愚慫空論

オカルトへの情熱vsアンチ・オカルトへの情熱

サブタイトルを「宮台真司の東大話法的なもの」とでもするとしよう。
ネタは先週(2/4)のマル激から。

 『東大話法に騙されるな』(マル激第564回)

(いつもの如く)まったくの私見だが、私は社会学者・宮台真司のなかにはオカルトへの情熱を、安富歩東大教授にはアンチ・オカルトへの情熱を見る。

以下、マル激から、その両者の対立の核心(と思った)部分をいい加減に書き起こしてみた。後半の17分過ぎから28分過ぎまで。

安富歩宮台真司 神保

宮台: 実は社会学や社会思想の中に、今、安冨さんが仰ったような、僕たちの社会の、暗黙知の領域というか、そこをひっくり返してしまうとゲームの継続性が危うくなるような「何か」があり、それについては慎重を期するべきだという議論があるんです。

ところで、今申し上げたハーバマスという人と共著を出した現教皇のグレゴリウス十六世、ヨセフ・ラツィンガーという人ですけど、彼がね、最近著でこういうことをいってるんですね。

「キリスト教は、従来の宗教とは違って、社会の人間化をもたらした。社会を作るのは人間である。神は社会を作らない。神が登場するのは裁きの時。」

というふうにして人間化をもたらしたことで近代社会が実現できた、社会学者の多くもそのようにいっている、それはおそらくそうなのだろう、と。ここで彼は面白いことを言っている。

「しかし、自分たちが自分たちの社会を作れるというときにこそ、(今、安冨さんがおっしゃった)人間は自分自身と向き合うことを要求される。私たちが自分自身と向き合うことが出来るのは、社会を人間化したからで、これはひとつの試練なんだ」

という言い方をしている。つまり、キリスト教的なものがさまざまな呪術から人を解放したり、戒律から人を解放しなければ、人はいつも神に向き合って自分自身には向き合わなかったけれど、人は神から解放され、簡単にいえば「人間であること」のみに根拠をおいて社会をつくれるようになった結果、実は他方でいろいろな暴走をもたらしていて、他方で自分と向き合うことができるようになった。これは不可逆なプロセスなので、おそらく彼が言いたいのは、自分に向き合うことを通じて僕たちの社会が人間的に作られてしまっているということがもたらしがちな、暴力、災厄をなんとかコントロールしましょうというニュアンスだと思うんですね。

僕は安冨さんの仰ることに基本的にはまったく賛成なんだけど、面白いことに、自分に向き合うために必要だった契機と、僕たちが自分をコントロール出来なくなってしまう契機とが、現教皇によると、等根源的、同じところから出てきている、という議論が非常に面白かったですね。

安富: 私はそうは思わないんですね。私たちが自分と向き合わないために文明を発展させてきたと思うんですね。

もしも狩猟社会、プリミティブな社会にいるとしたら、自分は常に限界にさらされてるなかで、必然的にフィードバックを受けて、そのフィードバックに耐えられず死んでいくという社会だったと思うんですね。

だけども、農業とかそういうことをすると、生産性を高めたりすることによって、猛烈に働いて、ストックすることで自分の安全性を確保するということに全力を挙げれば、自分というものはもはや問われなくなってくるわけですよね。誰とも関わることなくひたすら自分自身の生きる糧を作り出して、それによって自分自身の安全性を図るということに全力をあげてそこの依存を高めれば高めるほど、私たちは自分自身と向き合うことなく、だけど安全に暮らすことが出来る。

宮台: ちょっと言葉の使い方が違ってて、こういうことなんですよ、古い社会は必ず呪術がありますよね。呪術があるのは何故かというと、自分たちにコントロールできないことがあるからなんですよ。だからたとえば、獲物が捕れないのは、あるいは農作物が採れなくて飢饉になったのは、火山が噴火したのは、洪水が起こったのは、要するに神様が怒っているからということで、簡単にいえば、呪術、あるいは儀式的なね...

安富: でも、それいうとなぜ今回地震が起きたのかという問いに私たちは答えられないということです。

宮台: そうです。それは石原慎太郎が言ったように、「これはバチだ!」というような議論は、これは呪術的な...

