愚慫空論

「立場主義」という日本文化が陥る罠(4)

(3)が抜けているが、そこは前記事

 オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

が(3)に相当すると理解していただくことにして。

蠱物(まじもの)としての言葉(2)と(3)において、話の下敷きになっていたのは右掲書をもとにしたアキラさんの一群の記事だった。

 ◇「蠱惑的」「判断的」シリーズ(光るナス)

今回は「蠱惑的」「判断的」というそれぞれの言語世界のイメージについて、ざっくりと説明するところから入っていくことにする。


「判断的」言語世界のイメージ
120214判断的

「判断的」言語世界はピラミッド型で、その頂点に究極のシニフィアンであるところの(超越)神が位置している。
すべてのシニフィアンは明瞭は境界を持って他のシニフィアンと明確に区別され、かつ言語世界のなかで各々が定位置を占めている。
また、シニフィエとシニフィアンとの関係は一対一、つまり線形である。

もちろん、これはあくまでイメージであって、実際にはこのように“理想的”な「判断的」言語世界が展開されている言語は存在しない。これはいうなれば「イデア」である。

「蠱惑的」言語世界のイメージ
120214蠱惑的

「蠱惑的」言語世界は円形である。しかもその中心部は中空。中心部へ行くほど空虚になる。
すべてのシニフィアンは明瞭な境界線を持たない。また、定位置も持たない。言語世界の中をゆらゆらと漂っている。
シニフィエとシニフィアンとの関係は非線形である。例えば上図で、「B」のシニフィエは、言語世界の中を漂うシニフィアン[B]が存在するだいたいの方向を指し示めしてはいるが、明確に〈B〉に結びついているわけではない。[A]であると解釈することも可能だし、また、そもそも[A]と[B]の間に境界はないのだからシニフィエはだいたいの方向を指し示すことしかそもそもできない。

言うまでもなく、こちらの「判断的」言語世界のイメージもまた「イデア」である。人類世界のなかに実在する言語の世界はいずれも両極端な2つのイデアの間に位置する。さまざまな言語を駆使する個々人の言語世界もまたこの両イデアの間にある。そうしたなかで日本語という言語の構造は、明らかに「蠱惑的」な方向へ大きく傾いている。それが『蠱物としての言葉』が示す分析だし、またそれは日本語話者としての実感でもある。少なくとも私はそうだ。

(2)で取り上げた「痛車(いたしゃ)」という言葉は、日本語のこうした「蠱惑的」構造なしにはあり得なかったものだと言える。

もともと「痛い」という言葉が明瞭な境界を意識しずらい言葉ではある。脳細胞のある特定部位が発火したときに[痛い]という感覚が生じるのであろうけれども、脳細胞は複雑にニューロン結合しているからその「発火」はどうしてもある範囲を持つ、従って[痛い]もある程度の範囲を持つことになり、その境界は不明瞭なものにしかならない。が、「痛車」の[痛い]は明らかに元来の[痛い]という範囲を逸脱している。隣接していないようにさえ思える。こうした現象が起きるのは、「痛い」というシニフィエがもともとだいたいの方向しか指し示していなかったからだと考えるのが合理的だろう。

これはおそらく人間の視界の構造に類似している。それも脳による補正が入る前の「光景」であろう。中心部は明瞭に周縁部はぼんやりと映っており、意識は中心部に向けられている。意識が向けられることで輪郭が立ち上がり、「現象」はより明瞭な像を結ぶ。そこへ、周辺部に特徴的な「現象」が生じると意識がそちらへ向き、視線が移動して明瞭は「像」が立ち上がる。このとき「判断的」言語ならば「視線の移動」はシニフィエの変化になるが、「蠱惑的」言語の場合はシニフィエはそのままで、言語世界のなかの漂うシニフィアンが大きく揺れ動く。蠱惑的な快感はシニフィアンの揺動からもたらされるのかもしれない。


原発危機と「東大話法」『原発危機と東大話法』の第4章では、「立場」という言葉の変遷が夏目漱石の小説の分析を通じて示されている。

もともと「立場」は「立庭」という“住み処”や“居場所”を表す言葉だった。それが江戸時代までに「立場」が一般的になった。明治に入って、それを夏目漱石がさまざまな意味で使うようになった。英語でいうと[standpoint]、[position]、[situation]、[stance]などなど。英訳はシニフィアンだと考えてよかろう。処女作『吾輩は猫である』から遺作『明暗』へ至る間に用例が増えていき、指し示される「意味=シニフィアン」の範囲も広がってゆく。そしてついには単なる英語の訳語でも伝統的な純日本語でもない「立場」という言葉が生まれる。しかもその「立場」が自身の人格に帰着するようにすらなり、ここに「立場主義」の思想が完成する。

安富教授はこういった事態は英語では考えられないとしている。ならばここには日本語独特の性質があると考えなければならないが、そうなると考えられるのはやはり日本語の「蠱惑的」な性質だろう。

「痛車」の快楽は、アニメキャラのペインティングが施された自動車を見ることにあるのではなく、その光景を「痛車」と呼ぶことに存在する。つまり、この蠱惑的快楽は言語世界のなかにある。「立場」を自身の人格へと帰着させて行ってしまう力学も同様の蠱惑的快楽の中に潜んでいるのではあるまいか。

もっとも、さすがに「痛車」を自身の人格へと帰着させることは難しい。だからこそ、帰着し得ない断絶を「痛い」と感じるのであろうと思うのだが、「立場」の場合には、ここも『原発危機と東大話法』で指摘されているけれども、「役」という社会構造が存在したがために、それが「立場」という言葉の再創造とともに人格へと帰着していくことに「痛さ」が感じられることなかった――。

続きは「無心」の果す役割について、を予定。

井筒



コメント

安冨先生のツイートから来ました。
興味深く拝読させていただきました。
「無為」の果す役割、楽しみにしています。

間違えました

・そのさん、はじめまして。

申し訳ありません。間違えてました。「無為」ではなく「無心」でした。本文の方は訂正しました。

「無心」というのは、この記事でも参考にさせてもらっている「光るナス」のアキラさんの

『言葉ではいえない質のもの』http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52119695.html
『言葉におきかえることのできないもの』http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52119908.html
『静かにこともなげに』http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/52120816.html

あたりのことなんです。どうぞ、お読みになってみてください。

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