愚慫空論

「立場主義」という日本文化が陥る罠(5)

今回は「無心」について、だった。

ガラスの仮面私は「無心」を樵のジジイたちから教わったと以前に述べたが、ここでは別のネタから「無心」について語ってみようと思う。

 ガラスの仮面

未だ未完成ではあるが、それでも少女漫画史上空前絶後のこの作品。あらすじ等、内容を説明する必要はあるまいから、省略。
(知らなければ、一言、「読め!」)

このマンガは「役」と「立場」の物語でもある。ふたりのヒロイン、北島マヤと姫川亜弓は「役」を演じる女優、「役者」である。

「ガラスの仮面」とは「無心」の言い換えである。北島マヤは「無心」に役を演じることが出来る才能を持った少女。対して姫川亜弓は才能溢れる役者ではあるけれど、「立場」の人でもある。父母ともに演劇界の実力者で有名人。その娘として幼い頃から女優として大成することを周囲から期待され、当人もそれを望み、「役」への情熱を燃やす努力の人。

その亜弓ですら、マヤの「無心」には無力感と嫉妬を感じずにはいられない。亜弓は「立場」に縛られる人間ではない。「立場」を自分のものとし、「立場」を踏み台に上昇していくことが出来る人間だ。それでも「無心」には届かない。

ふたりのヒロインが演じることを熱望する紅天女という「役」は、「無心」の象徴である。

また、「立場」に囚われているといえば、『ガラスの仮面』の読者はすぐに思い当たるだろう。速水真澄。マヤの恋の相手である。

マヤはひたむきに「無心」を追いかける。その姿に真澄は惹かれる。それを阻むのは「立場」――この上なく古典的な設定だ。にもかかわらず『ガラスの仮面』が凡百の物語と一線を画すのは、「役」と「無心」との関係が鮮やかに描き出されているからだろう。

『ガラスの仮面』は1975年から連載が始まった古いものである。それが未だに続いているのは、ご存知の通り、長期の中断があったからだ。この事実は興味深いと思う。

作者が目指したと思われるのは、「役」と「立場」との幸福な合一であろう。凡百の物語にありがちなように。だが、「役」と「無心」との関係があまりも鮮やかに描き出されてしまったことで、「立場」との妥協が出来なくなってしまった。それをしてしまうと『ガラスの仮面』は凡百の物語へと堕ちてしまうからだ。作者の美内すずえは、そこに気がついたからこそ筆が止ってしまったのではないのか。

これはもちろん私の想像に過ぎないが、もしそれが当たっているとするなら、「立場」と「役」とは究極のところで相容れないものだということになる。「立場」を取って「役」を捨てるか、あるいはその反対か。二者択一を迫られるものだということだ。



安富教授は二者択一を迫られたら逃げろと仰っているが、この場合、どこへ逃げればいいのだろう? 「あの世」だろうか? だとすると『ロミオとジュリエット』になる。もしくは『トリスタンとイゾルデ』か。日本の作品なら『曽根崎心中』だろうか。

これはどう考えればよいのだろうか。(4)で考えたように、「立場」というものが日本語の言語感覚から生まれたものだとすれば、「役」と「立場」の分裂も日本的な経路を逆に辿れば合一できるはずである。ところが、それが現代の日本人には不可逆なものに感じられる。

ここは夏目漱石が『私の個人主義』で示していた問題意識、あるいは内村鑑三の「ふたつのJ」によって引き裂かれた精神、そういったものに繋がっていくのではないかという気がしている。日本文化が堕ちた「罠」も、そこいらあたりにあるのではないか。

つづく。

コメント

なし

こんにちは。
ほんとに守備範囲広いですよね。(^_^)
ガラスの仮面は有名ですよね。
でも読んだこと無くて、まだ続いてたのは知りませんでした。
手にとった事はありますけど、あーゆうドロドロ系は苦手で読めませんでした。
キャンデイキャンデイは読めたんですけどね。^^;

なのでこのエントリーからだけの印象ですが、「タッチ」をイメージしました。「タッチ」は初めから両立を諦めて、途中で片方を消した感じかな?

