愚慫空論

蠱惑的は動物的

「立場主義」シリーズ番外編。

まずは、この動画から。


この動画に私は快感を覚える。いや、「覚えてしまう」と言った方がよいか。今日の時点で23万回を超える閲覧されている。なかなかに人気の動画だ。

同種のもので、もっと人気のあるものもある。それも貼り付けておこう。


PVは50万に届こうとしている。が、私は快感を覚えない。つくりは前者と全く同じ、MADなのに。

MADムービー(マッドムービー)とは、既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し、再構成したもの。単に「MAD」と呼ばれることも多く、ネットコミュニティにおいてはもっぱらこの呼称が主流となっている。ただしパソコンやCGソフトが普及した21世紀初頭には「手書き(描き)MAD」(後述)という用語が出現するなど意味の拡散がみられる。主にファン活動の一環として行われる。「MAD」とは「狂っている、ばかげている」の意。(Wikipediaより


もうすこし説明を加えておくと、両者ともとあるアニメ(前者は『Working!』 後者は『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のOP(オープニング)を、歌の方はそのままに、アニメーションの方を入れ替えてある。入れ替えに使われた素材はどちらも『けいおん!』のもの。つまり、歌は『Working!』 あるいは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で、本来のOPにはそれぞれのキャラクターが登場してくるのだが、これらのMADムービーでは、キャラが『けいおん!』のものと入れ替わっている。単に入れ替わっているだけではなく、元来の歌に合わせて、元来のキャラクターの動きに似せて、あたかも入れ替えられたキャラクターが本当にそのアニメのなかで活躍するキャラクターであるかのごとく、作られている。

ゆえにまったく不自然さを感じない。最初にこれらMADムービーを見せられて入れ替えられたキャラの方を刷り込まれると、そちらが本物と思い込んで、本物の方に違和感を抱くようになるだろう。それくらいに、「それらし」く出来あがっている。これが「二次創作」といわれているジャンルの「作品」である。

で。そんなものの何が面白いのか?

これらに快感を覚えてしまうようになるためには条件がある。私は前者に快感を覚え、後者には覚えないと言ったが、それは後者が条件を満たしていないからである。私は『Working!』も『けいおん!』も知っていて、それらが好きで楽しむことが出来る。が、『俺の妹が...』は知らない。知らないと楽しむこともできない。ゆえに後者には快感を覚えない。

これは当たり前な回答。二次創作は一次に依存しているわけだから、一次を知らなければ楽しめないのは当たり前。この回答では、なぜ一次を知っていると二次を楽しめるのか、という疑問の答えにはなっていない。

この問いに答えるのは難しい。まず、問いの意味の方から考えなおしてみる必要がある。

そんなものの何が面白いのか?

これを「そんなものにどのような意味を見いだせるのか」と捉えると、答えようがない。意味など見い出せないからである。敢えて意味を見出そうとしても、それはスノビズムにしかならない。スノビズムでいくら答えをひねくり回してもみても、結局は上であげた「条件」の回答にしかならない。

動物化するポストモダンここで気がつくことがある。それは、MADムービーはそもそも何らかの意味を求めて作成されたのか、という疑問だ。意味を求めてのものであるなら、「意味があるのか」という問いは、「意味を探し出せるのか」と言い換えられ、意味を探し出そうとする者の意味探索能力を問うことになる。

しかし、意味を志向して作成されていないものに意味を問うても仕方がない。東浩紀がいう「動物化」とは、そのような意味を求めない志向のことを指すのだろう。MADの快楽は動物的快楽なのである。(動物的快楽≠肉体的快楽なのはいうまでもない。)

初音ミク

まだ答えは出ていない。動物的快楽(らしい)と名指しただけである。

痛車この動物的快楽に類似しているのは、右のような物体を「痛車」と名指すときに感じる快楽である。

 「立場主義」という日本文化が陥る罠(2)