安富: 別に罰である必要はなくて、それは「何か」、われわれの計り知れないものが作動しているというふうに考えるのが非常に合理的なことであって、それを例えば神と呼んでも、それほどトンチンカンなことだとは思わないですよね。

宮台: 現教皇が仰っていることは、むしろ安冨さんと同じことを言っていてね、わかりやすくいえば、たとえば、僕たちの限界を昔は知ってたんだけど、「知ってる」ということの意味が今と違っていて、自分たちの限界が露呈するところに呪術が存在したり宗教的な世界観が存在したりして、それが合体して〈世界〉を構成している...

安富: 実はそれはなんら変わっていないと思うんです。

地震なんて、こないだも東京の地震について、首都圏で直下型地震が4年以内に70%と東大の教授がいいましたけど、あんなのただのデマですよ。なぜかというと、地震なんて予測できないんですから。予測できないことはこれまでの地震予知の歴史が明確に示している上に、しかも彼らが図で表示したのは「べき分布」ってやつなんですよね。

「べき分布」ってのは、システムの不安定性を示しているもので、システムの安定性を前提とした予知という行為はそもそもできないということを示すタイプの分布なのに、それに基づいて予知をするっていうことを、あたかも科学的であるかのように東大教授が言っているんですけども、こんなのただのデマですよ。

で、ほんとうは地震はどういうふうに起きているかだいたいはわかるけれども、でも、「どうしてなんでそんなことになっているんですか、地球は?」という問いは答えられないじゃないですか。もちろん、以前に比べれば、私たちが呪術的な形でしか受け入れ等ないようなものは減りました。でも、それって、どれだけ減ったんですかって考えたら、たとえば「私たちはなぜ生きているんですか」というような問いは絶対答えられない。DNAをいくら開けたってそんなのわかんないですよ。なぜ病気に罹るんですか。なぜこんな目に遭うんですかという問いに答えられない。

宮台: その通りですね。

安富: その領域ってのがあたかも存在しないかのように振る舞うのが学問というものなんですけど、それは私はあまりにもオカルティックだと思うんですね。私たちが語りうる範囲とか理解できうる範囲というのは実はほんとに限られていて、ほんのわずか前進したんだけど、そのわずかな前進をあたかも全世界を支配したかのように思い込むという傲慢が、非常に危険。原子力というものを生み出した大きな原因...

宮台: 安冨さんの仰った呪術的なものと呪術でないものの境界をドンドン遠くへ追いやりますよね。これを宗教の世界では「世俗化」といったり社会学でも「世俗化」といったりするんですけど、これは???の本を読むとよく宗教が科学に置き換わることと理解されているんだけど、そうではなくて、そういうふうに呪術的なものが遠くに追いやられることで政治的な決定、簡単にいえば、成員の全体を拘束する決定が、宗教、呪術、つまりオカルティックなものにまったく言及しなくて済むようになること...

安富: オカルティックなのと宗教的なのとは区別した方がいいと僕は思ってます。それは、オカルティックという言葉は、私はむしろ、本来、「語り得ないものを語る」という行為に発生すると思うんですね。

宮台: であったら、今の場合は、決定が非宗教化する、以前は宗教的な正当性を調達しながら決定が適切だということを人々に示すということがあったとすれば、それはまったく要らなくて、人間が、よく人が置くことをポジティブ、ポジティズムというけど、人間が自分で自分の「置いたもの」を正当化できればよいという、正当化の手続きが科学ですよね。

安富: でも、意志決定というプロセスはどこまでバックしたって答えられないじゃないですか。

宮台: そうですね。

安富: じゃあなんで決めたんですかって、それは神のお告げでしたって実は言わないといけないんですよ。だけど、そこはあたかもなが~い説明を付ければですね、DNAのこの辺が発火してどうたらこうたら、ながい説明をつけると、あたかも科学的に説明して根拠を示したように見えるかもしれないけど、じゃあなんでそんなものがあるんですかとか、なんでそういうプロセスになるんですかというポイントには答えられないんですよね。

