愚慫空論

日本人のDNA

昨日の天木直人さんの記事に引っかかった。「優しい世代」と題した記事だ。
これは毎日新聞の「発信箱」というコラムを元に書かれた記事。

「僕らは貧乏だけど貧困じゃない」「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」

 東京でこの夏あったトークライブ。バブル崩壊後に成人した「ロストジェネレーション(失われた世代)」の20~30代が激論を交わしていた。

 パネリストのフリーターや自営業、NPO主宰者に共通していたのは「人をけ落としてまで生きたくない」という労働観だった。リサイクルショップの経営者は「社長だけ高い給料もらうなんて、オレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」と言った。

 企業や組織を嫌い我が道を行くタイプは昔からいた。でも何かが違う。その心象風景にあてはまる言葉を探せば、少し違和感を覚えつつも「優しさ」になるだろうか。

 ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。親たち団塊世代のように組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない。でも意欲はある。自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める。

 「甘い」と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会のシステムに完全に組み込まれ、たくさんの人が安価な労働力の恩恵を受けている。例えば介護の現場。働き手の4割が20代だ。重労働低賃金に耐える青年たちから「お年寄りの笑顔を見るとつらいことも忘れるんです」と聞くたびに複雑な気持ちになる。

 いつか彼らも老いる。その時、どんな世の中が待っているのだろう。

(毎日新聞 発信箱:優しい世代 磯崎由美 2007年9月12日)

全文を引用してしまった。全文でもたったこれだけの文章だけれども、とても気になる文章である。

この記事を読んで思い出したのが、日本の若者は他国に比べて、出世意欲が低いという調査結果である。ネットで調べてみると、出ていた。

高校生意欲調査、出世意欲、日本は断トツ最下位

日本の高校生は米中韓の高校生よりも「出世意欲」が低いことが、財団法人「日本青少年研究所」(千石保理事長)の「高校生の意欲に関する調査―日米中韓の比較」で分かった。「将来就きたい職業」では、公務員を選んだ高校生が日本では99年調査より約22ポイントも減少するなど、米中韓に比べ、明確な目標を持てない日本の高校生の実情が浮かんだ。
 調査は06年10月~12月、日米中韓の高校生計5676人を対象に実施。進路や人生目標、職業意識などを聞いた。所属する高校を通じて実施したため、回収率は100%になるという。
 「偉くなりたいか」という問いに、「強くそう思う」と答えた高校生は中国34.4%▽韓国22.9%▽米国22.3%に対して、日本はわずか8.0%。卒業後の進路への考えを一つ選ぶ質問では、「国内の一流大学に進学したい」を選択した生徒は、他の3国が37.8~24.7%だったのに対し、日本は20.4%にとどまった。
 また、将来就きたい職業(複数回答)では、日本は99年調査よりも弁護士や裁判官、大学教授、研究者の割合が低下。特に、公務員は前回の31・7%から大幅減となる9.2%だった。逆に「分からない」を選んだ生徒が6.2ポイント増の9.9%になった。
 千石理事長は「食べることに困らなくなり、今の高校生は『偉くなりたい』という意欲がなくなってきている。また、(従来『出世』と考えられてきた)職業に魅力や権威がなくなっている」と分析している。

(毎日新聞 2007年4月24日)

この報道がなされたときには、日本という国の行く末を案じる声が多かったように思う。若者に覇気が無くなれば、国は衰退していくという論調である。

しかし、私はその論調には違和感を覚えていた。「覇気が無くなる」というのはあたっているのだろうけれども、それが好ましからざるものとは思えなかった。それがイコール意欲がないということを意味していないのではないか、と思っていた。そう思っていたところに「優しい世代」である。これはひっかからないわけが無い。

覇気が無い≠意欲が無いという図式は、私の暮らす地域では未だに顕著に見られる図式である。例えば若者たちであるが、まず、意欲のない者は田舎から出ていかない。辛うじて残っている地縁血縁を頼って生きている。また覇気のある者は、すぐに田舎を去り、帰ってこない。覇気は無いが意欲のある者は、一度は田舎を去るが、戻ってくる。但し、皆々が戻ってこれるだけのキャパシティは田舎にはない。だから戻って来れずに入る者も多いように思う。