MADの快楽と痛車の快楽は、どちらも「言い換え」による快楽である。痛車は、本来なら(人間的には)、別の名称で名指されなければならなかったはずのものだ。その本来的人間的名称(「萌車」というような名称もあるらしい)を「痛車」という表現で言い換えた、その時に生じた快楽。

MADによるキャラの「入れ替え」も、言語で言うなら「言い換え」であろう。『Working!』を、あるいは『俺の妹が』を、『けいおん!』によって言い換えたのである。あるいはこのように表現してもいいかもしれない。『Working!』を、あるいは『俺の妹が』を感じるために、その一部を『けいおん!』で言い換えてみた。そうすることで、もともとあった『Working!』あるいは『俺の妹が』の快楽が更新された。『Working!』あるいは『俺の妹が』の意味は動いていない。新たな意味の発見がそこにあったわけではない。言い換えられったことで快楽は更新されたのである。

こういった快楽の在り方は、シニフィアンが言語世界のなかで揺動することによってもたらされる蠱惑的快楽であろう。

 「立場主義」という日本文化が陥る罠(4)

「判断的」言語世界のイメージ     


「蠱惑的」言語世界のイメージ     

番外なので、最後は端折ろう。

快楽には「意味発見型」と「言い換え型」の2種類ある。前者は「判断的」であり後者は「蠱惑的」。また、東浩紀が定義したように後者を「動物的」とするならば、前者は「人間的」だということになろう。

いうまでもないことだが、東氏の定義はあくまで相対的なものである。「意味発見」を人間的であると見なす西洋的価値観に寄り添ったものだ。東洋的、わけても日本的な価値観に立てば、東氏が「動物的」という「言い換え型」こそが「人間的」であり、そこを中心に据えてみれば西洋型の「意味発見」へと傾いていくのは「ロボット化」である。

「ロボット化」とは、欺瞞の体系を築き上げていくことで自身や他者を欺いていくこと。「立場主義」とは「ロボット化」に他ならない。


コメント

反則です

愚樵さん、ダメです!ツボに嵌りました。
明日は友人たちとスキーに行くので早く寝ようと思っているのに、こんなエントリは反則です。w

最近「俺の妹…」に嵌まってて、面白いよってどっかのタイミングで書こうかなと思っていたところでした。まさしく「蠱惑的快楽」を享受中です。w

上のWORKINGのMADは観た事ありました。良く出来てますよねぇ。
私は「俺の妹…」のOPも知ってますが、WORKINGのMADの方がかなり出来が良いですね。
イマイチです。

このエントリのネタの「痛い」についての解説に疑問は無いのですが、この「痛い」という表現の対象は所謂アニメやゲームなどのPOPカルチャーに偏ってる感じがします。

例えば「痛車」ですが、最近見かけなくなりつつありますが、竹槍マフラーとか直管マフラーとかの「族車」には使わないし、デコトラックとかにも使わない。まんまレーサーみたいなメーカー宣伝ステッカーだらけの車にも使わないですよね?

私にはどれも「痛く」見えるのですが…

大まじめなんですがw

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

ふ~ん、『俺の妹が...』にですか? これ、タイトルからして痛いので、敬遠してるんですけどね。ま、そういうのが面白かったりするのでアニメは侮れないんですが。笑。面白いというなら観てみるかな。でも、最近時間ないんですよね。読まなきゃならない本やら何やらが山積みで。困ったもんだ。

この「痛い」という表現の対象は所謂アニメやゲームなどのPOPカルチャーに偏ってる

ここ、大事なところだと思ってます。

「族車」とか「デコトラ」なんてのは、そのまんまというか、意味ある言葉の略語ですね。族車やデコトラが「痛い」というのはわかります。でも、それらには何らかの能動的なメッセージ性があるような気がするんです。「オレはこのような存在だ!」という、存在感のアピール。族車にせよデコトラにせよ、乗るのは男でそのメッセージも男性的。「正」のメッセージですよね。

