愚慫空論

「立場主義」という日本文化が陥る罠(2)

(1)からの続きなのだが、話はあさっての方へ飛ぶ。

「痛車」と呼ばれるものがある。“イタシャ”と発声するが、「イタリア製の車」の意味ではない。

痛車(いたしゃ)とは、車体に漫画・アニメやゲームなどに関連するキャラクターやメーカーのロゴをかたどったステッカーを貼り付けたり、塗装を行うなどして装飾した自動車や、あるいはそのような改造のこと。萌車(もえしゃ)とも呼ばれる。(Wikipediaより)


痛車のなんたるかを知らない人は、言葉で説明されてもわかるまい。が、実物をみればすぐに理解できるだろう。

実際に存在する実物を見て、その存在を理解することは通常は難しいことではない。難しいのは、それをどのように呼ぶかである。

「痛車」は自動車である(画像はプラモデルだが)。だが普通の車ではない。社会の一般常識に適った車ではない。車体にペインティングされたアニメキャラクターから誰もが強烈なメッセージを受け取る。誰かがこれを「痛い車」と名付け、多くの人がその命名に適切なものだとして受け止めた。私自身もこの命名に非常な痛快感を感じる。

 これを痛車というのか! まさにピッタリだな!!

というわけだ。「痛車」を「痛快車」と言ってもいいくらいだが、痛快さを感じているのは、痛車が発しているメッセージにでは決しない。こちらには痛快ではなく、なんというか、くすぐったいようなじれったいような、消化不良な感じを受ける。痛快なのは「痛車」という命名の方だ。

蠱物(まじもの)としての言葉すなわち、私たちは言葉に「蠱惑」されているのである。これはおそらく日本人に特有とは言わないまでも、日本人・日本語の特徴的な性質であるらしい。

ここでアキラさんの記事をお借りしよう。右掲書を元にした記事だ。

 「蠱惑的」とか「判断的」とか その6 ~「語」的 ・「文章」的 ~(光るナス)

森有正氏によれば、言葉の経験が「蠱惑的」な性質をもっているのは、何よりも日本語において、ものとの接触が「語」的であることからきている、からだそうです。
これに対して、「判断的」な性質をもっているヨーロッパ語においては、接触は「文章」的だと。
そして、この「語」的な接触と「文章」的な接触の違いは、当然のことではありますが、それぞれの経験の内容に大きな違いをもたらします。


日本語ではものとの接触が「語」的にできている。「痛車」を持ち出したのは、このことを体験してもらいたかったから。対して「文章」的というのは、まず「語」のシニフィエ/シニフィアンがキッチリと応対していることが前提条件としてあるということ。そういった前提に立つと「痛車」などという語はあり得ない。ところが日本語の場合は、それがあり得てしまう。「痛い」という語のシニフィエ/シニフィアンがキッチリと応対しているとするならば、画像の車が「痛車」になることなどあり得ない。

日本語において、ものとの接触が「語」的な経験であるということは、その接触が何よりも直接的であることを意味しています。
感覚的・欲望的・情念的だと言える。


(3)へと続く。

コメント

痛いね

アニメキャラが車に触れているかといえば、うーん、車体と絵は分離してる浮いてるなと思います。
わたしの本職は漆器に絵付けをすることですが、大型トラックや大型バイクに頼まれると絵付けをします。
その時に、物と画像が一致しないとき、物が生かされず描き手も痛手をこうむるので「痛い」ねなどと
普通に言います。初めて「痛車」という言葉を知りました。

何回か読んで、なるほどそういうことなのか、と理解できましたが、ブログを辞書を引きながら読んだのは今回が初めてです。
「蠱惑的」、なんと読むのか分からなく、「シニフィエ/シニフィアン」、一体なんのこと?と辞書を引きながら読みました。

愚樵さんが書かれている内容とは関係ないことですが、内田樹さんがこんなことを書いておられました。
「むずかしい漢字が使ってあるから」とか「なじみのない外来語が使ってある」という理由でしばしば書き直しを命じられることがあるけれど、原則として修正には応じない。
読者に読めない漢字があってはメディアとしては困る、そういうロジックを受け容れてしまうと、日本語の痩弱に歯止めがかからなくなるからであり、現に現在の言語状況は索漠としている。

むずかしい言葉を使うというのがいいということではないと思うのですが、語彙が貧弱になってきているから、思考もそれに比例してくるのだなって、この記事を読みながらそんなことを思いました。

>私たちは言葉に「蠱惑」されているのである
私なんかまさしくその通りだと思います。

面白いことを仰る

・蒔絵師さん、ようこそ。

物と画像が一致しないとき、物が生かされず描き手も痛手をこうむるので「痛い」

ほう、面白いですね。そういった感覚は単に絵を見る物からはなかなか想像がつきません。

明恵上人の「あるべきようは」というのは、こういった感覚だったのでしょうか。

太初に言あり

・愛希穂さん、おはようございます。

ずいぶんと手間をかけて読んでい頂いているんですね。ありがとうございます。

「蠱惑的」、なんと読むのか分からなく、「シニフィエ/シニフィアン」、一体なんのこと?

ははは。「蠱惑的」は字面でなんとなくイメージは出来るでしょうが(それが漢字の強みですが)、シニフィエ/シニフィアンは知らなければまったくわかりませんよねぇ。この文章のキーワードですが、といっていちいち説明もしていられません。

私たちは言葉に「蠱惑」されているのである
私なんかまさしくその通りだと思います。

日本語を使う日本語としてはそれで普通なのでしょう。

「蠱惑的」に対するは「判断的」なのですが、この「判断的な」言葉、究極のところで帰着するのはヨハネ伝福音書の冒頭の一節なんです。

 太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。

言語体系は、さまざまに矛楯を孕みながらも最終的には「神」という究極のシニフィアンに向かっている。理性的に言葉を操る物にはその「構え」が求められる、ということなんです。

ところが、個々の言葉に「蠱惑」されるということは、そうした一神教的理性の「構え」とはまるで正反対のもの。ここの言葉にいちいち蠱惑・憑依されていては、究極のシニフィアンに行き着けるはずがない。むしろ「山川草木悉皆成仏」という言葉で表される、“あらゆるモノは神である”といったところの方との親和性が高いのですね。

なかなか難しい話です。

はぐれる楽しみ

僧は僧のあるべきようは、俗は俗のあるべきようは、の明恵上人より、親鸞の悲僧非俗に近いかもしれません。
在るがままでも峻別でもなく違いを認めながら共和するではないんです。

物に沿う、物に同行する、もの導かれるのでもなくて、物と隔てられて、わたしがはぐれる。
そのはぐれる自分を喜びとする。

つまりものは「私」と離れて向こう側にはないのです。

はぐれてこそ、満ち足りていられる。それでいいではないかと。

はぐれる? よくわかりません(^_^;

蒔絵師さん、おはようございます。

「はぐれる」の意味がよくつかめません。

親鸞の名前が出てくるということは「他力」、他力によって生かされている。

「わたしはぐれる」というのは、他力によって生かされている「私」を発見するということなのでしょうか。

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