また若者より上の世代の人たちもそうである。覇気のあるような人は、まず、いない。だが意欲に溢れる人は、たくさんいる。そうした人たちが大切にするのは、何を措いても自分の暮らしである。「足る」ということを知っている、という印象を強く受ける。覇気をもって、「余分なこと」をしようとは欲しないのである。

ここでいつもの如く、飛躍をひとつ。
田舎の人はなぜか皆、パチンコが好きである。もちろん、都会にだってパチンコの好きな人はいる。絶対数で言えば都会人のパチンコ好きの方がおおいはず。だが、見ていて少し様子が違う。
田舎の人は、パチンコを楽しんでいるのである。都会人のパチンコのように、不純なものを感じさせない人が多い。“不純な”とは、ストレス解消のためとか、なにか不安に駆られてとか、そういう感じを持つ人が、まずいない。だから、手許に軍資金がなくなると、それ以上のめりこむことはない。ちゃんと節度があるのである。

これは実に不思議なことと思っていた。私はパチンコなど何が面白いのかさっぱりわからない人間だが、嵌るとのめりこんでしまうものだと聞く。カクヘンがかかってレンチャンになって、ジャラジャラと出てくるカイカンがタマラナイのだそうだ。
もちろん私の周囲のパチンコ好きも、そうしたパチンコの魅力は語る。だが、のめりこまない。一線がキッチリある。なぜ、みながこうも見事に踏み越えないのか? 踏み越えないのならば、バカバカしくなってやめないのか? 不思議で仕方なかったのである。

あるとき、ふと思い当たったのはこういうことだ。これは余分なものを蕩尽しようとしているのではないのか? ということである。手許に余分なお金がある。このお金があっても無くても生活に困らない。なら、蕩尽してしまえという感覚である。

私は再々周囲のパチンコ好きの人たちに、それだけ余分なお金があるのなら、たとえば旅行でもしてみたらどうですか? なんて言葉をかけてみたものだ。返ってくる返事は、一応、肯定ではある。けれど、気のない肯定で、本音ではそんなことをする気がないのがすぐにわかるのである。

要は、「余分なこと」をしたくないのだ。旅行などといったことは、彼らのとってはおそらく「余分なこと」でしかない。ちゃんと自分の範囲というものがあって、そこからは踏み出そうとしない。「余分なもの」の蕩尽も自分の範囲内で済ます。「余分なもの」を「資産」と捉え、それを増殖させようなどという発想は微塵もない。これが彼らのスタイルではないかと、近頃私は思っているのである。


そういえばもうひとつ、最近読んだ記事で気になっているのがあった。『AERA』に出ていた三浦展(『下流社会』の著者)の「三浦展が語り下ろす格差新局面」と題した短い記事だが、趣旨は、「下流」と「上流」はどちらも似たような発想を持ちつつあるといったものだった。つまり違いは金があるか否かということで、どちらも自分のスタイルを追求することが第一で、金は二の次という観察であった。金に翻弄されているのは自分のスタイルをもてない「中流」であり、日本ではその「中流」が没落しているという内容の記事だった。

この観察に全面的に同意できるわけではないが、真理の一端はついているような気がしてはいた。毎日新聞の「優しい世代」の記事は、そうした真理の姿を、またひとつ照らし出すものであるように感じたのだった。


「自分のスタイル」を求める生き方。こうした生き方は、一方では、裕福になった日本の甘やかされた世代の「甘さ」という批評もある。「優しい世代」の記事にもそう書かれていた。が、その「甘さ」に中にも、何か一本筋が通っているような気配は感じる。「優しい世代」を書いた記者がそれを読み取っているのが、記事からもわかる。それはおそらく「心の所得」「心の報酬」といかいったもの、それを受け取ろうとする「姿勢」ということなのだろうが、こうした「姿勢」は、世界を席巻する経済グローバリズムの潮流とはまったく相反する「姿勢」である。
そうした「姿勢」が、なぜここにきて出てきたか? こうした世代は、等価交換原則に心まで支配され、意欲すらなくしつつある世代ではなかったのか? うまく答えはでない。


