>私も氏の言動がほぼそうであったことは認めます。本文にも記しています。が、幻想と「ごちゃ混ぜ」にするのは行政マンとしての言動とは言えない。

上記の理由により、これも全面的に「間違っている」となります。

>有権者とコミュニケートする過程での行き違いはあって当然だし、大切なのはその行き違いを解消する努力をすること。

この部分においては異論はありません。

>その姿勢において、橋下氏は山下・薬師寺陣営よりずっと勝っている。だから橋下氏の「学者・評論家批判」が有効に機能するわけです。

いえ、この認識も間違いです。
「橋下氏は、山下・薬師院陣営よりずっと勝っている」のではなく「香山氏、山下氏、薬師院氏は、リングに上がる資格がない」のです。大阪府・大阪市が抱える問題点に関して、橋下氏は問題提起と解決策を具体的に述べているのに対して、反橋下の人たちは、問題提起棚上げ、もちろん解決策などない。単に橋下氏を気に食わないだけの言動に終始している。これは内田樹氏にしても同じです。
学者・評論家・議員であるならば、橋下氏の「政策」について評価した上で、「手法」を評価せねばならず、この是非の観点から述べなければならない。一般大衆ならいざしらず、学者・評論家・議員の立場にありながら、これができないのならば、反橋下のアクションを起こしたり、橋下氏を嫌悪する権利も資格も自由もありません。

>完全に読み違えてますね。私は政治家は行政マンとしてありさえすればそれでよいのかと問うているのです。都構想は、橋下氏の説明では、あくまで行政を効率化させるためのものです。そして、氏のいう「つぶさに地域コミュニティーを把握」というのも、地域コミュニティを行政の末端として捉えてのもの。私は地域コミュニティーは幻想でもなければ行政組織でもないと言っている。

愚樵殿は、「大阪市長・橋下徹」に対して何を期待しているというですか?
地域コミュニティが幻想でも行政組織でもない、それはいい。問題は、そこに「大阪市長・橋下徹」にどうコミットさせるつもりなのか?積極的に関与せよとでも?
その「答え」が、愚樵殿の言動からは一向に見えない。つまり「何が言いたいの?」ということですよ。

>私の的がどこにあるのかを把握せずに的外れといっても、それこそ的外れ。私は行政マンとしての橋下徹を批判しているのではない。政治家橋下徹に批判の目を向けているのです。

愚樵殿は、「敵がいないのに、敵に対して攻撃をしている」のです。
ゆえに『橋下氏はそのことを明示的に言わない。欺瞞である。』という、愚樵殿の捉え方は、『橋下氏はそのことを明示的に言うことなどできない。』のだから、欺瞞でも何でもない、ということです。当然ですよ、橋下氏は、コミュニティに関して、愚樵殿のような捉え方自体していないのですから。

今回の愚樵殿の言動は、一人相撲をしてしまったのですよ。私が的外れではなく、貴殿が的を外してしまったのです。

・わくわくさん、おはようございます。

まあ、いつものことながら、、わくわくさんとの議論は不毛ですねぇ。

ひとつ前のコメントに戻って

橋下氏は『「大阪市という行政・自治体」と「自然発生的なもの」を混同するな』と言っているのです

これを橋下氏が言い出すまでは、両陣営とも行政単位の話をしていた。橋下氏が上記のことを言い出したがために行政と「自然発生的なもの」とが議論の俎上にのぼった。この「事実」を指して私は「ごちゃ混ぜ」と言っている。

ま、しかし、これ以上、わくわくさんと議論しても無駄でしょう。どうせあなたは「自分の見立てのみが正しい」というばかりだろうから。私がどういった視座から何を主張したいのか、ということについて理解しようとする姿勢はさらさらない。

愚樵殿は、「敵がいないのに、敵に対して攻撃をしている」のです

わくわくさんは私が何を「敵」だと認定しているのかが見えていない。私の「敵」認定からすれば、橋下氏も橋下批判をしている側も「敵」なんですがね。この記事はそのようなタイトルでしょう。『橋下批判と「生きる技法」』なのですから。『生きる技法』という本の主張(〈生態系〉的に生きていく)ことから「橋下批判」を批判している。だから、私が橋下批判(だけ)をしていると捉えている時点で、わくわくさんは何も読めていない。

いずれにせよ、私の「見ているもの」はわくわくさんには見えないでしょう。見ようとはしないから。見ようとしない人と対話をするのは不毛です。私の時間と労力も有限です。

というわけで、このあたりで応答は切り上げさせてもらいます。ご容赦ください。なお、このあとコメントしてくださるのは自由ですが、いつものように、限度を超えたものは削除しますので悪しからず。