『タッチ』は読んでません

・すぺーすのいどさん、こんにちは。

『ガラスの仮面』を読んでない? 一言、読め! 笑。

守備範囲が広いなんて、とんでもないですよ。『ガラスの仮面』は古典です。まだ刊行中ですけど。
もっとも、これからの展開次第では古典になり損ねるかもしれませんがね。

『ガラスの仮面』がドロドロ? う~ん、そうかなぁ。ごく古典的なドロドロ加減だと思いますが、まあ、そのあたりの感覚はひとそれぞれ。

逆に、私は『タッチ』は読んでいないんです。あだち充は読んでいたんです。『日当たり良好』とか『ナイン』とか『みゆき』とか。『タッチ』も連載当初は読んでいたんですけど、途中で飽きてしまって。型どおりの展開というか。読むのを止めてから弟の方が死んだらしいのですが、そう聞いても食指は動かず、アニメになって大ヒットしても見向きもしなかったんです。「今頃あだち充? 遅れてるなw」くらいに思ってました。

というわけで、『タッチ』との関係はよくわからないんですけど、『ガラスの仮面』はおそらくもっと古典的です。そうですねぇ、歌に喩えると『天木越え』(石川さゆり)かな。ちなみにあだち充は『結婚しようよ』(吉田拓郎) 

ほんとかいな。笑。

やく

こんにちは

もともと中国語だった「役(エキ)」が日本語化し今に至りました。やまとことばでそれに近いものは懼らく「つとめ」です。「エキ」が輸入されたころの日本は飛鳥時代、男たちに公共工事や軍隊に服す義務(税)を課しそれを「エキ」と呼ぶようになります。漢字の成り立ちも矛?を持って離れたところに行く姿からだそうです。
朝廷に従わない豪族その他の征伐を「役」というようになる頃には専門の戦闘集団「武士」が確立されます。武士の大義名分は天皇に仕え守ること、戦をすることが「役目(やくめ)」でした。多分このへんから職務の意味がでてきます。
さらに日本語化が進むと「役(やく)」は唯一の仕事、それだけに専念する仕事という意味をも帯びてきます。

そして芝居の世界。役者は一つの役の中に深く没頭することで役を全うする。八百屋お七や弁慶になりきる、或いは一体となる、或いは憑依される。主体がどちらかという事は二の次になります。役者は役を「演じる」とは言わず、「つとめる」と言います。今でもそうです。ここが「無心」の行き着く先ではないでしょか。

鎌倉武士は奉公にたいする御恩を受けることで一族郎党を養っていましたが、実は過分な御恩を避けたがっていたらしいのです。御恩(俸禄)が増えれば増えるほどそれに束縛されてしまう、自在でいられなくなるのを嫌ったからだというのです。この時点では「立場」という言葉では表現されていませんが、戦のない江戸時代の武士たちの「お役目」「おつとめ」に至っては完全に「立場」の側に転んでいると思います。

「立場」は「つとめ」から出た搾りカスのようなものではないかなあと感じます。続きを楽しみにしています。

ドロドロはちょっと…

こんばんは。

私も「タッチ」はあまり好きではないのですが、同じ様に途中まで読んだし、有名ですからあらすじは知っていたので、和也の「役」と、達也の「無心」がなんとなくイメージとして出てきたのです。
まあ別にこだわる事ではぜんぜんないので良いです。

>『ガラスの仮面』を読んでない? 一言、読め! 笑。

わかりましたw
愚樵さんがそこまでいうなら頑張ってみましょうか。w

>ごく古典的なドロドロ加減だと思いますが…

それってどんなドロドロですか?www全然わかりませんけどww

わたし、例えば昔でいう昼のメロドラマ系とか、昔のドラマの「渡る世間は…」系とか、昔の大映系TVドラマのスケバン刑事とか系とか、あーゆうの全く受け付けなくて、拒否反応おこして、スケバン刑事なんて私は当時は南野陽子を好きだったんですが、それでもどうしても見れなかったくらいです。
それでも読めますかね?