だが、うまく言えなくてもこの「姿勢」が好ましいことであることには間違いなさそうだ。「優しい世代」を書いた記者も、その記事を引用した天木氏も、まだうまく把握できないまま、この「姿勢」にどこか惹かれている

私はこれには思い当たるフシがある。天木氏や記者が何かに似ているのである。それは幕末から明治にかけて日本にやってきた異人たちの惹かれ具合に似ている。そういう気がする。

『逝きし世の面影』という本がある。いずれここでも取り上げたいと思っていて、なかなかそこまでたどり着けずにいるもののひとつだが、これは幕末から明治にかけて日本を訪れた異人が、当時の日本および日本人をどのように見ていたのかということを、それらの異人が残した膨大な証言録の中から拾い出し、当時の日本の姿を浮かび上がらせようとした本である。この本の中で浮かび上がってくるかつての日本の姿は驚くべきものだが、それはここでは措く。ここでは思い当たるフシの方を述べなければならない。
この本に登場してくる異人たちは、皆ではないが、ほとんどの者が当時の日本の「優しい文明」に惹かれている。異人たちは、自分たちが惹かれたものの本質まで見極め切れてはいない。だが、紛れも惹かれている。それが天木氏や記者の惹かれ具合に重なるのである。


またひとつ、飛躍をする。
私は、こうした「優しい」姿勢というのは、ひょっとしたら日本人のDNAとでも言うべきものなのではないかと思っている。どこに伝えられているのかは定かではないけれども、日本で生まれ育った者たちのなかに引き継がれているDNA。

これは他にも、そうとしか言えないような現象があるのだ。例えば日本人の異常とも言える潔癖症。社会に抗菌グッズがこれほど溢れているのは、おそらく日本だけだろう。海外から見れば、日本人の潔癖症は病的にすら映るかもしれない。
戦後の貧しい時代には潔癖どころの騒ぎではなかったろうが、豊かになれば、またぞろ、異常な潔癖症が顔を出す。これは日本人の「穢れ信仰」が根っこにあるのだろうと思うが、では、いつ、どのように日本人が「穢れ信仰」を継承したのかといういえば、それはまったく定かではない。ただ、なんとなく継承しているのだとしか言いようがない。つまり、日本人のDNAなのである。

日本人の「優しい」DNA。明治から昭和の戦争の時代を経ても失われなかったDNA。高度経済成長を経て、グローバリズム吹き荒れる世の中で再び頭をもたげてきたDNA。
さらに飛躍していうなら、このDNAと憲法9条とは、根の深いところで繋がっていると私は思っている。経済グローバリズムの潮流の中で、このDNAもまた危機に曝されているのかもしれない。けれど、私はこのDNAの生命力を信じたい。このDNAの中にこそ、平和への鍵が秘められていると思うからだ。