宮台: そうですよね。

安富: そこの部分が私はすごく大事だと思っていて、その部分がないなら研究して作り出さないといけないんですけど、あるんですよ、私たちのなかには。七十億人もですね、超ハイレベルの計算機を私たちはもっているわけですね。だったら、そんなものを研究して新たに解明するという暇つぶしをやっていないで、そういうものをどうやったら開花できるかという問いを立てた方が私はずっといいと思うんです。

神保: それは学問的なことなんですか。

安富: 学問的。というのはですね、私の考えでは「語り得ないもの」を語ろうとするとオカルトになります。「語り得ないもの」を破壊しているものは語り得ると思います。だから暴力です、ある意味。人間社会とか、私たち人間が持っている暴力性というものに関しては私は厳密に議論できると思ってます。暴力性を明らかにして暴力性を取り除く。たぶんこれ(「東大話法」)はひとつの暴力のシステムですね。こういうことを明らかにして、こういうことを言うヤツがいたら笑いましょうというのは、暴力性を明らかにして取り除くというひとつの研究なんです。

神保: なるほど、なるほど。他にもいろいろあり得るわけですね。

安富: あります、もちろんあります。DVのシステムだとかですね、軍隊というものは国民を守るフリをして自分だけ守るとかいう、そういうものをどうやって正当化してやっていくかというシステムを僕は厳密に議論できると思いますし、そういうものの解明によって、かつ、教育というシステムがいかに人間を破壊してロクデナシにしてしまうかということは、もう、なが~い研究の歴史がありますよね。だけど大きな前提があって、教育学とかを研究している人は、最終的には教育はすばらしいものだという...。教育なんてほんとうに素晴らしいものではないと僕は思っていて、そんなのは教育とは実は言わない、上からなにかデータを注入するようなことは教育とは言わなくて、ひとりの人間が生きるために自分自身を成長させていく、それをサポートするのが教育だと思うんですね。

神保: やっぱり実証可能な形という意味では科学なわけですか。

安富: そうです。だから私はサイエンティフィックであり続けなければならないと思っています。

神保: ただ、サイエンスが、今、安冨さんがいった「語り得ないなにか」の真実を求めるかのようにしてるのは、

安富: はい、オカルトだと思います。

神保: オカルトであって、それは語れないんだから、語ろうとするのは止めた方がよくて、それを邪魔しているものが何であるかということは、科学的に

安富: 解明できると思います。

神保: 解明する。うん、なるほど。


いやはや、面白い。あんまり面白いので、要点を抜き書きするつもりが書き起こしなって、それもついつい長くなってしまった。

安富vs宮台のこの対決、情熱という点では安富教授の方がずっと勝っていたように感じる。ゲストということで宮台氏の方が遠慮したのかどうかはわからないけれども、しかし、宮台氏も「情熱」をもった学者であると私は思っている。ただしそれは、安富教授とは逆の「(安富教授がいうところの)オカルトへの情熱」である。

「語り得ぬもの」を語るという行為がオカルトであるという安富教授の主張はなるほど説得力がある。人間がいくら頑張ったところで、多少その領域は広がることはあっても、「語り得ぬもの」を制圧することは不可能であろう。しかし、人間とは奇妙な生き物で、そうであると知っていても、いや、逆にそうであるからこそ人間の持つささやかな能力のすべてを傾けて「語り得ぬもの」を語ろうとする情熱を燃やすことにもなる。私たちはそのようにして獲得された叡智の果実を僅かなりとも手にしている。

サイファ!覚醒せよその「オカルトへの情熱」が目指すところは、究極のシニフィアン、つまり(超越)神である。宮台氏が現ローマ教皇グレゴリウス16世の思想を面白いと感じている事実は、宮台氏がそうした傾向(当人がいうところの「超越的」)を持っておられることを示しているし、また、マル激でも日本の知識人がそういった傾向を持ち合わせていないことをたびたび批判もされている。そうした時の宮台氏は、間違いなく情熱的だ。

宮台氏の「東大話法的なもの」の正体は、この「超越的な構え」である。この「構え」は情熱に支えられてこそのものであるが、今回の対決では、なぜか宮台氏にはこの情熱が欠けているように感じられた。そのことが「東大話法」的な臭いを感じさせる原因になったように思う。「超越的な構え」から情熱が抜け落ち、そのことを自覚しなくなると「東大話法」に堕ちるのであろう。