不毛なのは、愚樵殿が自分の誤りを認めないで、私に反発するからです。
それ以外に理由はありません。

>>橋下氏は『「大阪市という行政・自治体」と「自然発生的なもの」を混同するな』と言っているのです
>これを橋下氏が言い出すまでは、両陣営とも行政単位の話をしていた。

これは不正解です。
橋下氏は、選挙のときに、大阪都構想に伴う特別区の設置について、反対陣営は「橋下は大阪市をバラバラにする」と宣伝したことから、『行政組織と自然発生的なものを混同するな』と言っていたのですよ。つまり、選挙時には、すでに言っているわけです。
にもかかわらず、またもや「大阪市をバラバラにしませんと言いながら、大阪市をバラバラにするじゃないか」と、「基礎自治体の再編=大阪をバラバラにする」という観点での発言が山下議員や薬師院氏から発せられたために、再び説明したのですよ。

従って、誤っているのは愚樵殿であって、私ではありません。

>わくわくさんは私が何を「敵」だと認定しているのかが見えていない。私の「敵」認定からすれば、橋下氏も橋下批判をしている側も「敵」なんですがね。

これも愚樵殿の認識は誤り。

私は、愚樵殿が橋下氏を敵と認定していること自体を誤りと言っているのです。理由はすでに述べましたが、要するに、『愚樵殿が本文にて橋下氏を「敵」とした理由からすれば、橋下氏は「敵」になりえない。つまり、「敵」になりえないものを、ピント外れな理由で「敵」と錯誤しているのだ』ということです。

>私が橋下批判(だけ)をしていると捉えている時点で、わくわくさんは何も読めていない。

そもそも愚樵殿の橋下氏の「朝生」に対する「認識」が、「本来あるべき認識」ではなく、誤った認識であるがゆえに、私が「何も読めていない」と思うのも誤りです。

>いつものように、限度を超えたものは削除しますので悪しからず。

橋下氏が「学者は・・・」と批判し、それが一般大衆のウケが良いのは、そういうことです。
言い換えれば、私のコメントを不毛だと思ったり、限度を超えたものを思うことは、『日本国民に「民主主義」「人権」は、「豚に真珠」だ。』と言っているに等しいのですよ。
つまり、愚樵殿は、私のコメントを削除した時点で、日本国民全般に対して「日本は民主主義であるべきではない、人権を認められてはいけない」と発言したのと同じなのです。そのことを認識なさってください。

ハラスメントという名の呪い

・わくわくさん、また来られましたか。まあ、いいですけどね。

私がもはや、わくわくさんとはまともに取り合うつもりはないことは上で明言した通りです。なのでこのコメントは、わくわくさんへの返答というより、なぜわくわくさんとまともに取り合わないかということの理由を明らかにしておきましょう。

それはわくわくさんの目的が、真実を明かすことではなく、わくわくさんが正しいと考えることを私に押しつけることによって、私を「呪い」にかけよ支配下に置こうとしているから。この「呪い」はハラスメントともいう。

ハラスメントをしかけようとする人物とまともに取り組むと、ハラスメントにかかっておかしくなってしまう。人間はそのように出来ている。だから取り合わない。

わくわくさんは私が誤りを認めないと言いますが、それはその通りです。誤ってると思っていないから。ただし、わくわくさんが正しいとする見方もあり得るとは思う。が、それをわくわくさんの要求通り認めることは決してしません。わくわくさんの要求は、私の見方を捨てて自分の見方に従えというものだから。そういった要求に従うと「自身の見方」というものができなくなる。

私がわくわくさんの正しさを認めるのは、わくわくさんが私の正しさを認めるときです。そうして初めて「対話」が始まり、双方の見方がすり合わされ、意見の一致へ向うことになる。その第一歩をわくわくさんは踏み出そうとしない。私の方から一方的に踏み出すのは支配されることになるとわかっているので、私も踏み出さない。だから不毛だと言っているのですね。

しかし、わくわくさんは、ご自身では私を支配しようとしているとは意識していないでしょう。ただひたすら「正しいこと」を追究しているのだと思っているのでしょうね。

が、一度、自省してみられることをお勧めします。なぜ「正しいこと」を追究しているだけなのに、そんなに不愉快なのか。わくわくさんから見れば、私は理解を拒絶しているように見えるはずです。いくらわくわくさんが「オレは正しい! オマエは誤っている!」と叫んだところで、私がアタマから取り合わないこともわかっているはずです。そのように明言もしていますし、強制的な手段も私はとることができる。過去に何度も実行しましたよね。

にもかかわらず、なぜまた再びコメントを続けるのか。いえ、続けざるを得ないのか。ご自身の心理的な理由を一度考えてみられることをお勧めします。

わくわくさんが今の状態のままでいるならば、私は決してあなたの臨むような対応はできません。構ってくれる相手が欲しいのなら、心理カウンセラーあたりに相談するのがよいかとも思います。一度、考えてみられてはどうですか?

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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