愚慫空論

「立場主義」という日本文化が陥る罠(1)

先に挙げるはずだったエントリー。

「立場主義」というのは、「東大話法」の安富教授が提唱する概念。右掲書の第四章に出てくる。「東大話法」はセンセーショナルで面白いけれども、本書の圧巻は「立場主義」に斬り込んだ第四章であると私は思うし、ツイッター上にもそういった意見はたくさん見られる。

原発危機と「東大話法」

第4章 「役」と「立場」の日本社会
 「東大話法」を見抜くことの意味
 「立場」の歴史
 夏目漱石の「立場」
 沖縄戦死者の「立場」
 日本版プラトニズムとしての「立場」
 職→役→立場
 原子力御用学者の「役」と「立場」
 天下りのための原子力
 福島の人々が逃げない理由



「立場主義」についてはここでは詳しくは触れない。なにより本書を読んでもらいたいし、また、ネット上を探せばその内容を説明するコンテンツはすぐに見つかる。たとえば

 「東大話法」と「立場主義」 - Togetter

私がここで自身の考えを展開してみたいのは、「立場主義」が入り込む「隙間」について。私自身のなかに思い当たるフシがあるのだ。

私は前エントリー『世界はこんなに美しいのに』で次にように記した。

私に樵の技を教えてくれたジジイたちは、「仕事」という有為を通じて「無為に似たもの」をも教えてくれた。山仕事はある意味で暇である。身体は忙しい。だが頭のなかのある部分は暇になる。それを無為だと思うと退屈で時間が長く感じる。しかし「無心」になるとすぐに時間が経つ。無心と無為は似ているが違う。ジジイ達は無為の時には暇を潰そうとするが、無心の時間はとても大切にしていた。無心に過ごすことが仕事だと言ってもいいくらいだ。そして無心を大切にするジジイ達は、例外なく信心深かった。ジジイ達には「美しい世界」を見ていたのだ。少なくとも私はそう思っている。

「立場主義」が入り込むのは、「無為」と「無心」の隙間である。人間は無為に耐えられないように出来ている。が、置かれた状況によっては無為へと強いられてしまうことがある。そうしたときに「何か」良からぬものが張り込んでくる。あたかも免疫力が落ちた身体に病原菌が入り込んでくるように。この「何か」とは出来合いの「有為」であり、現代の日本の場合は「立場主義」なのである。

沖縄の戦陣より妻へ

陸軍中尉 渡辺研一命
昭和二十年五月二十七日 沖縄本島喜屋武にて戦死
栃木県出身 東京大学卒 二十九歳

 まだお便りする機会は何度かありませう。しかし時機はいよいよ迫りつつあります。それが何時であるかはもとより予測することは出来ませんが、おそらくは、あなた達の予想外の速さでやつて参りませう。その時の来ない中に、言ふべき事は言つて置きたいと思ひます。
 然し、いざペンをとつてみると今更乍ら申すことのないのに気がつきます今の私は強くあらねばなりません寂しい、悲しいといふやうな感情振り捨てて与へられた使命に進まなければならぬ立場にあるのです。ただ一切を忘れて戦つて戦つて戦ひ抜きたいと思ひます
 不惜身命生きる事は勿論、死ぬことすらも忘れて戦ひたいと念じて居ります。南海の一孤島に朽ち果てる身とは考へずに、祖国の周囲に屍のとりでを築くつもりで居ります。何時かはあなた達の上に光栄の平和の日がおとづれて来ることと思ひます。その日になつて私の身を以てつくしたいささかの苦労を思ひやつて下されば私達は、それで本望です。
 愛する日本、その国に住む愛する人々、そのために吾等は死んで行くのだと考へることは真実愉しいものです。運命があなたにとつてのよき夫たることを許さなかつた私としてはさう考へることによつて あなたへの幾分の義務を果し得たやうな安らかささへ覚えます。

 一度戦端が開かれれば、一切の手段をつくし最善の道を歩むつもりです。万一のことがあつたさい、たとへ 一切の状況が不明でもあなたの夫はこのやうな気持ちで死んで行つた事だけは、そうして最後まで あなたの幸福を祈つて居た事丈は 終生 覚えてゐて頂きたいと思ひます。
 その後の体の調子は相変わらず、すこぶる好調です。いつも乍ら御自愛を祈ります。

御機嫌よう。
昭和二十年二月十日

(靖国神社発行 『英霊の言乃葉(1)』より〉


上の文章は『原発危機と「東大話法」』四章の沖縄戦死者の「立場」という節で紹介されている文章。色分けは安富教授の分析に従って施したもの。青は無心赤は有為。である。
(安富教授は無心/無為/有為といった表現は用いておられない。念のため。)

人間にとって生きる力を生み出し、創造性を生み出す源は、状況の中で我々の身体が生み出す「情動」です。それを脳は「感情」として構成し、意味を生み出します、戦場で敵を殺して死ぬという行為は、それを振り捨てるように要求します。それゆえ感情を振り払った彼には、もはや言うべき事などないのです。


いうべきことがなくなり、無為へと追い込まれてしまった渡辺中尉の「魂」に入り込むのが「立場」という出来合いの有為。赤でしめした「念じています」あるいは「つもりです」は、一見、渡辺中尉の意志のようでありながら、実は違う。無為に耐えられない人間が取り込んでしまった有為なのである。

極限的状態で書かれた遺書を読む際に、その表面的な字面を追って意味を汲み取ったことにすると、死者に対する冒涜となってしまいます。その微細な表現や言葉遣いを丁寧に読み、著者の心の動きを汲み取ろうとすることが、英霊の魂に正面から臨み、敬意を払うことではないか、と私は考えます。少なくともこの渡辺研一中尉は、「ほめて」欲しいのではなく、「泣いて」欲しいのだと私は感じます。


(2)へつづく。

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