 「蠱惑的」とか「判断的」とか 最終章 ~〈象徴界〉へのつき合い方 ~(光るナス)

一方、「判断的」な言語活動の世界は、自分の感じている「何ごとか」を、キッチリした対応関係で「区切る」ことが出来ているかどうかが問題になります。
誰から見ても、その「何ごとか」をキチンと言い表せているかどうか。
つまり、「区切り」の(共有できる)確かさの快感に支配されている。
非常に象徴的(記号)世界の側へ寄ったものだと言えるでしょう。

この方法で、最終的に世界全体を「言い表せた」ということになったとしても、つまり世界がすべて人間にとって「明らかになった」ように見えたとしても、それはクッキリとブツ切りにしたものを並べて、繋げている状態でしかないので、元々のすべてが途切れなく連続している世界とは異なったものにしかなりません。

また、その「記号の繰り込み合い」をすべての人が共有するためには、その「記号の繰り込み合い」の確かさを最終的に権威づけることがどうしても必要になるので、その「最高権威」の共有が必須になってきます。
「判断的」な言語活動の世界が「超越(神)」を持ち出すのそのためですし、またそれは、この「分節された世界」に閉じこもらないということでもあります。
「超越する」とは、個別性としてある自分を乗り越えようとすることですから。
だからこそ、事物に対立し、問題を投げ、批判し、吟味する。

しかしこの方法において、それ自身がそれ自身を意味している(それ自身のシニフィエである)ような究極のシニフィアン、すなわち「超越(神)」が認められないとなると、すべての人とその最高権威を共有できないとなると、この象徴的世界自体が不確かだということになってしまざわるを得ません。
ゆえに 結局、どんなに頑張っても、なにも言い表せてないも同然になる。

それなのに、あくまでそこに拘泥する態度を示すとしたら、共有されている象徴的世界自体が「最高権威」だということになってしまうような状態と紙一重だ、ということにもなってしまいます。
「超越」の不在は、下手をすると、西欧の社会的な言語活動における三位一体の位格(「科学」「人間」「理性」)それ自体が、「最高権威=(神)」となってしまう可能性を秘めている。
これまた、途切れのない元々の連続した〈現実界〉的世界から逸脱し、「区切り」の世界のみに囚われているだけになる危険性があるわけです。

「判断的」な言語活動の世界だって、それ自身がそれ自身を意味しているような究極のシニフィアン・「超越(神)」が不在になれば、その「仲介物としての言葉」との想像的な交わりは、容易に「蠱物」化するのです。


「判断的」な言語活動の世界とは、いうまでもなく学問の世界である。学問の世界は、世界をブツ切りに分節した上で「言い表そう」とする。が、それだけでは、決定的に「不足するもの」がある。それが究極のシニフィアンであるところの超越神であり、その権威を共有できなければ、何も言い表せていないのと同然になる。

安富教授が立っている地点は、まさにこの地点であり、最高権威が共有できていないために「蠱物」と化して歪んだ言葉の体系――これこそがほんとうの意味でのオカルトであり、「東大話法」の源泉――に対抗すべく情熱を傾けておられるわけだ。

もう少しだけ付け加えてみよう。

私は宮台系の超越的構えは、いうなれば「正の想像力」の系譜に当たるのだと思う。実在するかどうか定かでない究極の存在に想像を膨らませていく。これはどうみても「プラス」であろう。

逆に安富系のアンチ・オカルトの情熱は「負の想像力」だ。“水を感じたいがために水を抜く”のが「負の想像力」であり、それもまた「正の想像力」同様、人間に備わった能力である。ところが近代社会では「正の想像力」が機能不全に陥ってしまい、そればかりか「負の想像力」の働きも疎外するようになった。「正の想像力」同様、「負の想像力」もなぜそれが働くのかということは暗黙知の領域であり「語り得ぬもの」である。ただし「負の想像力」を疎外する「正の想像力の抜け殻」は、「正の想像力」が抜け落ちたがゆえに、厳密に議論ができる。