ところが「痛車」は「負」のメッセージです。「オレはこのようなものに惹かれている!」というメッセージを発している。存在のアピールには違いないが、どこか少し違う。

そういった傾向は少し前からデコトラと言っていいのかどうかはわかりませんが、ガテン系車両に見受けられるようになってはいました。芸能人などの「美人画」がダンプに描かれていたり。あれも違和感があって「痛い」のですけど。それが「二次元」に変化して痛さが増したというか。

それよりなにより「痛い」という言葉が現われたことの方が事件としては大きいです。これは本文で指摘したように意味のない「言い換え」ですが、その「言い換え」に蠱惑されるからデコトラや族車もまた「痛い」にカテゴライズされるようになるんですね。

他によく似た傾向の言葉に「聖地巡礼」があります。ご存知ですよね? アニメの舞台設定になっている街などを訪問することです。以前からこうした現象はあります。それを「ロケ地巡り」という。朝の連ドラが代表的で、舞台に選ばれた市町村はそれを積極的にアピールしていましたよね。けど、ロケ地を「聖地」とは呼ばなかった。

この言語感覚は「歌枕」のそれと同じものなのかなと思ったりもしてます。歌枕は、桜はは吉野山、紅葉は竜田川というように、和歌に多く歌い込まれた場所です。昔々は歌枕巡りが旅の形としてはポピュラーなものだったらしい(もっとも旅そのものがポピュラーではありませんでしたが)。そうした土地を「歌枕」と呼ぶネーミングセンスですね。なぜ「枕」なのか。これも「言い換え」のような気がしますし、そう考えると和歌や俳句などは「言い換えの術」のようにも思えてくる。

 古池や 池や蛙飛込む 水の音

なんて、何かを言い表した、世界から「意味」をすくい取ったというよりも、言葉ではないものを言葉に「置き換えた」という感がしてくる。この「言い換え」自体には何らの意味もないけれども、でも、言い換えられたことによって、「ボチャン」という水の音が脳裏に甦ってくる。この更新・再生は面影です。面影を反芻することで「感じる私」は見出されていくのと同時に、意味を求めない私、「空に向かっていく私」も発見される。「空に向かっていく」は「無心」です。そこを言葉にすると

 我感じる ゆえに我なし

になりますが、これもまた「言い換え」ですよね。

おっと、なんだか本文の続きみたいになってしまいました。笑。

WORKINGのMADの方がかなり出来が良いですね

ほう、そうですか。ちょっと私には比較不能だな。で、すぺーすのいどさんは『Working!』も観ておられる? 私は『Working!』、すきです。これこそ「意味のない」アニメかな、なんて思ってます。

スキー場です

こんばんは。

『俺の妹が...』面白いですよ。
有名なので私も前から知ってましたが、最近見てハマりました。
愚樵さんも気にいると思うなぁ。

『Working!』見ましたよ。2期もみました。面白かったですよ。だけどハマらなかったですね。萌えませんでした。

すいません。
スキーでヘロヘロなので、難しい話はまた書きます。

無事でしたか?

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

そうですか。『俺の妹が』は面白いですが。では、見てみましょう。

『Working!』は、私はハマリましたよ。でも「萌え」ではないんだよなぁ。あのキャラたちは、微妙に「萌え」からは外れるんだ、なぜか。強いてあげるなら山田かな? 

『Working!』でもっとも『Working!』的キャラは相馬でしょう。知らずのうちに相馬はなぜか何でもよく知っているんだけど、あれは視聴者の目線。相馬の意地悪な悦びは視聴者の快感を代弁(?)しているんですよ。その視線のなかでキャラたちが一途に恋を演じている。だもんで、相馬の視線に同調してしまうと萌えないんです。萌えるより先に笑いが立つ。