コメント

日本人の体質

この記事からはいろいろなものが出てきそうです.
まず最初の「優しい世代」について
こういう世代には何か救われるような気がします.新自由主義にさらされるのはとても可哀想.というよりこういう世代が多数派になれば新自由主義は根付かないのでは,と思ってしまいます.しかし,例えば今の50歳前後の世代.ちょうどあのシンゾーさんの世代は人を押しのけても自分を目立たせたい世代(だと私は偏見を持っています)ですが,彼らを代表に新自由主義を推進していくでしょう.これらを両立させるには,新自由主義をわが国得意の「カスタマイズ」で処理する智恵が生まれるのでしょうか.しかし,その前に「優しい世代」はつぶされてしまうかもしれません.
次の出世意欲について,結果の分析に違和感を覚えます.
1.公務員の希望激減が意欲低下の現れと見るのは変.減った分はどこへ行ったかです.それによっては意欲向上と見ることも可能でしょう.
2.公務員志望激減は,恐らく官僚の不祥事事件等が影響した一時的なものとも考えられます.
3.偉くなりたくない,は確かに少ないと思いますが,国の発展のステージが違うので一概には言えないのでは?韓国の割合も以前と比べて減っているのではないでしょうか.中国はこれからが盛りになるでしょうからそれにしては数値が少ないと感じます(感想).米国の22.3%は,高校まで来た人の中でこれだけとはとても少ない気がします.(感想)
とはいえ,私は出世意欲が減ったことに救いを感じます.
次に,DNAのことですが,こういう切り口で語られると,今にも同意しそうですが,よく考えると,そうでもないような気がしてなりません.日本人がやさしかったのは同胞にだけ,ということはないですか?秀吉の時代から侵略体質を持っていたようにも見えます.また,どこの国にもあるとはいえ,異質なものに対するひどい差別体質.以前,書いたこともありますが,「最も怖いのは隣組」という体質もあります.決してケチをつけるつもりはないのですが,「日本人の体質」を見誤らないためにあえて書きました.

定常型社会に適合

ちょうど今読んでいる「持続可能な福祉社会」(広井良典)の内容と、ぴたりと一致します。彼らこそ、ポスト経済成長の「定常型社会」の担い手になる筈です。

今日は厳しくいきます

こんにちは。
優しさは世代とは関係なく持っているものでしょう。
それから、上のコメント50代云々も偏見ですね。
侵略は一般人の意志とは関係なく、権力者が勝手に進めたこと。こういう問題をきちんと検証せず、感覚的に述べていては解決になりません。
DNAについては、確かにその傾向はあるかもしれないとは思いますが・・・。

papillonさん>
>新自由主義にさらされるのはとても可哀想
という感想には、同意しつつもちょっと違うような気がします。というのも、新自由主義にさらされたからこそ、こうした「優しい世代」が出てきたのではと思うからです。例えれば、舗装された道路の割れ目から芽を出した雑草といったイメージでしょうか。野原に咲けば単なる雑草でも、コンクリートジャングルの中では安らぎを感じる。
そうした雑草には、可哀想と思うと同時に逞しさも感じます。私は逞しさの方に着目し、応援したいと思うのです。

>異質なものに対するひどい差別体質
『逝きし世の面影』を読むと、かつての日本人にはそれは皆無とは言わないまでも、極めて少なかったのではないかと思ってしまいます。また異質なものへの差別感があるところでは、日本人得意のカスタマイズも無理だったでしょう。
しかし、親近憎悪の気は日本人にはありそうです。「隣組」もそうでしょうし、いわゆる同和問題の元になった部落差別もそうですね。ここらは「穢れ信仰」とも結びついてくる問題ですが、日本人DNAの暗い部分でしょう。

>秀吉の時代から侵略体質を持っていた
これは違うと思います。日本人に侵略気質が出てきたのは満蒙生命線が唱えられた頃からでしょう。秀吉の侵略は、おそらく秀吉の天皇家圧伏のための戦略の一環であっただけで(これは信長から引き継いだ)、日本人一般の気質とは関係ないと思います。
日本人に侵略気質が出てきたという問題は、伊藤博文あたりが欧米のキリスト教に習って、天皇教という一神教を国家の機軸にしたというところと深い関連があると思っています。

志村さん>
>定常型社会に適合
そうだろうと思います。こうした日本人DNAの威力が最も力を発揮したのは鎖国政策が採られた江戸時代ですが、それはまさしく定常型社会であったわけです。

あつくさん>
>優しさは世代とは関係なく持っているものでしょう
そうなんですが、この「世代」にかかる「優しい」と言う形容詞は、そもそもの「優しい」という意味とは少しずれているんですね。「その心象風景に当てはまる言葉を探せば、少し違和感はあるが「優しさ」ということではないか」という書き方をされていますが、妥当な表現だと思います。