安富教授の主張を私なりに解釈すると、こんな感じである。

というわけで、この長々とした記事は、実は

 「立場主義」という日本文化が陥る罠(1)
 「立場主義」という日本文化が陥る罠(2)

につづく(3)とすべきもの。そのようにタイトルしてもよかったのだけど、刺激的な方にしてしまった。笑。

長くなりついでに余分な付け足し。

今回、「対決」を聞いていて読みたくなってきた本が2つ。

<子ども>のための哲学   アンチ・オイディプス


『<子ども>のための哲学』は既読だけど、再読したくなった。特にヴィトゲンシュタインについて語った第一章。『アンチ・オイディプス』は未読。松岡千冊千夜を読んだだけ。宮台vs安富で語られたことと深く関係するような気がする。が、これは相当の大著らしい。私に「読める」かどうかは甚だ疑問。

 

コメント

> だったら、そんなものを研究して新たに解明するという暇つぶしをやっていないで、そういうものをどうやったら開花できるかという問いを立てた方が私はずっといいと思うんです。

私もまったくそう思う。うんうん。

ですね

・すぺーすのいどさん、おはようございます。

子どもたちを曇りのないマナコで見つめよう、ということですね。

「グリーンアクティブ」に関する宮台氏のアピール。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=951

〈任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ
〈空気に縛られる社会〉 から 〈知識を尊重する社会〉へ

言いたいことは分かるのですが、「〈知識を尊重する社会〉へ」って もうちょっと何か言い方がないのかなぁ・・と思います。 (^_^;)
こういうところに彼らしさが出てるのでしょうね。

今晩は。

愚樵さんのブログは私の理解能力を超えていると思うのですが、引きつけられます。
今回の記事も、分かるようで分からなく、分からないようで、どこか一部分は分かるかな?……みたいな感じです。

> 上からなにかデータを注入するようなことは教育とは言わなくて、ひとりの人間が生きるために自分自身を成長させていく、それをサポートするのが教育だと思うんですね。

教育=education の原語には「引き出す」という意味があると聞いたことがあります。
私は海外の教育については知りませんが、日本は「引き出す」のではなく安富氏が仰っているように「上からなにかデータを注入する」、そんな構造になっていますよね。

考える、熟考するということよりは、注入されたデータを覚え、問題をいかに速く解くか、ということに重きが置かれているように思えます。だから、
> 私たちが語りうる範囲とか理解できうる範囲というのは実はほんとに限られていて、ほんのわずか前進したんだけど、そのわずかな前進をあたかも全世界を支配したかのように思い込むという傲慢
がはびこっているのでしょうか?


一読しただけでは難しくて、頭の中は?がいっぱい飛び交っています。
だから、コメントに書いていることも、的外れかもしれませんが、勇気を持って書いてみました。

知識を尊重するということは

・アキラさん、おはようございます。

「グリーンアクティブ」には期待を寄せていますし、その末端に加わろうかとも思っているのですが。

「〈知識を尊重する社会〉へ」って もうちょっと何か言い方がないのかなぁ・・と思います

同感。

知識の尊重とは、とどのつまりは「究極のシニフィアン」への帰依に帰着しますよね。そのようなことを宮台氏は常々言ってます。でも、残念ながらそうした「構え」は私たち日本人の大部分には決定的に欠落しているもの。氏が常々嘆いておられるように。

その代りにあるのが、言葉にならない〈術〉への尊重。アキラさんが今、熱心に取り上げられていますね。言葉に出来ないから知識にならない。あいや、言葉にならなくても知識と広義にいうことは出来ますが、普通に知識と言ったのでは〈術〉はイメージされないし、宮台氏自身も広義の意味で知識とは言っていないでしょう。

言うまでもないことですが、宮台氏は非常に優秀な人です。知識体系の奥に「究極のシニフィアン」があるということは、まあ、その手の本を読めば理解できますが、それだけでなくて、知的探究の中からそちらへの情熱まで探り当てた。これは凄いことだなと思いますが、やはり「アクロバット」の類でしょう。出来る人には出来ますが、大抵の者にはできない。その落差がミスマッチを生み、「東大話法」の元なのではないかと思っているんです。

勇気に感謝!