また、『俺の妹が』についてはまた詳しく教えてください。そうそう、すぺーすのいどさんのとこで書いてみてくださいよ。

蠱惑的快楽マスター

愚樵さん、こんばんは。
17年ぶりにスキーに行ってきました。
それでも、なんとか滑れるもんですね。でも当然ですが、かなり筋肉痛です。(^^ゞ


私は以前から「蠱惑的快楽」がとても好きなんですよ。てか、それをメインに生きている気がします。
そして「蠱惑的快楽」を邪魔するものが人が大嫌い。ヘドがでるくらい。

それに気付いてはいたけど、語彙の無い私は表現する能力がなかった。今も殆どないけど。

私がこどもが好きなのも、こども達とのコミュニケーションが「蠱惑的快楽」だからです。
ただ、お互いに「蠱惑的快楽」を向上しようと思うと、それなりに技術がいります。
その技術の大人側の行為の名称が「係わり」であり「保育」であり広義の「教育」、子ども側の行為の名称が「成長」や「進歩」なのかも知れないですね。

そう書いてみて「俺の妹が…」も、「蠱惑的快楽」を求め、共有する話だと思いました。
みるなら15話までみてね。


>強いてあげるなら山田かな?

ハハハ、確かにww
山田は可愛かったですね。


>そうそう、すぺーすのいどさんのとこで書いてみてくださいよ。

自分の部屋については、何とか復活したいなという気持ちはあるのですが、なかなかパワーが残っていません。
ぶろぐエントリ書くなら、ツイッターと同レベルにはしたくないなぁ、とか思っていると更に敷居が高くなっちゃっています。
そんなわけで、やりたいことの優先順位の中であまり高くないのです。今は。

もうしばらくは他人様のお部屋で過ごそうかなと思っています。
一方通行で大変申し訳無いとは思っていますが、今後ともよろしくお願いします。

マスターというより使徒では?

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

スキーですか、いいですねぇ。私も昔はやりましたよ。ゲレンデでも山でも。富士山のてっぺんから滑り降りたこともあります。もう長いことやりませんが。山を仕事にするようになってからは、やってませんねぇ。たまに、ほんのちょっぴりやってみたいと思いますけど。

ま、でも、膝がダメでしょうね。以前仕事で負傷してから、膝の調子が良くないんですよ。そこに加齢もあるし。

で。

こども達とのコミュニケーションが「蠱惑的快楽」

ビンゴ! でしょう。子どもたちは、それにウチの犬を見ていて思うんですけど、彼らの快楽は蠱惑的なんです。「若い子(娘)は箸が転んでも笑う」と言ったりしますけど、この笑いもまた蠱惑的快楽なんでしょう。

ただ、人間の子どもは犬とは違う。意味発見型の快楽も享受するようになる。それが「成長」なんですね。

しかしです。現代は意味発見型のみが人間的という思い込みがあるんです。蠱惑的快楽を動物的と表現するのがその現われ。でも、違うんですね。蠱惑的快楽を追究して大人へと成長していくという方向性もあるんですね。その典型が職人です。動物的とも言える勘を研ぎ澄ましていくわけですからね。その修行を通じて自己を確立していく。

アキラさんが「言葉にできないもの」として一連の記事を挙げておられますが、動物的というのはそもそもそういったものなんです。ですので、すぺーすのいどさんが蠱惑的なことをなかなか表現できないと感じるのも無理のないことなんですね。私たちは意味発見型の快楽を追究するように教育を受け、言語を操作するようにトレーニングされてきていますので、蠱惑的な方向にはなかなか言語は作動しない。

すペーのいどさんの所で書いてみてください、というのは、難しくいうと、蠱惑的言語操作への挑戦をしてみてくださいと言うことなんです。笑。そう言うとなにやら複雑そうなイメージを持たれるかもしれませんが、逆に単純なことだと思います。蠱惑されたこと(アニメでも子どもの言葉や動作でも)を、蠱惑されたままに言葉に載せてみる。それは140字に限定されたツイッター的な「つぶやき」の方が出しやすいでしょうし、それを洗練させていくと詩歌や俳句のようなものになっていくでしょう。きっと。

ま、洗練はともかく、とりあえずやってみられては? と思うのですね。

そして「蠱惑的快楽」を邪魔するものが人が大嫌い。ヘドがでるくらい。

と仰るのならばなおさら。反感だけを言葉にしてみたって建設的とは思えませんし。

是非!

