愚慫空論

日の丸弁当

日の丸弁当本日は日の丸弁当にしてみた。

『賢者の非常食』の春風さんのコメントの影響を受けて(笑)

家内にそのようにいうと、とても喜んだ。ま、支度が簡単だからね。

味気ないかと思いきや、これがなかなかいけたりするから面白い。
梅干し一つでご飯は十分に食べることができる。

梅干しはもちろん自家製のほんものの梅干し。
紀州から南高梅を取り寄せている。
そこいらのスーパーで売っている「梅の梅酢漬け」では、食べられないかもね。

と、少し自慢。

コメント

とても美味しそうですよ~。
お日様の下で食べているのが、また良いですね。

記事を開いてすぐ、お腹が"ぐう"となりました。
私の身体はまだまだ正直のようです。

前の会社の時のお弁当は、玄米と押麦のご飯に無添加の梅干し乗せて、あとは糠漬けと納豆でした。上司や同僚に仙人食と揶揄されましたが、いやいや本人からしてみれば贅沢な食事です。

今は…なかなか上手く行かないものです(笑)

一人の深み

菓子パンやインスタントラーメンを食べるのは平気でも、
塩むすびや日の丸弁当を食べるのは、
見た目で気の毒がられてしまうのがわかるから
避難所ではみんなすこし抵抗がある様子でした。

日の丸弁当を私が見るのと隣の人が見るのとでは、
同じものを見ているのではないのですね。
このことはあの巨大津波のときもそうでした。
同じ巨大津波を見ているのではなくて、
みんな一人一人違う巨大津波を見ているのでした。

「見る」とは一人ぼっちのことなのですね。
あれから「一人の深み」から見るというのを知りました。



仙人食?

・しわさん

玄米と押麦のご飯に無添加の梅干し乗せて、あとは糠漬けと納豆

いや、確かに仙人食かもしれません。ただし、そういって揶揄した人たちがイメージする「仙人」とは違いますが。

今回、こんな食事をしてみて思いましたが、これは贅沢です。こういったシンプルなものを美味しく食べられるということは、その裏に実は手間がかかっているということなんですね。そしてこの手間こそ伝統に裏打ちされた文化。

私たちはいつの間にかぱっと目に見えない文化をゼロ査定するようになってしまったんですねぇ...

Re:一人の深み

・春風さん、おはようございます。

春風さんに頂いたコメントから調子に乗ってやってみました。よかったです。発見がありました。大切なことは気がつかずに足元に転がっているものなんですね。

塩むすびや日の丸弁当を食べるのは、見た目で気の毒がられてしまうのがわかるから

周囲の目の「ゼロ査定」が気になってしまうんですね。

「見る」とは一人ぼっちのことなのですね

なるほど、言わんとすることはわかります。

でも、本当に一人ぼっちなのでしょうか。本当に一人だけで周囲と異なる「見る」を会得したのでしょうか。ここにも「ゼロ査定」があるような気がします。

日の丸弁当と同じように、シンプルに「一人ぼっちで見る」ことができる裏には、相応の「手間」がかかっているのではないかと思います。そしてその「手間」は、果して自分の労力だけによるものなのか。

すみません。そのような疑問を持ってしまいました。

一言「見る」

はい、よくわかります。
字画が細く、含むこと多くして表面に現れることの少ない良寛の書のように、
言葉を表現したいので、「貴方は伝えるように書かないね」とはよく言われます。

見ることは人間に備わった五感のひとつですから、もともと身体的なものです。
身体はそれぞれ個体ですから、つながっていませんね。
つながっていないからこそ、私達はよりよく物を見て自分の居場所を確かめます。
見るとは個の不安に耐えようとすることでもあります。
見ることに伴う感情は私しか知らないからです。私も他者の感情を知りません。
だから私たちは見たことを言葉で語ります。

震災後、漂流を余儀なくされています。
漂流は、忘れがちだった見ることの不安を促します。
漂流の途中、いつもより私たちがより多くのことを感じるのは、
よそ者としての自分の居場所を確かめられないからです。
漂流で私たちはなにをしているのかといえば、
「見ている」の一言につきます。





「聴く」

・春風さん、おはようございます。

つながっていないからこそ、私達はよりよく物を見て自分の居場所を確かめます。

これは私にもよくわかります。 私もまた漂流者だからです。

漂流に至る事情は異なるでしょう。私の場合は自ら望んでそうなりました。でも、だからといって自分の居場所を欲することに変わりはない。だから「見る」...、あいや、これは対象は人間がつくる社会です。自然を相手だと「聴く」になります。自身の裡にある「何ものか」に対しても「聴く」です。いずれにせよ、そのようになってきました。

日の丸弁当で改めて確認したのが、この「聴く」ということの大切さです。他人からどうみられようと、また他人から見られる自分をどのように見ていようと、そこに惑わされずにご飯と梅干しを消化していく自分の身体を「聴く」。そのような叡智もまた「聴く」んだと感じています。

漂流は、忘れがちだった見ることの不安を促します。

だと思います。お察しします。だからこそ「聴く」べきだとは言いません。「べき」と言われても不安が遠のくわけではありません。

でも、そうしたやり方もあるのだということ、その能力はご自身に備わっているのだということは、是非とも心の片隅に留めておいてください。

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