・愛希穂さん、おはようございます。

確かに難しいですよね。自分で言うのも何ですけど。笑。

もともとの「素材」であるところの宮台vs安富両センセの対話・対決からしてまず難しい。どちらも優秀すぎて、我が国最高学府であるところの東大でも異端です。私もなんとかそこに食らいつこうと頑張ってますが、そこを優しく噛み砕くなんて、とてもとても。

でも、難しいと感じながらも面白いと感じてくれるのはうれしいです。

考える、熟考するということよりは、注入されたデータを覚え、問題をいかに速く解くか、ということに重きが置かれているように思えます

要するに「トレーニング」ですよね。日本語で言うところの。トレーニング=教育になってしまっているし、子どもに寄せる親の期待もまたそうなっている。決して学校教育だけの問題ではありませんよね。

教育がそうした「トレーニング」に堕してしまうのは究極のシニフィアン、つまりは「全知全能の神」への信仰がないから。「オカルトへの情熱」と言っているのは、絶対神への信仰のことなんです。情熱なき信仰なんて考えられないでしょう?

信仰というのは私の大きな関心事なんです。もしかしたら最大のものかもしれない。人間はなぜ信仰するのか。あるいは信仰できるのか。もしくは信仰できないのか。若い頃は全知全能の神を信仰したいと思っていたんです。

でも出来なかった。私には無理だとわかった。というのも、私は自身でも知らないうちにべつのものを信仰していたことを発見したから。それが「山川草木悉皆成仏」ということなんです。この世界は神が創造したものではない。この世界そのものが神なんだ、と。つまり、この私自身も神の一部なんだ、と。

根拠なんてありません。ただそう信じているだけ。

この信仰と、安富教授の「あるんですよ、私たちのなかには」という発言はピッタリ一致するんですよね。

そういう立場に立って考えてみると、人間が世界と不調和な行動を取ってしまう原因は自身の内部にあるのではなく、外部にあることになる。外部から出来合いの規範を押しつけようとする教育とやらは、有害ということになる。教育こそが調和への妨げになっているということになる。中途半端な人間の頭脳で作り出した中途半端な規範こそが、世の中なかの悪を生んでいる。実際のところ、人間のいない自然はあんなにも美しいではないか。人間も自然と一体になれれば美しくなれるではないか。

一方で、美しいものを求めているからこそ、美しいものの原点を求めて創造神の姿を追いかけていくという姿勢だってある。クリスチャンやムスリムはこちらに属しますが、そうした人々の姿もまた美しいのですね。教育がそうした美しさの追究を促すことであるとしたならば有害とは言えない。むしろ必須のことになる。

どちらが正しいのかなんて、わかりません。どちらでもいいと思うし、また自身の意志でどちらかを選択できる性質のものでもないと思う。どちらが自分の中にあるのか、ということなんだと思っているのです。私の中にあるのは前者のほうです。そして多くの日本人の中にあるのも多分、そう。

と、まあ、こんなような考えが下敷きにあるんです。だから宮台vs安富の対決をとても面白いと思って見ていたんです。


そうそう。

なにか引っかかって、気になることがあればどうぞコメントで投げかけてみてください。そういったコメントは、実はありがたいんです。それこそが教育=education の原語であるところの「引き出す」の契機になります。

>また自身の意志でどちらかを選択できる性質のものでもないと思う。どちらが自分の中にあるのか、ということなんだと思っているのです。
<

同感です。

>それだけでなくて、知的探究の中からそちらへの「情熱」まで探り当てた。これは凄いことだなと思いますが、やはり「アクロバット」の類でしょう。
<

これまた同感です。
そこが彼の魅力だと感じます。

宮台真司の魅力

・アキラさん

この「対決」は両者の魅力がよくわかって? いやいや、宮台氏の方はいつもの調子が出てなくて、少し困惑気味にも見えたんですよね。でも、そのことでかえって氏の情熱の在り様が確認できたわけですよね。

私の好みは安富センセの方ですが。この方も奇人の類...に見えますが、その素顔は案外、可愛いものを持っているのかもしれません。あのサングラスと髭は「戦闘服」のような気がしないでもない。

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