>侵略は一般人の意志とは関係なく、権力者が勝手に進めたこと
それにも同意です。そうした権力という目で見ると、記者も書いておられるとおり「もはやその優しさは社会のシステムに完全に組み込まれ、たくさんの人が安価な労働力の恩恵を受けている」ということなんですね。
着目したいのは、そうして新自由主義的な経済構造の中に組み込まれているにもかかわらず、意欲を失わない精神構造の柔軟性、逞しさなんです。そうしたところから何が見えてくるかというところが問題で、それは志村さんが指摘されている「持続可能な定常型社会」というところになるのではないか、というところへ繋がっていく。
天木さんもこう書かれているます。
「このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う。」
こうした視点こそが、本来の意味での民主主義的な精神のはずなんです。

『逝きし世の面影』

西南戦争の頃に東北地方や蝦夷地に渡りアイヌ部落にも足を伸ばしたイザベラ・バードや幕末に来日したシュリーマンの旅行記を読んで、興味を引かれこの本も読んでみました。
いや~ア。はまりました。
資本主義の産業革命以前では有るが、欧米とは異質の価値観を持った高度に発達した文明が日本には存在していた。
妖精のように美しく、はかなく優しげな文明が過ぎし世に日本の国には存在していた事実が描かれている。
今より貧しかったが特異で美しく幸福だったかも知れない二度と戻ってこない失われた文明。
高度に発達した美しく優しく魅力的で、特異な『失われた文明』が遠くインカやマヤ、アステカだけではなく、なんと日本にも150年前に存在していた驚き。

歴史修正主義は、何も靖国文化人だけの専売特許ではない。
『歴史の書き替え』こそが国家のDNAかも知れないが、明治政府が徹底的に過去の歴史に修正を加えた事実が認められる。
新政府は自分達の正当性を証明するために、過去の『文明の痕跡』を徹底的に破壊しつくしたのかもしれない。

国家のDNA

>『歴史の書き替え』こそが国家のDNA
同感です。歴史の本場中国では、それこそが政権の正当性の拠り所だったのですからね。

『逝きし世の面影』に描かれた在りし日の日本文明は、しかし、まだ辛うじて現代の日本の中に生き残っているように思います。まずはなんといっても治安の良さ。地震等で政府の統制が麻痺しても、略奪暴動が起きない。これは特筆すべきことですよね。
ただ、悪しき面影も残っています。お上を信頼してしまう人の良さ。これだけ騙されてても、まだ、信じるのですからね...あ、騙されていることにまだ気がついていないだけか。

美しかった日本の文明と『神殺し』

在日朝鮮人一世の老人の言った言葉が、今でも気になって仕方が無い。
老人は、自分がどれだけ差別されたか、ひどい扱いを受けたかを激高しながらまくし立て、日本人の無法を非難していたのですが、最後に朝鮮半島から大昔の日本に来た時の印象を語っていました。
彼は『今とは比べられないくらい(日本は)素晴らしい国だった』『信じられないほど良い国だった』
何を指して、素晴らしいと感じたのか。?何がそれ程良かったのか。?

『逝きし世の面影』の時代の神々は廃仏毀釈で滅ぼされ、唯一残った国家神道の神もアメリカによって滅ぼされ、日本は二度にわたった『神殺し』の結果、無道徳、無節操の日本が出来上がったとする梅原猛の世界がまんざら嘘とも思えない気がしてきました。

>お上を信頼してしまう人の良さ。これだけ騙されてても、まだ、信じるのですからね
お上を信用するのは国民国家の特徴です。
150年前の庶民は、お上はお上、自分は自分で別物だと考えていました。(私の思考レベルは150年前の庶民程度に止まっています)
民主主義(民主国家)では建前上、主権者は国民ということになっているので、お上と自分を混同する慌てモノが出てくるような仕組みになっています。

日本の伝統

>150年前の庶民は、お上はお上、自分は自分で別物だと考えていました。
これこそが、本当の日本の伝統というものです。決して武士道などが日本の伝統などではありません。

『逝き世の面影』でも主に取り上げられているのは庶民の風俗ですからね。支配者階級であった武士が出てこないわけではないですが、比重は小さい。

>『逝きし世の面影』の時代の神々は廃仏毀釈で滅ぼされ、唯一残った国家神道の神もアメリカによって滅ぼされ
ですが、憲法9条という神がアメリカから新たに与えられました。この神はまだまだひ弱で、現在また滅ぼされそうな情勢ですが、日本人には似合った神だと思っています。9条神と天皇家が合体したらどうなるだろうと最近考えているのですが、どんなモンでしょう?