使徒使徒

愚樵さん、こんばんは。

>意味発見型の快楽も享受するようになる。それが「成長」なんですね。

そうですね。
そして子どもたちは「意味発見型快楽」を「蠱惑的快楽」にする能力があるのではないでしょうか?
というか、子どもたちの「快楽」はすべて「蠱惑的」なものなのですよ、きっと。

きっと「蠱惑的快楽」にもレベルがありますよね。
所謂、原始的といえる快楽レベルから、非常に研ぎ澄まされた高度な快楽レベルまで。

もちろん、子ども達が享受しているのは決してレベルの高いものがメインではありませんよ。
それは当り前です。基礎のレベルからしっかり始めないと高度なレベルには到達できないですから。
つまり子ども達が享受する「蠱惑的快楽」は、非常に子どもらしいというか、子どもっぽいものです。

それが「蠱惑的快楽」を「動物的」と表現される理由ではないでしょうか?
同じ「蠱惑的快楽」でも平均以上に高度なレベルのものは「動物的」と表現されないと思います。

思うに「蠱惑的快楽」が「動物的」から「人間的」になるポイントは「恋」ではないでしょうか?
私からすると非常に微妙な感じですが、恐らく動物は「恋」はしないと思うので。

そしてこの「恋」は、少し角度を変えて言えば「萌え」なんでしょうね。w
ただ、世間的には「恋」と「萌え」はかなり評価がちがいますけどね。w


>ま、洗練はともかく、とりあえずやってみられては? と思うのですね。
>>そして「蠱惑的快楽」を邪魔するものが人が大嫌い。ヘドがでるくらい。
>と仰るのならばなおさら。反感だけを言葉にしてみたって建設的とは思えませんし。

アハハ。かなり挑発的ですね。w
でも決して悪い気はしてません。

わかりました。
とはいえ、こうゆうことって自分の中の納得とか覚悟とかもあるので、確約はできませんが、ちょっと前向きに考えてみます。

『センス・オブ・ワンダー』

すぺーすのいどさん、おはようございます。

というか、子どもたちの「快楽」はすべて「蠱惑的」なものなのですよ、きっと。

はい。蠱惑的快楽のなかで「発見」する子どもたちの様子を、レイチェル・カーソンは「センス・オブ・ワンダー」と呼んだのだと思うんですね。

蠱惑的快楽は無意味な「言い換え」もしくは「置き換え」の快楽だとしましたが、この「置き換え」こそが創造性の源泉であると思います。例えば、LEGOのようなブロックで遊ばせることは創造性を養うと一般的に評価が高いですが、あれも「置き換え」なんですね。私自身にも憶えがありますが、一生懸命に自分が惹かれたものを(TVの特撮番組にでてくるカッコイイ乗り物とか)を、「表現」というより「置き換え」ているんです。置き換えることさえできればいいので、細かな部分などは表現できていなくてもお構いなしだし、置き換えている最中に別の対象を融合して置き換えてみたくなったりする。

今の子どもたちがするかどうかは知りませんが、ママゴト遊びも置き換えで成り立っている。子どもは「役」を演じつつ、「役」を成立させるのに必要な環境や道具を「置き換え」るんですね。時には大人の目から見ると突飛なものが置き換わっていたりする。ちょっと具体例は思い浮かびませんが、砂や石をご飯やおかずに見立てるのは可愛い部類でしょう。

そんなとき「意味」の世界に住む大人はどうしても「修正」を加えたくなります。ママゴトをする子どもにそれらしいオモチャを与える。ご飯をかたどったニセモノだったりする。これは大人からみれば「意味」のあることのように見えますが、その実、子どもの「置き換え」能力を奪っている。そういったことを「教育」と称するわけですね。