あ、こんな話、したくなかったら切ってくださいね。
まあ、それでも今の私なりのアプローチのつもりなのですが…(^^ゞ

>『ガラスの仮面』を読んでない? 一言、読め! 笑。

そうですね。

役/つとめ/仕事

・あやみさん。これまた濃いコメント、ありがとうございます。

「役(エキ)」については、『原発危機と「東大話法」』でも言及されています。

「エキ」は漢音、大して「ヤク」は呉音なんだそうです。そして「エキ」という場合には、「懲役」とか「労役」とか、一方的に義務が課せられる場合。おそらくは古代日本が中国から中央集権的な律令体制を導入するときに一緒に入ってきたんでしょう。

「役(ヤク)」は「つとめる」という指摘は重要です。内山節は共同体の労働には「仕事」と「稼ぎ」があったと指摘していますが、「仕事」は「つとめ」ともいった。「事に仕える」には「無心」つまり我を張らないことが必要です。

「無心」といえば、おカネは無心するもの。そして「稼ぎ」とはおカネを獲得するための労働ですが、近世の武家社会では、禄は「立場」に基づいて支給された。現代社会でも、給与は「立場」に応じて支払われる。武士以外の農村共同体が崩壊し、「仕事」「つとめ」「役(ヤク)」が社会的な意味を失っていったことと、反比例して「稼ぎ」「立場」が社会で大きな位置を占めるようになってきたこと。これは、百姓が武士(企業戦士)化していったことになると言えるのかもしれません。

・すべーすのいどさん、おはようございます。

和也の「役」と、達也の「無心」がなんとなくイメージ

ははあ、なるほど。和也は南に対して「役」を果そうとしていた。一方、達也は「無心」だった。それが和也がいなくなることで、達也は「無心」に「役」を果そうとするようになった――という、ことですかね。

だとすれば、示されているのは「役」と「無心」の不可分の法則、ということになりますね。

『タッチ』も最後まで読んでみようかな。何十年かぶりのあだち充も悪くないですね。『タッチ』は安く手に入るだろうし。笑。

スケバン刑事なんて私は当時は南野陽子を好きだったんですが

私は斉藤由貴のファンでしたが、でもスケバン刑事は見なかったな。ああいうの、私も嫌いです。渡る世間も昼メロも嫌い。見ません。

あれ、そういえば『めぞん一刻』も見なかった。私のなかの管理人さんのイメージが斉藤由貴に壊されるのが嫌で。あれれ、私は斉藤由貴のファンだったのかな???

ま、それはさておき。

『ガラスの仮面』はサクセスストーリーですから、物語の飾りとして足を引っ張るキャラは出てきます。物語の冒頭はそういったシーンで始まりますが、メインは「闘争」ではありません。本文でメインキャラクター3人を取り上げましたが、主人公北島マヤのみならず、みんな応援したくなるようなキャラです。サブキャラにも応援したくなるのが多い。

恋愛も絡みますから、いわゆる三角関係はもちろん出てきます。なのでどうしてもドロドロな部分はある。ただ、そうしたやむを得ないドロドロに対する姿勢が全くドロドロではないんです。「古典的なドロドロ」とはそういう意味です。

それから。

私はこういったくだけた(?)やり取りもすきですよ。(^o^)

チャレンジしてみます

>『ガラスの仮面』はサクセスストーリーですから、物語の飾りとして足を引っ張るキャラは出てきます。物語の冒頭はそういったシーンで始まりますが、メインは「闘争」ではありません。

了解です。ありがとうございます。
持ってる人探して読んでみようかな。

ぜひ楽しんでください

コメント本文は特になし。(^o^)

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