日本の伝統と三度目の神殺し

頼りなく貧弱な体格で貧相な顔立ちの支配者階級(サムライ)と立派な体格と凛々しい顔立ちの被支配者階級(馬丁、職人、船頭、人足)が別の民族に属しているのではないかと考えた外国人もいたようです。
外国では被支配階級と支配階級は別の民族、人種に分かれている場合も数多いですから、そう考えたとしても不思議ではない。
現代人がサムライを武士と考えるから誤解が生じる。260年の平和を維持する為には武力(武士)の必要性よりも行政力(官僚)の必要性のほうが高い。
サムライとは実質的に行政官僚のことだったのでしょう。

憲法を紐解くまでもなく現行象徴天皇制は其の存在を憲法に委ねている。
憲法99条を引き合いに出すまでもなく、今上明仁天皇が9条を含む平和憲法を八百万の神々や先祖神の1つに加えることは十分に有り得る。

靖国派は自分達の神を殺したのが9条であると誤解、逆上、逆恨みの結果、平和憲法改正を主張していますが、
三度目の神殺し(9条改廃)が行なわれれば、其れは日本社会の道徳、倫理を根本的に破壊し、日本国にとって立ち直れない程の致命的打撃を与えるでしょう。

三度目の神殺しをさせないためにも

私は護憲派による靖国参拝が必要ではないかと最近思うようになってきています。その心が「三度目の神殺し」をさせない為に、です。

現在、靖国は改憲派の拠所となっています。宮司をはじめ、あそこに居る「生きた人間たち」は改憲派でしょう。けれど、あそこに祀られている「英霊」たちはどうか? 布引さんは死者の霊魂など信じないでしょうが、戦争をかいくぐった多くの人が護憲派になるように、戦争をかいくぐれなかった人も護憲派だと私は思う。戦争で斃れた者たちの魂が、もし、あそこに集ってそれが清浄なものであるならば、戦争を否定する護憲派以外にはありえないはずなんです。それを生者が穢している。

生者でも、死者に寄り添うことが出来る人は護憲派です。靖国に参る人のがみな、改憲派とは限らない。あの場を祈りの場だと思っている遺族も多いでしょう。その祈りのすべてが「国益」などに直結するなんて、私にはどうしても考えられない。

生者であれ死者であれ人として生きた者が、人として当然のこととして「平和」を願うのであれば――これが護憲派の主張ですが――靖国に祀られている死者たちも護憲派であるはず。死者を生者の論理に引き寄せ、死者を穢す者どもから死者を守るためにも、護憲派による靖国参拝が必要ではないか。それこそが、「マツリゴト」という意味においての「政治」ではないかと思うのです。

石橋湛山に学ぶべきではないか

帝国陸海軍が未曾有の国難を日本にもたらし、その結果陸海軍は消滅した。敗戦直後の時期に石橋湛山は戦争を推進した靖国神社の廃止を提唱しています。
帝国陸海軍消滅時国営神社、正確には『国営陸海軍神社』である靖国神社も消滅すべきところを、廃止を免れ民間の一宗教法人の資格で生き延びることと為った。
国有財産である『国営陸海軍神社』を一宗教法人靖国神社に無料で払い下げられたとすれば、政教分離を定めた憲法に対する明らかな違反。
此の辺は明治憲法と平和憲法の切り替わる時期で、原則や責任や財産権等が有耶無耶になし崩し的に処理されている。
62年前の敗戦時の謙虚さ冷静さ理性を取り戻して『本当に軍事神社が日本に存在して良いのか』?をもう一度考える時期に来ているのではないだろうか。

「日本人」などという人種はありませんよ。
DNAという表現が似非科学っぽいです。

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