もちろん、子どもっぽい「置き換え」はそのレベルでは社会の役に立つものではありません。しかし、社会に役立つ能力も「置き換え」から生まれるとするならば、予め正解(に近いもの)を与えて「置き換え」能力の発達を阻害するのは好ましいことではない。子どもたちは自由な「置き換え」よりも(大人達の考える)「正解」を見つける方が評価されることを察知すると、自然に【良い子】になっていってしまうのでしょう。

私からすると非常に微妙な感じですが、恐らく動物は「恋」はしないと思うので。

実はこのテーマ、現在思案中なんです。「恋」(だけではありませんが)は〈霊〉と密接に関わっているんです。私の考えでは。

アハハ。かなり挑発的ですね。

ここなんですが、昨日、コメントをお返ししてから考えていたんです。

ぶろぐエントリ書くなら、ツイッターと同レベルにはしたくないなぁ、とか思っていると

こちらはすぺーすのいどさんのひとつ前のコメントですが、なぜこのように「したい」のか考えてみたんですね。考えてみるとすぐに結論は出ます。つまり「意味ある」ものにしたいんですよね。大人の価値観です。

ブログの数、あるいはツイッターのアカウントやつぶやきの数。諸外国と比較して、日本ではこれらは多いといわれます。また、数多いネット上のコンテンツは玉石混淆。多くは「石」のほうで価値が低いと判断されている。「価値が低い」のは「意味がない」ということです。

仮説ですが、日本人という人種は「意味がない」ことに快楽を見出す傾向が強い、つまり「蠱惑的」ですから、それを表してみたいという(子どもっぽい)欲求が無意識のレベルで高いのではないか。もともと「蠱惑的」なものは「意味」を志向していませんから、そのまま表出するすると「意味がない」ものになる。それを大人の目で見ると「価値が低い」ということになる。すると自己評価も低くなって継続していく動機が失われていく。

と考えるならば、敢えてはじめから「意味ある」ことを志向しないでやってみればいいということになりますね。かといって、まったくの無意味なことをしても当人が快楽を見いだせないでしょうから、それこそ無意味。

結局、快感と思うものを素直に表出してみればよいのだ、ということになるかと思います。MADなんてその典型です。

そうなると今度は自己探求です。「私は何が面白いと思っているのか」をまず探らなければなりません。見つかると次は表出方法ですが、ここで「意味」を志向しだすとハードルが高くなる。

ま、大人の「立場」としては「意味」を志向せずにおくというのは「覚悟」がいることなのかもしれませんね。笑。

ともだち

愚樵さん、こんばんは。

>日本人という人種は「意味がない」ことに快楽を見出す傾向が強い、つまり「蠱惑的」ですから…

これは以前のエントリで愚樵さんの言っている、「垂直型の個の確立」と関連が深いものですよね。
そして、愚樵さんの紹介する、アキラさんの「言葉にできないもの」として一連の記事も、「垂直型の個の確立」と関連が深い。


>…そうなると今度は自己探求です。「私は何が面白いと思っているのか」をまず探らなければなりません。…
>…ま、大人の「立場」としては「意味」を志向せずにおくというのは「覚悟」がいることなのかもしれませんね。笑。

この最後のところ、正直ちょっと「イラッ!」ときました。
愚樵さん。なんでも先回りして言えば良いってもんでもないですよ。
「イラッ!」っときたのはつまり「そんなん、わかっとるがなっ!!」ってことですよ。

と、書いておきながらなんですが、でもそんなに悪い気持でもありません。
なんか、親近感すら感じます。なんか似てる感じがするんですよね。
そうゆう、一言多いとことか、ちょっと上から目線的な文章とか。

愚樵さんは、私よりずっと知識もいろいろ豊富で優秀ですから、私も最初は愚樵さんとは「教えを請う」的な関わり方からはじまったと思います。
でも最近は「友達」扱いになりました。別に私の位置が上がった訳でも愚樵さんの位置を下げたつもりもないのですが、その方が自分にとっても、いろいろ楽しいような気がして。お互い年齢もそうは変わらないみたいだし。

とにかく、私は私なので、私の好きなようにします。

愚樵さんと文章を交わし合うのは楽しいですよ、少なくとも今の私は。

今後ともよろしくお願いします。

ブログ主催者の「立場」から

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

「垂直型の個の確立」。仰るとおりです。

このあたりは「蠱惑型」「意味発見型」と絡めて再度整理してみたいと思います。

で。

この最後のところ、正直ちょっと「イラッ!」ときました。
なんでも先回りして言えば良いってもんでもないですよ。

すぺーすのいどさん、GOOD! ...というと、また「イラッ!」とされますかね?(^o^;

GOOD!というのは、ブログ主催者としての「立場」なんですね。そうやって感情を表明していただくとGOOD!なんてす。もっとも、野放図なのは困ります。このように抑制的にやっていただくのは「面白い」んです。

ただ、これ、微妙なんですね。

でも最近は「友達」扱いになりました。

ということになってくると、いえ、もちろん大変光栄で嬉しいことなんですけど、そうなると「立場」というものとバッティングしてくるところも出てきてしまう。

私が「先回り」するのも「立場」ゆえというところもあるんです。もし、これが私とすぺーすのいどさんとのクローズドなやり取りだったとした、槍玉に挙げられたようなコメントはしなかったかもしれません。仰るように「言わずもがな」ですから。

けれども、ここはオープンなんですね。今もそうですが、すぺーすのいどさんに対してコメントを書いていると同時に、不特定多数の第三者に向けても書いているというところもある。不特定多数向けが「立場」です。そしてこの「立場」からすると、「先回り」は「面白い」だろうと思うんです。そこへまた相手から感情の入った反応が返ってくると、本当に「GOOD!」。

不特定多数向けでは本当に「言わずもがな」にしてしまうのは拙いのですね。なにも伝わらないから。ところがこれが特定向けだと伝わりすぎることになってしまう場合もある。このバランスは大変難しいところです。

とにかく、私は私なので、私の好きなようにします。

はいはい。もちろんですとも。強制をしようなんてつもりはまったくありませんし、また、すぺーすのいどさんのことを勝手に「定義」するつもりもありません。

上のコメントを「定義」のように受け取られるのは、「あり」です。そして、そう受け取ったなら‘感情的に’表明したもらった方がありがたい。これは「立場」としてもそうでなくても。そんでもって、これこそ「先回り」して謝罪しておかなければなりませんが、こういった事態はこれからもたびたび起こるだろうということ。毒多さんとのやりとりがしばしばそのような事態になるように。

この先、私たちの関係がどのように変化していくのかはわかりませんが、先を見越して行動を制約することは、私は好みではありません。と、同時に誰かを「定義」し制約することも好みではありません。

というようなわけで、いろいろとややこしいですが、なんとかよろしくお願いします。

THE END?

愚樵さん、こんばんは。

>GOOD! ...というと、また「イラッ!」とされますかね?(^o^;

します、します。
特に「GOOD!」のところは「ムカッ!」としますね。www


>このように抑制的にやっていただくのは「面白い」んです。

そうですよ。
実際、わたしは面白がってますからね。

このコメントスレッドでのやり取り、とても面白かったです。
特に後半。愉快を堪能しました。
これ以上の継続は輝きを失いそうなので止めときますか。

ガラスの仮面
結局買いました。古本ですけど。
読了したら、感想書きますよ。
自分の部屋で。

THE END。

すぺーすのいどさん、おはようございます。

特に「GOOD!」のところは「ムカッ!」としますね。www

(^_^;

で、『ガラスの仮面』、お買いになった、と。

読了したら、感想書きますよ。
自分の部屋で

おお! 書き上がったら、TBくださいね。

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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